自由法曹団通信:1065号        

<<目次へ 団通信1065号(8月11日)


宇賀神 直 残暑お見舞い申しあげます
平 和元 有事法制阻止7・20
有楽町マリオン前リレートーク報告
西 晃 有事法制阻止
大阪支部の活動に関する中間総括について
佐々木 新一 有事立法・埼玉の取組み
坂本 修 小島成一先生の「お別れ会」に御参加ください
清水 洋二 清水恵一郎弁護士の逝去を悼む
水野 幹男 斉藤洋弁護士への追悼
齋田 求 市民と共同した司法制度改革への取り組み
〜陪審裁判劇クリスマスイヴ殺人事件〜
山田 泰 敗訴者負担に反対する取り組みのお願い


残暑お見舞い申しあげます


団長  宇 賀 神  直

 団員の皆さん、暑いなか弁護団合宿、原稿書きの仕事や、登山や旅行などの夏休みをお過ごしのことと思います。昨年一〇月の八〇周年記念行事、全国総会、同時多発テロとアメリカのアフガン攻撃と自衛隊派遣の特措法反対、有事法制、司法改革、憲法問題、リストラとの闘い、後継者問題などなど課題は山ほどあり、本当にあわただしく月日が過ぎて、今年も夏を迎えました。秋からの闘いはいち段と厳しいものがあり知恵と力を出しつくすことが求められています。
 そんなわけで団員の皆さん、この夏は心身ともにリフレッシュしましょう。リフレッシュするにも工夫がいるので面倒くさい人は気ままにあてもなく電車に乗って窓の外の風景を眺め、また、駅ごとに乗ってくる人と言葉を交わすのも案外面白いものです。七月二〇日から九月一〇日まで「青春18切符」が使えます。この切符一回分で一日乗り放題、どの駅で降り又乗っていいのです。特急、新幹線は駄目、快速電車はオーケイ。何処かの駅で降りて散策し、次の電車に乗り、気にいったら安いホテル、民宿などに泊まるのです。僕は家内とこれを利用しています。飯田線のノロノロ電車の駅には本当に鄙びたのがあり、旅の心を和らげてくれます。一日分二五〇〇円、一枚五回分でどの駅でも売っています。一枚で五日間の旅が出来ます。二人で出かけると二日分を使い一回分が残ります。
 さて、八月常幹会議は休みですが、委員会は行なうものもあります。九月常幹会議は総会準備を始めたくさんの議題があります。多くの常幹団員の出席を御願いします。
 最後に今年の夏はことのほか暑く、猛暑の日々が続くようです。ご自愛を重ねて申しあげます。




有事法制阻止7・20
 有楽町マリオン前リレートーク報告


有事法制阻止闘争本部  平  和 元

 七月二〇日、全国各地で延長国会最終盤に向けて、有事法制廃案を求める行動が行われた。東京においても、各地域連絡会よる工夫を凝らした宣伝が各所で繰り広げられていた。猛暑の中で、ぬいぐるみのパフォーマンスあり、風船配りあり、掛け合い漫才などなど。団本部は日本ジャーナリスト会議、MICとの三者共催の有事法制阻止リレートーク第二弾を有楽町マリオン前で挙行。
 午後一時、松平晃氏のトランペット演奏で始まったリレートーク。演奏中にトランペットがじりじりと日に焼けていくのが分かる。暑い。元日本テレビアナウンサーの小山田氏の司会で次々と車上での訴えが始まる。「非核・みらいをともに」の会、子どもと教科書全国ネット21、東京革新懇、シンガーソングライター(小野田桃子さん)、JCJ、MIC、日本山妙法寺、作家の早乙女勝元さん、民放労連、新聞労連、航空安全推進連絡会から航空乗務員さん、新婦人中央本部、そして弁護士多数、トーク者総勢二九名。参加者は総勢七〇名をこえた。午後一時から五時まで、作家、記者、編集者、教員、労働運動、婦人運動、シンガーソングライター、入れ替わり立ち替わりいろいろな訴えが続く。千葉恵子団員は子どもさんを脇に抱えながら、未来に希望を持てる社会にするためにどうしても廃案にと訴えていた。憲法学者の古関彰一教授は学生を連れてビラまきに参加。非常に大切な時期、夏の時間を有効に使いたいとのこと。トーク者は、各人日頃考えていること、いつもは言う時間のない、しかし言いたいこと、思っていることをそれぞれの語り口で話している。ビラをまきながら聞いているとついビラをまく手が止まる。退屈しない。中には「私は賛成です」と言って目の前に立つ人もいる。まじめに議論する人もいる。しかし、夏休みの初日。華やかな銀座の真ん中で、ビラの受け取りはやはり限られている。その中で、がんばろうと声をかけて通り過ぎる人もいる。
 五時、リレートーク終了。五時まで続けていたほとんど全員がビアホールへ直行。ご苦労様でした。有事法制廃案に向けて乾杯。





有事法制阻止
大阪支部の活動に関する中間総括について


大阪支部  西   晃

1、有事法制阻止への固い決意
 団本部は一月常任幹事会において、有事法制阻止のため総力をあげてたたかうことを確認し、二月一五日には、執行部並びに闘争本部の名前で「自由法曹団と支部・法律事務所・団員の総力を」とする呼びかけ文が出されている(団通信一〇四八号)。大阪支部では、一月に行われたアフガン難民調査パキスタン訪問団の一員である上山勤団員(前大阪支部幹事長)を講師にお招きして、二月六日に調査報告集会を成功させているが、その際にもアメリカの行う無謀な戦争に日本が一緒に参加する戦争法案が準備されていることを訴えた。そして二月の支部幹事会でもこの問題を「自由法曹団の存在意義を賭けてのたたかい」という位置づけで、大阪支部としても総力をあげて有事法制阻止に取組むことを確認した。
2、大阪連絡会、地域連絡会の立ち上げと全戸配布ビラ
 その後、三月から四月上旬にかけて民主法律協会事務局長を務める城塚健之団員や大阪憲法会議副幹事長の藤木邦顕団員を中心として、府下の労働組合や大阪安保、革新懇など民主団体とともに大阪における連絡会組織立ち上げの準備を続けた。その結果四月一六日、法案提出前日に「有事法制に反対する大阪連絡会」が発足したのである(団大阪支部鈴木康隆支部長、東中光雄団員らが代表委員に就任、藤木邦顕団員が事務局次長)。併せて各地域でも地域連絡会が次々と立ち上げられた。大阪連絡会立ち上げ後の各地域、事務所での運動は活発であった。大阪連絡会としての学習会、街頭宣伝、署名活動はもちろんのこと、各地域でもそれぞれ工夫を凝らした宣伝、署名活動が展開された。特に大阪連絡会として特筆すべきことは、有事法制の危険性を広く府民に訴える目的で、新聞折込ビラを作成し、五月下旬から六月初めにかけて、朝日・読売新聞を中心として府下約一八〇万世帯に配布したということである。この全戸ビラの配布に関しては、費用と効果という側面から連絡会内部にもいろんな意見があったが、何としてでも多くの府民に法案の危険性を知ってもらおうと決断したものであった。この全戸ビラに対する反響は大きく、多くの府民から「こんな危険な法案であるとは知らなかった」「なぜ、マスコミはもっとこのことを報道しないのか」などの声が寄せられた。そしてこの時期、各法律事務所においても、ほとんど連日の講師活動、宣伝、署名活動、デモや集会など活発に活動している。その一つ一つを紹介することはできないが、何としてでも法案阻止をするんだというエネルギーを感じる活動であった。
3、法律家六団体との共闘、そして大阪弁護士会デモ参加へ
 団大阪支部としては、右のような府下連絡会組織での活動とともに在阪法律家他団体とともに、立場の違いを超えて有事法制反対の一点でともに闘う姿勢を重視した。この点では六団体(民法協、国法協関西支部、青法協大阪支部、大阪社文センター、大阪労働者弁護団、団大阪支部)での共同アピール発表や、五月一六日には軍事ジャーナリストの前田哲男氏をお招きしての市民集会を六団体共催で大成功(一九〇名)させることができた。そしてさらにここでの共闘で得られたエネルギーが、大阪弁護士会を動かす形で、実に拘禁二法案以来一七年ぶりとなる弁護士会主催デモに結実することになったのである(この間の経過に関しては団通信一〇六〇号に城塚団員が詳細な報告をされているが、城塚団員、そして梅田章二団員の卓越した指導力とともに、大阪弁護士会人権委員会「平和と人権部会」での中西裕人団員、岩田研二郎幹事長はじめ弁護士会内で日ごろから地道に活動している各団員の活躍が極めて大きかったことは改めて確認したい)。この弁護士デモは当初の参加目標を超える四五〇名の参加を得て大成功した。佐伯照道大阪弁護士会会長はじめ役員が勢ぞろいしてデモの先頭に立つ姿は、マスコミ各社に報道され、世間に強烈にアピールするものがあった。この弁護士会デモには、鈴木支部長のポポロ法律事務所はじめ、お昼休みに(事務所を閉めて)所員総出で参加した法律事務所もいくつか存在した。
4 国会議員要請、自治体要請行動に向けた取組み
 今回の有事法制で重要な課題の一つは国会議員要請と自治体要請であった。この点に関しては大阪連絡会においても早くから活発な活動が行われていたが、団大阪支部としては本部からの要請に応えるべく、特に自治体要請に関して独自の取組みを行った。成見暁子団員をキャップに、大阪府はじめ府下の一八自治体に対して直接団員が訪問し、有事法制の危険性を訴えた。この取組みには、成見団員はじめ、太田隆徳団員、大阪法律事務所の城塚団員、北大阪総合法律事務所の橋本敦団員、藤木団員、有村とく子団員、奥野京子団員、中西基団員、堺総合法律事務所の平山正和団員、村田浩二団員、阪南合同法律事務所の山崎国満団員、半田みどり団員、京橋共同法律事務所の愛須勝也団員、天王寺法律事務所の中筋利郎団員、大阪中央法律事務所の小林徹也団員、池田市に新事務所開設をした村瀬謙一団員と私の一七名が参加した。さらに松原市においては、決議案審議に際して公聴会が開催され、藤木団員が有事法制反対の立場から意見表明を行った。この結果、長野県での成果には到底届いていないが、大阪府の大田房江知事のコメント(大阪連絡会からの要請に対する「慎重審議を求める」趣旨の連絡会宛FAX回答)が出された他、府下六市(吹田市、堺市、枚方市、泉大津市、和泉市、高槻市)において慎重審議を求める自治体決議があがるに至っている(このほか推進派提出にかかる慎重審議決議として門真市の決議がある)。また団本部が数次に亘って取組んだ国会議員要請行動や、中央での集会にも可能な限り参加した。
5、引き続き秋以降のたたかいに向けて
 右に紹介したものの他、労働組合の立場を超えて陸・海・空・港湾の一四労組が一日共闘を組んだ五月二〇日の扇町集会(七〇〇〇名)にも、それぞれの団員、事務所が積極的に参加した。これらの大阪支部を挙げての取組みは、全国の反対運動と呼応して今国会での有事法制阻止の大きな力となった。有事法制は残念ながら火種を残したまま秋の臨時国会へとたたかいの舞台を移すことになったが、団大阪支部では、この間の取組みで得られた成果と教訓を生かして、全国の団員、団事務所と力を合わせて、今度こそ有事法制を完全に廃案にするべくさらに奮闘する決意である。





有事立法・埼玉の取組み


埼玉支部  佐 々 木 新 一

 埼玉の取組みを報告します。支部では、有事立法国会提出の動きが現れた二月の支部幹事会に吉田健一団員をお呼びして、その骨格の学習を行い、大規模な講師活動を想定して、三月に内藤功団員による『講師養成学習会』を、「共同センター」と一緒にセットしました。参加者は内藤講師の詳細な講演によって、有事立法の危険性を理解する一方、参加者が三〇名程度に止まったことも真剣に受け止め、まずは民主的な団体・組織の中に一日も早く、この危険性を訴えかける必要性があると判断し、団員による無料の講師活動案内を諸団体のルートに配布しました。現在までに、一三〇箇所余り、参加者数三八〇〇名の講師活動を行なってきましたが、その半数は、講師活動案内によるものです(残る半数は直接団事務所、団員に要請があった学習会)。講師活動には、五〇名余りの団員の約半数が参加しましたが、その水準の確保のため、六月の幹事会では、「講師活動経験交流会」も行なっています。
 また、共同センターの呼びかけた毎週木曜日の昼デモ(旧浦和市内)にも、複数の事務所から毎回一〇名前後の団員・団事務所員が毎回参加しました。
 埼玉の運動の特徴は、各自治体毎に「共同センター」が作られ、それぞれが独自に宣伝活動を広げていきましたので、その節目に団員による講師活動がセットされていったことが目立ちます。
 埼玉の「共同センター」や参加団体は、協同・統一のうねりを追求し、共同行動の申し入れ等を行い、七月に社民党及び市民グループとの統一集会を持つことが出来ました。この動きにも団員が積極的にかかわっています。
 弁護士会としても、団員が複数執行部を構成している有利さがあり、定時総会で廃案決議を挙げ、対策本部を設置し、ビラまき(二回)、国会要請、学習会を行い、八月二〇日には、司法改革と併せて、有事立法について県内選出の民主党国会議員との懇談会を予定しています。弁護士会のビラまきは格段に受け取りが良いのが、参加者の感想です。
 今後の課題として、以下を念頭に置いています。
・いわゆる自覚的勢力に止まらず、広範な市民層へ学習会を広げる課題、弁護士会による講師派遣
・多様なスタイルによる反対運動等
・協同・統一を求め、県内での大集会を追求する課題
・条文解説にとどまらず、講演内容の水準を高める課題
・より多数の団員を結集する課題
 昨年の『テロにも報復戦争にも反対』の取組みも、かなり攻勢的に取組み、大宮駅頭で八〇名を超えるビラ・宣伝行動を団支部として成功させ(世論喚起には不十分で、弁護士会内でも十分に運動化できませんでしたが)、行動力を強めてきたことが、今回の取組みの初動を早める成果をもたらし、地域運動の前進が学習会講師要請の広がりにつながったものですが、今後の取組みは一層複雑さを増すことが予測され、同じ取組みで前進を獲得する保障はありません。知恵と工夫が要求されると思います。
 この間、五月二日には、憲法会議のコスタリカ映画上演が七〇〇名の参加で主催者の予想を越えた成功となり(これについて団支部の貢献はありません。若干の団員が奮闘しました)、六月二九日の司法改革をテーマとして模擬陪審劇も、青年の多数参加を得て四〇〇名で成功し(これは団支部が全力を上げました。)、意気が上がって(息もあがって)いる内に、創造的で実践的な行動提起が出きるかどうか。各地の団の水準が問われます。





小島成一先生の「お別れ会」に御参加ください


東京支部  坂 本  修

 すでに、FAXでお知らせし、『しんぶん赤旗』(七月三一日)でも報道されたことですが、小島成一先生が七月二七日、一〇時四六分永眠されました。
 先生は、一九七五年左肺上葉肺ガン手術、一九八六年前立腺ガン手術という大病をされていました。にもかかわらず、かつて正路喜社争議、日本製紙争議、日フィル争議、国労マル生闘争などでたたかわれた先生は、病後も沖電気争議の弁護団長として、あるいは国鉄民営合理化とたたかう国鉄労働者の支援活動に、むしろ病気前以上の気力で取り組み、大きな役割を果たされました。それだけではなく、八九年一〇月より九四年一〇月まで、自由法曹団長の重責を担い、私たち団員を励まし続けられたことは、皆様のよく御存知のとおりです。
 九九年一月以降は前立腺ガンが進行し、入退院を繰り返されていました。しかし、この間も、先生は奥様はじめ、御家族の文字どおり献身的な看護のもとで、最後まで毅然として生き抜かれました。
 たまさかではありますが、先生の御見舞いに伺った時には、先生は私たちに熱っぽく日本の未来を語り続けておられました。
 とりわけ、先生は、自由法曹団の発展を念じ続けられました。私がお会いした時も、今期、団に新しく四〇名近くが入団したとか、八十周年記念行事の成功を話すと本当に目を輝かせて喜んでおられました。私が最後に病院でお会いした時にも、えひめ丸事件について団員はどう活動しているかを聞き、私が豊田誠団員をはじめ、数名の名前を上げると、メモ帳に書き込んでいました。この夜、お別れの時、先生はあまりにも細くなってしまった手で握手をされましたが、思いもよらぬ程、それは力強いものでした。私には、団員のこれからの活動に託す思いが込められているように思われてなりませんでした。
 先生は、病中の姿はあまり見せたくないと言われて、お見舞いを断り、また病状についても皆さんにお伝えしないようにと言われました。そのため突然の訃報になってしまいました。また、先生は供花、香典を固辞し、葬儀は家族だけで行うことを強く望んでいました。奥様はじめ御家族は先生の遺志を守り、お通夜や葬儀はごく近親者だけで執り行っています。
 しかし、先生とのお別れをみんなでしたいという思いは断ちがたいものがあります。先生も、しめっぽくなく、ともに生きた人々が「お別れ会」を持つことは、結構だということでした。奥様や御家族も、「お別れ会」は行いたいという御気持ちです。
 そこで、御家族を中心にして、別紙御案内のとおり、九月一日に「お別れ会」を開かせてもらうことにしました。
 第一部の「お別れ会」は、何人かの代表に先生の思い出と送る言葉を述べて頂いた上で、参加者一同の献花を行い、引き続いての第二部の「故人を語るつどい」は、参加者がお互いに、先生を偲び、思いを語るというやり方にしたいと今は考えています。なお、第二部にも、奥様や御家族は参加される予定ですので、会場で、奥様たちに御挨拶はできると思っています(但し、いずれも細部の詰めはこれからです)。
 先生は、たくさん人が集まり、語り合うことを好まれる人でした。
 まだ暑さの残る頃であり、多忙な団員の方々に恐縮ですが、私たちの意のあるところをお酌み取り頂き、皆様が多数御参加下さるようお願いする次第です。

 追記 お集まり頂ける人が多くても、手狭にならないようにするために、会場をアルカディア市ヶ谷から「椿山荘」に変更致しました。なお、時間の許す限り、第二部の「故人を語るつどい」の方にも御参加下さい。
 ◆会場 「椿山荘」五階 オリオンの間
 ◆日時 九月一日(日)
       第一部「お別れ会」 (午後一時半)
       第二部「故人を語るつどい」 (午後三時)

    当日は平服でお越し下さい。





清水恵一郎弁護士の逝去を悼む


東京支部  清 水 洋 二

一、わが旬報法律事務所の同僚であった清水恵一郎弁護士(二三期・以下日頃の呼称に従って恵一郎君という)が、去る四月一七日、薬石効なく五九歳の若さでこの世を去った。病名は脳腫瘍である。ご家族にとって、哀惜の念は筆舌に尽くし難いと思われるが、われわれ事務所員にとっても、残念無念というほかない。事務所員一同、恵一郎君の死を乗り越えて一層奮闘する決意をしているところである。
二、ところで、恵一郎君が旬報法律事務所(当時の呼称は労働旬報法律事務所)に入所したのは、私より一年後の一九七一年(昭和四六年)である。彼は、修習生時代から労働事件・公害事件に強い関心を有しており、労働者や公害被害者の権利擁護のための弁護活動を行うために旬報法律事務所へ入所したものである。
 私も、恵一郎君とほぼ同じ動機で旬報法律事務所へ入所したが、当時は、大規模労働事件や公害事件が多かったため、こうした事件を担当する弁護士はどこでも引く手あまたという状況にあった。私も、彼が入所したのちの数年間は、こうした事件を一緒に担当することが少なくなかったが、その中でも、特に私の印象に残っているものとして三つの事件がある。それは、「日特金属(現・住友重機械)整理解雇事件」・「大日本塗料ユ・シ解雇事件」・「牛久地盤凝固剤公害事件」である。これらの事件は、いずれも、理論的にも実践的にも多くの問題を含んだ困難な事件であり、運動面を含めて弁護士の真の力量が試される事件であったが、恵一郎君は、これらの事件において、弁護士としての能力を如何なく発揮し、勝利的解決のために大きな貢献をした。
三、恵一郎君は、性格的には若干気の短かい所があった(注ーよく法廷で相手方代理人や証人と喧嘩をした)ものの、本質的には温和で引っ込み思案な性格であったため、事件について、一定の明確な方針なり見通しを立て、その実現のために先頭に立って関係者をリードしたり、裁判所に対して積極的に論戦を挑んで説得するというタイプの弁護士ではなかった。しかし、私が、彼と一緒に事件を担当する中で感じたことは、彼は、自分が担当した一つの事件ないし課題に対し、地味ながら根気よく着実に取り組んで成果を出すという姿勢を一貫して持っており、こうした姿勢が多くの依頼者からも高く評価されていたのではないかということである。
四、事件の弁護団会議等で、私は、方針の立て方、事件の進め方、具体的な主張立証の方法等について、恵一郎君としばしば論争をした。時には意見が対立し激論になったこともあったが、互いに何度も議論をする中で自然に一定の結論に達するというのが常であった(これが弁証法的思考というものであろうか?)。従って、私と恵一郎君が、事件処理において、決定的に対立したことはほとんどなかったように思う。
五、恵一郎君は、仕事一筋ではなく多彩な趣味の持主でもあった。パソコン・写真・読書のほかに、スキー、ゴルフ等のスポーツもかなり楽しんでいた。スキー旅行のエピソードとしてこんなことがあった。昭和五〇年の二月頃、事務所旅行で蔵王へスキーに行ったことがあった。恵一郎君は、山形へ向かう列車の中でスキーの滑り方の話しを得意顔で皆にしていたが、話の内容で判断する限り、彼の滑りはまさしく一級の腕前を想像させるものであった。ところが、蔵王の山頂の樹氷原を一緒に滑り降りた者から見た彼の滑りは、悲愴感ただよう必死の形相によるボーゲンの滑りであったため、事前に彼から話を聞かされていた者は一様に彼の滑り方に目を疑った。それ以来、彼のスキーは、いつまでも事務所の皆から、酒の肴として冷やかされる破目になったが、その都度、彼は、「俺は自分がスキーが上手だと言ったことなど一度もない」と言って弁解に努めることとなったのである。これなどは、恵一郎君の性格の一面が如実に出ているエピソードといえよう。
六、ところが、事務所の誰もが、恵一郎君に対して一目も二目もおいていたのは、彼が、紛れもないパソコンの「達人」であり、「教師」であったということである。パソコンは、彼にとっては、もはや生き甲斐そのものになっていたと言っても過言ではなかったように思う。事務所の中で、彼が、貧乏ゆすりをしながら水を得た魚のようにパソコンを操作している姿が今でも目に浮ぶ。わが事務所のIT化は、恵一郎君がいなければ、こんなに早く実現しなかったことだけは確かである。
七、恵一郎君は、数年前に喉頭部を手術してから事務所へ顔を出す日が少なくなっていたが、一昨年の秋頃からはかなり元気になって従来通りの弁護士活動を行なっていたので安心していた。ところが、彼は、昨年夏頃から、またしても脳腫瘍という大病に罹患することとなってしまった。長寿の家系に生を得た彼にとっては本当に不運としか言いようがない病気であった。
 私は、最近、彼とはほとんど一緒に事件や活動を共にすることがなくなっていたので、最近における彼の行動の詳細は把握していないが、推察するに、彼は、居住地である文京区の住民運動と簡裁の調停委員の活動にかなり力を入れていたように思う。このような恵一郎君の果している活動の重要性を思うとき、わが事務所にとっては勿論の事であるが、民主運動全体にとっても彼を失なった損失は計り知れない程大きいと言える。恵一郎君は、黄泉の国でどのような生活をしているのであろうか。心から恵一郎君のご冥福を祈るものである。合掌。





斉藤洋弁護士への追悼


愛知支部  水 野 幹 男

 斉藤洋弁護士(二七期)は、二〇〇〇年一月に胃癌の手術を受けられ、その後仕事に復帰されていましたが、本年五月二六日入院先の病院で急逝されました。
 自ら設立にかかわった医療機関で定期的に検診を受けていたにもかかわらず、胃癌の発見が遅れたことが悔やまれます。先日、名古屋中央法律事務所の主催でお別れ会がひらかれました。そこで、小生が述べた追悼の挨拶をもって追悼文に代えさせていただきます。

追悼の言葉
 斉藤先生は、一九七五年四月、弁護士になると同時に名古屋南部法律事務所に入られました。南部法律事務所は、その前年の五月に私ひとりで設立しましたので、斉藤弁護士と冨田弁護士の二人が入られて、一挙に三人の共同事務所になりました。当時は、全国金属、運輸一般、私教連等の労働事件を多数抱え大変忙しい思いをしていましたので、斉藤弁護士という有能な弁護士を迎え、大いに助けられました。斉藤弁護士には主に全国金属、私教連の事件を担当してもらいました。
 当時は、第一次オイルショックによる企業の倒産事件が続いている時期でした。
 なかでも、印象に残っているのは斉藤弁護士が担当された中央電気の企業閉鎖全員解雇事件です。配電盤を作っていた企業ですが、労働組合を結成して、全国金属に加盟した途端に企業を閉鎖して全員を解雇した事件です。仮処分で全面勝利の決定を得たことが昨日のことのように思い出されます。また、当時は、仮処分に勝利しても復職できないことが問題になっており、旭精機の就労請求権を巡る抗告審では大部の準備書面を作成され、高等裁判所の担当裁判官から大変な力作と褒められたことがありました。いまでも私は、その準備書面を大切に保存しています。
 一九七八年九月に斉藤弁護士は名古屋中央法律事務所を設立され、全国金属労働組合等の労働事件を中心に活動されました。その後も三重造船の事件をはじめとして企業閉鎖、全員解雇というもっとも困難な事件を数多く担当され、真の労働組合運動の在り方を探求され続けてこられました。また中央事務所設立後は、東海労働弁護団の事務局長として当地の労働弁護団のかなめとして活躍されてきました。
 本年の三月三日付で、斉藤弁護士から「労働組合の意義と役割」という素晴らしい論文を送っていただきました。この混迷の時代にこそ労働運動は原点にもどる必要があることをわかりやすく論じておられます。この論文について、ぜひ斉藤弁護士と話し合いたいと思っている矢先に急逝されてしまいました。
 斉藤弁護士は、理学部出身の弁護士らしく論理的であり、かつ実践的でありました。
 特に企業閉鎖事件のような困難な事件において、組合員を励まして団結して闘うことは、容易ではありません。斉藤弁護士は、労働者を励まし、その心をつかむ点では優れた弁護士であったと思います。南部法律事務所の頃に斉藤弁護士と、弁護士の理想像について話し合ったことがあります。その時、斉藤弁護士は山本周五郎の「赤ひげ」に描かれているような弁護士になりたいと言っておられたことを思い出します。
 民医連医療の七月号に、『赤ひげ』の脚本を書かれた前進座の田島栄さんの講演の速記録が載っています。田島栄さんは、「山本さんが人生について語った言葉のなかで、私が一番好きなのは、『人間の本当の価値というものは、その人が何をしたかということではない。何をしようとしたかによってきまる』という言葉である」と述べておられます。田島栄さんは、「自分もそう思います。成功・失敗なんて結果にすぎません。自分がやりたいと思ったこと、やらなければならないと信じたこと……それをやり抜く!理想に少しでも近付くために、けんめいに努力する。たとえ志なかば倒れようとも…………。それが人間の本当の生き方ではないか。山本周五郎が『赤ひげ』の中で、現代人に一番訴えたかったのは、そのことに違いないと私は思うんです」とも述べておられます。
 斉藤弁護士は、この言葉のとおり「自分がやりたいと思ったこと、やらなければならないと信じたこと……それをやり抜く!理想に少しでも近付くために、けんめいに努力する」。それを文字通り実践されたと思います。斉藤弁護士は『赤ひげ』弁護士としての初心を貫きとおされ、素晴らしい生き方を実践されたと思います。斉藤弁護士には、大変に教えられるところがありました。お別れに際してあらためて「斉藤先生ありがとう」とお礼を述べたいと思います。





市民と共同した司法制度改革への取り組み
〜陪審裁判劇クリスマスイヴ殺人事件〜


埼玉支部  齋 田  求

 本年六月二九日、埼玉において、「市民のための司法改革を求める埼玉の会」主催による陪審裁判劇クリスマスイヴ殺人事件が催された。
 この「市民のための司法改革を求める埼玉の会」は、自由法曹団埼玉支部、労働組合、商工業者団体、婦人団体など複数の団体によって構成された市民の側からの司法制度改革を目指す任意団体である。従って、上記陪審裁判劇の実行委員や出演者は各団体に所属する者によって構成され、いわゆる法曹資格者以外の一般市民と自由法曹団員が協力し、市民と共に司法制度改革・裁判員制度について考える企画を立案・実施した点に大きな意義があるといえよう。
 さらに、この模擬陪審劇では、陪審団として「近い将来、裁判員の資格を持つことになるであろう高校生」による高校生陪審団と、一般成人の陪審団の二つを作ったが、これら公募された陪審員への応募状況からも、市民、特に高校生を含む若者層の裁判員制度への関心の強さがうかがわれた。また、当日の観客数は予想を上回り約四〇〇名と会場がほぼ満員の状況であったが、この人数は埼玉弁護士会のこれまでの陪審劇企画に比べても過去最高であったこと、その半数以上はいわゆる若者であり各構成団体の動員によるものではなかったことが大きな特徴であった。
 ところで、劇は、クリスマスイヴの夜に殺害現場付近でサンタの服を着た犯人(=被告人?)を見たという目撃証言の信用性を争点とするものであったが、陪審員団はいずれも無罪の評決を出し、会場評議においても圧倒的に無罪支持であった。殺害現場に被告人の指紋がついたケーキの箱があったり、凶器が被告人の所有していたものと同型のバタフライナイフであったことなど物証もあったが、「有罪を基礎づけるには証拠が足りない」という意見が多かったように思われ、その意味では、一般市民の感覚の公正さが評決に反映されたということができる。
 観客や陪審員だけでなく、実行委員や出演者についても市民の参加を得ることには、練習日程の確保をはじめ数々の困難があったが、それだけに劇の成功は市民が司法制度改革に積極的に取り組んだ成果として大きな意義があると思われる。また、陪審劇(裁判員劇)については、内容がマンネリ化する傾向にあると思われるので、今後は、物証などの証拠を充実させた上で、詳細かつ緻密な評議が求められるものなどを考える必要があるのではないだろうか。





敗訴者負担に反対する取り組みのお願い


担当事務局次長  山 田  泰

 司法アクセス検討会は、七月一七日に第七回が開催され、簡易裁判所の機能充実に関する最高裁、日弁連、日司連からのヒヤリングが行われるとともに、訴え提起の手数料や敗訴者負担につき予備的な議論が行われました。今後九月一〇日、九月三〇日、一〇月一五日と訴え提起の手数料及び簡易裁判所の事物管轄の拡大につき、また一一月二八日以降敗訴者負担につき議論が行われる予定となっています。
 敗訴者負担制度は、本年五月推進本部事務局が基本的導入を明言しているほか、アクセス検討会においても、一定の委員の奮闘にもかかわらず基本的導入の方向が顕著に現れており(たとえば第七回)、本格的議論が開始される前に運動の飛躍的強化が求められています。
 一方労働検討会では、第六回(七月二九日)において、検討すべき論点項目の中間的整理が行われましたが、一部の委員から労働裁判をより利用しやすくするために、定型の簡易訴状の準備や地裁レベルにおける組合や使用者団体職員の代理人を認めることなどとともに、@訴訟費用の無料化又は低額化と定額化、A敗訴者負担は導入しないことなどの意見が出され、第七回、第八回の諸外国制度のヒアリングを経て、第九回(一〇月二五日)、第一〇回(一一月二五日)には、総論(二一世紀の労使関係と法の役割)の議論が行われる予定となっています。
 運動面では、七月一八日、大阪弁護士会、司法改革大阪各界懇談会、敗訴者負担制度に反対する大阪連絡会主催による市民集会が二四〇名の参加を得て大きな成功を収め、また東京でも九月一〇日には敗訴者負担に反対する全国連絡会による市民集会が予定されています。しかし同連絡会の団体・個人署名は未だ少なく、とりわけ法律事務所等の団体署名については、未だ数十という状況です。
 そこで、具体的に次の取り組みをご要請するものです。
@ 敗訴者負担に反対する団体署名用紙を同封いたしました。新たに団独自のものを作成し、集約先も団本部としています。各法律事務所においては少なくとも自事務所についてはお力添えをお願い申し上げるものです。
A 九月一〇日開催予定の全国連絡会主催の市民集会(午後六時三〇分開始、於文京シビックホール)は四〇〇名の参加を目指しており、東京及び近県からの多数のご参加を是非ご検討下さい。