<<目次へ 団通信1030号(08月21日)

  連載 八〇周年によせて その1
  宇賀神 直 自由法曹団創立八〇周年に寄せて
  富森 啓児 自由法曹団の一員として
増本 一彦 自由法曹団の無料法律相談会
渡辺  脩 土生照子さんを悼む
松島  暁 何故 「この国のかたち」と言ってはならないのか
小賀坂 徹 小泉純一郎氏のルックスについて考える

連載 八〇周年によせて その1

自由法曹団創立八〇周年に寄せて

団長  宇 賀 神  直

 一九二一年八月二〇日、六〇・七〇名程の弁護士が日比谷松本楼に集まり、自由法曹団は創立された。神戸の三菱・川崎造船所争議で軍隊と警察によって弾圧された犠牲者を救援し、官憲の責任を追及するため東京の一四名の弁護士が神戸に来て、関西の弁護士と共に弾圧の実態調査を行い、その事実報告書を作成し、それを基にして検事総長などに責任追及の申し入れを行なった。弁護士たちは八月一一日から調査に入り一五日に東京に戻っている。その車中で労働者、農民、勤労市民の自由と人権を守る弁護士の団体を作る話しが出て創立の運びになった。創立の呼びかけはひろく自由を尊ぶ弁護士に向けられ、その参加のもとで結成された。

 創立の直接の引き金になったのは神戸の労働争議であるが、その背景には大正デモクラシーと言われる第一次世界大戦後の労働運動など大衆運動の昂揚があり、他方では支配者の取締まり、弾圧の動きもあつた。弁護士たちは神戸の争議の前から東京の市電のストライキ、米騒動などに対する弾圧の弁護活動を個々的にしていた。しかし、それでは情勢に見合う活動がないと判断して人権擁護の弁護士の団体を組織したのである。それも「人権擁護のために闘う」ことを申し合わせ、上村進、松谷与二郎弁護士の二人を世話人に選んだ緩やかな団体であった。

 私は人権擁護のために弁護士が自らを組織化したその着想と心意気に大きな関心を抱くと共に自由法曹団創立の歴史的意義を思う。その創立に参加した弁護士たちは「玉石混淆」と布施辰治さんが言われるように思想的には色んな人たちであった。そして自由法曹団の名前であるが腕をまくって論じ合って決めたが、「自由にやろう」と言った話しも出て自由法曹団と名づけたとも言われる。

 この創立当時の議論はその後の団の性格を決めていると思う。人権擁護の志をもつ弁護士なら誰でも仲間である、という幅の広い人たちで団は構成されている。また、労働者や農民、市民と共に闘う活動スタイルや労働者などの現場に入って事実を調査し、事実を土台にして闘いを進める作風も創立当時からのものである。

 団は創立後、組織的な活動を始め労働運動、小作争議の運動に参加し、これらの人々の権利を護る活動を進めた。その中でも関東大震災の時の虐殺に対する団の活動「調査、抗議」は特記すべきものがある。
 一九二五年の治安維持法の制定、その後の改悪により共産党関係者に対する逮捕、起訴が相次いで起き団員弁護士は弁護活動に奔走したが、三・一五、四・一六事件の刑事裁判については全ての自由法曹団員が弁護活動に参加出来るわけではなかった。そこで一九三一年四月二九日、自由法曹団の左翼的な弁護士が解放運動犠牲者救援弁護団を結成し、「その後全農会議派弁護士団と一緒になって日本労農弁護士団となる」治安維持法裁判の弁護活動に当たった。なお、一九二八年三月六日に解放運動犠牲者救援会が結成され三・一五、四・一六事件の救援運動に取り組むことになった。

 しかし、自由法曹団は残り、メーデーへの参加と官憲の弾圧妨害に対する抗議、東北飢饉の救援などの活動を行なった。この辺のやり方は情勢にあった活動としてなるほどと思う。日本労農弁護士団も一九三三年九月の弁護活動ゆえに逮捕、勾留、起訴されて弁護活動は出来なくなった。

 終戦の年の一一月に「再発足大会」が開かれ団の活動は再開され、幹事長に上村進団員が就任し当面の行動綱領を決め、翌年の七月の第二回大会で規約も決めて名実ともにたたかう弁護士の団体として組織的確立をなし遂げた。再開するに当たり自由法曹団の名を用いたことに、私は深い関心を持つものである。それは名前だけではなく創立当時の労働者、勤労市民の生活と権利を護る運動に弁護士として参加し共に闘うという在りかた、団員の自由な雰囲気、団員構成の幅広さ、事実に根ざした活動と言う団の在り方を承継したからである。

 戦後のわが団の活動は三鷹事件、松川事件、メーデー事件、吹田事件、青梅事件、白鳥事件などの弾圧事件、労働事件、各種の公害事件、選挙弾圧事件、消費者、納税者の権利問題など活動分野は拡がり、今や、そこに国民、市民の何らかの法律的問題がある場面に団員は出かけて行き権利擁護の活動を進めている。その活動を保証しているのは全国各地への団員の拡がりである。昨年の総会議案書、今年五月の研究討論集会の特別報告書を見るだけでも活動分野の広さと質の高さを思う。

 団活動の中で特別にふれなければならないのは悪法阻止の運動である。その運動の教訓と成果は大きい。
 今、司法の民主化、司法改革が取り組まれているが、二一世紀の司法のあり方を決めるといっても過言ではない課題にわが団員は弁護士会や国民と共に奮闘して行きたい。司法改革では弁護士の増員と自己改革が求められているが、団はその伝統を生かす立場を護り発展させる必要がある。弁護士からの裁判官への任官や所謂ロースクールでの法曹養成、過疎地での法律事務所の建設に積極的に取り組む必要がある。

 創立八〇周年を迎えるに当たり、八〇年の団の足跡を振り返り、その活動に確信を持つと共にこれからの一〇年二〇年の団の発展を視野に入れて創立の意義を深めたいと思う。


自由法曹団の一員として

長野県支部  富 森 啓 児

 自由法曹団に入って今年で四〇年になる。私にとっては最初から、地方志願=弁護士=自由法曹団というのは、殆ど一体のものとして受け取られていた。

 一九六一年、全くの未知の地、長野県の諏訪にある林百郎先輩の事務所に身を置くことになり、新宿の「沖縄泡盛」屋で、林百郎先生と初めてお会いしたのは、その年の二月のことであった。丁度その前年に辰野事件の一審有罪判決が出され、控訴審対策で上京したということで、当時の被告団長宮原光男氏と、最後の団長神戸今朝人氏も一緒だった。度の強い泡盛にしたたか酔ったことと、「腹を固めてやるじゃないか」という辰野事件被告団の決意の言葉だけは、未だに耳に残っている。

 爾来四〇年、途中選挙で明け暮れた時期も、病でストップがかかった時期もあったが、今八〇年の団の歴史の中で、自分がその半分の背丈まで来たことを、誇りを持って実感するこの頃である。その間の数知れない、殆どが無名と言ってよい事件、闘いの中にも、珠玉のように輝いているものがある。又自分ではすっかり忘れ去ったことであるのに、何年も、何十年経っても昨日のことのように覚えていて、改めて感謝されたりすることも、少なくはない。

 「地方にこそ、真の権利のための闘いがある。」というのは、正確ではなく、「中央、地方の別なく、都市、村落の別なく、そこに人間がいる限り真の権利のための闘いがある。」
と言うべきであろう。そしてその闘いに寄り添う限り、自由法曹団の役割は不滅であると思う。

 又、自由法曹団は、集団として真価と威力を発揮するが、同時に個々の団員は孤独に耐えても、常に新しい闘い、未知なるものへの挑戦、開拓者の魂を忘れてはならないように思う。
 最近長野県弁護士会では、「長野県弁護士会戦後五〇年物語ー人と事件」という冊子が発刊された。ここでは、長野県内の団員弁護士は当然、大塚一男、関原勇、石島泰、石川元也等々の県外の団員多数も登場されている。八〇年の自由法曹団の闘いは、単に団員だけではなく、広く日本の弁護士の中にも、更には日本の近現代の歴史そのものにも大きな影響と痕跡を残していることを痛感するものである。


自由法曹団の無料法律相談会

神奈川支部  増 本 一 彦

 今でこそ、県や各市町村が弁護士会と協力して住民のための無料法律相談を開いているが、わたしが弁護士になった(一九六二年)頃は無料法律相談が極めて少なかった。神奈川県内では、東京から根本孔衛さんが来た共産党川崎市議団の主催する法律相談と、亡くなった山内忠吉さんの横浜市神奈川区の診療所の主催のものだけであった。わたしが住むことになった藤沢から西や北には無料法律相談などというものはなく、横浜弁護士会自体が百名少しの会員であって、自由法曹団の団員も岡崎一夫に山内、陶山、三野という先輩と同期の横山さん、畑山さんに陶山夫人とわたしのかみさん(かみさんというと、坂本修さんから配偶者といえと叱られるかも知れない)だけで、事務所はみな横浜にあったのだから、手のまわりようもなかったのかも知れない。しかも、自由法曹団を名乗って活動するとなると、「アカ弁」のレッテルを貼られて、岡崎、山内という先輩の生活ぶりを見ても、その困難さがわかる時代だった。

 でも、わたしは岡崎、山内の歩む道を歩こうと思った。岡崎、山内老に寄食することはできないので、自分で活動と「たづき」を両立させる必要があった。当時、県下の日本共産党の地方議員は、県会が川崎から一名、市会は川崎に二名、横浜に一名、鎌倉に二名、藤沢、茅ヶ崎、平塚、小田原、秦野、大和、厚木に各一名で、相模原、横須賀にはおらず、町では山北、座間に一名という状況で、「空白地域に議員を」という課題は明白であった。そこから、全県一ヶ月二三カ所の無料法律相談活動が始まった。わたしの抱負を聞いた中古自動車を商う人が中古のライトバンをカンパしてくれ、横須賀のドブ板通りの米軍払い下げ品店で野戦用の寝袋を買い、横浜の鶴見から北は津久井郡、愛甲郡、西は大磯・二宮、清川村、秦野、松田、山北、小田原、足柄、箱根と夜は連日のように定例の無料法律相談会を開いて行った。地域の世話人を決めて、その人がいっしょに活動して、選挙のときには立候補して議員になるという活動で、ベニヤ板を八つに切って、それぞれにペンキで無料法律相談会の日取りと場所と世話人の名前を書き、地域のあらゆる電柱につるして行く。民商や建築組合にも呼びかけて協力してもらう。公民館のような人の来やすい場所を借りる交渉もする。こうして、「自由法曹団の弁護士の無料法律相談会」はベニヤ板のつり看板で有名になり、「弁護士と口をきいたら、カネを取られる」と思っていた地域の人々にも歓迎されるようになり、選挙になると各地の世話人が議員にもなって、「空白」は清川村一つだけにまでなった。東電もNTTも、弁護士会も「自由法曹団の無料法律相談会」には寛容で、東電の工事をする人たちはつり看板の針金がさびると付け替えてくれたりした。山北や清川村では、ダム建設問題が起きて、ダム対策協議会を作ったり、山林の下刈りをする人たちの山村労働組合を作ったり、これらの人たちから「元気でがんばれ」と山のマムシの焼酎やイノシシ、鹿の肉をもらったり、バケツいっぱいの沢ガニをもらったりして(バケツに入った沢ガニを乗せて、でこぼこの山道を自動車で帰る途中で、バケツがひっくりかえって、車のなかを沢ガニが走り回ったりした)、野菜やコメ、自家製のみそ、醤油をもらったりという具合で、相談に来られる人たちとの結びつきも広がっていった。

 国鉄の当時の労働者は実家が西の方にあって、そこから通っていたので、国労国府津支部の人たちとは個人的にもつき合いが深くなり、支部のストライキにはいっしょに職場に立て籠もり、ピケの弾圧対策もした。

 当時、愛知県岡崎で戦前から活動されていた先輩団員の天野弁護士がおられて静岡県内の面倒を看ておられたが、ご病気になり、わたしが富士(そこには、職場新聞「赤い自転車」の郵便局のたたかいや日本山妙法寺田子の浦の原水爆禁止運動があった。また、吉原では製紙企業がタレ流すヘドロをめぐって、漁民の怒りがあった)や浜松や三ヶ日の開拓農民組合の人たちの相談も担当するようになった。これは、田代さんとわたしのポン友石田さんによる浜松合同法律事務所ができるまで続いた。こうして、わたしの「自由法曹団の無料法律相談会」の戦線は、神奈川県の多摩川から愛知県岡崎までということになり、浜松の戦災復興区画整理事業をめぐる運動ではもたくさんの借地人や借家人と交流できた。キャリーに「憲法改悪阻止・小選挙区制反対」の看板をつけた中古の「自由法曹団の無料法律相談会」の自動車も有名になり、ダンプや長距離トラックから連帯のクラクションを鳴らされたり、街道筋の「めし」と大書した定食屋で食事をしていたりすると、長距離トラックの運転手の人が相談をもちかけてきたりもした。それは、形にはまらない、とても楽しい時期であった。

 そして、今、四〇年ほど前のエネルギーが甦るなら、「小泉流不良債権処理・構造改革に反対する自由法曹団の無料法律相談会」を始めたいと思う。九九%を超える企業数で八〇%を超える雇用数を抱える中小企業の経営者はもちろん、農協や農林中金に対してびっくりするほどの借金をかかえた農家のおやじさんや跡取りが、きっと駆けつけてくるだろう。自由法曹団の弁護士なら金融機関とその後ろで糸を引く金融庁とひと合戦してくれると考えるに違いない。


土生照子さんを悼む

東京支部  渡 辺  脩

 土生照子さんの事務所から、「昏睡状態を脱し、意識回復後は元気で自宅療養中」との情報を戴いて、程なく訃報が届いた。
 「何としても、お見舞いに伺いたい」と思っていたのに、間に合わなかったことは痛恨の極みである。

 土生照子さんと私は、紀尾井町時代の司法研修所一三期二組の同級生で、一九六一年の弁護士登録後も、何かと一緒であった。
 宮本康明裁判官が再任を拒否された時は一緒に熊本へ行ったし、その前の「再任拒否反対」の同期弁護士の署名集め(九七%)も一緒だった。同級生の冨森啓児(長野)さんが病に倒れた時も一緒に見舞いに駆けつけた。
 いろいろなことで、よく相談に乗ってもらったが、「ナベさん、思う通りにやりなさいよ。どうってことないわよ」と豪快に割り切ってくれたことも少なくない。
 陽気な酒豪でもあった。絶対に崩れないのである。好きな癖に、すぐ眠くなってしまう私などは足許にも及ばなかった。野暮な道産子が端然とした京女に対抗できるはずはなかったのである。

 今思うと、私は、土生照子さんに年齢を感じたことがない。  いつまでも、紀尾井町時代の若々しい女性のままであり、その根源は精神の高さにあったと思う。
 仕事の面では、土地区画・耕地整理事業や環境保護事件など、特殊なテーマにも専門的な知識が深く、常に、住民の立場から仕事を進めていた。「諏塩トンネル事件」では、入坑を拒否されたとも伝え聞いている。「女は土俵に上がるべからず」という相撲界の例と同じ話だ。男には見えないものも見据えていたと思うし、その幅は非常に広かったと思う。

 私は、日弁連活動でも、土生照子さんと縁が深かった。
 一九八五年六月六日、国会に「国家秘密法案」が突然上程され、日弁連の強力な反対運動が全国的に展開されることになったが、これは容易な事業ではなかった。もともと、強制加入団体の日弁連には、日本の社会に現存するあらゆる意見が凝縮されて混在しているからだ。現に、「スパイの処罰は必要だ」という意見から、「自衛隊は憲法九条違反だから国家秘密は存在しえない」という意見まで実に百花繚乱であった。それを、「@この法律案は人権侵害の危険が大きい。A情報公開制度の実現こそ最優先課題だ」という二本柱で会内合意をまとめ上げていったのが、この日弁連運動であった。

 この運動の当初から、人権擁護委員会代表の一人が土生照子さんで、当時の「刑法『改正』阻止実行委員会」代表の一人が私であって、この両委員会が日弁連運動の実質的な中心になった。
 一九八六年六月、「国家秘密法対策本部」(本部長は日弁連会長)が設置された時、土生照子さんが事務局長を務めた。
 研究活動・パンフ作り等の合宿や国会巡りなど、懐かしく思い出すことは多い。
 この問題で、日弁連が一部会員から提訴された「総会決議無効確認」の訴訟も一緒に担当して、勝った。これは、「弁護士自治」の金字塔になる判決であったと思っている(「日弁連五十年史」)。
 土生照子さんは、よく知られているように、一九九四年五月、女性で最初の日弁連人権擁護委員会委員長に就任した。

 その後、一九九六年六月、日弁連情報問題対策委員会の委員長に就任した。これには、私が「麻原国選弁護人」に就任して、同委員長を辞任したために、副委員長であった土生照子さんに、その後任をお願いしたという経緯がある。同時に、土生照子さんは、「情報公開法・民訴法問題対策本部」の本部長代行にも就任した。
 その中でも、「情報公開制度」実現の活動は、「国家秘密法反対」運動の二本柱のAの点が土台になって発展してきたものであり、私たちも、引き続き、それに参画してきたのであった。
 これらの日弁連の職務は、いずれも亡くなった時の現職である。 この事実は、土生照子さんが、いかに時代の先端を行くテーマに鋭敏に取り組み続けてきたのか、いかに人権問題の最も基本のテーマを鋭く見つめ続けてきたのか、いかに最後まで弁護士として戦い抜いて生きてきたのかということを明瞭に物語っている。
 また、これらの活動を通じて、土生照子さんは、日弁連職員を「ともに戦う仲間」として位置づけて、信頼してきたという点でも数少ない弁護士の一人であったと思う。
 自分の意見を持ち、筋を通しながら、柔軟に対応していくという調整の役割には最適な人でもあった。その面で、いつも、喧嘩早くて、攻撃の標的にされがちな私は随分助けてもらったと思う。
 私は、誰かと一緒に「土生照子を肴にして一杯飲む会」を開きたいものだと考えている。そう呟いてみると、「今日は、どこで飲もうか」という土生照子さんの声がまた聞こえてきた。
 土生照子さんの長年の戦いに心から敬意を表し、すべてから解放された安らかな眠りを祈るのみである。(二〇〇一年八月三日記)


何故 「この国のかたち」と言ってはならないのか

東京支部  松 島   暁

一 六月一二日、司法制度改革審議会の最終意見が発表された。
「論点整理」「中間報告」をうけて司法審の審議の集大成として発表された文書である。
 個別の論点については賛否があるだろうし、団としての意見書の準備もなされている。ここでは最終意見の総論部分についての意見を記したい。
 一部に「論点整理」や「中間報告」を「格調が高い」として極めて高く評価する論調があり、「最終意見」については「格調の高さ」においていくぶん低く評する意見もある。「格調の高」さを支えているのが、実はそれぞれの総論部分であるが、同時のその「格調の高」さが、総論部分をきわめて判りにくいものとしている。
 たぶん、「この国のかたち」論、「法の支配」論、「公共性の空間」論、「法曹=国民の社会生活上の医師」論あたりが、司法審意見を積極的に評価する人々に対して、「格調の高」さを感じさせているのだと思われる。しかし、これらのどれもが実は、本来の意味をねじ曲げ、換骨奪胎して用いているのである。騙されてはならないのである。
 紙面の関係上、ここでは「この国のかたち」論について取上げたい。「この国のかたち」という言葉は、「中間報告」では、九カ所で使われていたものが、「最終意見」では四カ所に減ってはいる。しかし、この言葉が、論点整理−中間報告−最終意見の基底に横たわる基本的イデオロギーであることに変りはない。

二 「この国のかたち」というのはもちろん司馬遼太郎氏の言説で、司法審の使う「この国のかたち」論と司馬氏のそれは、全く同じというわけではない。しかし、基本的考え方やものの見方においてかなりの部分が共通すると思われる。
 司馬氏の「この国のかたち」論を率直に語っているものとして、NHKブックスの「『昭和』という国家」がある。その中で、司馬氏は次のように語っている。
 「敗戦はショックでした・・・・なんとくだらない戦争をしてきたのか・・・・なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生れたのだろう・・・・昔の日本人は、もう少しましだったのではないかということが、後に私の日本史への関心になった」
 「日本という国の森に、大正末年、昭和の元年から敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいた・・・・その森全体を魔法の森にしてしまった・・・・この魔法はどこから来たのでしょうか。魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた・・・・あんなばかな戦争をやった人間が、不思議でならないのです」
 「魔法の森はいつから始ったのでしょう。・・・・明治維新はいろいろな素晴しいものを持っていました。幕末のひとびとも素晴しいものを持っていました。しかし、思想は貧困なものでした。尊皇攘夷だけでした。・・・・明治のイデオロギーは貧しかったけれど、明治の国家をつくったひとびとはしっかりしていました。・・・・その人たちが死んでしまうのが明治四〇年(一九〇七)ごろでした。日露戦争に勝利します。そこから試験制度の官僚が国の前面に出てくるわけです。」
 「日本の植民地主義、帝国主義は、日露戦争の後に興りました。極端にいいますと、日比谷公園で群衆が国民決起大会といった感じの大会をやり、日露戦争の講和条約に対してああいう甘いものは反対だ、もっとたっぷりロシアからふんだくれとやった。そこから私は日本の帝国主義が始ったと思うのです」
 「たとえばドイツにヒトラーが登場して、結果的にドイツをめちゃめちゃにして滅んでしましました。・・・・要するにヒトラーひとりが悪かったといってしまえばすむところがある。ところが、日本はたれが悪かったのでしょうか。・・・・この人がつぶしたんだという人が一人もいない。それは日本が官僚の国だからですね。軍人も全部官僚であります。」

三 以上をかなり乱暴に要約すれば、幕末から明治維新を経て大正に至る明治期を、開明的な国家発展期ととらえ、反面、大陸侵攻から敗戦に至る昭和前期を暗黒の時代として描く。その結果、日清・日露の両戦争がきわめて肯定的に評されるのに反して、アジア太平洋戦争は愚かで狂信的軍国主義者によって引き起された侵略戦争であり、明治期に築き上げた成果の破壊として認識される。明治国家はすばらしかった、ところが昭和になりバカな軍部が「この国」ぶちこわしにした、とする発想ともいえる。(尚、日本をめちゃめちゃにした張本人として軍人=官僚を挙げている点で、昨今の官僚バッシング、官僚司法を司法の病根とする議論と共通する。)
 しかし、日本が台湾に出兵したのは日露戦争の三〇年も前の一八七四年であり、日本駐屯軍が朝鮮王宮に侵入し、国母と呼ばれた閔妃を殺害したのが日露戦争の九年前の一八九五年のことである。明治国家をつくった「しっかりしたひとびと」が健在だった時にである。
 さらに問題なのは、戦争責任の所在について、天皇の戦争責任がすっぽり抜落ちている点である。司馬氏の論で行けば、試験制度によって登用された官僚=軍人、あるいは日比谷で暴動を起した群衆になりそうである。
 しかし、近時の研究によって、アジア太平洋戦争中、天皇が個別の軍事作戦(行動)についてまで指示を出していたことが実証的に明らかにされてきている。まさに名実ともに天皇=大元帥だったのである。また東京裁判が、戦争責任を一部の軍人に負わせ、天皇の免責と天皇制度の存続のために、マッカーサーと天皇(及びその側近グループ)が緊密な連携関係にあったことも明らかにされている。
 司馬氏の「この国のかたち」論、あるいは、その歴史観(司馬史観)は、西尾幹二や藤岡信勝らの手になる「新しい歴史教科書」や戦後補償裁判などの課題に取り組むに際して、ゆるがせにできない問題点をはらんでいるのである。 四 確かに、司馬氏の主観的意図は、あるいは違っているのかもしれない。しかし、藤岡信勝らの新しい教科書を作る会が、司馬史観を下敷に「自由主義史観」を唱え、司法審が司法制度改革を、行政改革等に続く「この国のかたち」の再構築の支柱として課題設定している以上、「この国のかたち」論は、司馬氏の手を放れて独り立ちしたというべきである。
 最後に、「この国のかたち」と言うことが、天皇の免罪を意味するものではないともいえよう。しかし、「子供」というか「子ども」というのか、「大東亜戦争」というか「一五年戦争」あるいは「アジア太平洋戦争」というか。言葉は単なる記号ではない。言葉にはその言葉固有の歴史があり、社会的意味を有している。場合によっては、その言葉を使うことがある種の歴史認識を示したり、思想の表明となる。
 やはり「この国のかたち」という言葉は使ってはならないのである。


小泉純一郎氏のルックスについて考える

−夏休みネタ枯れ救済エッセイ−

神奈川支部  小 賀 坂  徹

 政治家の顔というのに興味がないわけではない。というより、否応なしに強烈なインパクトを与えてくれる「顔」は存在する。全盛期の小沢一郎氏などがその典型だったが、最近は随分油が抜けたような感じがする。

 ここ最近で一番インパクトがあったのは野中広務氏だった。もう、何というか陰謀狡猾腹黒恫喝寝技裏技権謀術数といったものを、ものすごく分かりやすく顔中に表現していてくれた。半年位前までは、ほとんど毎日あの顔がマスコミに登場していたから、自民党政治というものが、それだけで実に分かりやすかった。もう一方の主役だった森前首相の顔というのは、「ワシ、なーんも中身ないけんね。さあ、今夜も料亭料亭」てな感じで、およそ何のインパクトもなかったものだから、野中氏の顔がよけいに際だっていて、「お前はなんもせんでもよか。ワシがぜーんぶしきったるけん」(どこの方言か分からなくなってきたが、何となくそんなイメージなのだ)という二人の関係が手にとるように感じられたのだ。

 さて、時代は変わって(といっても、僅か数ヶ月!なのだが)小泉純一郎氏である。私、これまでこの人の「顔」というものを意識したことはなかった。何のインパクトもなかったというより、髪の毛がぼさぼさのうだつの上がらない、まあはっきり言って影の薄い政治家のひとりでしかなかった。それが、いざ首相になって国民的人気ってものを纏うようになると、あのぼさぼさ頭が「らいおんヘア」になり、ポスターが飛ぶように売れているというのだから、何だかなあと思う。

 ぶったまげたのは、先日のジェノバサミットの時のイタリアの新聞報道である。小泉氏の顔写真と俳優のリチャード・ギアの顔写真を紙面にならべ、小泉氏を和製リチャード・ギアとやったのである(と、テレビで何度も見た)。いやあ、まいりましたね。イタリア人の感性ってのはスゴイもんだなあと驚かざるを得ない。私なんかは、どこをどう比べても、小泉氏とリチャード・ギアとの共通点は見いだせないのだが、違うのだろうか。

 さらに卒倒しそうになったのは、その事を聞かれた時の小泉氏のコメントだ。小泉氏曰く「それはリチャード・ギアじゃなくて、リチャード・ギャーでしょ」!!!
 おやじギャグとか、おやじ臭いなどと、「おやじ」がバカにされる風潮というものに反発を感じていた私だが、さすが首相ともなるとレベルが違う。なんたってリチャード・ギャーだもん。あたしゃ心底まいりました。しかも、そのシーンが何度も放映されるもんだから、選挙前にホントにこれでいいんかいなと妙に心配になってしまった程だ。

 それに先立つブッシュ大統領との日米首脳会談の時に、小泉氏が着ていたラルフローレンの紺のシャツもバカ売れしているそうだ。森前首相のテンガロンハットにゴルフウェアよりはましかもしれないが、そう大騒ぎするような服装でもないと思うけど。ねぇ、小泉首相ってホントにかっこいいの?小泉ファンのI事務局次長(代々木総合法律事務所所属)、ホントにこれでいいのか?

 地位が人を作るということがあるのかもしれないが、どっか常軌を逸してやいまいか。実体を離れてイメージだけが先行するというのはままあることではあるが、これほど極端な例を私はしらない。国民の政治的閉塞状況が極限に達していた事が成せる業である、という識者のコメントにいちいち納得はするものの、それにしても何で?という思いを禁じ得ない。小泉氏がリチャード・ギアに見えてしまう世の中てのはホントに狂ってると思うし、国中が集団催眠状態に陥ってるみたいだ。

 断じて言おう。小泉氏はリチャード・ギアには全然似てないし、らいおんヘアはただのぼさぼさ頭でしかないのだ。みんなぁ、目を覚ましてくれ!

 八〇周年を目前にひかえて、団のイメージを革命的にアップする戦略・戦術はないものなのかなあと、ふと考えてみたくなる参議院選挙の結果ではある。