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永尾 廣久 ※福岡・八幡総会特集
八幡総会で学んだこと
伊藤 嘉章 二〇一八年福岡・八幡総会 第一日目
「香椎駅」と「点と線」と専守防衛論議(前編)
木村 晋介 再び「平和基本法」を考える
後藤 富士子 憲法九条二項と自衛隊
――法律文言のメルトダウン
早瀬 薫 女性部五〇周年記念シンポジウムのご報告



※福岡・八幡総会特集

八幡総会で学んだこと

福岡支部  永 尾 廣 久

「勝つまでたたかう」プレ企画
 馬奈木昭雄団員に学びながら集団事件に取り組んでいる団員によるパネルディスカッションがあるというので、参加した。福岡支部の例会には参加したことがないので、その成果をいただこうと思ったのだ。期待を裏切らない面白さだった。
 被害を明らかにして裁判官の心をいかに揺さぶるかは、集団事件に限らず、いつも課題となるところだ。ところが、被害者が被害を生き生きと語ってくれるとは限らない。むしろ、加害の歴史や経緯と問題点を語ろうとする。しかし、それでは裁判所は心を動かされない。やはり、深刻な被害の実相をさまざまな角度から光を当てて明らかにする必要がある。そして、そのためには裁判官に現場を見てもらうのが一番だ。形は現場検証でなくても、現場での進行協議という形であってもいい。現場では裁判官のそばにいて、被害の実相を耳うちすることもできる。これは誰にも止められない。
 しかし、裁判官を現場に連れ出すのは容易なことではない。そこで、代わりに意見陳述を活用する。ところが、この意見陳述について、裁判所はなにかと制限しようとする。それに抗して、いかにして意見陳述の機会を確保するか、各地でいろいろ工夫がなされている。たとえば、追加提訴のたびに新規原告に陳述してもらう。主張書面とするということで原告本人の陳述を実現しているなど。ただ、同じ福岡地裁でも、生活保護をめぐる裁判では意見陳述を毎回行っているという。いったい、この違いはどこから来るのか・・・。法廷で原告弁護団が裁判長と丁々発止のやりとりをしているのかと思うと、必ずしもそうでもないようだ。昔もポーカーフェイスの裁判官はたくさんいたが、最近はますます表情の乏しい裁判官が増え、手応えがないことが多いように思う。
 元青法協会員裁判官だった私の尊敬する弁護士は、法廷の活性化をもっと心がけるべきだと強調している。裁判所内には、かつてのような青法協はなく、また裁判官懇話会も絶えて久しい。内部での自主的研究会がないなかで、外部の国民の裁判所への期待を込めた息吹きを伝える工夫がいま強く求められている。だから、誰かの意見陳述が良いと思ったら、拍手するのは人間として自然なこと、それを制止すべきではないし、無用に自粛する必要はない。
 なるほど、そうだよね・・・。集団事件に限らず、法廷をいかに活性化させるかは、大いに工夫と協力が必要だと痛感した。
国会議員の活用法
 団総会の懇親会のあと、二次会として仁比(にひ)聡平議員、山添(やまぞえ)拓議員という二人の国会議員を囲む会が開かれた。二次会でもあり、どれだけの参加があるのか心配していたところ、いつのまにか会場は満杯になった。あとで参加者は八〇人をこえていたと聞いた。
 熱血弁護士として仁比議員の話はいつものことながら事実と論理を熱っぽく語り、心を打たれるものだった。仁比議員は今五五歳、それを二まわりも下まわる三三歳の山添議員の話は、理路整然と明快に団員議員の課題を明らかにし、強い感銘を受けた。まったく異なるタイプの議員であり、本人もその点を自覚しているとのこと。労働現場の実情を国会質問に反映させ、要求実現の前進をかちとった例も紹介された。
 要求実現するために超党派で議員を動かすには、やはり工夫と仕掛けがいる。どの議員にどのように働きかけたらよいのか、この点はやはり国会内で活動している国会議員のアドバイスを得たほうがいいことは明らかだ。要求実現に資するのであれば、たとえば自民党議員の顔を立てるような形をとることも考えられるし、それができると、うまくいくことは多い。
 問題状況の調査を深めるためには、国会議員による質問主意書という形をとることもありうるとのこと。また、国会図書館に国会議員が資料要求すると、網羅的な資料が素早く届けられる。なるほど、そんな手があったのか、そう思った。さらに、広島の井上正信団員から、議員が国会質問で使った資料には貴重なものも多いので、その資料を取り寄せて学習会の資料としたり、意見書の素材とするなど活用しているとの発言もあり、なるほど、資料の取り寄せとともに活用ということも弁護士は考えなければいけないんだ、そのことも分かった。
団員の減少
 八幡総会に地元団員として参加し総会議案書を読んで、少し不安にかられるところがあった。要するに、少し前なら、ちょっと遅れたら座る椅子も見つからないほどの多数の参加者があり、総会には五〇〇人の参加というのがあたりまえだった。
 ところが、今回は三五〇人ほどだったと聞いている。しかも、うち五〇人近くは地元福岡の団員の参加というので、全国からの参加者が明らかに減っている。以前は、総会や五月集会には事務所旅行も兼ねて弁護士だけでなく事務職員も大勢参加するところがたくさんあった。私の事務所でも残念ながら経済事情の悪化により、今ではそれが難しくなった。
 総会議案書によると、いま団員は二〇八五人で、なんと団員の実数が減ったという。新人の入団者が少なくなったうえ、死亡という自然減少だけでなく、退団者もふえていることによる。入団者は四四人、うち七〇期は三二人で、退団者は五二人(うち七人が死亡による)。
 いま、創立一〇〇周年の記念事業が考えられている。弁護士四万人時代に、自由法曹団員が全国各地でどんどん増えている。そんな勢いで一〇〇周年を祝いたいものだ。


二〇一八年福岡・八幡総会 第一日目
「香椎駅」と「点と線」と専守防衛論議(前編)

東京支部  伊 藤 嘉 章

一 ふたつの香椎駅での目撃時間の一一分差のトリック
 松本清張の「点と線」(新潮文庫昭和四六年五月二五日発行・平成三〇年四月二五日 百三十五刷)二二ぺージに、「鹿児島本線で門司方面から行くと、博多に着く三つ手前に香椎という小さな駅がある。この駅をおりて山の方に行くと、もとの官幣大社香椎宮、海の方に行くと博多湾をも見渡す海岸に出る。」「前面には『海の中道』が帯のように伸びて、その端に志賀の島の山が海に浮かび、その左の方には残の島(のこのしま)がかすむ眺望のきれいなところである。」とある。
 私は、神社仏閣には興味がないので香椎宮には行かない。古代史ファンとして、志賀の島で発見され国宝に指定されている金印は福岡市立博物館で見たことがあるので、この機会に金印の発見場所である「志賀の島」に行ってみたかったが、団総会に遅刻しないように、今回は割愛することにした。
 小説の中では、一月の寒い日の朝、香椎海岸で、男女の心中死体が発見される。捜査の結果、国鉄香椎駅から降りたと思われる男女と、その駅から約五〇〇メートルほど海岸寄りにある西鉄貝塚線香椎駅からも男女が下りたと思われる。両者は同一人か。両駅への列車の到着時刻は一一分の差がある。別のアベックが下りたかのか。福岡署の鳥飼重太郎刑事は、両駅間を何度か歩いてみたという。所要時間は六分前後、わざとゆっくり歩いても八分であった(七〇ページ)。私も団総会の初日の午前中に、西鉄香椎駅から写真をとりながら、しかもほどけた靴紐を結びなおす時間を含めても五分でJR香椎駅に着いた。但し、総会の懇親会で福岡の団員にこの話をすると、西鉄香椎駅の駅舎は建替によって移動したという。 
 帰ってからwikipediaで調べると「二〇〇六年香椎副都心区画整理事業により高架化駅へ切り替え」とある。このことか。さらにwikipediaには、「駅前で満開する清張桜」(別名お時桜)とある。このようなものがあるとは知らなかった。
 小説中の西鉄香椎駅における目撃者によると、女の方が「ずいぶん寂しい所ね」と言ったという(六七ページ)。石破茂議員も「このセリフを妙に覚えている」と話す(プレイボーイ 二〇一八年ナンバー四四の八一頁)。今では中層マンションがいくつもあるにぎやかな街となっている。
 男女が情死行(道行)で乗った列車の食堂車の「御一人様」という伝票の記載から鳥飼刑事は心中事件としては、何かひっかかるものがあって再び海岸に行く。彼は西鉄「香椎駅」で降りた。「海岸の現場までは、歩いて十分ばかりである。駅からは寂しい家並みがしばらく両方につづくが、すぐに切れて松林となり、それもなくなって、やがて石ころの多い広い海岸となった。この辺は埋立地なのである。」(五六頁)
 情景描写が続きます。「風はまだ冷たかったが、海の色は春のものだった。荒々しい冬の寒い色は逃げていた。志賀の島に靄がかかっていた。」(五六頁)これって、わざとらしくないですか。
二 東京駅における四分間見通しのトリックと特急「あさかぜ」
 東京駅の一三番ホームから一五番線に停まっている博多行特急「あさかぜ」を直接見通せるのは、一七時五七分から一八時一分までの四分間だけであった。この四分間に、後に情死した死体となって発見される二人の男女に一五番線ホームを歩かせる工作を誰がどのようにしたのであろうか。文庫本の解説者平野謙は、「この一点が合理的に説明されない以上、『点と線』全編のプロットは、その針の穴ほどのキズから土崩瓦解する危険なきにしもあらずである。」と論評する(前記「点と線」二六〇ページ)
三 アリバイ工作の時代性(究極の机上鉄※)
 前行の※は、赤塚隆二「清張鉄道一万三五〇〇キロ」からのパクリです。
 容疑者のアリバイは、次の通りである(一三二頁)。
一月二〇日 上野発 一九時一五分(十和田)
  二一日 青森着  九時〇九分
      青森発  九時五〇分(青函連絡船)
      函館着 一四時二〇分
      函館発 一四時五〇分(まりも)
      札幌着 二〇時三四分(駅に迎え人あり)
  二一日から二四日(旅館丸惣滞在)
  二四日発 二五日 帰京
 ここには、上野発青森行夜行列車があり、さらに、青函連絡船で四時間三〇分かけて北海道に渡るという時代性を感じる。時代は下るが、一九七七年の石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の世界である。アリバイの証拠としては青函連絡船の乗船カードに、旅館丸惣の宿泊者カードに記載されたと同じ容疑者の自筆の署名があり、アリバイの鉄壁性を物語っている。
 当時は、函館から札幌まで、夜行特急「まりも」で五時間一六分かかっている。現在では在来線の特急「スーパー北斗」で三時間三〇分くらいである。北海道新幹線が札幌まで延伸すれば、新函館北斗と札幌間を一時間で結ぶことになろう。
四 東京福岡間の列車と飛行機の発達
 「点と線」では、福岡署に応援に来ていた警視庁の三原警部補は、博多駅から午後六時二分発の上り急行「雲仙」に乗り、翌日の午後三時四〇分に東京駅に着くという(九四ぺージ)。なんと二一時間三八分の難行の旅である。現在では、東京博多間は「のぞみ」に乗れば、五時間で移動できる。私自身も一泊旅行の翌日の一〇月二四日の一七時三三分博多発・二二時三三分東京着「のぞみ五六号」で帰ったのです。
 うそです。飛行機で帰りました。その方が運賃が安いのです。当時も東京福岡間に飛行機はあったが、四時間かかり、航空運賃は、片道一万二六〇○円であったという(鉄道ライター原口隆行「文学の中の駅」二一ページ)。
 今回私が乗ったスカイマークの東京福岡便の片道運賃は、一万〇八九○円であり、額面だけでみれば、「点と線」が連載された一九五七年の金額よりも少ない。但し貨幣価値は十倍以上違うので、今の価値にすれば、一二万六〇〇〇円以上の運賃ということになる。これでは、三原警部補の出張には飛行機を使うことは許されなかったのであろう。
五 松本清張はなぜ読まれるのか
 二〇一八年五月に個人で、北九州市小倉北区にある松本清張記念館に行った。特に新しい発見はなかった。上映している松本清張原作の映画の女優の演技が稚拙であった。面白くないのですぐに出てしまった。
 私が二十代のときに、夢中で読んだ高木彬光、横溝正史、鮎川哲也らの作品は、今の書店の文庫棚にはほとんどない。松本清張の作品「点と線」は、冒頭に記載したように一九七一年発行の文庫本は、発行以来、百三十五刷を数えるという。
 鮎川哲也は一九六〇年に「点と線」の偽装心中をまねて「人それを情死と呼ぶ」を書いた。全く接点のない男女の死を心中に偽装する工作。そして、犯人のアリバイもある。古本の文庫本の字が小さく読みにくい。内容は、荒唐無稽である。
 また「点と線」の推理小説部分の殺害の場面はこんなにうまくいくはずがないというほどばかばかしい。
 しかし、「砂の器」のハンセン氏病、「ゼロの焦点」の戦後の風俗、「球形の荒野」には、家族を捨て国のために国籍を変えた男の人生というテーマがあった。
 「『点と線』における犯行の動機づけは個人悪と組織悪との二重構造になっていて、アリバイづくりの共犯関係などもその組織悪という新しい動機づけから無理なく引き出されているのである。松本清張の『点と線』を一つの画期として、推理小説界にいわゆる社会派的な新風のもたらされたのも、ゆえなしとしないわけである。」と平野謙はいう(二五八頁)。
※次号に続く


再び「平和基本法」を考える 

東京支部  木 村 晋 介

 本誌一六四五号までの松島暁氏との対論の中で、私は、九条をもとに完全非武装主義を説くことの困難について述べましたので、それに敷衍して、私が期待する九条の役割について述べたいと思います。
 二五年も前の話になりますが、雑誌「世界(岩波)」九三年三月号に「平和基本法を作ろう」という構想が、古関彰 鈴木佑司・高橋進・高柳先男・前田哲男・山口定・山口二郎・和田春樹・坪井善明の各氏によって提言されました。これは、平和基本法を制定し、憲法の許容しうる水準の軍事力(最小限防衛力)まで、現在の自衛隊の規模体制を縮小し、国が守らなければならない平和のための原則を明記する、などというものでした。この構想は「平和基本法 九条で政治を変える 前田哲男ほか 高文研)」と題する単行本として出版されています(参考 自衛隊をどうするか 前田哲男 岩波新書)。
 当時青年法律家協会の議長であった田島泰彦神奈川大学教授(当時)は、法と民主主義の同年六月号に「改めて憲法と平和を考える」とする論稿を寄稿し、平和基本法の構想を、違憲・護憲の距離の接近、両者間の合意形成の可能性に道を開く役割をもつものとして評価し、護憲論に対し「まず端的に、憲法九条に典型的なように、私たちは護憲的な現実を創造するのに成功してこなかった」と、一種の自己批判論を展開しました。
 私も、平和基本法の提言を評価する立場から、九四年三月号「世界」に「平和についてもっと論争しよう」という論文を寄稿しました。その骨子は、「平和基本法の提言を、防衛費や兵器の質量の制約と海外への軍事的派兵の抑止を企て、非核三原則や武器輸出三原則、などを国会決議や曖昧な慣行という浮動物の上に置くのではなく、明確な法的原理・法的規制の中に固定しようという試みとして受け止めたい」とするものでした。
 この平和基本法構想については、本誌九四年四月二一日(七六六)号、五月一日(七六七)号で、「平和基本法構想を批判する」として鷲見賢一郎氏が論稿を載せています。その内容を一言でいえば、「平和基本法制定によって最小限防衛力を認めるのは、憲法九条二項に反し許されない。世論調査でも自衛隊違憲論は増加しつつあり、同項の規範力も強化しつつある」とするものでした。
 田島論文については、九三年八月九日号赤旗評論特集に、日本共産党中央法規対策部長(当時)柳澤明夫の、田島氏の立場は、「敗北の見地であり、現実への追従・屈服である」との論文が載り、私の論文については、九四年三月一四日号赤旗評論特集に、坂口明氏の、「木村は右転落した」と批判する論文が載りました。
 そして、最近では、平和基本法構想は提言者によっても語られなくなっていきます。
 しかし、平和基本法構想の提起したメッセージは、(私の解釈によれば)絶対的平和主義という特定の価値観を、国の防衛力によって命を守ってほしいと思っている(異なる価値観をもつ)他者にまで押しつける立場にたつべきではない。平和運動の側がそうした立場に固執する結果、平和運動はいつまでも少数者の立場に甘んずることになってきた。この構想は、平和運動の側が譲歩し、相対的平和主義を一定の限度で受入れて、多数の国民の支持のもとに政権を取り、現実に自衛隊をコントロールする法を実現する、という構想です。この構想は、絶対的平和主義の側に一定の妥協を求めることになりますが、決してその価値観の放棄を求めるものではありません。平和基本法を実現した後に、国民的な合意を得て、非武装平和の実現を目指すことは自由だと思います。
 平和基本法という明確でポジティブな戦略的目標を平和勢力の共通のものとすることができれば、ただ与党の安全保障政策を批判するだけのネガティブな運動とは異なり、その安全保障政策は多くの国民の支持を集める可能性があります。改憲阻止のために3分の1以上の議席をとればいい、というステージから、過半数の議席をとって法律を作るステージへと照準を合わせ変えるということです。
 九条はこのような立法と結びついて、自衛隊を、日本の国民を守るための必要最小限度の防衛力としてコントロールするための役割を担うことになるでしょう。
 日本共産党もその後、急迫不正の主権侵害があれば、自衛隊を活用するとしています。本当に自衛隊が憲法違反であれば、防衛出動命令は違憲無効となり、自衛隊は活用できないわけですから、現在同党の立場は、急迫不正の主権侵害に対して活用する範囲で、実質自衛隊合憲の立場です(この点に関しては、大久保賢一氏が異なる見解を示していますが、氏の見解には、自衛隊違憲の立場でなぜ「有効な」防衛出動命令が出せるのかの説明がありません)。
 野党第一党の立民党代表の枝野氏は、かつて集団的自衛権を容認する論文(文芸春秋一三年一〇月号)を出し、日本共産党がこれを批判した経緯はありますが、枝野氏はこれを撤回しています。両党間にそれほど大きなへだたりはないと思われます。
 平和基本法の提言は、政党が提示した構想ではなく、民間の発意で作られたものです。平和構想というものは、民間から提起されるべきものであると私は思います。団においても、こうした構想について、自由闊達な議論がされることを願ってやみません。


憲法九条二項と自衛隊
――法律文言のメルトダウン

東京支部  後 藤 富 士 子

 去る一〇月一〇〜一四日に韓国済州島で「国際観艦式」が開かれた。日本は自衛艦旗をめぐる悶着が原因で、参加を中止した。自衛艦旗の「旭日旗」は旧日本軍で使われたもの。だから韓国内にはこの旗に対して「日本軍国主義の象徴」との批判があり、日本に自衛艦旗を使わないよう間接的に要請したのである。
 自衛艦旗は、国連海洋法条約で掲揚を義務付けられている、所属を示す「外部標識」である。日本は当初、旭日旗を掲げて参加する方針であった。しかし、韓国世論が「戦犯国の戦犯旗だ」などと「旭日旗」に対する抵抗が強かったこともあって、「旭日旗を降ろすなら参加しない」と参加を見送った。
 ところで、問題の国連海洋法条約二九条は「軍艦」の定義規定であり、「この条約の適用上、『軍艦』とは、一の国の軍隊に属する船舶であって、当該国の国籍を有するそのような船舶であることを示す外部標識を掲げ、当該国の政府によって正式に任命されてその氏名が軍務に従事する者の適当な名簿又はこれに相当するものに記載されている士官の指揮下にあり、かつ、正規の軍隊の規律に服する乗組員が配置されているものをいう。」と定められている。すなわち、「自衛艦」は、国際法上「軍艦」にほかならない。そうすると、自衛隊も「軍隊」ということになる。
 日本国憲法九条一項は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と定め、第二項は、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と定めている。すなわち、九条二項によれば、自衛隊は「軍隊」であってはならない、のである。一方、国際法上、自衛隊は「軍隊」である。
 こうなると、憲法九条二項は法規範として死滅している。法律文言のメルトダウン!
 同じような「法律文言のメルトダウン」現象は、日本では随所に見られ、法治国家というより「放置国家」の様相が顕著である。
 たとえば、民法八一八条三項で「親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。」と定められているのに、ある日突然に妻が子どもを拉致同然に連れ去って父子関係を断絶させても、父の親権妨害として不法行為責任が追及されることはない。それどころか、離婚後の単独親権者指定に際しては、連れ去った親が「監護の継続性」を理由に、親権者と指定される。むしろ、離婚後の単独親権者指定を目指して、離婚前の婚姻中に「連れ去り」「引き離し」をするのである。こうなると、民法八一八条三項の規定はメルトダウンしてしまう。
 また、婚姻費用分担について、民法七六〇条は「夫婦は、その資産、収入その他一切の事情を考慮して、婚姻から生ずる費用を分担する。」と定めている。ところが、実務では、収入だけで算出する「標準算定方式」という「算定表」で決する。すなわち、「資産」も「その他一切の事情」も考慮されないのだから、条文がメルトダウン。
 さらに、離婚に伴う財産分与について、夫婦間で協議が調わない場合、民法七六八条三項は「家庭裁判所は、当事者双方がその協力によって得た財産の額その他一切の事情を考慮して、分与させるべきかどうか並びに分与の額及び方法を定める。」と規定している。しかるに、実務では、「婚姻関係財産一覧表」を作成させて、夫婦の財産の合計の半分から分与をうける側の財産を控除した残額を分与させる。つまり、機械的に夫婦の名義の財産を二分の一に清算するのである。ここでも、条文がメルトダウン。
 憲法でも、同じ現象がある。憲法七六条三項は「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と定めている。しかるに、裁判所法では、司法修習を終えて採用される裁判官を「判事補」とし、二七条で、判事補は、「他の法律に特別の定めのある場合を除いて、一人で裁判をすることができない」とか、「同時に二人以上合議体に加わり、又は裁判長となることができない」と規定されている。すなわち、日本では、憲法七六条三項の裁判官ではない「裁判官」が存在するのである。
 このように条文がメルトダウンしたのでは、「法の支配」も「法治」もあり得ない。
 ところで、安倍政権は、憲法九条について改正を企図している。まず、九条一項二項には手を触れず、「九条の二」として次のような条文を加えるという。その一項は「前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置を執ることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。」とし、第二項は「自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」である。
 すなわち、自衛隊は「自衛の措置をとるための実力組織」であって、九条二項が保持しないとしている「軍隊」ではない、という論理である。だからこそ、安倍首相は、「自衛隊を憲法に明記するだけで何も変わらない」と説明するのである。
 しかし、少なくとも国際法上、自衛隊は「軍隊」である。したがって、国際法上の「軍隊」を国内法で「自衛の措置をとるための実力組織」と言い換えても、「軍隊」でなくなるはずがない。このような、法律文言をメルトダウンさせることが横行したのでは、もはや日本は法治国家とはいえない。
 「安倍改憲」問題は、根の深いところで、私たち市民の日常生活を律する法規範のメルトダウンと繋がっているのである。

(二〇一八・一一・二)


女性部五〇周年記念シンポジウムのご報告

東京支部  早 瀬   薫

 二〇一八年九月一四日に女性部五〇周年記念シンポジウム・レセプション(於 ホテル ルポール麹町)が行われました。お忙しい中、たくさんの方々にご参加いただき、ありがとうございました。五〇周年行事全体については他の方からご報告・ご紹介があると思いますので、ここでは、特に、シンポジウムについて報告いたします。
 シンポジウムでは、伊藤和子さん、土井香苗さん、そして中野和子部長の三人にパネリストとして御登壇いただき、国内人権問題と国際的な人権問題との連動について、ディスカッションを行いました。
 ご存知の方も多いかと思いますが、伊藤和子さんは、Human Rights Now (ヒューマンライツ・ナウ)の事務局長を務めておられます。ヒューマンライツ・ナウは、伊藤さん達が立ち上げた日本初の国際人権NGOです。土井香苗さんが日本代表を務める Human Rights Watch(ヒューマン・ライツ・ウォッチ)は、四〇年程前に設立され、ニューヨークに本部をおき、世界各国をモニターしている人権NGOです。中野和子部長は、日本婦人団体連合会の活動において、CEDAW(国連性差別撤廃委員会)に参加するなど、三者それぞれが、国際的な分野で活躍されているパネリストです。
 それぞれの組織の人権活動や、国際的な人権活動に携わるようになった経緯を簡単にご説明いただいた後、@女性と暴力(MeToo運動)、A女性と差別(ミャンマーの少数民族の迫害)、B企業と人権等の多彩な切り口から、国際的な人権活動と国内的な人権問題への連動を語り合いました。
 ヒューマンライツ・ナウでは、AV出演強要問題に力を入れ、また、レイプ被害を訴えた伊藤詩織さんを支えてきました。伊藤和子さんは、AV出演強要問題でも被害者が声を上げられないこと、ジャーナリストという立場の人達も声を上げずに性被害を黙っているという実態を踏まえ、声をあげにくい、声を上げるとバッシングを受けるというこの社会の中で、「MeToo」という声をしぼませずに、励ましていくことの大切さを訴えました。
 ロヒンギャ民族の迫害については、土井さんから、ミャンマーというと遠い国のように感じるかもしれないが、ミャンマーにとっては、中国とともに日本は重要な相手国であり、日本はミャンマーに影響力のある国、そういう国で起きていることとして聞いて欲しいということで、現状について説明がありました。昨年八月のミャンマー軍からの迫害で、自分の村を焼かれ、女性のレイプ被害もあり、夫が殺され、お母さんが小さな赤ちゃんや子どもを連れて川を越え、七〇万人ものロヒンギャの人々が隣国のバングラディッシュに逃げて行き、難民キャンプにいるという悲惨な実情が語られました。そして、ミャンマーの民主化の活動家の人達を含め、ロヒンギャ民族への憎悪・差別は本当に激しいという悲しい現実を、土井さんも伊藤さんも話されました。政治的に影響力のある過激派仏教徒がロヒンギャに対するヘイトスピーチをする、そういったヘイトスピーチをする人たちが、ミャンマーで支持を受けているため政治的に動かないという背景もあるようです。
 国際刑事裁判所が、このロヒンギャ民族の問題を取り上げる動きがありますが、伊藤さんと土井さんとが、日本の外務省を訪れた際には、ミャンマー国内の調査グループに元国連大使の日本人が加わるということで、外務省としては国際刑事裁判所の動きには賛成できないという残念な対応だったということでした。
 国際貢献というと、自衛隊の海外派遣ばかりが注目される日本において、海外の人権侵害や国際的な紛争に対し、日本が外交や対話でアプローチできることがたくさんあるということ、国際社会において日本の果たすべき役割を、もっと知らしめていく必要があると思いました。
 「企業と人権」、とりわけサプライチェーンにおける人権問題について、ヒューマン・ライツ・ウォッチの女性の権利の部門が中心的となって長年取り組み、カンボジア、バングラディシュなどの縫製工場、アパレル、靴などの下請け工場を調べ、調査報告を続けているということです。二〇一三年にバングラディッシュのラナ・プラザという縫製工場がたくさん入っていたビルが崩れ、たくさんの女性労働者が亡くなりましたが、そもそも工場がどこのブランドの下請けだったかが十分に判明せず、大企業に責任も改善も申し入れられないという状況でした。そこから、サプライチェーンの中での人権問題を解決するためには、元請けである大企業が誰かがわからないといけない、透明性のpledge(誓約)、つまり下請け工場の公開の働きかけを、他のNGOなどとも、取り組んだそうです。日本国内の企業では、アシックスが一〇〇%公開、ミズノも無視している企業と比較すれば前向きに対応、伊藤さんからのプレッシャーもあり、ユニクロも除々に主要なブランドを公開、と進んできている、大企業として、下請け工場の統制は簡単ではないものの、公開くらいはできるはずということで、やれることから始めている、というお話でした。
 伊藤さんからも、ユニクロ潜入調査とその成果、タイの鶏肉やシーフードが安く日本に輸入されているが、現地の労働環境が劣悪なこと、日本国内においても技能実習生の問題があることなどの報告がありました。ESG(環境、社会、ガバナンス)の視点から、つまり地球や環境、人にやさしくない企業には投資しない、そういった形で投資家も消費者も声を上げることができると呼びかけました。
 消費者である私達も、日本国内で売られているブランド衣料品や食品が、どこで、どのような環境で作られているかに目を向けることの大切さを痛感しました。
 最後に、国際的な活動をされているお二人に、国際的視野から国内人権問題について伺ったところ、差別禁止法の不備、女性に関しては雇用分野のみ、障害者に関しては差別解消法が制定されたものの、民族・人種・宗教の差別禁止法がない、この点については諸外国の方から驚かれることが多い、と指摘を受けました。東京オリンピックがダイバーシティをかかげるなら、レガシーとして最低限の制度を法制化すべき、というまとめとなりました。
 切っても切り離すことのできない国内人権問題と国際的な人権活動。国際的な人権活動を伺い、改めて国内人権問題について見えてくる課題、できることについて、多く気づかされたシンポジウムとなりました。
 なお、翌一五日の総会をもって、女性部の部長は中野和子さんから千葉恵子さんへ、事務局長は湯山薫さんから近藤里沙さんへバトンが受け継がれました。中野和子先生、湯山薫先生、長い間、お疲れ様でした。