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西   晃 有事法制「秋の陣」を前に、問題提起と決意表明です
則武  透 岡山支部特集 その4 若い音楽家たちの闘い ―TWE裁判と私
上田 誠吉 一九五〇年の頃
みちのく赤鬼人
(庄司 捷彦)
先を見て生きた人 元団長小島成一さんへの思慕を刻んで
みちのく赤鬼人 小島成一さんを偲んで、五首
後藤富士子 裁判員制度と判事補 ―「裁かれる側」から見た裁判官
神田  高 夏季・二題
上野  格 青法協「プレ研修」に登録をお願いします
小池振一郎 書評 永盛敦郎「民事法律扶助法の施行と残された課題」を読んで、司法改革を思う
志田なや子 書評 チョムスキー著『九・一一 アメリカに報復する資格はない』文藝春秋


有事法制「秋の陣」を前に、
問題提起と決意表明です


大阪支部  西   晃

、七月までの私たちの反対運動や闘いのなかで、有事関連三法案のあまりにも曖昧・不明確な要件、そして広範な自治体権限の制限、国民の人権制限などが一定程度国民の間に広がり、今国会での成立阻止の大きな力となりました。しかしながらそれはあくまで「この法案はダメ」というものであり、「有事に対する備え」自体は必要であるとする認識がかなり広い範囲で国民意識のなかに存在することも事実です。自由法曹団大阪支部も構成メンバーとなった「有事法制に反対する大阪連絡会」ではこの五、六月にかけて新聞折込ビラを府下約一七〇万世帯に配布いたしました。このビラの返信用葉書で寄せられた府民の声をまとめた冊子は七月の名古屋拡大常任幹事会でお配りしました。反共意識丸出しの意見もありますが、大多数が真剣にこの問題を考え、そして有事法制の危険な中身を危惧するものであります。ただやはりそのようなまじめなご意見を頂いている人の中にも、かなりの数「テロや武装不審船に対して何か必要ではないか」「本当にいざとなったらどうするのですか、最小限度の備えが要るのでは」というご意見があります。これら真面目な有事法制賛成派の声にどう対応していけばよいのでしょうか?私たちの側がこれらの声に真剣に対応し、かみ合った議論の末に「でも、今の政府の法案は結局日本を守るものではないから必要がなく、むしろ有害ですらあるよね」と共通の認識を持つに至る必要があると思います。そのための力量、真面目な有事法制賛成派を言葉で説得し、ともに法案反対の声をあげていくだけの力量が何よりも求められると思います。
、そのためには、法案の構造をもっと背景事情にまで立ち返ってもう一度検討してみる必要があると思います。周辺事態法、テロ特措法制定という事態を前提として、日米の安全保障政策の展開の中、日米双方のどのような戦略的意図により今回の法案が出てきたのかを再度確認しなければならないと思います。ここの部分をしっかりと確認することによって、推進側の譲れない一線というものが見えてくるのではないでしょうか。おそらく彼らは「武力攻撃が予測される」事態=武力攻撃事態という定義規定を法案からはずすことはできないだろうと思います。同様に攻撃対象を日本の国土領域及びその近接した周辺に限定することもできないはずであります。しかしながら本当に日本有事に限定して法案を考えるのであれば、日本の領土に限定した「武力攻撃」とそれが緊迫した状況だけを前提とすれば足ります。有事法制発動の場面をもっと限定できるはずです。また彼らは自治体の責務規定や指定公共機関の責務規定についてもほとんど修正を加えることはできないでしょう。同時に対処措置の広範・無限定な内容(米軍に対するそれを含む物品・役務・労務の広範な提供)についてもこれを限定できないはずです。しかしながら本当に純粋な日本有事を想定するのであれば、自治体や公共機関、民間機関の役割を予め一定程度限定しておくことは決して不可能なことではない。ましてや米軍支援など必要ありません。このあたりをもっと説得的に語れるようにならなければと思います。
、秋の臨時国会での政府案修正の目玉は「国民保護法制」の整備にあるといわれています。そもそも今回の三法案のなかで、国民の安全確保、避難誘導、経済の安定などの部分の具体化はなぜ後回しにされたのでしょうか。そして消極的賛成派と思われる側から「義務規定ばかりで、有事の際、国民を保護する規定がないのはおかしい」といういわば助け舟のような意見が相次ぎ、そして今度は「国民保護法制」の前倒し論まで出てきています。この経過をどのように考えればよいのでしょうか。戦時における国民の安全確保、避難誘導、経済の安定確保は全て一般国民の市民的権利・自由の統制、そして地方自治体に対する統制・強制を前提とするものです。日本に対する純粋有事という事態を想定していない推進側の狙いとしては、「有事に際する国民保護」というタイトルで国民の自由制限、統制、自治権の統制をとにもかくにも法律として成立させることにこぎつければ、「日本有事」といってもそれはすなわち「周辺事態」のことですから、当初の狙いどおりということになるわけです。「国民保護法制」を前面に出した政府の攻勢に打ち勝つだけの理論武装が必要であると思います。
、「テロや戦争に備えて、日本の安全をどう守るのか、今回の有事法案がダメだというのであれば、その対案はありませんか」。この間の講師活動の中で何度質問されたことでしょうか。それも極めて真面目で真摯な質問として。「憲法九条を守り、広めること」は正しい解答であっても、もはや今日では十分な納得を得られる有効な解答ではなくなっているのではないか。この間私がもっとも痛感させられたことです。この点をどのようにして乗り越えていけばよいでしょうか。私なりにいろいろと考え、悩み、正解と考えられる解答を出しているつもりなのですが、結局言っていることは「平和主義に徹する」ということです。もう一歩踏み込んで「警察力を超えた実力行使により日本を守る必要がある場合を承認する」必要があるのでしょうか。その上で想定される純粋有事法制の対案を示し、「もしそんな法案であれば賛成しうる」「しかし政府の狙いはそこにはない、全然別のところにあるから廃案しかない」ということを訴えるべきなのかもしれません。本当に悩ましいところです。ただ今後の法案成否を分けるのは間違いなくこの問題をどう克服するかだと思っています。
 以上問題意識の提起だけのような投稿になりましたが、有事法制「秋の陣」を前に、今度こそ完全廃案に向けた決意を新たにしています。全国の団員、事務局員の皆さん、共に頑張りましょう。



岡山支部特集 その4

若い音楽家たちの闘い ―TWE裁判と私


岡山支部  則 武   透

 原告三名は、いずれも倉敷市にあるチボリ公園の管理運営会社から雇用された労働者であり、同公園内の吹奏楽団(チボリウインドアンサンブル。以下「TWE」)の演奏家として勤務していた。その後、原告らは労働条件の向上を求めて労働組合を結成したが、これを嫌悪した会社は、九九年三月三一日、原告らを雇用期間の満了を理由とする「雇い止め」により一方的に契約終了とした。原告らは、上記解雇(雇い止め)を不服として、九九年一〇月、岡山地裁に地位確認請求訴訟を提訴した。数回の口頭弁論、証拠調べを経て、〇一年五月、岡山地裁は原告二名の請求を認容し、原告一名の請求を棄却する判決を下した。その後、双方控訴となり、広島高裁岡山支部で和解協議に入った。その間に、チボリ公園の経営悪化を理由にTWEが解散することが決定するという悲しい出来事もあったが、最終的には〇二年三月、一審で敗訴した原告も含めた三名に和解金を支払うとの内容の勝利的和解が成立した。以下は、同裁判の勝利報告集に書いた原稿に手を加えたものである。
 九九年一一月、私は七年間弁護士活動をしてきた東京から郷里岡山に登録替えをした。そのとき既にTWE裁判は提訴済みであり、同僚の石田弁護士に誘われて訳も分からず弁護団に参加したのであった。郷里とはいえ大学卒業以来約二〇年ぶりの岡山での生活であり、ある意味で私は「浦島太郎」状態で、倉敷チボリ公園がどのような問題をはらんで生まれた公園であるのかも知らなければ、チボリ公園に行ったことすらない状態でのスタートであった。
 TWE裁判の法律上の争点は、@そもそも形式上「出演契約」との名称となっている契約の法的性格が労働契約と言えるか否か、A労働契約だとしても期間の定めのある契約か否か、B期間の定めのある有期の労働契約であるとしたら室さんは二回目の更新時、比嘉さん・稲生さんは一回目の更新時の雇い止めということになるが、そのような場合に解雇権濫用法理の適用(若しくは準用)があるか否か、C解雇権濫用法理の適用(準用)があるとして、三名それぞれについてその当てはめがどうなるかの四点であった。会社側の代理人には、チボリ公園の住民訴訟を担当している大阪の経営法曹の事務所の若手弁護士が配置され、巧妙に法律的主張や書証を組み立て、正直なところ各争点に関して相当な難航が予想される裁判であった。しかし、強みは正義がこちらにあることと、何よりも原告やそれを支えるTWEのOBや現メンバーが若くかつ楽天的なことであった。
 〇〇年夏までは、裁判は準備書面による主張の応酬であったが、同年秋からいよいよ裁判の山場である証拠調手続(証人尋問)に突入した。裁判所のスケジュールが混んでいるため、通常、証人尋問は二〜三ヶ月に一回のペースなのだが、TWE裁判は岡山地裁が試験的に行っていた集中証拠調べのモデルケースとされたために、〇〇年一一月〜一二月に計三回もの証人尋問が実施されることになった。従って証人尋問の打ち合わせは困難を極め、土曜、日曜を潰し、昼夜を徹しての準備が行われた。私が担当したのは、会社側証人の新田、笹森、藤原の反対尋問、原告の比嘉さん、室さんの主尋問。
 証人尋問で印象深かったことを二、三あげる。まずは原告本人尋問。漫才に例えれば、ボケの比嘉、突っ込みの室。それぞれ個性に味があるのだが、なかなか核心に達しない比嘉さんとの会話や宿題をしてこない室さんとのやりとりにイライラして、石田弁護士の担当の稲生さんが一二〇%の準備をしてくることを横目で羨ましく思ったりもした。しかし、何度も予行演習を重ねる中で二人は見事に成長し、本番では最高の出来で、解雇の不当性を印象づけることに成功した。それから新田の反対尋問に当たっては会社が提出してきたオーディションの証拠をしらみつぶしに吟味した結果、不合格とされた池原さんが実は会社の主張する基準でも合格していたことを見つけだし、それを本番で新田にぶつけることでオーディションの信憑性に大きな疑問を生じさせた。会社はこの矛盾を取り繕うために、後に池原さんだけは社長の指示により落第させたとの弁解をしたが、既に心証を得ていた裁判官は揺るがなかった。弁護士の世界でいうところの「心証の雪崩現象」が生じたのである。
 〇一年三月、倉敷の保養施設に泊まり込み、原告、他のTWEのOB、現メンバーみんなが英知を結集して素晴らしい最終準備書面を完成させた。また、判決前には同じく熊本地裁判決を控えていたハンセン病国家賠償訴訟を支援する集会で室さんや比嘉さんに「ふるさと」を演奏してもらったが、これは後に各地のハンセン病訴訟のテーマ曲となった。
 〇一年五月一六日、岡山地裁で判決が下された。結論部分では稲生さんの雇い止めが有効とされた点で不満が残るものであったが、労働契約性を肯定し、例え一回目の更新であっても無条件の雇い止めは許されないとし、室さん及び比嘉さんについては雇い止めを無効とした点で、内容的には九割方の勝利判決であった。同岡山地裁判決は労働判例二〇〇二年五月一日号(八二一号)にも掲載された。
 その後、双方控訴となり、広島高裁岡山支部で和解協議に入った。その間に、チボリ公園の経営悪化を理由にTWEが解散することが決定するという悲しい出来事もあったが、最終的には〇二年三月、稲生さんも含めた三名に和解金を支払うとの内容の勝利的和解が成立した。
 振り返って、この裁判で問われたものは何だったのか。県民の反対を押し切って作られたチボリ公園は、岡山県民を裏切るものであっただけでなく、その中で働く若い音楽家たちの夢をも裏切った。
 そうした夢を奪われた原告を含む訴訟を支えたTWEのOBみんなの闘いを最後の人権の砦である司法が支持した事件であったのだと思う。つい先日、東京から遊びに来た親戚を連れて三ヶ月ぶりにチボリ公園に行ったが、そこにTWEの音楽はなく広場からはおよそ公園の雰囲気には似つかわしいロックバンドの騒音が流れていた。いつの日にか、またTWEの皆さんの軽やかな音楽を聴ける日が来るのだろうか。そう思うと、ふと目頭が熱くなった。



一九五〇年の頃


東京支部  上 田 誠 吉

 一九五〇年六月二五日、朝鮮戦争がはじまった。それから二年遡ると一九四八年の政令二〇一号の時期、二年のちは一九五二年のSF体制発足の時期となる。この頃の弾圧情勢をみるときに、アメリカ占領軍のもっていた圧倒的な権力を抜きには考えられない。占領軍は軍事裁判所を各地に設けて、直接に日本国民を処罰し、あるいは団体を解散させて財産を没収したのである。東京では警視庁のなかに法廷を設け、これはのちに大蔵省の建物に移った。筆者が経験した軍事裁判で規模の大きかったのは、五一年の「北朝鮮スパイ事件」、五二年の「柴又事件」であった。後者は五一年一二月に葛飾区柴又のある家の二階で開かれていた会議に警視庁が踏みこんで、出席者全員を逮捕し、のちに米軍が軍事裁判所に起訴し、五二年四月三日に全員重労働の判決を下した。
 被告人たちはそのまま服役したが、この月二八日にSF体制発足と同時にいったん釈放し、同時に東京地検が軍裁が有罪とした同一の事実について、政令三二五号違反で再逮捕して東京地裁に起訴した。SF条約発効の後に、この蛮行がおこなわれたのである。このとき、同様に再逮捕、起訴された者は、軍裁による受刑者、二五三名のうち約六〇名に及んだ。柴又事件では、最初から無理があった。当初は共産党の潜行幹部が出席している、という疑いでその幹部逮捕のために踏みこんだのだ。しかしそのような幹部は出席しておらず、代わりに出席者全員が逮捕されたのだが、会議の場に出されていた文書や資料は全部押収された。この押収手続きは違法であるとして、その証拠採用には強い反対が述べられた。裁判官たちはながい合議ののちに入廷して、司令官の命令により証拠として採用する、と告げた。被告人たちは激しく抗議したが、裁判長は全員に退廷を命じて閉廷した。弁護人青柳盛雄と上田は弁護人控え室に戻って休んでいると、使者が来て、弁護人はこの建物から出て行け、という。二人はやむをえず、建物から追い出された。軍裁に移ると憲法をはじめ日本の一切の法令から自由に処理されたが、しかし日本の裁判所もまた米軍の下請けとして管轄権をもっていた。「占領目的に有害な行為」の処罰を定めた政令三一一号がそのことを定めており、これが五〇年一〇月に政令三二五号「占領目的阻害行為処罰令」に継承された。これらの政令違反事件の年度内の処理、未処理の人員は、四七年・一六二一名、四八年・二七七一名、四九年・一一九二名、五〇年・三五〇七名、五一年・五三七二名、五二年・一七九三名にのぼった。五一年がピークをなしていた。このような大量の処罰になったのは、主として発行禁止になった新聞「アカハタ」の後継紙、同類紙に対する弾圧によるものであった。日本の裁判所はこれら占領軍の弾圧の要求に忠実に応えた。たとえば「アカハタ」発行禁止のマッカーサー書簡は「発行」を禁止していたが、裁判所は「発行」のなかには、編集、印刷、領布、運搬、販売、頒布目的所持も含まれるとした。またプレスコードは未公表の占領軍の動静や占領軍に対する破壊的批判の「論議」を記載した文書の掲示、頒布はおろか、頒布目的所持も「論議」に含まれる、とした。特定の新聞が「アカハタ」の継続紙、同類紙に該るか否かについて、裁判所に事実認定の権限はない、とした。
 こうして一応は日本の刑訴法によるような形をとりながら、そのなかみは米軍の下請けにほかならなかった。こうして五〇年六月から五二年四月までに発行禁止となった新聞は全国紙で二五紙、機関紙誌で地方紙を含めて八一八紙にのぼった。その処理にあたったのは、警察、検察、裁判所のほかに、特別審査局(現公安調査庁)の果たした役割も大きい。新聞「平和のこえ」紙は五一年二月四日に発行禁止になったが、このとき全国で四二四箇所を捜索し、四三五人を検挙した。新聞「平和と独立」紙は五一年三月二八日に発行禁止となったが、このときは全国で二七六五箇所が捜索され、二四七人が検挙された。身柄の拘束は刑訴法の手続によったが、捜索などは発行禁止に伴う必要な措置として、特審局長の証明書のような書類を呈示しておこなわれた。
 五一年中に特審局が新聞の発行禁止措置の執行として捜索した箇所は合計四五五八箇所、告発した者は四二〇人に及んだ。
 そして最高裁もまた忠勤であった。五〇年六月のマッカーサー書簡の件について、GHQの係官と協議をおこない、その結果、「アカハタ」ならびにその後継紙の発行停止「処分の取消、変更を求める訴訟並びに右の処分が違法であることを前提とする民事の争訟については」日本の裁判所に裁判権がないことが確認された旨の通知を、事務総長名で各高、地裁所長宛に発したものであった(一九五〇年七月二五日付最高裁行政民事甲第一号、高裁長官他宛事務係長通知、裁判所時報六三号所収)(渡辺治著「日本国憲法改正史」一八二頁)。



先を見て生きた人

元団長小島成一さんへの思慕を刻んで


みちのく赤鬼人(宮城県支部  庄司 捷彦)

 誰もが眼を疑いました、
 あなたとの別れの会の便りを受けて。
 えっ まさか!
 あの時の小島さんが、すでに癌を患い、
 二度の大手術を受けていたなんて。
 あの時とは 群馬 水上での
 自由法曹団総会 八九年一〇月。
 
 あなたは 端正な姿とやさしい眼差しで
 若い団員に語りかけました。
 「大切なことは自由と民主主義の戦線と陣地を広げること」
 「弾圧のあるところにはどんな困難があっても団の旗を」と。
 だれ一人 あなたの重大な病を知らず
 だれ一人 あなたの深い決断を知らず
 新しい団長としてあなたを迎えたのでした。
 
 あなたが団長としてあった五年間は
 団としての苦悩の時代、厳しい闘いの時代でした。
 思い起しても口惜しい坂本団員一家「拉致」事件、
 あの長く続いた苦悩は 就任直後に始まったのでした。
 憲法九条を擁護して 「国連平和協力」の仮面と闘い、
 民主主義への攻撃として 小選挙区制の欺瞞と闘い、
 用意されつつあった「有事法制」の危険を警告し、
 それらとの闘いの 陣地構築を呼びかけ続けた日々でした。
 
 団の総力をあげての闘いが続く中であなたは
 重い病を背負っていたのにあなたは
 その気配を微塵も感じさせることもなく
 団の旗手を果敢に努めておられたのです。
 あなたの深い覚悟の根っこには
 雨の神宮での 死地へ向う行進の体験があり、
 敗戦をビルマで迎えた 痛苦の体験があったのだと、
 教えてくれたのは 大阪の石川元也さんでした。
 
 石川さんはあなたのモットーを
 「先を見て生きる 死ぬまで仕事する」と紹介しています。
 この言葉どおりにあなたは 生き抜き 幕をおろされました。
 団長としての小島さんが見ていたこの国の先には
 日本の先には どんな姿があったのでしょうか。
 平和憲法の生きる日本か
 九条が打ち捨てられてしまったこの国か。
 その地平を拓くのは残された私たち。
 
 夕焼けが見えるのです。
 小豆島の小さな宿で 瀬戸内に沈む夕日に
 あかく照らされたあなたと奥様の
 しあわせに満ちた笑顔が見えるのです。
 あなたの病を知って寄り添っていた奥様の
 心も知らずに 盃を重ねた私でした。 思えば
 旅先での写真には 笑顔ばかりのあなたがいます。
 
 「団こそわたしのふるさとです」
 九四年秋に こう語って 退いてから
 あなたに お逢いすることはありませんでした。
 あなたの 病魔との闘いを知りませんでした。
 あなたの孤独で壮絶な闘いを知ったいま、
 襟を正して 遺影に向かいます。 すると
 あなたの遺言が 先達の言葉に重なって 聴えます。
 
 「団とともに 先を見て生きよ!」
 「死すべくんば民衆のために!」
 
 いま
 ひとりの
 先達との別れのときに
 とおい日の
 まぶしかった夕焼けの 
 瀬戸内の海を瞼に描いて 
 涙ぐんでいます。

参考資料・自由法曹団団報h齊O三〜一四六
(二〇〇二・八・一九)



小島成一さんを偲んで、五首


みちのく赤鬼人

諄諄と諭すが如く言魂に
学徒の無念
重ね伝えき

瀬戸内の海の紅頬に受け
眼差し遠く
投げて語りき

瀬戸内に沈む夕日の紅に
頬ほてらせて
夢語る汝

金毘羅の石段遠く奥の院
辿り着きあとの
汗と笑顔と

宮島の坂を登りつ新緑に
心洗われ
清し顔汝

(二〇〇二・八・一五)



裁判員制度と判事補

―「裁かれる側」から見た裁判官


東京支部  後 藤 富 士 子

1 「裁判員制度」の制度設計
 今般の司法改革の目玉として位置付けられている「裁判員制度」について、目下、具体的な制度設計が検討されている。日弁連でも、司法改革実現本部担当部会が作成した討議資料「要綱」に沿って、日弁連の基本方針が策定されようとしている。その中でも、裁判官と裁判員の人数・比率の問題は、重点項目の第一に挙げられている。「要綱」では、裁判官二名、裁判員九名(死刑事件は一二名)という設計である。
 ところで、この「裁判官」は、判事に限るのか、それとも判事補も含まれるかという問題について、「要綱」では直接言及していない。「部制度の見直し」に言及するものの、それは「裁判官の独立」や「個々の裁判員と個々の裁判官とのコミュニケーション可能性」という問題意識による。
 しかしながら、裁判員制度における「裁判官」について、判事補をどのように扱うかは、数の問題以上に本質的な理念問題を呈示していると思われる。

2 キャリアシステムと陪審制の矛盾
 桐山剛団員は、イタリア調査の経験から、「裁判官は判事二名に」との意見を表明している。イタリアの参審制は、裁判官二名と参審員六名の構成であり、検討会で検察官や裁判官が示す「裁判官三名に裁判員二名を加える」という考え方にカルチャーショックを与えるに十分と評価するからであろう。
 しかしながら、イタリアの裁判官制度はキャリアシステムと思われ、日本の「判事補」のようなものは存在しないのではないか。戦前の日本のように、裁判官は最初から判事なのであろう。
 この問題は、「陪審制と法曹一元」「参審制とキャリアシステム」という組み合わせが、論理的には必然性がないにしても、司法制度の本質に照らすと必然性があることを示唆しているように思われる。
 英米法の制度では、もともと「職業的法律家が裁く」という発想がない。当事者が武器対等原則の下で主張・立証を闘わせ、「裁く」のは陪審員である。職業的法律家は、当事者を援助する代弁者として必要とされた。すなわち、訴訟構造は当事者主義であり、職業的法律家の基本は「弁護士」である。そして、訴訟手続を指揮・管理する法律家として裁判官がいて、それは弁護士等の経験を積んだ者の中から選任される。これが法曹一元裁判官である。
 これに対し、大陸法の制度では、司法は国家統治システムとして上から作られた。司法権が及ぶ事象は限定的であり、訴訟構造は職権主義である。ここでは、「優れた職業裁判官」こそが不可欠の主役である。そして、その裁判官は、「子飼い」の方法で、実際の裁判を教材にして育成される。時代が移り、民主主義の要請が強まると、「国民の司法参加」が制度的に図られた。これが参審制である。
 今般の改革では陪審制か参審制かが争われたが、改革審意見書は、役割分担からすると参審制を、意思反映について数の点から陪審制を取り入れて、実に日本的折衷主義の見本のような制度を提唱した。
 これは、法曹一元に飛躍できずに「判事補」というキャリアシステムの残滓のような裁判官を認めた戦後改革と、文化的・思想的な同一性を見せつけられる。

3 「裁かれる側」の視点を忘れるな
 「国民の司法参加」という民主主義の観点からすれば、参審制も裁判員制度も前進と評価される。しかし、これらの制度は、いずれにせよ「裁く側」の体制の問題である。
 私は、もっと根本的に、「司法制度の目的は何か」が問われるべきである、と思う。そして、司法が「法の支配」の手続であるなら、それはまずもって「裁かれる側」=ユーザーから見て、公正なものでなければならない筈である。
 そうしたとき、「裁判を裁判官育成の素材にする」制度は、決して容認され得ない。「裁かれる者」にとって、担当裁判官を選べない以上、身分的階層を前提とした裁判官制度は容認できない。どの裁判官も、制度上は単一・平等の地位にあるのが当然の前提とならなければならない。
 法曹一元や陪審制について「官から民へ」という表層的次元で捉えずに、「裁かれる側」にとって公正な制度として考え直すべきではなかろうか。



夏季・二題


東京支部  神 田   高

一、地下水脈
 喉の手術を終えて退院してきた日に、『世界』九月号辺見庸の対談私たちはどのような時代に生きているのかー九・一一、有事法制、そして私たち自身ー≠読んだ。辺見は、九九年(周辺事態法国会)から〇二年(有事立法国会)を日本の近現代史でも突出している時期ととらえ、「有事法制こそが生命線」であり、個々人がそれぞれ実践的なドリルと向き合わざるをえなくなってきていると言う。また、元共同通信記者だけあって、メディアの翼賛状況、メディアの根腐れ≠煢sく指摘されていた(但し、対米従属#癆サについて言えば、C・ジョンソンのアジア最後の植民地(沖縄)=i『アメリカ帝国への報復』)という捉え方のほうがはるかに鋭く、優れている)。
 みずから「安全圏」を出て、市民社会の現場で言挙げするつもりがあるのかどうか=[個々の言い分には異論もあるが、辺見の主張は率直だと思う。しかし、言うところの「日本的な、いまの全体主義的な風景」の中でも、いや、それだからこそ、対談相手の高橋哲哉が言うように、個人個人がつながって反対の広がりを大きくつくっていく≠アとが大事だと思う(反対のつながり=戦線は個人間に限られないが)。この間の私のささやかな経験もそれを実感させた。
 私の住む地域(三鷹市井の頭)は、文化人などが多く、市内での平和運動の発祥地でもある。七月に入ってからの会期末のわずかな期間でのとり組みであったが、有事法制反対・井の頭アピール≠ヨの賛同を音楽家、絵本作家など一〇人(山本真一、三嶋健団員も)で呼びかけた。地域に三〇〇〇枚の呼びかけ文を配布したのが一七日、締め切りの二三日までに八二名、最終的に八七名の賛同が寄せられ、全員の名を記したアピールと寄せられた各人の意見を小泉首相、各政党、新聞社にFAXで送付した。今まで全くつながりのなかった人たち、医師、会社役員、長老の憲法学者の方まで賛同を寄せてくれた。地元の若手の民主党市議も快く賛同してくれた。「子どもたちのために、この法律だけはどうしても通して欲しくありません。どうしてよいかわからず、街頭での署名はしてきましたが、みんなでぜひ声をあげていきたいです」との若いお母さんの声。一九才の青年からは「国民の平和への意識こそ、私たちの武器」とのメールが届いた。「どうかな?」という私の予測をこえた、確かな手応えであった。奥深く広がっている地下水脈≠フ清冽さが伝わってきた。無尽蔵のこの地下水脈≠汲み上げ、崩れつつある大山を是非ひっくり返してやりたいものだ。

二 アフガン  最新のNEWSWEEK(八・二六号)に、アフガニスタンの戦争犯罪(WAR CRIMES)≠ニいう特別レポートが出ていた。北部同盟によるタリバン、アルカイダの捕虜に対する集団的虐待による大量死を告発し、これに対するアメリカの責任を問うている。
 しかし、そもそも、アメリカのアフガン空爆こそ、戦争犯罪≠ナはないか。アメリカの雑誌が、ALLIES(同盟軍)≠フ戦争犯罪という角度からではあるが、アフガンでのアメリカの戦争犯罪≠ヨの責任を問題にし始めている。ブッシュ政権が、自分の意に沿わない国を「悪の枢軸」と決めつけ、イラクへの戦争準備を着々と進めている中で、反テロを口実にした最初の大規模な軍事攻撃である、アフガン空爆の実相を国際的に告発していく作業は不可欠だと思う。
 アメリカの研究者は、空爆の開始された一〇月七日から一二月一〇日までの市民の死亡者数を現地新聞記事などから調査しているが、その数は数千に及んでいる。団のアフガン難民調査団の難民からの聞き取りでも、千単位の死者が出ていることは裏づけられている。空爆による死傷者、避難民の実数、村落等の崩壊状況などを総合的に調査解明していくことが必要だと思う。
 翻って、日本の自衛隊艦船が、今もなお、米軍らのアフガン攻撃のための補給=「後方支援」をおこなっている。米軍の軍事行動は、国際法を破った侵略戦争≠ナあるが、それに加担した日本は侵略国家≠ノなり下がってしまった。平和運動家のオーバビーは憲法九条は、人類全体に対する未来からの贈り物≠ニ言っているが、その贈り物は、さしあたり日本人に託された。壊された贈り物を修復する作業もまた、日本人に委ねられている。小さな額の中の、アフガン難民の少女らの笑顔を見て、なおさらそう思った。



青法協「プレ研修」に登録をお願いします


東京支部  上 野   格

 私は団員であると同時に、青法協弁学合同部会の修習生委員長を務めております。青法協の企画を団に持ち込んでいいものか思案しましたが、先日の五月集会プレ企画「これからの自由法曹団を考える」(団報一六七号)で取り上げられたことですので、失礼を承知で宣伝させていただきます。
 「プレ研修」とは、司法試験合格発表直後から司法研修所入所までに、青法協会員事務所で一週間程度の弁護修習を行うものです。
 入所前に実務にふれ、とくに会員の人権訴訟・弁護団事件への取組や会員の情熱にふれてもらおうとするものです。五六期プレ研修でも六〇名近い参加者があり、都市部だけでなく地方に誘致していただく例も増えました。「事件に対する情熱が違う」「弁護修習と比較しても魅力がある」「こういう弁護士になりたいと強く思った」などの感想が寄せられ、司法研修所入所後の修習生運動にも大きな支援となっています。
 五四期から取り組みを始めましたが、減少傾向だった青法協修習生部会の会員数が上昇に転じ、結果的に団事務所への就職も増え、団の後継者問題にも寄与していると思います。
 この秋に合格する五七期に対応してプレ研修を企画しております。受験生の集まる東京、神奈川、埼玉、大阪、名古屋、北海道などはもちろんのこと、多くの地域でプレ研修が行われることを目指しております。昨年までは富山、金沢、京都、奈良、松江、宇和島でも行われています。とりあえず登録しておいて研修生が来たら一丁もんでやるか、ということで結構だと思います。
 各支部で「プレ研修」の意義と取組について討議し、ぜひ支部の多くの事務所で登録してくださいますようお願いします。「青年法律家」三七八号の末尾にも登録票がありますが、@支部名、A受入時期、B修習生へのPR、C事務所名・担当者名・電話・FAXが記載されていれば形式は問いません。青法協合同部会(FAX〇三・五三六六・一一四一)まで送付下さい。九月一五日までにいただければ、パンフに載せることもできます。



書評

永盛敦郎「民事法律扶助法の施行と残された課題」を読んで、司法改革を思う

(財団法人法律扶助協会発行『日本の法律扶助』所収)


東京支部  小 池 振 一 郎

 淡々とした文章である。
 そのなかに、法務省との長い粘り強いたたかいと協力の歴史が何のてらいもなく書き込まれている。さらには、最高裁、政権与党との折衝、国会対策が加わる。そして、法律扶助協会・日弁連内部のとりまとめも。
 法務省に設置された法律扶助制度研究会で一九九七年に出された法務省構想は、民事法律扶助事業に国が責務を有することを明らかにした積極面と、刑事被疑者の弁護や少年審判事件の付添人活動を対象外とする消極面を併せもっていた。積極面は、扶助協会・日弁連の長年の悲願であり、何としても実現したい。しかし、消極面とのセットは到底容認できない。そこに協会内部の葛藤があり、条件闘争の考えも出てくる。そして随所に、国家財政窮乏の中で国の負担増大を警戒する法務省の立場との対立が出てくる。
 緊迫した状況の中で、研究会最後の海外視察として、日弁連三名、扶助協会一名、法務省二名の調査団がドイツ法律扶助を調査したが、法務省との溝は埋まらない。
民事法律扶助事業の運営主体としては、法律に基づき設立される認可法人が構想されており、扶助協会側も当初同じ考えであったが、土壇場で法務省が指定法人という考え方を示唆した。指定法人とは、民法の規定によって設立された公益法人が特別の法律に基づき国から指定を受けて公益性の高い業務「指定事業」を実施するもの。指定事業には国庫補助が受けられる。認可法人と異なり指定法人であれば、刑事・少年援助事業を自主事業として実施することができる。
 日弁連内は、一部の異論を克服して、指定法人方式に賛同した。そこで一九九八年三月指定法人構想に基づく研究会報告書がまとめられた。この報告書に基づき民事法律扶助法が成立し、扶助事業に対する国の責務が明記されることになると、扶助協会の組織もより国民に開かれたものにしていく必要が生じる。そこで扶助協会の機構改革が迫られる。扶助協会理事、評議員に占める弁護士の割合を最大半数に減らさなければならない。そのためには定数を減らさなければならない。それは協会組織、とりわけ多くの支部にとっては「痛みを伴う」ものであった。この頃から司法制度改革の動きが重なってくる。
 法律扶助制度研究会報告書路線と司法制度改革審議会との関係をどう調整するか。論議の末、研究会報告書に基づく改革を第一次改革と位置付け、第二次改革として司法制度改革審議会を通じて抜本的改革を目指すという適切な方針が打ち出された。かくして協会は、同審議会にも積極的に関わり、改革を訴えた。そうして審議会にも、研究会報告書に基づく立法作業を第一段階の改革として先行させることを認めさせた。
 他方で、自民党司法制度調査会にも積極的に関わっていく。そこで、認可法人構想をもっていた自民党委員との間で扶助協会の指定法人構想との交通整理を行った。
 こうして二〇〇〇年四月民事法律扶助法が全会一致で成立した。
その後は、刑事被疑者弁護・少年保護付添について公的弁護制度の実現に向けた各方面への働きかけが行われた。二〇〇一年三月には、「扶助協会が民事についてのみならず、刑事被疑者に対する弁護援助についても指定法人として指定を受け、公的資金を受け入れながら事業を運営することは充分可能である。」とする意見書を出し、協会として被疑者弁護の公的援助についてもその受け皿となる用意があることを鮮明にした。
 永盛弁護士は、扶助協会専務理事・事務局長として、これら一連の改革における実務の中心にいた。きわめて客観的に書かれた論稿でありながら、権力との暗闘と協調の確執がにじみ出てくるのが、面白い。まさに国家権力三権の内部に踏み込んだたたかいと解決に向けた知恵と決断を生むエネルギーが、気負いのない文体の背後からほとばしり出ている。
 それは、現在進行している司法改革の困難ではあるが意義ある道のりに連なるものであり、その一環であり、その前段であったといえよう。司法改革の正念場に直面している今、法律扶助事業をめぐるこれまでのたたかいの成果と教訓に学びながら、日弁連をはじめ内外の運動が飛躍的に前進することを切に願う。



書評

チョムスキー著『九・一一 アメリカに報復する資格はない』文藝春秋


東京支部  志 田 な や 子

 本書は、チョムスキーが九・一一事件後に受けたインタビューを翻訳したものである。チョムスキーは、アメリカこそ「テロ国家の親玉」であると数々の事実をあげている。一九八〇年以降のいくつかの事例をあげてみよう。
 「一九八〇年代、米国はパキスタンの情報機関と一緒になって(サウジアラビアや英国その他の助けも得て)、アフガニスタンにいたソ連に最大限の被害を与えるべき、見つけられる限りの最も過激なイスラム原理主義者を募り、武器を与え、訓練を施した」。ソ連敗北後、イスラム原理主義者たちがアメリカを標的にし始めるや、彼らは「自由の戦士」から「テロリスト」とみなされるにいたった。テロリストを庇護したとみなされたスーダンは一九九八年に同国に唯一の製薬工場を爆撃され「何万人もの人々がマラリア、結核、その他治療可能な病気に罹り、死んだ」。同様にアフガニスタンは食糧援助を停止され、数百万人を餓死の危機におとしいれた。九・一一事件後、世界から忘れ去られていた最貧国アフガニスタンは、ビン・ラディンを庇護したとして、米国から最新兵器をもちいた軍事攻撃を受けた(戦争と言うよりは人間狩りと言う方がふさわしい)。
 さらに米国と英国は、イラクに対し「その友人であり盟友であったサダム・フセインに、クルド人を毒ガス攻撃するなど、最悪のテロを彼がやっていた期間ずっと、強力な支持を与えた」。イラクはイスラム革命を起こしアメリカを追放した隣国イランに対して戦争を仕掛け、イラク・イラク戦争は双方に膨大な死者を出し延々と続き、フセインは米英の支持を得て、強大な軍事力と権力を保持するにいたった。フセイン政権がイラクと同様に隣国であるクウェートを侵略するや、今度は一転してフセインは米国の敵とみなされ、湾岸戦争でイラクは徹底的に攻撃されたうえ、その後も続く経済制裁によって医薬品などの供給を断たれ五〇万人の子どもが死に追いやられたと推測されている。
 また、八〇年代に「米国は中央アメリカで大きな戦争を戦い、二〇万人の拷問され手足をバラバラにされた死体、何百万人もの孤児と難民、荒廃した四つの国(ニガラグア、エルサルバドル、パナマ、グレナダ)を後に残した。米国の主要な標的はカソリック教会で、教会は『貧者の優遇』(解放の神学のこと)を採択するという重大な罪を犯していた」。ニガラグアは国際司法裁判所に提訴し、一九八六年に「米国は『無法な力の使用』(国際テロ)の廉で有罪を宣告され」たが、国連の安全保障理事会の決議案に米国は拒否権を発動した。
 ベトナム戦争までは鮮明に記憶があるが、以後の記憶は、断片的で前後関係に自信がもてない。アメリカがイスラム原理主義者をテロリストと口をきわめて罵っているのを聞くと、確か以前はアメリカの同志だったはずだが、記憶が間違っているのかと不安になった。しかし、ランボー・シリーズの映画『怒りのアフガン』を見て、ランボーとともに戦う「自由の戦士」(イスラム原理主義者)が出て来て、ホッとした。
 日本は今、アメリカの行う戦争(あるいは人間狩り)に本格的に参戦するために有事法制をつくろうとしている。今一度、アメリカが世界各地でこれまで何をしてきたのかを認識する必要がある。本書はそのための格好の書といえる。