<<目次へ 団通信1032号(09月11日)
          連載八〇周年に寄せて その2
  馬奈木 昭雄 自由法曹団の一員として
  黒田 勇 事件が陪審員を創る ー私のライフワークー
長岡 麻寿恵 住友生命ミセス差別訴訟、勝利
吉田  栄士 新横田基地公害訴訟 第一審ー結審
松村 文夫 夏の甲子園 塚原学園一勝に沸く
中野 直樹  峪間の運そして決断のゆくえ(三)

連載 八〇周年に寄せて その2

自由法曹団の一員として

福岡支部  馬 奈 木 昭 雄

 大きくなったら団へ入るんだ
 「大きくなって弁護士になったら、自由法曹団に入る」、なぜか私は子どものころ、確たる根拠もなしにそう思い込んでいました。そもそも本気で弁護士になるなど思ってもいませんし、自由法曹団が何たるかも知らなかったのですから、そう思い込むこと自体がおかしいけれど、しかしその思いは子ども心にしっかりと根付いてしまっていたのです。

 おそらくその思いは、私の父の何気ない一言にあったのだと思います。父は営林署の職員でしたが、政治にはまったく無関心、組合活動にもまったく無関心だったと思います。もっとも父は退職する日まで、ついに組合をやめず、組合員のままでした。従って、課長などの役職も断って、ひら職員のままでした。
 この父が何を思ったのか、ある日、まだ小学生の私に突然、「今日職場に自由法曹団の弁護士の先生がきて、話をしていった。とてもすばらしい話だった」と言ったのです。それ以上くわしい話はしませんでしたが、私の子ども心には、「弁護士=自由法曹団=すばらしい」という「呪文」が刷り込まれてしまったのです。
 「大きくなったら機関車の運転手になるんだ」という思いとまったく同じに、私は「自由法曹団に入るんだ」と思い込んでしまったのでした。

大衆的裁判闘争をめざして
 「沖縄のオバアたち炎天下の処分場反対運動」、大きな見出しです(朝日新聞八月二三日付)。「愛する山河に処分場許さないサア」、ごみ最終処分場反対のため、辺戸岬の八三才を先頭にオバアたち約三〇人が予定地に座り込み、もう五〇日をこえた、という記事です。「ああ、ここでもがんばっている仲間がいる」、私は胸が熱くなります。私はこの一〇年、九州の団の多くの仲間と廃棄物問題に取り組んでいますが、一緒に闘う住民の仲間はそのほとんどが山村のお年寄りです。自分が生れ、育ち、生活の糧としてきた山河が、ごみすて場やごみ焼き場として乱暴にふみにじられようとしてる。これはどうしても許すことができない。自分達が先祖から受けついできたとおりの姿で、子孫にきちんと無傷で手渡すのが自分の孫や子に対する義務だ、自分の生活の場を荒らして金にかえるなど、とうてい許されない犯罪だ。みんなそう固く思い定めています。これまで「お上」は無条件で正しい、「お上」の言うことにはただちに従うものだ、と何の疑問もなく信じてきた人達でした。しかし自分達の山野を守ろうと決意し、当然お上もその気持ちをわかってくれると確信して、県庁にはじめて陳情に行った時、現実に目の前に見た行政の姿は、信じがたいほど醜悪そのものでした。「お上は私達を守ってくれる味方ではない。本当に頼るのは自分自身と、一緒にがんばる仲間だ」という認識に達するのははやかったのです。

 私が一緒に取り組んだ鹿児島県鹿屋市の産廃処分場建設反対運動では、住民は予定地に監視小屋をつくり、工事のための車両がくるとサイレンをならして、農作業をしている仲間を呼び集め、集まってきた五、六〇人で工事をしないように説得活動を続けました。そのため、工事は丸一年間まったくできませんでした。一年経過した時点で、警察から警告を受けたので、差止の仮処分を申請しました。
 
 七ケ月の審理で、住民の安全性が確保できないという理由で差止を認める決定を得ることができました。この時も先頭にたってがんばったのは女性達でした。

 私の住む久留米市でも、高良内でやはり市民のごみすて場建設が問題になっています。高良内のオバア達は本年一月四日から今日まで、座り込みを続け、すでに二〇〇日をこえました。実は五月二五日に差止訴訟の敗訴判決を受け、現在控訴中ですが、住民の信念は少しもゆるがず、断固として座り込みを続行しているため、工事はできないままです。市は住民に対し妨害排除の仮処分を行い、さらには予定地への立入を行った住民に対し、一日三万円の支払いを命じる間接強制の決定まで得ましたが、「オバア達」は日焼け防止のためにタオルで顔をおおい、強い日差しを防ぐためにサングラスをかけて、座り込みを続けているため、人物の特定ができない状態です。夫が「うちのカアちゃんがどこかわからん」と言っています。市長は事業が進まないことにたまりかねて、それまで拒否してきた話合いを申し入れており、現在協議を行うため九月まで休戦することになりました。市民の中では市のやり方に対し厳しい批判の声が強まっています。私達は、たとえ敗訴判決を受けてもたたかいを継続し、市民の共感を広げることができる運動に取り組む力量をつけてきたのです。

 私は新米の団員として取り組んだ水俣病訴訟以来、行政や大企業の横暴な行為に対し、被害者、住民と一緒になって三〇年にわたって取り組む中で、ようやく「大衆的裁判闘争」と言われる内容が実感としてハダで感じることができるようになってきたと思えます。若い団員の仲間と一緒に、団のこれまでの貴重な闘いの教訓を受けついでさらに新たな被害者、住民と一体となった取り組みをめざしていきたいと思っています。


事件が陪審員を創る ー私のライフワークー

北陸支部(富山県)  黒 田   勇

 一九八八年に私は、自由法曹団員の形は「ふつふつたる情熱、斬新な知性、たくましい行動力」と言った。(参考・一九八八年団への招待「連続殺人の無罪」)。「これは、民衆弁護士は、大衆運動の運転手と、砲手(弁士)と情報手を、一人で三つの任務をこなすものだと言う意味だった。」(参考・二〇〇一年原田明夫検事総長インタビュー「新しい時代の法律家」)。そして「今」を報告する。

 北陸市民の会の事務局長になりたくてなった。一九九九年三月北陸「統合」運動に夢中になり、北陸三県にまたがる組織「当番弁護士を支援する会」を呼び掛け人、世話人一二名で結成した。しかし、今まで座談会を六回しか各地で開けなかった。しかし、福井新聞、北国新聞、北日本新聞を毎日購読し、「地方自治と分権推進」に関する考え方は急に大変した。
 審議会から意見を求められ自覚する。「君の事件は第一審で一九三回の公判を要し、約八年も日時を要し、証人数で一八七人を調べたのは何故か。その理由を述べよ」と二〇〇〇年七月に問われた。この年の一月より当番弁護士の座談会用の冊子五〇冊「私小説 富山・長野連続誘拐殺人事件、1、2、3、4、5、6部、手づくり裁判運動」を、常に持ち歩いていた。そこで司法制度改革審議会の皆さんに読んで見てもらえればと、ワンセットを送り、思うところの短い論文を提出した。このとき、私は死刑事案における刑事陪審を実現する運動の最前線に自分が存在していると自覚する(参考・二〇〇一年新聞報道「欧州会議が日本へ死刑停止要請」)。

 大衆的裁判闘争で示された大衆の叡智こそ、陪審制実現の基礎と言えよう。平成九(一九九七)年八月、伊豆半島の合宿に参加し、それがはじめで、団の「二一世紀の司法の民主化のための提言案ー財界や自民党の目指す司法改造か、国民のための司法の民主化かー」が出来上がったと思う。その九四頁に「裁判の顔である事実認定を国民の討議と良識にゆだねることは、私たち自由法曹団が取り組んできた大衆的裁判闘争の経験からも十分に可能だと考える」とある。その通りでないかと思った。そこで大冊子(六四〇頁)「二〇〇〇年改訂版富山・長野連続誘拐殺人事件」を完成させた。一九八九年の自作の私小説原稿(参考・一九九一年サンデー毎日「私小説の凄い中身」)と、冤罪被告人の日記と、支援する会の母の手記と手づくり裁判運動の記録写真と、連続公判詳録(新聞)を材料にして、読む人には退屈させないように編集した(但し、非売品)。陪審制を実現する基礎体験と基礎理論を研究したかった。将来の陪審員を育てるのが、現在の法曹人の重要な仕事と確信した故に、沢山の作業を楽しくやれた。

 創造的なものを完成させるには幾多の実験と失敗を要する。今、手元に持ち歩くチラシというのは「北陸ロースクール座談会(第五回)、話題 陪審を体験し、死刑がなくても地域社会の秩序を保つ、自信を育てよう。 場所 裁判所法廷。

 平成一二年七月〇〇市の暴力団〇〇一家の組長夫婦が自宅で射殺された。本件を裁く司法は、健全な社会常識をおこなう司法であるべきである。謀殺の主役は被告人以外に存在する」等々の内容である(参考・暴力団事件の弁護はどのように行うか、若松芳也論文)。私立の起訴陪審団を結成した。経験から学者と作家と弁護士を団の世話人と位置している。平成一四年の春には、私立の陪審団の裁決に基づき、現の暴力団組長を強盗殺人の罪名で逮捕し、検察官において起訴させることを目指している(参考・弁護人の冒頭陳述書「裁判所御中」)。この際に、弁護士の世話人として、座右の銘(参考・フランクリンの標語)の一五の標語と「孫子」(参考・岩波文庫・金谷治訳)を励行している。

 いずれにしろ、陪審制を実現できれば、それによって司法権は実質的に地域住民の手に移るので、北陸地方の自治の根幹を形造ることになり、また、法律の文言や解釈論が市民にもわかる具体的で、平明なものになる。だからこそ、私のライフワークなのだ。それがこの世の中で一番に楽しく立派なことだと信じている。
(参考資料)自由法曹団への招待「連続殺人の無罪」(一九八八年)、サンデー毎日「私小説の凄い中身」(一九九一年)、座右の銘「一五の標語」「孫子」談(一九九二年)、冒頭陳述書「富山地方裁判所刑事部御中」弁護人(二〇〇一年)


住友生命ミセス差別訴訟、勝利

大阪支部  長 岡 麻 寿 恵

1、住友生命のミセス従業員一二名が、未婚女性従業員と賃金の査定、昇進・昇格において差別されているのは違法、と会社を訴えた事件で、本年六月二七日大阪地方裁判所第五民事部(労働部、松本哲泓裁判長・川端公美裁判官・西森みゆき裁判官)は、原告らの請求を認め、会社に対し差額賃金・差額退職金・慰謝料・弁護士費用等合計約九〇八五万円の支払を命じる判決を下した。

2、住友生命では、女性労働者が結婚すると公然たる退職勧奨が行われ、これに応じない女性に対しては、仕事を取り上げたり転勤させる等の嫌がらせがなされていた。それでも退職せずに働き続ける既婚女性には、会社は著しく低い評価の査定を行うことにより、賃金、昇進・昇格において未婚女性と差別してきた。

 被告会社に提出させた賃金台帳によれば、平成八年三月在籍の昭和三三〜三八年入社の内勤女性職員中未婚者は八〇・二%が昇格しているのに対し、既婚者はわずか二名(六・三%)であり、この二名が会社に対して改姓届けを出さず、結婚の事実を会社に知らせずに働いていたことを考えれば、既婚者の昇格率は実質〇%であった。また、原告らは全員、結婚ないし出産後は査定において一貫して五段階評価の二(全体の一〇%で、実質上最低評価である)に位置づけられてきた。

 このような明らかな差別に対し、被告会社は「個別の事情に基づく評価である」と主張すると共に、「既婚女性は産休・育児時間を取得したり、家庭責任を負うから、仕事の質・量において未婚女性とは自ずから差が生じるのであって、査定や昇進・昇格に差が生じたとしても、それは既婚女性特有の事情によるものであるから違法ではない」と主張するに至った。
 
 この会社の主張は、労基法上の権利行使を不利益に扱い、既婚女性を一律に低く査定する点で、いわば差別の自白であり、原告らを低く査定する個別の理由に窮するまでに会社を追いつめたものとも言えたが、弁護団一同は非常な危機感を抱いた。というのは、会社はこの主張を「男性は仕事、女性は家庭」という役割分担意識と組み合わせ、地民五部が昨年下した住友電工判決に乗って、この性的役割分担論を一歩進んで更に差別的に利用しようとしていることが明らかだったからである。住友電工判決から見れば、地民五部の判断は予断を許さないものに思われた。

3、判決は、「被告会社の既婚女性の勤続を歓迎しない姿勢は被告会社の管理職従業員の姿勢となっていた」「既婚女性であることのみをもって一律に低査定を行うことは、人事考課、査定が、昇格、非昇格に反映され、賃金等労働条件の重要な部分に結びつく被告会社の人事制度の下では、個々の労働者に対する違法な行為となる」と判示した。
 
 そして産休の取得や育児時間の取得を以て「低く査定したのであれば、それは労基法で認められた権利の行使を制限する違法なものというべきで、その場合、被告会社はその責任を負うことになる」と(当然のことながら)明確に論じた。更に、既婚者と未婚者では労働の質・量に自ずと差異が生じるという会社の主張に対しても、「一般的に既婚女性の労務の質、量が低下するものとして処遇することは合理性を持つものではない。上記主張の産前産後の休業、育児時間を取得したことによって労働の質、量が大きくダウンすると言う意味が、休業期間、育児時間に労働がなされていないことをもって労働の質、量が低いというのであれば、それは法律上の権利を行使したことをもって不利益に扱うことにほかならず、許されない」と一蹴した。
 
 また、原告らが育児のために定時に退社したため他の従業員の負担増となっていた旨の会社の主張に対しても「残業命令違反があったものではないから、これをもって人事考課上のマイナス要因とすることは相当ではない。…相対評価をする場合であっても、普通以下の評価をすることは許されるべきではない」と明確に判示した。
 
 そして各原告について低い査定をされる事情があったかどうかを検討し、標準者としての評価に至らなかったことに合理的事情はないとして、会社による差別を認め、会社の不法行為責任を認めた。
 
 しかし、判決は一般指導職1号への昇格しか認めず(その後は年功序列の最低保障制度が取られていないと判示した)、賃金についても (1)文書提出命令を通じて会社側に賃金台帳を提出させ、昇格差別の実態を明らかにできたこと、(2)原告らが既婚者のネットワークを長期に亘って作り続けたおかげで、原告以外の全国の多数の既婚者から退職勧奨、いやがらせ、賃金・昇進昇格差別の実態を陳述書にして提出できたこと、(3)個別の働きぶりを立証し、様々な褒状・ランキングなど原告らの働きぶりを証明する書類を提出して、上司の非難に丁寧に反論し、個別立証の分野で圧倒したこと、(4)本社ビルや裁判所でビラを撒き、争議団とも共闘して世論に訴えたこと等が本件の教訓となろう。特に(1)ないし(3)の結果、会社は一律に既婚女性を低査定していることを自認せざるを得なくなったといえよう。
 いずれにせよ、次の舞台は大阪高裁に移った。一審判決の不十分な点を是正させたい。しかし、女性だからと一律に補助職に採用し補助職に一生固定することは、「女性は家庭」の当時の社会認識からみて公序良俗に反しないと判示した住友電工判決は、既婚だからと女性を一律に低査定することは違法で「女性は家庭」の当時の社会認識は理由とならない、と判示した本判決と、全く論理的に矛盾していると思うのだが、裁判官は一体どう考えているのだろうか。


新横田基地公害訴訟 第一審ー結審

東京支部 吉 田 栄 士

横田基地の騒音訴訟が七月二七日に結審した。提訴したのは一九九六年四月一〇日だったので、結審まで五年三カ月かかったことになる。新訴訟を提起するため、原告団結成の準備の運動に二年間かかった。運動開始からみると丁度七年になる。この運動で約六〇〇〇名という大勢の原告を結集させることができたが、この訴訟は、原告数の多さと、国だけでなくアメリカ合衆国をも相手にしたというのが特徴である。アメリカ合衆国に対する「対米訴訟」は、一、二審敗訴で、現在最高裁に係属中である。今回結審したのは、分離された、国に対する訴訟の第一審である。

二 軍事空港騒音訴訟は新しい時代に入っている。横田基地に先んじて小松基地が原告一八〇〇人で新訴訟を提起し、その後、横田基地が六〇〇〇人、厚木基地が五〇〇〇人、嘉手納基地が五五〇〇人と新訴訟が続いた。これら大型訴訟もそれぞれ進行し、小松が六月末、横田が七月末に結審を迎えた。

三 国はこれら大型騒音訴訟に対して脅威を覚え、ある時期から徹底して訴訟を妨害する方策を取り、請求に対しては損害賠償額の軽減、免責を求めてきた。まずは被害立証について個別立証方法の採用要請、次いで危険への接近についての免責論の振りかざし、居住経過についての個別立証要求などなどである。危険への接近については多数の原告本人尋問を強行され、居住経過を立証するために、住民票、戸籍の附票など全員について提出させられた。住民票などは苦労して集め切ったが、これを提出しても国の認否は「不知」であった。住民票だけでは実際居住しているかどうかはわからないというのが、国の不知の理由である。国の土俵で勝負するとなると、原告間の結束は危ぶまれ、またこれからの原告は集まらないだろう。それが国の作戦である。どちらの土俵で勝負するか、横田基地訴訟の判決はそれを決める重要な指針となる。

四 小松、嘉手納、厚木、横田の弁護団は「空港訴訟弁護団連絡会」を結成している。節目節目に空港弁護団会議を開き、また、各訴訟の提訴、結審、判決の折に応援に行っている。今回の結審についても、各弁護団と公害弁連に応援陳述をお願いした。各弁護団からは三人ずつ九人も応援に駆けつけてもらった。それで、結審前夜の七月二六日、空港弁護団会議を行なった。終了後、飲み過ぎない程度に懇親会をし、翌日の結審法廷を迎えた。

五 結審法廷は大成功だった。「静かな熱気」が二時間の間あふれていた。法廷は八王子支部で一番大きい四〇一号法廷で、傍聴席は八八席。途中休憩の際に原告傍聴者の総入替えを認めてもらった。陳述時間は二時間。原告代表四人、応援陳述が公害弁連を含め四人、弁護団が一〇人と一八人が原告の要望と主張を述べた。
 
 「静かな熱気」と言ったが、法廷の熱気というのは、整然としていてもあふれてくるものだなと思った。傍聴席は満席であるのに、無駄な話や動きはない。真剣な眼差しが陳述者に注がれている。物音ひとつせず、緊迫した雰囲気が二時間絶えることがなかった。
 
 国側の代理人席はまばらでざわつき、真剣さもなく、とてもこの重大な裁判を勝とうという姿勢は見受けられなかった。この法廷風景ひとつ見ても、この裁判は原告側が圧倒していた。判決期日は「追って指定」ということにはなったが、年内判決も十分有り得る。この夏、秋の運動が勝負である。当面、原告団の結束に力を注ぎ、一〇月二一日に行われる「横田基地訴訟・秋の集い」の成功をめざす。
 
 これからも力を抜く事なく、最後まで頑張ろうと思う。


夏の甲子園 塚原学園一勝に沸く

長野県支部  松 村 文 夫

 今年の夏ほど甲子園への長野県代表を応援したことはない。その塚原学園は部員が三年生一三名、一年生四名の計一七名しかいない。
 
 私は、中島・上條団員と共にここ二年、塚原学園労組(私教連)から依頼されて、不当労働行為救済申立や解雇に対する仮処分申請・本案訴訟を担当している。
 
 この女性理事長兼校長はワンマン経営を押し通そうとして、組合敵視・労働条件切り下げ・解雇を続けている。
 
 これに対して、組合が反対して立ち上がると、すぐに募集停止を言い始める。一昨年も停止を発表したために(その後、撤回して募集し出したが)、応募生徒(現二年生)が激減し、野球部員は零となってしまった。昨年も不当労働行為救済申立をすると停止を発表したために、組合は和解として申立を取り下げしたので、かろうじて野球部員(現一年生)四名が入った。

 今年も解雇に対して、本案訴訟で争っている(仮処分は認定決定を勝ち取っている)が、また募集停止をちらつかせていた。ところが、甲子園出場となり学園が資金難であることが報道されると、松本市民・長野県民が幅広く支援した。
 第一試合の二回戦には田中知事も上條団員も甲子園まで駆けつけて応援した。わたしは延ばせない裁判があったために、テレビにかじりついて応援した。試合は優勢に進んでいたのに、七回に大逆転され敗色濃厚となったが、最終回再逆転して一勝した。
 田中知事のぬいぐるみ事件とともに、塚原学園とその野球部の存続危機が広く報道された。これに対して、全国から激励と注目が集ったために、今年は募集停止を言い出さないのではないかと思われる。
 わずか七名の組合員は給料がわずか十数万に減らされても、好きな教育の職場を存続させるために団結して頑張っている。甲子園出場は明るい展望を与えてくれそうな気がしている。


峪間の運そして決断のゆくえ(三)

東京支部  中 野 直 樹

一 川面を打つ雨粒が白飛沫をあげ、白く濁らせるほどの降りとなった。河原石を踏みながら下るが、川が蛇行し、山道の取りつきまで繰り返し徒渉しなければならなかった。もともと、川幅の広いところで脛に当たるほどの流れであったが、川を横切るごとに流水に勢いがついていることに気づいた。泥濁りが混じってくると一気に危険水位が襲ってくる。上流部の保水の力に神頼みながら、急いだ。膝が隠れるほどの水かさになったころ、見込みの三〇分以内に右岸の山道にたどり着け、安堵した。
 
 山道の始点は取水口となっていた。小和瀬発電所までの導水路の上が山道となり、渓流靴を通して、ゴボゴボと水音が響いてくる。この地点と発電所までの落差を五キロ流れ下る水流のエネルギーが発電タービンを回転させる仕組みとなっている。
 
 あたりを煙らせるほどの容赦のない雨となり、帽子のつば、雨具の袖や裾から、雨水が筋を引いて流れる。俯いて、ひたすら歩くことが二〇分ほど続いた。やがて小降りになったかと思うと、カーテンを引くような鮮やかさで陽光が差し込み、重く垂れた草葉を光らせた。樹間から、対岸に立ち込めていた霧が勢いよく上昇し、岩壁に白く筋を引くにわかの滝が見えた。そして雨音にかき消されていた川音が高くこだまして迫ってきた。

二 午後二時、辿ってきた道は川から離れ、急勾配の登りとなった。二〇メートルほど登ったところで、待てよ、となった。導水管は壁のなかに消えていた。地図を広げると、この山道は私たちが遡行してきた中ノ又沢の下流方向ではなく、標高八六〇メートルの石明神森につきあげて、山越えをした向こうの湯ノ又沢に下りてしまうことがわかった。それでは私たちの車に到達するまで二〇キロ近い回り道をしなければならない。
 
 この道をあきらめ、足元を流れる小沢を下り、中ノ又沢本流に真向かい呆然とした。川幅一杯に赤茶けた濁流が轟音をあげている。一メートル以上水位があがっているのではなかろうか。遡りくるときに両岸がそそりたった回廊の峪であることがわかっている。退路に詰まった三人は腰を下し、突然の驟雨を呪い、山道に出るのがあと一〇分遅れていたならば、と峪間のおそろしさを口にした。
 
 水位が安全域まで下がるのを待つとしても、川下りに一時間半は見込まれるので、三時間以内に水が引くことが条件となる。それがずれ込むと食料もテントもない野宿コースとなる。重い気分で、山越えか、待つか、の決断の思案を重ねているところに、オーイと呼ぶ声がした。思わず辺りを見まわすが、もちろんこんな所に人がいるはずもなく、風のいたずらであろう。ところが間をおかず今度はもっと明瞭な呼び声が響いた。そして、藪のなかから、ぬうッと人が出現した。鉈を腰に、柄の長い鎌を手にしている。

三 先方の四〇くらいの人は、いや驚かしてすまないと言いながら、近づいてきた。続いて次々とブッシュを掻き分けて人が出てくるのにまた驚ろかされた。六人となった。
 
 当然こんな所で何をしているのかと尋ね合うことになった。というよりも、先方はすでに、車止めにある大宮ナンバーのパジェロとテント、湧水につけてあるビール缶の情報をもっており、私たちをその持主の釣り人と人別していた。彼らの話では、中ノ又沢の車止めからこの地点まで、右岸の山腹に作業道をつけるために、その位置を定めにきているとのことであった。車止めまでの新しい草刈跡はこの人たちの手になるものであった。
 
 彼らも予想をしない雨であった。彼らもここから川を伝って帰る予定であったらしく、様子を確かめにいったが、直ちに無理だと判断していた。
 
 彼らは、私たちに、今、目印をつけてきた藪を戻るから附いてこいと誘った。私たちは、迷うことなく頷き、訪れた幸運に感謝した。二度目の安堵感が心を軽くした。

四 二時二〇分、彼らの後ろから藪に飛び込んだ。雨露がばらばらと落ち、たちまち全身を濡らした。彼らについて踏み跡を辿ることは難儀だった。彼らのつけた道しるべは枝落とし程度で、足元には手を加えていない。急斜面で上を向こうとする潅木の幹が複雑に捻れ、交錯し、足に絡む。たっぷりと水を含んだ土はぬかるみ、フェルト底の渓流靴がズルッと滑る。自然観察をしている余裕などない。ところどころに小沢を横切らなければならない。絶えず水の流れる岩盤を覆う草付きの土は特に要注意で、滑って転倒すると、五〜六メートル先から、おそらく一〇〇メートルほどの断崖絶壁に飛び出すことになる。彼らはこのような危険な箇所では、私たちのために足置場を切ってくれ、ときには足を差し出し踏みつけて歩ませてくれた。彼らは鋲を打った長靴を履いていることもあるが、実に身軽く歩む。一人は七〇才後半であった。
 
 その腹の大きさでは俺たちの倍も沈むだろう、と話の種にされていた岡村さん、大森さんは次第にくたびれ、滑り転ぶことが多くなり、泥まみれとなった。列が間延びし始めた。四〇分ほど経過したところで、先行するグループと二人を支援する人たちに分かれることになった。私は懸命に先行者の後を追った。彼らは、田沢湖町の土建会社の社員だそうだ。二〇年来冬場には東京や埼玉に出稼ぎに出ているという。どうりで秋田弁であるものの、私にも理解できる話し言葉である。昔の山棲人も拓かなかった、このような険しいところに取り付けようとしている道がどのような用途と効用をもっているのかわからぬが、彼らの今の糧になっている現実がある。作業道との説明だが、人の幅にとどまっていてほしい、そんなことも考えながら、つま先の痛みを堪えて藪こぎを繰り返しているうちに開けた山道に出た。

五 彼らどうしで話している本格派秋田弁は聴き取れない。平坦な山道の右側に丸太が積まれている箇所にさしかかると、彼らはむにゃむにゃと言葉を交わしながら丸太の周りを探り始めた。私には何をしているのか見当がつかない。やがて目当てのものが見つからなかった様子で道に戻ってきた。尋ねると、昨日ここに赤マムシがいて捕らえ損ねたとのことである。蛇が大苦手な私は、あわてて自分の足元に警戒の眼を走らせた。ここからしばらくマムシ談義となった。言葉数少ない説明と幾度もの問い返しで、大略、赤マムシは仲間内でも奪い合いとなる好物であること、生皮を剥いで一〇センチくらいに輪切りにしてそのまま口にいれると何ともいえない甘ったるい味が出ることを理解した。もちろん私は一つも同意できなかった。

  四時ようやく車止めに着いた。彼らは湧水で道具を洗ったり、刃を研いだりした後、帰り支度を始めた。なかなか後続が到着しない。二〇分ほど過ぎて彼らの仲間だけ現われた。安全な山道に出て、呼吸を整えるわが仲間二人と別れてきたという。彼らが車で去ってから一〇分ほどして、岡村さん、大森さんが疲労困憊し切った顔で帰着した。六〇才を目前にした二人には過酷すぎるエスケープルートであった。
 

 天は我知らず顔で夕暮れの準備をはじめ、西日が名残りの小さな陽だまりをつくっている。本流を覗くと、かすかに濁りを残す平水が穏やかな瀬音をたてていた。(終り)