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船尾 徹 この夏に想う
――対米追随の道の先に見えるもの
玉木 昌美 滋賀日野町事件、再審開始決定勝ちとる
鶴見 祐策 倉敷民商(小原・須増)事件の
最高裁決定について(前編)
広田 次男 福島第二原発廃炉について
大川 隆司 海老名市自由通路条例が改正されました
―表現の自由の大幅な前進へ―
山下 潔 法廷における手錠・腰縄の廃止を(その一)
神原 元 我々は不寛容に対しても寛容であるべきか。
佐々木 猛也 美弥子団員は、すごい、えらい
大久保 賢一 白南風(しらはえ)や午前にちょっとキスをして



この夏に想う
――対米追随の道の先に見えるもの

団 長  船 尾   徹

 みなさん!猛暑の日々、熱い政治の季節を走ってこられたと思います。秋からのたたかいに、ここらで「怠ける権利」を行使して思う存分鋭気を養い、あれこれ自由に考える時間を作ってみませんか。
米朝共同声明と「北朝鮮脅威論」「中国脅威論」
 「安倍九条改憲NO!」をめざしている私たちの運動は、米朝共同声明で確認された朝鮮半島の非核化と平和体制の構築のためのプロセスの成功に力をあわせ、北東アジアの平和秩序の構築にどのような方針のもとにかかわっていくべきなのか。核の傘のもとにある在韓米軍の縮小・撤退がこれからの米朝協議の俎上にのぼってくるでしょう。私たちもアメリカの核の傘のもとにある日米安保条約と在日米軍基地の必要性の見直しなど、憲法九条に基づくこれからの日本の進路を内外に提起していくことが求められています。
 「対話のための対話は意味がない」、「圧力と制裁」の一辺倒、「北朝鮮脅威論」を振りかざし、対米追随のもとに九条改憲と軍備増強を追求してきた安倍政権に、朝鮮半島の平和構築にむけた朝鮮戦争終結後の構想力、朝鮮半島の非核化による北東アジア全体の安全保障環境に劇的な変化が起きる可能性を視野に入れた構想力を明確にした主体的な外交を見いだすことができません(拙稿「米朝首脳会談と共同声明についての若干の感想」団通信一六三七号)。いまや安倍政権は終わるべきなのです。
 安倍政権は、「北朝鮮脅威論」「中国脅威論」を振り回しては、オスプレイ一七機(三五〇〇億円)、イージスアショア二基(一基一〇〇〇億円とされていたが、最近ではなんと一基三〇〇〇億円)を購入することを決定し、兵器の体系・運用面でいっそう米軍と一体化を進行させ、九条改憲のもとにアジアや世界で戦える「戦争する国」づくりをめざしてきました。そうしたアメリカ追随と改憲の道は、国民にとってどれほど危険な道なのか。今日の世界の動向とどれほど逆行した道を歩んでいるのか。それは私たちの国が東アジアにおいてどのような立ち位置をとるべきなのかを問うことでもあります。
世界経済の主軸はアジアへ
 いま世界経済の主軸は、米欧日の先進国主導の世界から中国、インドなど新興国主導のアジア圏へシフトし、「アジアの世紀」が始まっています(以下のデータについては、進藤榮一「アメリカ帝国の終焉」講談社現代新書、進藤榮一・白井聡「日米基軸幻想」詩想社新書より引用。本稿はとりわけ前者から多くの示唆をうけている)。
 世界のGDPの二%でしかなかった中国、世界の過半のGDPを米国が生み出していた一九八〇年はいまや遠い昔。二〇一四年時点のIMF報告による購買力平価基準でみたGDPは、中国一七兆六三二〇億ドルが米国一七兆四一六〇億ドルを越え、また中国、インド、ブラジル、ロシア、トルコ、メキシコ、インドネシアの新興国G7のGDP合計額三七兆八〇〇〇億ドルは先進国G7のGDP合計額三四兆五〇〇〇億ドルを凌駕し、二〇三〇年実質GDPは中国が米国の二倍と予測されています(世界経済における「南北逆転」)。
 二一世紀情報革命の進展とともに世界の資本は、自動車、鉄鋼、IT産業等の生産拠点を安価で勤勉な労働力を潤沢に擁する新興アジアに移動させ、アジアが「世界の工場」となっている。その結果、二〇一五年現在、東アジア(日、中、韓、ASEAN諸国)では中国の全人口一三億七〇〇〇万人のうち六億人とインドの「中間所得層」を合計した中間所得層人口は一四億五〇〇〇万人が形成され、EU五億人と北米四億三七〇〇万人の市場を凌駕する巨大な規模の「世界の市場」が形成されているのです。
輸出依存度と世界貿易に占めるシェア
 わが国の対東アジアへの輸出依存度は一九八五年一七・七%から二〇一四年四四・五%に増大し、逆に対米輸出依存度は四六・五%から一七・八%へ減少している。韓国の対東アジアへの輸出依存度も二〇・一%から二〇一三年四六・九%に増大、ASEAN(東南アジア諸国連合)の対東アジア輸出依存度も一九九〇年四三・八%から二〇一三年五二・七%に増大している。以上と対照的に東アジアの対米輸出依存度は一九八五年三〇・九%から二〇一三年一四・四%へと半減している。
 また世界の三大経済圏の世界貿易に占めるシェアの規模をみると、東アジア域内の世界貿易に占めるシェアは、一九八〇年一四・八%から二〇一五年二九・三%へ倍増し(総額四兆八二五〇億ドル)、NAFTA(北米自由貿易協定)の一三・九%(総額二兆二九三四億ドル)を凌駕し、EU二八ヶ国の三二・八%(総額五兆三九六八億ドル)にほぼ肩を並べる規模となっている。二〇一三年の中国とASEANの直接投資受入総額二四九三・五億ドルはEUの二四六二・一億ドルを上回っている(世界三大経済圏における逆転と中国ASEAN新興国主導型へ変容)。
安倍政権のアジア外交・「中国包囲網戦略」
 九〇年代に冷戦構造が終焉しているにもかかわらず、安倍政権は日米同盟を基軸にして、中国主導の貿易通商体制なのか、それとも中国封じ込めの日米貿易通商体制なのかといった二者択一の冷戦思考から脱することができず後者を選択し、中国封じ込めのアジア外交を志向してきた。米・日・韓・比・印などの国家群による「中国包囲網戦略」を形成しようとする外交がそれです。
 しかし、封じ込めようとしている中国の東アジア域内向けの輸出は、一九八〇年三・〇%から二〇一四年に三〇・三%同域内最大の輸出国に成長しているのに比し、わが国のそれは四七・九%から一四・六%に縮小している。また、中国への二〇一一年比の二〇一五年の直接投資額でみると、韓国五八・〇%、フランス五八・四%、ドイツ三八・〇%、EU主要四ヶ国二四・四%と増加傾向にあるのに比べ、米国がマイナス一一・八%、わが国はマイナス四九・六%と急減している。
 さらに二〇一四年東アジアの対インド輸出額一二六二億ドル(世界の対インド輸出四四三〇億ドルの二八・五%)、そのうち中国の対インド輸出額五三三億ドルに増大、日本の対インド輸出額九五億ドルに比べ、中国とインドの貿易通商関係は日本のそれよりもはるかに緊密な関係になっています。
 これらの動向をみるだけでも米国に追随して「中国脅威論」にとらわれた「中国包囲網戦略」が現実離れし、むしろアジアから「孤立」を深めるものとなっているのです。「世界の銀行」となりつつあるアジアインフラ投資銀行(AIIB)への不参加国が、先進国では日・米のみとなっているのは象徴的である。他方で、米国は中国と二〇〇六年以来毎年、「米中経済対話」による「米中共同・協商関係」の形成も重要な選択肢にして、米中相互関係の深化による「米中基軸」関係を追求しているのです。
 七〇年代初頭のわが国を飛び越え「ニクソン訪中」による国交回復と同じ事態になりかねない。米国の尻馬に乗って「中国包囲網戦略」のもとに「九条改憲」による日中軍拡レースに血道をあげる安倍政治の強行の先に見えるものを考えると、安倍政権には退場しかない。
パックスアメリカーナの終焉?
 東アジアが「世界の工場」「世界の市場」「世界の銀行」へ転換(パックスアシアーナ)が始まり、ASEANでは、軍事力や同盟関係によらない安全保障を構築すべく東南アジア友好協力条約(TAC)を締結して実践しています(政治における「東西逆転」)。
 他方、米国は、米国優位の自国中心主義的通商体制の構築をめざし、国内産業重視、国内雇用の創出を最優先し、海外への軍事展開を批判し同盟国に防衛費分担を求め、国際協定(パリ協定・イランとの核合意・国連人権理事会等々)からの離脱、エルサレムへの大使館移設等々は、米国が世界秩序の維持・構築の担い手(パックスアメリカーナ)から後退・退場する道を歩んでいるのは否定し難いものとなっています。
安倍九条改憲路線批判を拡げる視点のひとつとして
 朝鮮半島の非核化による北東アジア全体の安全保障環境に劇的な変化が起きる可能性を視野に入れた構想力を欠いたまま、「中国脅威論」をふりまわし、日米軍事一体化路線にもとづく軍事力増強を正当化する改憲路線のもとに日米同盟を強化し、日中軍拡レースを進めることは、東アジアの緊張を激化させ戦争のリスクを高め、南北・米朝会談によって切り拓こうとしている朝鮮半島の非核化と平和体制および北東アジアの平和体制の構築に大きな障害とならざるを得ない。「アジアの時代」に逆行しアジアから孤立を深めることを憂慮している多くの保守層の人々とともに連帯していく方向を明確にする努力が、いま求められています。

(二〇一八・七・二六記)


滋賀日野町事件、再審開始決定勝ちとる

滋賀支部  玉 木 昌 美

 二〇一八(平成三〇)年七月一一日、大津地方裁判所(裁判長今井輝幸、裁判官湯浅徳惠、裁判官加藤靖之)は、故阪原弘氏の遺族らが請求した日野町事件について再審開始決定をした。
 日野町事件は、一九八四(昭和五九)年一二月、滋賀県蒲生郡日野町で発生した。故阪原弘氏は、強盗殺人事件の犯人であるとして起訴され、事件との関わりがないと無罪を主張したものの、大津地方裁判所で無期懲役に処せられ、控訴や上告が棄却された。故阪原弘氏は、二〇〇一(平成一三)年一一月、再審請求を申し立てたが、二〇〇六(平成一八)年三月、大津地方裁判所において棄却された(裁判長長井秀典)。大阪高等裁判所において即時抗告審が係属していたが、その途中で故阪原弘氏は病気により死亡した。今回の再審請求は二〇一二(平成二四)年三月、故阪原弘氏に代わり、その雪冤のためにその妻と三人の子らが申し立てていた事件である。
 日野町事件は、故阪原弘氏が捜査段階で捜査官に対して自白をし、調書が作成されたということ以外に犯人性を裏づける証拠がない事件である。犯行の動機もなく、秘密の暴露は何もない。また、被害金庫は店頭に置かれていたこともなく、犯行を思いたつことはありえない事件であった。また、中腰になって両手で被害者の首を絞めたとする自白による殺害方法では首が固定せず殺害できないことが一審の段階から問題になっていた。
 再審開始決定は、「阪原の自白に、事実認定の基礎とし得るほどの信用性を認めることはできない」とし、警察官からの暴行や脅迫により、自白した合理的な疑いがあるとし、自白の任意性も認められない、とした。さらに、「新旧全証拠によって認められる間接事実から、阪原が犯人であると推認することはできないし、各間接事実中に阪原が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係は含まれていない。」(最高裁平成二二年四月二七日第三小法廷判決)と判断した。
 殺害方法については、吉田謙一医師の鑑定書等を始めとする新証拠を理由に、殺害態様を認定し、「阪原の自白のうち、左手を頚部の後面に当てていたとする点は、死体の損傷状況と整合しない。」とし、「阪原の左手の位置及びそれに伴う阪原の体勢は、本件殺害態様の重要部分であり、当時無我夢中であったという点や、時の経過による記憶の欠落では説明がつかない。」と判断した、第一次再審請求の棄却決定が展開した記憶違い論を明確に否定したものである。
 引当捜査についても、「復路に写真撮影がされ、これが往路で撮影した写真として引当調書が作成されたことを示すネガの分析報告書、金庫関係の引当捜査担当警察官の当審における証言等の新証拠を踏まえると、警察官により、引当捜査当時に直截的な誘導はなされなかったものの、阪原が正解である金庫発見場所にたどり着けることを強く期待していた警察官が、鉄塔等があることを示唆する意図的な断片情報の提供を行い、また、警察官と、自白を維持し警察と協調する阪原との間で、正解到達に向かう無意識的な相互作用を生じさせた結果、金庫発見場所を案内できた可能性が、合理的にみてあると認められる。」とし、「阪原が誰からも教えられずに金庫発見場所について正しい知識を有していたとする一審判決等の判断は大きく動揺した」とした。引当捜査で秘密の暴露に準じる事情を装ったともいうべき落合俊和検察官の手法は、一審判決が認定した「慎重な捜査」とは真逆である。再審開始決定は「警察官に対する監督は徹底されていなかった」としたが、監督どころか自らが違法な捜査を主導したものである。
 再審開始決定は、阪原氏の知的能力の低さに伴う行動特性を配慮した適正な判断をした。また、自白の信用性だけでなく、任意性にも合理的な疑いがあると踏み込み、阪原氏のアリバイ主張についても虚偽ではない疑いが生じた、とした。これらの点において画期的である。
 今回の再審開始決定は、再審において新旧証拠を総合評価し、「疑わしきは被告人の利益に」の刑事裁判の鉄則を適用して判断したものであって正当なものである。今井裁判長らは真摯に事件に向き合い、進行についても積極的に訴訟指揮を行い、また、新旧証拠の緻密な分析の上、総合評価をして開始の結論に至っている。
 この事件は、上記引当捜査やアリバイつぶし等の違法な捜査手法、被疑者弁護を受けることのできなかった点(当時、当番弁護士制度も被疑者国選制度もなかった)で問題が多く、証拠開示ではそれなりの成果をあげたものの、あまりに時間がかかりすぎた(遺族が再審請求をしてから七年目に入っている)。
 一審の坪井佑子裁判官が論告直前に検察官に予備的訴因の追加をさせ、一審が自白の信用性を否定しつつ、概括的認定(殺害の日時、場所もわからないが故阪原弘氏が犯人である)で無期懲役にした点は犯罪的である。酒とカラオケが好きな人のいい故阪原弘氏を生きて救えなかったのは本当に残念である。本件は典型的なえん罪事件であり、再審公判により、すみやかに故阪原弘氏の名誉を回復する必要がある。本事件は、起訴されて三〇年余り経過した。検察官は不当にも即時抗告をした。日本国民救援会や日弁連の支援決定を得て闘ってきた事件であるが、再審無罪を勝ち取るまでさらなる支援をお願いしたい。


倉敷民商(小原・須増)事件の
最高裁決定について(前編)

東京支部  鶴 見 祐 策

一 最高裁の理不尽な決定
 最高裁(第三小法廷)は、税理士法違反を口実とした倉敷民商弾圧事件について上告棄却の決定をした。一、二審の有罪判決による憲法違反と判例違反、甚しい法解釈適用の誤りと事実の誤認を克明に論証した上告趣意書と累次の補充書から完全に視覚を逸らす理不尽きわまる決定であった。最高裁には、上告申立いらい口頭弁論の開始と原判決の破棄を求める大衆的な行動が精力的に取り組まれ、要請署名は一二万二三七七筆に及んだという。この一片の「決定書」は、裁判の公正、真実と正義を求める人々の期待を裏切る暴挙と言わざるを得ない。多面的な上告趣意の論点に全く触れず、先例の引用もなく、「単なる法令違反、事実誤認の主張」と言い放ち、そこに何の説明もない。
二 納税者の運動に対する弾圧と闘いの歴史
 弾圧の発端は国税通則法制定の昭和三七年にさかのぼる。ときの政府(池田内閣)が、納税者の権利を主張し課税権の強化に抗議する業者運動に異常な敵意を燃やし全商連・民商の撲滅を政策とした時期に始まっている。国税庁長官(木村秀弘)が、民商会員を標的とした税務調査を指示する各国税局長あて秘密通達を発したのを契機に組織切崩しの脱会工作と「反税団体」のデマ宣伝が全国的に展開された。強権的な税務調査や報復的な推計課税に伴うトラブルが各地に生じた。そこに気脈を通じた公安警察と検察当局の介入が相次ぐことになる。弾圧の口実は、税法違反、公務妨害、検査拒否・不答弁など多彩だったが、ときに税理士法も登場した。
 全商連・民商は裁判闘争に組織を挙げて取り組んだ。呼応する各地の団員がこれらの闘いに加わった。これら「民商事案」と呼ばれた闘いのなかで全商連・民商は、運動全体の力量を高め、組織の回復と拡大の実をあげた。納税者の権利の前進に役立つ裁判上の成果もかちとられた。
 税理士法では不当な先例もあった。最高裁昭和四一年三月三一日判決である。しかし当該民商は不屈の闘いを通して一〇年余の後には会員一〇〇〇名を擁する組織に発展した。この種の事例を各地に見出すことができる。「嵐は強き樹をつくる」が共有の合言葉となった。
三 税理士法の構造と本件における実際の行為
 税理士法を見よう。五二条は無資格者の税理士業務を禁止し、五九条が違反に対し処罰を定めている。税理士業務の定義は「税務代理」「税務書類の作成」「税務相談」である(二条)。権力が槍玉にあげる行為は、民商会員(小原さん二年間に四法人、須増さん一年三カ月の間に三個人会員)が作成した会計資料に基づき税務ソフトを組み込んだ内蔵のパソコンに数値を打ち込んだというもの。それに尽きる。入力により申告書が自動的に印刷される。これが「他人の求めに応じ」「税務書類の作成」に該当すると彼ら(課税権力)は言う。
 しかし、現実に符合しない。先例の場合とも違う。今では必要な情報を遺漏なく組込んだソフトがある。それが市販され、誰でも入手でき、会計や税務の実務では広く利用されている。
 彼らは「課税の適正かつ円滑な運用の確保」が立法目的と主張する。しかし、彼らの「法益」を損なう余地も起こり得ないのである。そして申告書は会員本人の署名捺印で完成する。作成者は本人の外にあり得ない。
四 原判決の問題点
 最高裁が確定させた原判決(岡山地裁・広島高裁岡山支部)を見よう。常識と道理に背く「判断」の羅列と言ってよい。上告趣意書では多くの論点に触れているが、民商の活動との関連で重要と思われる点につき検討してみたい。
(1)「他人の求め」
 元来「他人」の概念は多義的である。法文に「定義」はない。罰則の明確性の欠如は論をまたない。「他人」性の有無は相互の関係と距離感で判断される。民商会員と事務局員は「他人」ではない。目的と志を同じくする「仲間」である。親兄弟・家族は「他人」でない。それと変わらない。地裁判決も納税者が「税務の知識を有する者から一般的な知識を得たり、互いに一般的知識を学びあったりして、自らの責任において納税申告することは何ら制限されるものではない」と述べる。仲間同士の協力は当然である。「助け合い」は民商運動の基本にほかならない。
(2)「書類の作成」の意義
 意思表示の主体が文書の作成者である。記載内容を確認して自署・捺印した書面が名義人作成の文書であることは自明である。執筆者が誰かは関係ない。国税庁の通達も「代筆」や「代書」が「作成」に当たらないと認めている。当該申告書に会員名義の遺漏はない。
 そこで有罪判決は論理の迂回を策するのだ。たしかにパソコン入力で税額が自動的に計算され印字されるが、入力者(事務局員)が、会員から受け取った会計資料の金額をそのまま入力しても「金額を変更せずに使用することを是とする判断をしている」から名義人とは異なる者による作成になるという。「認識」と「判断」は違う。それを混同させる詭弁である。
(3)決算書と税務書類の区別
 「税務書類」は申告書である。決算書など会計書類は含まれない。税理士業務は二条一項に限られ、二項の「財務書類の作成」や「会計帳簿の記帳」は除かれる。資格は不要。有償も自由。ところが判決は、これを申告書作成の「一環」とか「一部」と強弁する。刑罰法規の拡張解釈にほかならない。
 商業帳簿の作成と備付けは商法や会社法が義務づけている。いわば税務の領域外の要請である。しかも自営業者には受注や金融の実務で必要であるばかりでなく、自らの事業の健全な運営にとって不可欠なものと言わねばならない。その観点からであろう。全商連・民商では「自主計算」「自主記帳」の重要性が繰り返し強調されてきたと思う。会計業務と税務申告とは、法的概念として峻別が必要である。
(4)最大の論理矛盾
 原判決(地裁)は最後に言う。小原さん達の行為は「私利を図ったものとは認められず」「中小商工業者の営業や生活の保護を目的とし」「作成した税務書類の内容が適正を欠くものとは認められず、適正な課税が実質的に損なわれたとまではいえない」と述べている。行為の違法性欠如を自認するに等しい。
 弁護団は、憲法論をふまえ税理士法の罰則に合理性がなく可罰的な違法性を欠くことを強調してきたが、その主張を排斥する一方で実質的な法益侵害の不存在を肯認するこの論旨の破綻は蔽い難いと言わねばならない。(続)


福島第二原発廃炉について

福島支部  広 田 次 男

 六月一四日、東電小早川社長が県庁に内堀知事を訪ね「福島第二原発について廃炉の意向」を表明し、六月二八日には立地町である楢葉、富岡の両町長に対して「廃炉の意向」を伝えました。
 ここに、福島第二原発廃炉は確定的となりました。「福島県内の全原発の廃炉を求める会」(以下「会」)が設立以来掲げてきた目標が達成されました。
 私は、福島原発事故発生以来「様々な角度から東電を提訴する事」により、事故の全貌が見えてくると考え「あらゆる機会を捉えて東電を法廷に引っ張り出す事」に専念してきました。
 しかし、廃炉の分野(福島第二原発の四基は無傷のまま残りました)だけは、被害地福島県民の誇りにかけて裁判によるのではなく、県民世論の高まりにより実現すべきと考えました。
 私は、かつての保守県政の中枢であった元県知事、元県会議員、県青色申告会連合会名誉顧問といった方々を伝を辿って御紹介いただき、さらには依頼者である著名な神社の宮司、かねてから連絡のあったキリスト教会牧師、福大の元学長といった人々に、第二原発廃炉の一点のみで行動する保革共斗の「会」の結成を呼びかけました。
 福島を代表する文化人であり、復興会議のメンバーでもあった芥川賞作家玄侑宗久氏を(玄侑氏と旧知の間柄にあった)大阪の伊賀興一先生に、福島県三春町まで御足労いただき、紹介いただくと共に、「会」の呼びかけ人となっていただきたい旨のお口添えをいただきました。
 伊賀先生には、この場を借りて改めてお礼申し上げます。
 「会」は二〇一三年一二月一五日に結成総会を開き、以後八回に亘り県内各地で学習講演会を行い、安斎育郎、河野太郎、吉原毅、(故)高畑勲、小泉純一郎、飯田哲也、佐藤彌右衛門、河合弘之、村上達也といった多彩な人々においでいただきました。
 また、県知事への面談申入、県会議員候補者へのアンケート調査の実施などの活動も行ってきました。
 七月二日、会は役員会を開催し、第二原発廃炉の決定の評価および今後の会の方向について議論を交わしました。
(1)まずは、廃炉決定を歓迎する。
 その最大の要因は、事故後から今日まで、県内で行われるあらゆる世論調査に於いて「福島第二原発は廃炉にすべし」との意見が七割ないし八割の高い支持率を維持し続けた事にあるとの点で、出席者の意見は一致しました。その他、様々な意見が出されましたので、その幾つかを紹介します。
ア 何故、廃炉決定までに七年三ヶ月もの年月を要したのか?もっと早くに決定すれば異なる人生を決定した被災者も居たのではないか。
イ 六月一〇日に行われた新潟県知事選挙に於いて、原発推進派が勝利した。
 その結果、東電の所有する柏崎刈羽原発の再稼働への途が開かれたとの判断をしたのではないか。
ウ 同時期に於ける沖縄県知事選挙に安倍政権は全力を傾注するために、福島県に於ける最大論点を予め解消し、沖縄への全力集中の体制を整えたのではないか。
エ 原子力安全規制規準の見直しにより、建設以来四〇年近くになる第二原発の再稼働にかかる経費が大幅に増大する事になった。
 等々の意見に加え、今後の福島の復興の方向、再生可能エネルギーの現状と問題点、ICRPの安全規準の考え方等々々、廃炉決定に関わる様々な意見が交わされました。
(2)今後の会のあり方について
ア 会結成の動機の最大公約数は「福島県民は被害地の住民として、廃炉の問題について無関心でいる訳では決してない」事を県内外に示すためでした。廃炉が決定された今日に於いても「福島県民は原発事故を忘れてしまった訳では決してない。原発事故の危険性については依然として高い関心を持ち続けている」事を今後も県内外に示し続ける意義は大きい。
イ 従って、名称は変更する必要はあるが解散する必要はない。
ウ 現在、企画されている八月二六日のいわき市での講演会(井戸謙一弁護士を講師に予定)、来年一月の郡山市での講演会は、いずれも予定通り行う。
エ 名称および今後の具体的活動計画については今後議論する。
 等でした。
 私は今後ともこの共斗の輪を大切にして、更に、その輪を押し拡げていく決意です。


海老名市自由通路条例が改正されました
―表現の自由の大幅な前進へ―

神奈川支部 大 川 隆 司

 小田急線と相鉄線の乗換駅にあたる海老名駅は、一日平均乗客数が一五万人にせまる県内有数の大きな駅です。その駅の東西をつなぐ「自由通路」が二〇一五年一〇月に完成しました。総工費約一六〇億円の約八〇%は公費負担です。この自由通路は道路交通法上の道路に該当します。
 その天下の公道で、二〇一六年二月の土曜日の午後、約一〇名の男女が黒い衣装に身を包み、無言のパフォーマンスをしました。かかげたプラカードには「アベ政治を許さない」、「ABE IS OVER」などと書かれていました。パフォーマンスの場所は、数分置きに移動し、全体で一時間余りで終わりました。
 このパフォーマンスの参加者に対し、海老名市長は「こんど同じことをしたら五万円以下の罰金を支払わせるぞ」という警告処分をしました。サッカーで言えば「イエローカード」です。海老名市では二〇一五年一〇月の自由通路全面開通にあわせて、自由通路条例も全面「改正」され、集会・デモ・座り込みは一切禁止、宣伝活動はすべて管理者の許可(承認)を事前に受けなければならないと決められました。
 上述のパフォーマンスは「無許可の宣伝活動であるのみならず、絶対に禁止されている集会・デモ・座り込みに該当する」というのが市長の「処分理由」でした。
 この不当処分の取消しを求める訴えに対して、横浜地裁は二〇一七年三月八日に、原告勝訴の判決を下しました。「パフォーマンスの態様は、禁止されたり事前許可を要するほどのものではなく、市長の条例解釈は間違っている」、というのが裁判所の判断でした。海老名市長は控訴を断念し、今後は条例の「運用」を慎重にすると宣言しましたが、この裁判闘争を支えて来た市民たちは、あくまでも条例改正によって濫用の危機を避けるよう要求しつづけました。
 その成果がようやく実り、海老名市議会は二〇一八年六月、自由通路条例を根本的に改正しました。
 改正点は大きくわけて二つです。
(1)まず「集会・デモ・座り込み」は、これまで全面的に禁止されていましたが、これからは、「歩行者の往来に著しい支障又は危険を及ぼすおそれのある」場合以外は条例で解禁されました。
 そして、一般歩行者用の空間が「三・五m以上確保」できる場合には、この要件に該当しない、という「適用基準」が設けられました。
(2)つぎに宣伝活動については、「歩行者の往来に相当の影響を与えるおそれがない場合」で、かつ「営利を目的とした行為と認められない場合」は承認不要であることが条例に明記されました。
 そして、「一定の場所を一〇u以上、かつ一時間以上継続して利用する」場合以外は、「歩行者の往来に相当の影響をおそれ」がなく、従って承認を求める必要がないという「審査基準」も設けられました。
 一〇uまでの面積の使用については時間の制限はなく、また一時間以内に場所を変えれば使用面積の制限を受けないことになります。
 この条例改正によって、実質的にはほとんどすべての表現行為が規制を受けることなしに海老名駅の自由通路上で展開できることになったと思います。また、海老名市の具体的な「適用基準」や「審査基準」は、少なくともこの範囲では道交法にいう「一般交通に著しい影響を及ぼすような行為」には該当しない、と判断すべき目安として他の自治体の参考になるでしょう。小さな力の積み重ねが、重い岩を動かした、という実感がしました。
(かながわ市民オンブズマン広報誌一四一号より転載)


法廷における手錠・腰縄の廃止を(その一)

大阪支部  山 下   潔

一 明治時代の遺物
 法廷における手錠腰縄は、一一〇年にわたる明治時代の遺物である。一九〇八年(明治四一年)の代用監獄制度と法廷における手錠・腰縄は監獄法(一九条)によって始まっている。手錠腰縄は、罪人を象徴する道具であり、被告人の人身の自由を制約する道具でもあり、服従を強い屈辱、威圧感が生じ、人としての尊厳や品位を損なう。
 手錠・腰縄は戦後憲法が制定されても施錠の運用は変わらず、刑事収容施設法(七八条)においても活き続けた。また、国際自由権規約が一九七六年条約として批准されてもそのまま活き続けた。弁護士会、弁護士も問題性があると認識していても、これを正面から取り組まなかった責任があるように思われる。
 又、学会は憲法・刑事訴訟法・国際公法と学際的に分野がまたがることからこれの違法性について戦後においても久しく取り上げられず、文献すら見当たらない状況であった。
二 戦後手錠・腰縄がどのようにとりあげられてきたか。
 手錠・腰縄それ自体が取り上げられたのは戦後一八年たってからである。
(1)検察官による被疑者の手錠・腰縄の取調べ
 最初に問題となったのは、検察官による手錠・腰縄をしたままの取調べである。一九六三年(昭和三八年)九月に最高裁判例が被疑者心身に何らかの影響を与えるため、原則としてその供述に任意性の疑いがあるとされた。これは証拠能力の問題にかかるのであるが、基底には供述する被疑者の人間の尊厳の尊重が横たわっている。密室においてさえ問題になったわけである。手錠をかけたままの取調べは、事実上廃止となった。
(2)被疑者を手錠・腰縄姿で公道を歩かせる「市中引き廻し」
 戦後手錠・腰縄が正面から取り上げられたのは、明治、大正、昭和期を過ぎて平成期である。被疑者に手錠・腰縄をしたまま公道を歩かせ、裁判所に連行していた問題である。これは、一九八九年(平成元年)大阪弁護士会人権擁護委員会が「市中引き回しに等しいとして」人権侵害であると指摘し、マスコミが報道したことがある。このため、警察署と裁判所間の公道を手錠腰縄をしたまま連行する運用は、事実上廃止となった。
(3)被疑者を病院施設等の廊下にて手錠腰縄にて連行
 次に問題になったのは、医師の診察を受けさせるため病院の廊下を手錠・腰縄が見える形で拘置所看守が連行した問題である。これは、憲法一三条に基づく「人間の誇り、人間らしく生きる権利」である人格権を侵害し違法であると判断し、最高裁で確定している。(最高裁平成一〇・四・一〇平成九年(オ)第二六九号、二七〇号)この事件を契機に、手錠腰縄の取り扱いについて矯正局通達がなされ、拘置所の刑務職員は、病院や施設中の連行について手錠を隠すようにしなければならないことになった。
(4)予断排除のため裁判員裁判における裁判員に対し手錠・腰縄姿をみせない
 裁判員裁判の法廷において、被告人の手錠・腰縄姿を一般市民たる裁判員に見せることの是非が問題となった。日弁連・最高裁・法務省とが協議した結果、裁判員の予断排除を目的として、裁判員の目に被告人の手錠・腰縄姿を触れさせないように配慮されることとなった。このとき、一般市民と職業裁判官では、異なるという観点から、職業裁判官の予断排除については、全く問題とされなかった。被告人の人権への配慮という観点は、考慮に入っていない。だから、裁判員のいない刑事法廷では、被告人の手錠・腰縄を裁判官や傍聴者に見せてもよしとする取り扱いがされている。
(5)職業裁判官の法廷における手錠・腰縄
 世界はどうか。手錠・腰縄をして被告人が法廷に連行される取り扱いは、ヨーロッパなどにおいてもほとんど施錠されていない。韓国においても存在しない。腰縄に至っては、世界のどこもかかる方法で拘束して連行しない。
三 近畿弁護士会連合会大会決議
 去年一二月一日、刑事法廷内における入退廷時に被告人に手錠・腰縄を使用しないことを求める大会決議がされた。刑事弁護人として、国選、私選を問わず、裁判官に対し法廷における解錠の申し入れをすべきなど提案している(注一、注二)。
(注一)奈良弁護士会佐藤真理団員が同通信一六二一号(二〇一八年一月二一日)において、法廷における手錠腰縄について去年の近畿弁護士連合会大会決議について述べておられるので参照いただきたい。
(注二)申入の趣旨
 拘留中の被告人が、手錠・腰縄を施された姿で入出廷させられる扱い及びその姿が裁判官・検察官・弁護士・傍聴人など法廷内の人の目に触れる扱いを止め、被告人の入廷から審理開始までの間及び審理終了後から退廷までの間に、法廷内において、被告人に対して手錠・腰縄を使用しないために適切な措置を講じられたい。


我々は不寛容に対しても寛容であるべきか。

神奈川支部  神 原   元

一 はじめに
 本稿はアクチュアルな問題を念頭においています。ただ、当該問題を直接解決するというよりもう少し裾野を広げ、私たちが現在立っている位置を確認しつつ我々の原則を確立するということまでで筆を止めたいと思います。
 私の関わる分野で「ヘイトスピーチ問題」というのがあります。ヘイトスピーチは、排外主義や歴史修正主義等を伴うところ、これらに共通するのは、他の人種や民族に対する不寛容さです。そこで、我々はそのような「不寛容」を売りにする人や言説に対しても、「寛容」に振る舞うべき義務を負っているのか、これが、私の目下の関心事であり本稿の表題であるということになります。
二 小林直樹教授「政治における寛容と不寛容」
 この点でさしあたり参照できるのは、小林直樹教授が一九七〇年に公表された「政治における寛容と不寛容」(雑誌『世界』一九七〇年二月号 講演録のようでもありますが、以下「小林論考」といっておきます。)です。小林論考は、「寛容」の正当化根拠とその限界について、ラートブルッフとマルクーゼの諸説を取り上げた上で、次の三つのテーゼを掲げるのです。
@「デモクラシーの体制を維持もしくは形成していくためには、すべての思想に対する無差別な寛容の原理を再確認すべきだ」(第一テーゼ)
A「民主主義の基本的な価値を基準として、その実現をめざす実践的活動に対しては、広い通路を認め、反対にその価値の破壊をめざす活動に対しては、不寛容な態度が必要だ」(第二テーゼ)
B「正当な目的のための実践が行われる場合においても、その実践活動の方法は無制約ではなく、一定の合理的限界がある」(第三テーゼ)
 本稿との関係で、重要なのはAだろうと思います。
 私は結論として、第二テーゼで言われているところに賛同します。その理由は次の三で述べたいと思います。
三 「民主主義の基本的な価値」を損なう思想・言動に寛容を示してはいけない理由
 私は次の三つの理由で、小林論考の第二テーゼを支持します。
 第一に、時代認識です。安倍晋三が政権に返り咲いた二〇一三年頃から、とりわけヘイトスピーチや排外主義が日本で勢いを増しているという事実には争いがないでしょう。排外主義と人種差別がはびこり、「朝鮮人を殺せ」等と叫ぶデモが繰り返され、インターネットはヘイトスピーチと歴史修正主義であふれかえり、ヨーロッパではネオナチが、アメリカではKKKが勢力を拡大している今の状況は、ラートブルッフが前掲論文を発表した一九三四年、すなわちナチスが権力を握ったドイツの状況とそっくりではないのですか。この時代、この状況の中で、排外主義や人種差別に対して「寛容」を示すというのは、歴史の濁流を前にただただ傍観するだけでなく、その流れに身を任せ、社会がヘイトと虚偽の重みで崩壊していくことに、実質的に手を貸すことにはならないでしょうか。
 第二に、「寛容」の根拠からのアプローチです。ラートブルッフは寛容の根拠を「価値相対主義」に置きました。しかし、価値相対主義とは客観的正義の存在を否定して全ての価値を等価とする考え方ですから、民主主義の価値を「人類普遍の原則」とする我々の憲法観とは相容れないのでしょう。
 そうすると、私たちは、井上達夫が「共生の作法」の中で述べたとおり(同書一九九頁)、寛容精神の基礎は「自己の価値判断の可謬性の自覚」にあると考えるべきです(なお、私は非武装中立論者ですので、井上達夫の「九条削除論」には断固反対です。)。そうであれば、可謬性といっても限りがあり、「疑い得ない領域」というのはやはり存在すると言えると思います。たとえば、「人の命は地球より重いこと」「人間と人間とは等しく平等であること」「民主主義は独裁に勝ること」。これらは「自明の理」であり、とくに証明することなく議論の前提にしてよいでしょう。上記のような命題についてまで「もしかしたらそうでないかもしれない」と疑ってかからないといけないとすれば、それは「可謬性の自覚」を通り越してニヒリズムであり、行きすぎた懐疑主義であって、上記価値相対主義と変わらなくなってしまいます。
 考えてもみましょう。「朝鮮人をぶっ殺せ」だの「朝鮮人はゴキブリだ」等という言動に対しても、我々は「もしかしたら、我々が間違っていて、朝鮮人には生きる価値がないのかもしれない」等と自己の価値観をいちいち疑ってかからないといけないのでしょうか。そんな馬鹿なことはありえません。日本人であろうが朝鮮人であろうが人間は同じ価値を有するのであって、そのことは自明であり、そのことをいちいち疑ってみたり、一から議論したりする必要があろうはずがないではありませんか。
 このことは事実についてもいうことができます。従軍慰安婦問題は、植村隆さんが捏造したものでもなければ、朝日新聞が捏造したものでもありません。まして、従軍慰安婦問題を中国共産党やら朝鮮労働党が謀略でデッチあげた等ということは議論する余地もなく明らかなデマであり、そもそもあり得ない話なのであります。「否定と肯定」の作者デボラ・E・リップシュタット氏のいうとおり、「世の中には紛れもない事実があります。地球は平らではありませんし、プレスリーも生きていないのです。ウソと事実を同列に扱ってはいけません。」(朝日新聞二〇一七年一一月二八日)。
 そうすると、寛容精神の基礎にある「可謬性の自覚」にも自ずと限界があるはずです。したがって、これら「可謬性の自覚」の限界こそが、「寛容」の限界を画することになろうかと思います。こうした「可謬性の自覚」という寛容精神の基礎にある許容の範囲を超え、民主主義の基本的価値を犯す言動に対して、私たちは、「寛容」であることができないのです。
 第三に、被害者からの視点です。ヘイトスピーチ、レイシズム、排外主義、ゼノフォビア等は常に被害者を伴っています。日本に居住する外国人、他民族らがそうですが、周辺には性的マイノリティー、障がい者、女性、子ども、高齢者、貧困層等、差別に晒される類型の人々はたくさんいます。ひとつの差別を容認し、「人間と人間とは等しく平等であること」という前提を壊してしまえば、被害者は止めどもなく拡大するということです。
 差別の加害者に対して「寛容」であるということは、差別の被害を黙認することになります。それは基本的人権の侵害行為を容認することであり、差別行為をした実行行為者と共犯関係にすらなりかねません。「結局、我々は敵の言葉ではなく友人の沈黙を覚えているものなのだ」とは公民権運動の指導者マルティン・ルーサー・キングの言葉です。私たちは差別を受ける者たちにこのような言葉を吐かせてはなりません。
四 結語
 最初に述べたとおり、私たちが現在立っている位置を確認しつつ我々の原則を確立するということまでで筆を止めます。個別問題に対する回答は自ずと明らかになるでしょう。私たちの寄って立つ原則はなんなのか。不寛容に対しても寛容が求められるのか、否、そうあってはならないのか。原則についての議論が必要だろうと思っています。
(なお、本稿は二〇一八年七月二四日に改憲阻止メーリングリストに投稿したものを圧縮しました。)


美弥子団員は、すごい、えらい

広島支部  佐 々 木 猛 也

 まるで滝。豪雨は自宅から三〇〇メートル離れた地区を襲った。濁流は床上まで流れ込み山肌を削り陸の孤島とした。郵便局、銀行のATMは作動せず、スーパーの商品棚には食料品はなく、ガソリンは姿を消した。東広島駅から広島駅まで新幹線は通じたが、数少ない駐車場は午前四時半には満杯となった。一二日経過後、JRは代替バスを用意し、七月六日以前に購入済の定期券、回数券所持者に限り利用できるとしたが、数百人が押し寄せる大混乱状態になっている。山陽自動車道が開通し、バス会社が手配した一日二本の災害特別便にも人々が押しかけ、上空にはヘリコプターが飛び交う。この国の安全保障はどうなっているのか。一五日を経た今日、初めて広島市に出ることができた。列車は、一〇月終わりまで動かない。
 そんなわがふるさとを「ウサギ追いし かの山」の歌そっくりの地と表したのは、畏友大川眞郎団員である。その一九六七年の秋のころ、コンクリート護岸ではない川には鮒が群れなし、猟師たちは野兎を追い、家の周りには田圃が広がっていた。
 明治の時代、山陰からこの地に来た瓦職人たちが良質な粘土で焼きあげた赤瓦と白壁でなる「居蔵造り」と呼ばれる民家が集落を形成していた。
 市町村合併という「国盗り物語」と、大学・企業の転入でわが町の人口は急増し、庇(軒)がほとんどない四角い白い家々に囲まれた赤瓦・白壁の家の住人たちは、原住民・インディアンとしてひそかに生きる。
 そんな田舎の町に、団員飯田美弥子さん・八法亭みややっこ氏が来たのだ。東京からはるばるいらっしゃるというのに、この地の九条の会は宣伝不足。参加者はわずか三〇名ほどで、講師に申し訳ない、恥ずかしいと思いながら聞いた語りに手抜きはなく懸命なものだった。
 憲法噺は、和をもって尊しとする一七条憲法と朝鮮半島から入った仏教によって「逆らふことなきを旨とせよ」と、天皇を中心に民を鎮める統治の武器としての憲法の話から始まり、万世一系の天皇による統治の明治憲法へとつながり、国民主権の日本国憲法の誕生とその素晴らしさを褒め称え、自民党改憲草案をメタ切りにする。
 民は、この党の復古的体質とデタラメさを見抜けず、バカないくさを今も目論む危険分子・売国集団と気づかない。
 話は具体的で、自己宣伝をし、自己卑下をして笑いを誘い、憲法改正の動きに怒りを込め、言葉で安倍政権に立ち向かい、落語の力・落ちが入るから聴衆の目は輝いた。
 二〇一三年から始めたという改憲批判の口演で、日曜日に全国各地に出向いた回数は、今、二五〇回に迫るというから凄い。易々とできることでは、ない。偉い!
 今では耳にすることもない奉安殿の話が出た。戦後の小学校の敷地に、横一五メートル、高さ二メートルほどの石造りのどっしりした建造物は堂々とましましていた。そこには、戦前、御真影、勅語謄本、詔書謄本が恭しく奉護されていたと祖父は教えた。奥納戸にも御真影が鎮座していた。護るべきは、写真であり、印刷物であり、紙だった。人の命は紙より下に置かれた。木の葉であり、石ころであり、ゴミだった。その建造物は取り壊され姿を消したが、その周りで立ち小便をしながら隠れん坊をした記憶は残る。
 土佐日記の紀の貫之庭の見事な梅の木を寄越せと天皇が命じた。貫之は,土佐に出張中ときたから、出は紀ノ國、と落ちが浮かんだ。
 父不在の娘は、「勅なれば いとも畏し 鶯の 宿はと問はば いかが答へむ」と詠い返えして無謀な要求を拒絶したと披露した。語る中味は広く深い。
 一時間半の語りを終え、あわただしく著書にサインするみややっこ氏に、田舎住まいの団員ですと告げた。後日、「口演にご参加くださり誠にありがとうございました。皆様にも宜しくお伝え下さいませ」と葉書が届いた。「ありがとう」を言うべきはこちらであり、感謝を綴っているうち、これは広く伝えることだと、団通信に書くことを思いついた。
 「日暮れ、道遠し。吾が生すでに蹉跎なり。所縁を放下すべき時なり」(徒然草一一二段)なのに、あえて駄文を書こうと思わせた感銘深い一席だった。口演のあった舞台は床上浸水し、その広場には、水浸しになった家具などがうず高く積まれている。

(七月一九日記)


白南風(しらはえ)や午前にちょっとキスをして

埼玉支部  大 久 保 賢 一

 白南風(しらはえ)というのは、梅雨明けの頃に吹く、からっとした南風のことで、梅雨の終わりと本格的な夏の到来を告げる風だという。これは、その白南風の吹く午前に軽くキスをしたという句のようである。私はこの句を見つけた時、なぜかすごくうれしい気持ちになった。
 この句の作者坪内捻典さんは、「快い白南風が吹いて、窓のレースのカーテンを揺らす朝、そばに相棒がいたらキスをしたいではないか。実際にするかしないかはともかくとして…」という想いでこの句を作ったという。けれども、周辺では「そんなこと思わないよ」という人が圧倒的だったという。そして、「いい年をしてよく作ったなあ。恥ずかしくない?」と言われたそうである。坪内さんは私より三歳年上の一九四四年生まれだけれど、こんな句が作れるのである。私は「何という感性だろう」と羨ましく思うのだ。
 坪内さんには「睡蓮へちょっと寄りましょキスしましょ」という句もある。「キスしましょ」と題をつけた一連の句だという。坪内さんは、七十歳や八十歳になってもキスをするそんな老人になりたいという憧れが、このような句を作りだしているというのである。私は、その憧れを共有したいと思う。もちろん、実際にキスするかしないかは別問題であるけれど…。
 この睡蓮の句が雑誌に掲載されたとき「助兵衛爺のたわごとにすぎない」という意見もあったという。けれども、ある先輩が「寄りましょキスしましょ」の対句的表現が日常(常識)を超えているのがよいと言ってくれたという。加えて「睡蓮はきりっと咲く花、助兵衛的ではない。この句を口ずさむと睡蓮になれる気がする。自分もこんな句を作りたい」と評価してくれたというのだ。その先輩の俳句仲間は八十八歳だという。
 私には、こんなドキドキするような句を作ることはできないけれど、坪内さんやその先輩のキスに対するこだわりは分からないでもない。もちろん、キスにはあいさつ代わりもあれば、敬愛の表現としてのものもあるだろうし、情欲の発露としてのものもあるだろう。いずれにしても、親愛や興味関心や恋愛感情の表現であることには違いない。キスしたいと思うのは「助兵衛爺の妄想」ではない場合もあるのだ。きりっと咲いている睡蓮やそれと似た存在に惹かれることもあるのだ。
 八十八歳になる先輩は、紙おむつの着用などを気にして人前には出なくなったけれど、坪内さんに「今年もまたキスしましょ、の季節がやってきました」と手紙をくれたという。
 私も、紙おむつをするようになるかもしれない。その時、こんな手紙を誰かに書く感性があるかどうかはわからない。できれば持っていたいような気もするし、あったら怖いような気持ちもある。皆さんはどうだろうか。
 (二〇一八年七月八日記。「ねんてん先生の文学のある日々㊶・キスしましょ、の季節」しんぶん赤旗・二〇一八年七月六日掲載を読んで。)