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松井 繁明

残暑お見舞い申しあげます

板井 俊介

控訴断念と全面解決をめざして
〜原爆症認定訴訟熊本訴訟で六度目の勝訴〜

笹田 参三

岐阜に青年ユニオンが立ち上がりました

川口 創

奈良改憲合宿に参加して
〜イラク派兵などの改憲事実の先行をどうとらえるか

上山 勤

テロとの戦い

永尾 廣久

私のルーツ探し

前川 雄司

夕張問題検討会へのお誘い

泉澤 章

上田誠吉団員講演録「司法の行方を考える」希望者に差し上げます



残暑お見舞い申しあげます

団長 松 井 繁 明

 今年の夏は、梅雨も不順、七月だというのに台風の列島縦断、中越沖地震と、異常な事象が続出しました。八月にはいって暑さが列島をおおっていますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 自然現象以上に超異常だったのが、今年前半の政治でした。“消えた年金”にはじまり、「なんとか還元水」大臣から赤城農水相にいたる「政治とカネ」疑惑、自衛隊による国民監視、防衛相の「原爆しようがない」発言などは、安倍首相の政治家としての能力、資質に疑問を投げかけました。そのうえ安部内閣は、参院選挙の投票日を延長してまで、悪法の数かずを強行採決によって成立させました。

 これらにたいする国民の怒りが噴出したのが、七月二九日の参院選の結果です。自民党は歴史的惨敗、公明党も大きく議席を減らしました。護憲政党が議席を減らしたのは残念ですが、自公与党の大敗北であることに変わりはありません。

 安部内閣は当面、続投のようですが、今後の国会運営は容易なことではないでしょう。参院議長と重要委員会の委員長を野党に占められたもとでは、いかに衆院で三分の二を確保していても、対決法案を成立させることはほゞ絶望的となるからです。時期はともかく政権のゆきづまりは避けがたく、その場合は解散・総選挙が必至です。

 この選挙結果は、改憲阻止闘争にとってはどうなのでしょうか。今年の前半、改憲策動の原動力となったのは安倍首相本人でしたから、その求心力の低下は、改憲勢力にとって大打撃となるでしょう。憲法解釈の変更による集団自衛権の容認なども、有識者会議の答申まではこぎつけても、その法案化は困難になります。こうした半面、自民と民主の両改憲勢力の蜜月関係を壊したのが安倍首相だったので、その影響力の低下が蜜月関係回復の契機となるかもしれません。この両面を見なければならないでしょう。

 わたしたちは七月二九、三〇の両日、奈良で改憲阻止全国活動者会議を開きました。別に報告があると思いますが、会議は大きな成功をおさめました。この成功をふまえて、闘いの量的・質的転換をはかる決意です。

 さて、みなさまには長く激しい闘い、本当にお疲れさまでした。夏休みをしっかりとって、気力、体力の養生と回復にあてていただきたいものです。

 私自身は家ゴロ派(家でゴロゴロ)をきめこんでいますが、とくに予定もありません。なるべく政治や法律から離れたことについて読んだり考えたりして過ごそうかと考えています。

 九月末から臨時国会がはじまります。テロ特措法の延長などが焦点となるでしょうか。

 いずれにしても、みなさんのお力を借りて闘うしかありません。

 どうぞ、よい夏休みを!

 ほんらいは前号に「暑中見舞い」を載せる予定でしたが、選挙結果をみないと書きにくいでしょう、という担当事務局森脇さんのご配慮で「残暑見舞い」といたしました。



控訴断念と全面解決をめざして

〜原爆症認定訴訟熊本訴訟で六度目の勝訴〜

熊本支部 板 井 俊 介

1、国に六度目の勝訴(七・三〇熊本判決)

 平成一九年七月三〇日午前一〇時、これまで水俣病訴訟やハンセン病訴訟で勝訴判決が言い渡された熊本地裁一〇一号法廷を埋めた原告団、東京、近畿、鹿児島からの応援を含む弁護団及び満席の傍聴人は、再び、判決前の静寂と緊張感に包まれた。

 テレビ撮影を終えた直後、石井浩裁判長は、その静けさを打ち破り主文を読み始めた。

 「被告厚生労働大臣が原告上村末彦に対し平成一四年一二月二日付けでした原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律一一条1項に基づく原爆症認定申請の却下処分を取り消す」

 主文の読み上げ後、私は、弁護団の中島潤史団員とともに席を立ち「勝訴」の旗を手に取り、一〇一号法廷を出て熊本地裁の玄関を駆け出て、気温三〇度を超す炎天下の中、大勢の支援者が待つ正門へと向かった。

 判決は、二一名の原告のうち一九名の勝訴を言い渡した。「勝訴」「六度、原爆症認定行政を断罪」。近畿、広島、名古屋、仙台、東京に続き、熊本地裁も、思考停止状態に陥っている厚生労働大臣の原爆症認定行政を許さなかった。

2、東京での同時行動

 同じ頃、東京の厚生労働省前には、東京の原告団、弁護団とともに、すでに熊本弁護団の菅一雄団員、小野寺信勝団員が控えていた。小野寺団員は、熊本からの勝訴報告の電話を受け、私が熊本地裁で掲げたのと同様に、厚生労働省に向かって大きく「勝訴」の旗を掲げた。

 八月一三日までの二週間。この控訴期間に全てをかけ、連日、各地の原告団、弁護団支援者が厚生労働省と官邸に詰め寄る。全国の皆様には、猛暑の中の行動となるが、心より感謝する次第である。

 前日の参院選で大敗した与党は、核兵器による放射線被害を軽んずることを許さない国民意識を身を以て体験した。私たちは、この2週間を逃してはならない。今こそ政府に決断を迫らなければならない。

3、熊本判決の概要

 熊本判決は、DS86と原告らに対し発症した急性症状の矛盾や、誘導放射線及び放射性降下物などの残留放射線による外部被曝及び内部被曝を無視している点を批判している。とりわけ、熊本地裁で証人尋問を行った矢ヶ崎克馬琉球大学教授の尋問での成果として、内部被曝の危険性に関する知見を多数掲げ、そのことが、現在の「審査の方針」は高度の蓋然性の有無を判断する際の考慮要素の一つに過ぎないと断罪する大きな要因となっている。

 さらに熊本判決では、申請疾病についても、変形脊椎症や膝関節症、糖尿病について放射線起因性を認めるなど、これまでにないふみ込んだ判断を示した。

 このことは、放射線被害の理論的蓄積が乏しく、その全容が未解明であることを理由に被曝の事実をねじ曲げる一方、被爆者の急性症状を無視する認定行政の在り方を真正面から批判するものであり、今後も、各地の裁判所において同様の判決が続くことを予感させるものである。

4、全員の救済を目指す闘いを

  しかしながら、私は、熊本地裁前での「勝訴」の旗出しをする際、自責の念に駆られ、判決を喜ぶことはできなかった。判決原告のうち二名については、被曝線量の評価を誤り、あるいは、従前の認定例にも反し、放射線起因性を否定されたからである。

 私たちは、この国に、原爆症認定申請ができるにもかかわらず、未だに名乗り出ることができない被爆者が多数存在することを忘れてはならない。その意味で、この二名の原告は、大変な勇気を振り絞り人生をかけてこの訴訟に挑んでいたのである。私たちは、二名の原告の真実を裁判所に届かせることができなかった。

 今後とも、私たちは判決を厳しく見つめ直し、この二名を含め、数多くの被爆者の実態を司法の場で認定させるため、尽力する所存である。

 全国の団員に対し、私は、厚生労働大臣に対する控訴断念要請行動へのご理解、ご協力をお願いする次第である。



岐阜に青年ユニオンが立ち上がりました

岐阜支部  笹 田 参 三

1 岐阜に青年ユニオンが立ち上がりました。

 「青年が労働組合を立ち上げようとしています。不安定雇用の青年や中小企業で労働組合のない職場で働く青年や失業中の青年などが集まって「岐阜青年ユニオン」を結成(五/二七結成大会予定)します。意気高く進めていますが、人数も財政もまだまだです。皆様方のご支援をお願いいたします。」「岐阜県でも、正規・非正規にかかわらず未組織の青年労働者を対象にした「岐阜青年ユニオン」の結成準備が進められています。この運動を援助し、活動を支えることは、岐阜県の労働運動発展の土台となると思います。」と、岐阜青年ユニオンを支える会準備会は、呼び掛けました。

 そして、二〇〇七年五月二七日に岐阜青年ユニオンが立ち上がりました。設立当時の組合員は二〇名と少なめですが、元気に活動しようとしています。

 その岐阜青年ユニオンを支える会も同時に発足し、講師の派遣や経済的な支援をしていく予定です。

2 青年をめぐる状況

 政府と財界が進める「構造改革」のもと、労働者と国民の生活と権利が破壊されています。とりわけ青年労働者の雇用環境は九〇年代後半から急激に悪化し、派遣や偽装請負、アルバイトなどの非正規社員化が進み、青年労働者の中で不安定雇用と失業が約半数に達しています。こうした劣悪な労働環境の中で、青年労働者の労働組合への期待はかつてなく高まっています。

 ところで、ネット右翼と言われるように、現状に不満を持つ、若い青年が戦争を支持する動きも報道されています。差別され不満を持った、孤立した青年が、右翼的な激情に巻き込まれることは、ナチス運動など歴史的に何度も経験があります。

 格差によって痛めつけられている若者(三一歳フリーター)が、「『丸山眞男』をひっぱたきたい」との表題の下で、差別を温存する「平和」を打開するために、「希望は戦争」として、戦争という選択肢を選ばざるを得ないと主張する論文が最近話題になっています。この著者は、親と同居(パラサイト)し、フリーターとして働き、月一三万円の収入しか得られません。就職超氷河期に遭遇し、経済成長世代に怨嗟の目を向けています。

 この若者の問題提起をどのように受けていくのでしょうか。

 これに反して、同じ位の年齢の作家で、自称、右翼を経由して「左翼」の立場になった雨宮処凛(カリン)氏がいます。同氏は、首都圏青年ユニオンの川添書記長としんぶん赤旗紙上で対談をしています。

 この差はどこにあったのでしょうか。興味深いです。

 いずれにしても、このような中で、格差社会で痛めつけられた青年が、右翼的潮流に巻き込まれ「戦争をする国」の先兵となるのか、逆に、組織労働者として社会運動に参加し、社会変革の主体となるのかが問われています。

 青年問題は、日本の将来を決定する重要な分野となっています。

3 設立までの経過

 青年の中で青年ユニオンを立ち上げたいとの意見があったこと、岐阜市や大垣市で後藤道夫氏(都留文科大学教授)を講師として三回お招きし機運が盛り上がったことから、岐阜県労連と自由法曹団岐阜支部を中心として、青年ユニオン研究会を昨年から約半年行い、準備を進めました。

 ここで前提となっていたのは、岐阜で青年ユニオンを立ち上げるには、相当強力な支える会が必要であるとの認識でした。そのために、青年ユニオンの組織準備と支える会の組織準備を平行しました。

 青年の依拠する部分としては、勤労者通信大学等の学習参加者及び民青同盟員などでした。

 支える会については、学者、弁護士なども重要との認識でしたが、如何せん少数であり、卒業生がワーキングプアになっていることで、関心が深いと考えられた教員に重点を置きました。十分とは言えませんが、その部分が多数となっています。

 支える会は、二〇〇七年七月二〇日時点で、会員約六〇名、会計残高約七〇万円(会計・カンパ等)となっています。会員は、三年間毎年同額の会費を出すことになっています。会計残高は大半、青年ユニオンに払って、役員の活動費等に当てることにしています。

 三年後以降の経費については、その時点でどうするか決定することにしています。

4 設立以後の活動

 設立記念行事として、五月三〇日に「ワーキングプア一一〇番」をやったのですが、相談者は〇という結果でした。宣伝不足が決定的でした。

 今後、ネットカフェ難民の実情調査等もしていこうとの声が出ています。

 今週末の七月二八日には、中西新太郎氏が講師となって、中西新太郎さんと語る「格差社会と若者のいま」という演題で講演会が岐阜市内で開かれます。教員と若者が主体となった実行委員会が主催します。青年問題が岐阜県でもクローズアップされています。議論を深化し、今後の進路を見定めたいと思います。

 ところで、支える会の代表者は、私が、事務局に五九期の弁護士岡本さんにお願いして進むことになりました。

 特に、青年労働者と同世代の弁護士が、この運動に参加する意義は大きく、青年ユニオン運動の前進に不可欠です。同じ感覚を持った弁護士が参加することによって、相談もし易く、一緒に勉強していくことができます。若手弁護士を中心として、岐阜青年ユニオン応援弁護団ができるのを期待しています。

 青年ユニオン運動に若手弁護士が参加することによって、若手にとっても、鍛えられる絶好の機会ができます。

 支える会の規模としては、会員一〇〇名、会計残高一〇〇万円を目標にして進んでいきたいです。会員は、三年間毎年同額の会費を出すことになっています。金額一〇〇万円の目標は、岐阜青年ユニオンに半専従者を配置するために必要な資金を出すことです。弱小県としては、大変な課題ですが、断固堅持していきたいです。

4 教訓と今後の課題

 第一に、青年の自主性を大切にすること

 第二に、その支えとして、教師や弁護士などで組織する支える会が不可欠であること

 第三に、今後共、青年ユニオンと支える会が二人三脚で協力共同していくこと

 が重要であると思います。

 今後の課題としては、地域で生まれている青年の切実な労働者としての要求に機敏に対応していく体制を確保し、打って出ていくことです。そのために、半専従となった委員長が機敏に対応できるようになっていくのを期待しています。(二〇〇七年七月二四日)



奈良改憲合宿に参加して

〜イラク派兵などの改憲事実の先行をどうとらえるか

愛知支部  川 口  創

.奈良での改憲阻止徹底討論集会に参加させて頂き、大変勉強になりました。各地でそれぞれ工夫した取り組みがなされていることが改めてよく分かりました。

 その中で、北海道の佐藤博文先生と名古屋の私が、続けていずれもイラク派兵差止訴訟を進めている立場からイラク派兵の問題に焦点を当てた発言をさせて頂きました。

 佐藤先生と私の発言の趣旨は大きく次のとおりです。

 「現在もイラクではアメリカの違法な戦争(「市民への大量虐殺」と言った方が正確かもしれません)が継続し、およそ六五万人のイラクの市民が命を奪われています。そして米軍がイラクで最も大規模な「掃討作戦」という名の虐殺行為をしているバグダッドに、私たちの自衛隊が武装した米兵を送り込んでいます。私たちはイラクへの侵略戦争に「直接参戦している」という事実を踏まえることが大事であって、参戦していることを無視したまま「憲法九条を守ろう」と言っても説得力はあまりないのではないでしょうか。イラク訴訟には若い人達にも広がりがありますが、それは『楽しいから』ということよりも、イラクで命を奪われる子ども達の姿に胸を痛め、その命を奪う側にいるのが私たちという事実を知ったときに、「人の命を奪いたくない」という点で共感が広がっているのです。「九条」という条文を守ること自体に焦点を当てる余り、違憲のイラク派兵を放置していては、実は全く「九条を守る」闘いになっていないし、共感も広がらないのではないでしょうか」以上が佐藤先生と私の発言要旨かと思います。

 「若い人達が楽しいから参加する」という取り組みも私はとても重要だと思います。

 しかし「若い人は、楽しくなければ九条の問題に参加しない」というのは、若者を見くびった議論だとおもいます。イラクの事実をありのまま伝えることで、共感は確実に広がっていきます。内藤功先生の仰ったようにまさに「直球勝負」を私たちが堂々とすることが大事なのではないでしょうか。

.ただ、佐藤先生も私も、奈良での議論の際に大いに反省すべき点がありました。それは、上記のようなことを挑発的に発言するのみで、皆さんにイラクの事実を捉えるツールを紹介し忘れた、ということです。

 イラクの問題と日本の問題を知るツールはたくさんありますが、2つだけ紹介させて頂きます。一つは、DVD「イラクー戦場からの告発」(西谷文和)です。西谷さんは大坂のイラク訴訟の原告で、「イラクの子どもを救う会」というNGOを立ち上げ、イラクの子どもを支援する活動を続けています。この〇七年二月にもイラク入りし、イラクの惨状を映像で納めてきました。これはその取材を三〇分程度のDVDにまとめたものです。名古屋訴訟では、先の法廷でこのDVDを見ましたが、法廷からは(弁護団からも)涙をすする声がたくさん聞こえました。是非、イラクの事実を知って頂く上で皆さんにも見て頂きたいDVDです。わずか一〇〇〇円です。ネット上で「イラクの子どもを救う会」と検索頂き、お買い求め下さい。

 もう一つは、ブックレット「イラクの混迷を招いた日本の選択」(イラク訴訟全国弁護団連絡会議編・かもがわ書店)です。これは、自衛隊の違憲の実態を示し、「私たちは既に参戦しているのだ」ということを、分かり易くまとめたものです。イラクの惨状をDVDで知り、このブックレットで違憲の実態と私たちの責任を知る。是非、学習会等でご活用頂ければと思います。ブックレットは名古屋第一法律事務所の川口までお問い合わせ下さい。

【名古屋第一法律事務所 電話 〇五二ー二一一ー二二三六】



テロとの戦い

大阪支部  上 山  勤

1、この言葉は日常的によく耳にする。しかし、その言葉の意味するものについては認識は一致しているだろうか。広辞苑をひくと(1)政治目的のために、暴力あるいはその脅威に訴える傾向またはその行為。(2)恐怖政治、となっている。もともとは(2)の意味で使われていたはずだ。白色テロルと辞書を引くと、もとフランスの王権の象徴が白百合であったことからのネーミングで為政者が反政府運動などに対して行う激しい弾圧を意味したとある。しかし現在では圧倒的に(1)の意味で使われる。特に九・一一の事件の後はこの言葉は新聞に登場しない日のほうが少ない。いまさら、何を言ってるのだとお感じになるかもしれない。実は今年の六月二一日にワシントンポストが「CIAが過去の誤った行いを発表・・暗殺計画と国内のスパイ盗聴・・・」という記事を載せた。他の雑誌や新聞にも同旨の記事が登場した。CIAといえばれっきとした政府機関である。それが公式の文書でカストロ暗殺計画があったことを認めた?本当であればほっておくことができない。米国は自らテロをやってましたよ、って言ってるのと同じではないか。

2、世界情勢に詳しい諸先輩は、米国がテロ国家であることなんて当たり前じゃないか。いまさらのように言うな、とおっしゃるかもしれない。しかし私の知っている限り米国は「自由と民主主義」を標榜する国であり、自分がテロをやりましたなんて絶対にいわない。いろいろと理屈をつけて正当化し、国民を騙し続けて今日に至ったはずであった。一連の中・南米への干渉もしかり(麻薬との戦いなどというお笑いネーミングすらある)、アフガン侵略だってテロの首謀者をかくまっているとして攻撃を正当化した。イラクも大量破壊兵器・アルカイダとの関係をあげて国連演説を行った。根拠が薄くなると、イラクに民主主義をという理由にもならない理由を掲げて相当なほころびを見せているが、それでも正当化は必要なのである。それなのに絶対に認めないはずの事柄を公式文書で認めているのであれば、使えるではないか。

3、早速CIAのホームページにアクセスして文書を入手した。末尾にその要点を付記するが確かに認めていた。米国は自らテロをやっている。

 ブッシュ大統領は九・一一の後の九月二〇日の上下両院の合同会議の席上、テロ支援国家に対し『どの地域のどの国家も、いま、決断を下さなければならない。われわれの味方になるか、あるいはテロリストの側につくかである。』と演説している。テロ支援国家として米国が名指ししているのは、キューバ・イラン・イラク・リビア・北朝鮮・シリア・スーダンの七ケ国である。しかし、テロ国家がよその国をテロ国家と呼ぶとはどういうことであるか。こんがらがってくる。特に、今般CIAが公式に認めたのはキューバのカストロへの暗殺計画である。テロを仕掛けた国が被害者の国をテロ支援国家とはこれいかに。調べてみると、米国領事館のホームページがなぜキューバがテロ支援国家なのか説明している。それによれば、理解可能な説明部分では要するにキューバがテロ活動を行ったメンバーを幾人もかくまっていることが理由のようだ。しかし、それを言うなら、中・南米の国々で何十万という市民を国家テロで虐殺したり、公然と武器を持って破壊活動を繰り返した何人もの人物を米国のフロリダにかくまっている事実をどう説明するのだろうか。

 後記のカストロ暗殺計画は、ちょうどケネディ大統領の時代である。ケネディはミサイル危機で有名であるが実は存命中、キューバ問題は政府の最優先事項であり、カストロ政権を転覆させるために時間も手間も惜しんではならないとしてさまざまなテロ活動を含む『マングース作戦』なるものを展開している。米国のキューバに対するテロ行為は一九九〇年代の半ばまで続けられた。

4、調べていくと、なぜか米国自身がテロの親玉になっていく。その典型はニカラグアに対する攻撃だろう。隣国のガテェマラに軍事基地を造り、軍事援助を続けてコントラの軍事訓練を施し、ニカラグアに侵攻させた。サンディニスタ政権を目の敵にして診療所や学校などの民間組織を集中的に空爆し、コントラの要員をして破壊の限りを尽くさせた行為。指揮官は後にイラク戦争のさなか米国の国連代表になった「米国大使」の肩書きのネグロポンテ。この米国の活動は国際司法裁判所によっても違法とされ賠償の命令まで出されている。国際司法裁判所によってテロ行為で違法だと断罪されたのは国家としては米国だけである。世界に際立った違法国家といってよい(それでも平気な顔ができるところがスーパーパワー=超大国なのかも知れない)

 識者の中には、米国がなにをやってもそれはテロではない、米国がテロだというものがテロなのだという者すらある(ノームチョムスキー)。こんな状況だから、テロという言葉は使わないほうが賢明である。

 CIA報告文書要旨を添付する。

前提となる事情

一九四二年 CIA創立
一九四七年 国家安全保障法により、予算と権限をCIAが獲得
一九五九年 一月 キューバ革命 カストロ米国企業の国内資産没収
一九六〇年 米国 対キューバ禁輸措置発動
一九六一年 一月 米国とキューバ国交断絶
四月 コチノス(ピッグス)湾事件? 反革命軍キュバー進行に失敗
一九六二年 一〇月 ミサイル危機
一九六三年 一一月 ケネディ暗殺

Family Jewels(カストロ暗殺計画 など)

1、文書は一九七三年五月一六日付けの「長官ならびにCIA運営委員会」宛てのFamily Jewels との標題の文書で始まっている。文責は開示されていないがこの時期のCIA長官であることは肩書きから明らかであり、過去のCIAの活動の調査と報告を命じたSchlesingerであることは明らかである。文書の目的としては「自分の見解では国家安全保障法の目的とは対立する、過去のCIAによるもしくはCIAの援助の下で行われた活動の要点を振り返るためのもの」として取りまとめたのだとある。(すでにSchlesingerを厚く信頼していたニクソン大統領のウォーターゲート事件が発覚していたし、七一年一月にワシントンポストが「CIAの用意した六名がカストロ暗殺を試みた」と報道していた事実がある。新聞報道時のCIA長官は「McCone」であったが、新聞記事によれば同長官はインタビューに対し、そのような議論がされたことはあったが直ちに却下されCIAがそのような計画に加わったことは一度もないーと否定したとされている。ウォーターゲート事件を契機としてCIAの中に調査委員会を作り、その報告をSchlesingerがうけて取りまとめたものである。)

 CIAの過去の違法な活動を取りまとめた前記文書は八個の項目から成り立っている。そのうちカストロ暗殺計画は『Johnny Rosselli』という標題である。これ以外の七個は、モッキンバード計画という違法盗聴活動、ソ連のスパイのイバノビッチ・ノーセンコを幽閉した活動、警察の新聞記者監視にかかるサポート活動、大都市での反体制派などへの警察活動のための装備品提供サポート活動、シークレットサービスへの電子機器対抗措置の提供、マイアミにおける政治集会への直前における特殊装置のテスト・・・(最初の一個は依然として開示されていない)となっている。

2、文書の要点は長官がまとめている。それによれば(1)非常に微妙な活動なので少数のグループで行うこととし、長官(Dulles長官ということになる。)がそれに承認を与えた。(2)活動の期間は一九五九年三月〜現在(一九七三年)である。(3)望まれれば上司の制約がない限りこれらの文書について説明をする。として、各項目に関するいくつかの文書を添付している。Johnny Rosselliに関する添付文書の中には、疑惑を報道したワシントンポストの記事のコピーや調査委員会の報告書が存在している。

3、「Johnny Roselli」報告書の全部をここで紹介することはできない(関心のある方はCIAホームページへ)。ここでは要点を記載したい。

(1)一九六〇年八月、リチャードビッセルは、CIAが暴力団タイプの支援者を必要とした場合に決断をしてもらうべく、シェフフィールド・エドワード大佐に接近した。任務の対象はフィデロ・カストロであった。

(2)大変に微妙な問題であったので、計画に先立ち内密に少数の人間が選任され、CIA長官は口頭で説明を受けてこれを了承した。JCキング大佐は口頭で説明を受けたが詳細な全体像は、司法関係者の誰に対してもわざと秘密にされていた。しかるべきTSDと連絡職員は最初の計画段階から参加をしたが任務の目的は知らされていなかった。

(3)CIAの要員であったロベルトマシューは計画を知らされ、もしも彼が計画を遂行するため、暴力団員の登録をするのであれば事を確かなものにしてほしいと要求した。

(4)マシューは、ラスベガスを訪ねて知り合ったJohnny Loselliという人物を知っており、彼がマフィアのシンジケートの幹部ですべての製氷機の販売を牛耳っている、彼が真実組織のメンバーであればキューバの博打うちとも繋がりがあるはずだ、とアドバイスした。

(5)マシューはLoselliに接近するよう求められた。Loselliはマシューを個人的に知っており国の内外の事に関しての高級官僚であると思っていた。そして、Loselliの依頼者でいくつかの国際取引をしているものがいるがカストロの活動のおかげでひどい経済的損失を蒙っているものがいることを告げていた。Loselliとマシューは彼らの問題解決のためにはカストロの排除が必要だということを確信した。成功した場合の報酬は一五万ドル。しかし、Loselliは、この計画に米国政府は気づいておらず、また、気づかれてはならないことも念を押された。

(6)Loselliへの申し入れは一九六〇年九月、ニューヨークのヒルトンホテルで行われた。ジェイムズ・オコネルがそこで、Loselliに対し、自分がマシューの雇い主であると明らかにしている。オコネルの仕事はloselliとの連絡であり、一九六二年に彼が海外の仕事に携わるまで続いていた。Roselliは最初は巻き込まれるのを嫌がっていたがマシューの説得でキューバのなかまをよく知っているSam Goldを紹介することに同意した。Roselliは報酬はいらないといい、多分Samも同じだろうといっていた。結局彼らに対しては一切CIAの資金からは、報酬は支払われていない。

(7)九月の二五日のある週に、マシューはSamに紹介された。Samはマイアミビーチのフォンフーヌホテルに泊まっていたが、ハバナとマイアミの間で密売に従事していることを打ち明けた。RoselliとSamの本名はそれぞれ判明した。どちらも司法長官の凶悪犯指名手配者10名の中にいっている人物であり、Roselliはコーザノストラ(マフィヤ)のシカゴ支部の首領、Samはコーザノストラのキューバ取引のボスであった。

(8)任務を完遂するための手立てについての議論の中で、Samは銃器の使用に訴えるよりもある種の丸薬を提供してもらえばそれをカストロの食事か飲み物の中に入れることが可能なのでより効果的だと主張した。将来の予想される協力者として、キューバ人の事務官で未だにカストロとも接触がありギャンブルでの売り上げからキックバックを受け取っている、つまり、金に括られているJuan Ortaという人物がいることを示唆した。

(9)TSDは高い致死性の内容物の丸薬六個の製造を要求された。

(10)ジェイムズ・オコネルはOrtaに丸薬を渡した。数週間後Ortaは明らかに怖気づき、暗殺計画から外れたいと言ってきた。

(11)Ortaはアンソニーベロナ医師をどうだろうかと提案した。彼は国外追放キューバ人の組織の精神的な指導者であったが組織の活動に進展が無いため自分でその任務を執り行おうとしていた。

(12)ベロナ医師は組織の経費として一万ドル、および一千ドル相当の通信機材を要求した。

(13)しかし、計画がピッグス湾事件のすぐ後にキャンセルされたためベロナ医師の能力が発揮される事は無かった。ベロナ医師は申し出が撤回されたことを告げられ、丸薬は回収された。

(14)計画の途中で、ラスベガスのナイトクラブでSamが警察に逮捕される事態があり、Samが警察官の電話でマシューに助けを求めたことからマシューも逮捕されるということがあった。CIA長官が当時の司法長官ロバートケネディに電話して、マシューは起訴を免れた。

(15)1962年にこの事案の担当がウィリアムハーベイに替わり、以後Roselliについては記録されていない。

(16)その後、FBIからRoselliが米国への不法登録を含む六つの犯罪を犯していたことを知らされた。

(17)一九六八年一二月にLoselliは他の四人の仲間とともにインチキのジンラミーというトランプで四〇万ドルを騙し取る犯罪を犯した。

(18)ハーベイは逐一、Roselliの動向を報告している。

(19)Roselliの弁護人がマシューの弁護人に電話をかけてきて、Roselliが国外追放に直面していること、もしも誰かが仲裁をしなければRoswlliはすべてをバラスといっている、告げた。

(20)一九七〇年一一月、Helmsはこのケースの最終段階の状態を告げられ、CIAとしてはRoselliに対して一切の援助をしないこととし、そのことをマシューにも伝えた。マシューもこれを了解した。そして、もしもRoselliがすべてをばらしても自分は一切かかわりがない、と述べた。

(21)後に、Roselliかその仲間がジャックアンダーソン(新聞記者)にこれらの計画を話し、それをあつかったアンダーソンの二つのコラムが新聞にのった。

(22)最後に知られているRoselliの住所は、ワシントン州シアトルの連邦刑務所である。

以上



私のルーツ探し

福岡支部  永 尾 廣 久

父を取材

 明治四二年生まれの父が不治の病にかかったのを知り、元気なうちに父の生い立ちを聞いておこうと思い、テープレコーダー持参でインタビューをはじめた。すると、意外な話がポロポロ出てきた。話を聞く前は大牟田のしがない小売酒店の亭主でしかない父に、たいした人生などあるはずもないと思いこんでいた。まったく期待することもなく、単なる思い出残しのつもりで始めた。だから、質問もおざなりで、何の準備もしていなかった。ところが、父から話を聞き、その背景事情をいろいろ調べてみると、波瀾万丈とまではいかないけれど、人間の一生というのは時代の波に翻弄されながらも、やはり大変なものだとつくづく思い至った。そんな父親をこけにしてきたなんて、自分はなんと馬鹿な息子だったのかと初めて自覚させられた。

 中学生、高校生のころ、親とはほとんど口をきいた覚えがない。思春期に入ってからの私は、この世に一人うまれて、自分の力で大きくなったように錯覚していた。生意気そのものだった。

弁護士は正業にあらず

 父が司法官試験を受けたことがあると聞いて驚いた。百姓の長男だった父は農業を継ぎたくなくて上京し、働きながら法政大学に通った。法学部に移った父は、刑法は東大を定年退官した牧野英一博士から教わった。また、当時三五歳で新進気鋭の我妻栄博士から民法総則を学んだ。

 父は、弁護士志望でなく検事を目ざしていた。弁護士には魅力を感じなかったという。なぜ? 当時の社会情勢を調べてみると、たちまち疑問は氷解した。父が法律の勉強をしていたころは治安維持法が猛威をふるい、小林多喜二が築地警察署のなかで虐殺されたり、日本労農弁護士団の弁護士たちが一斉検挙されたりしていた。なにしろ、弁護士が法廷で弁護人として共産党関係者を弁護すると、それ自体が「革命の目的遂行に資する」行為として処罰される時代だった。軍人が威張りちらし、弁護士に向かって「正業に就け」と怒鳴ったという話がある。いやな時代だった。大正デモクラシーの自由な雰囲気が薄れ、世の中が重苦しい雰囲気になっていた。

 父は猛勉強の甲斐なく、合格することはできなかった。ついには神経衰弱になり司法界へ再度チャレンジする余裕もなかった。それでも、勉強した成果はあって、「俺は法政を一番で卒業した」と父は自慢した。『法政大学百年史』の写真集を借りて見てみた。卒業式のとき証書を受けとっている学生は父のように見える。また、『法政大学80年史』によると、父が在学中の法政大学では紛争が起こり、学生たちがストライキなどをしていた。これは私の学生時代に大学紛争(私たちは東大闘争と呼んでいた)が起きたのとまるで同じだ。いま私は、自分の大学生活をふり返って本にまとめつつある。東大闘争やセツルメント活動など、語り継ぐべきものがあると考えたからだ。『清冽の炎』(花伝社)である。この七月に第三巻を刊行した。このあと六巻まで予定している。

 父が大学を出たころは「大学は出たけれど」という時代であり、就職先が見つからず、ようやく筑豊(上山田小学校)で代用教員として働くようになった。子どもたちを教えるのは楽しかったが、なにしろ給料が安い。これではとても結婚できそうもないと父は考えた。

応召

 そこで、父の出身地の大川にある清力酒造の社長のつてを頼り、父は三井化学(三池染料)に入社した。初めは青年学校の教諭だった。戦前に青年学校というのがあったことも調べて初めて分かった。その後、三井の社員にやっとなれた。二九歳のとき、父にも赤紙がやってきて、久留米の第四八連隊重機中隊に入営した。そして、中国大陸に送られ、一九三八年に始まった武漢政略作戦に陸軍一等兵として従軍した。戦場で危ない目にもあったが、父は次々に病気にかかった。痔、脚気、マラリア。そのおかげで本国送還命令が出た。父の所属していた部隊は、その後、ビルマ戦線に送られて全滅した。生死の境目は、まさに紙一重だった。中国では侵略軍の一員であったが、父個人は軍隊の被害者でもあった。

 上官の「突っこめ」という号令で突撃し、夢中で撃っていたところ、いつのまにか中国軍の軽機関銃の真正面にいた。弾がとんできて周囲の草や木にプスプスあたる。あわてて物陰に隠れた。「突撃ちゃ、やっぱ、えすかばい」父はこう語った。

労務課徴用係として朝鮮人連行

 父は三井化学で労務担当の係員として働いた。はじめは、九州各地から徴用されてきた労働者を現場で働かせるのを管理する仕事だった。しかし、第二次大戦がすすむなかで男子工員が次々に兵隊にとられ、たちまち人員不足となった。その穴埋めに始まったのが朝鮮人の徴用だ。父も徴用係長として朝鮮に出かけた。京城の総督府で手続きをすませ、朝鮮人五〇〇人を汽車と船で連れてきた。

 父が行ったのは終戦の年の三月。アメリカ軍が硫黄島に上陸し、東京大空襲が始まっていた。朝鮮人の本土連行は徴用令によるもので、強制的なものだった。警戒厳重ななかを連行してきたが、日本に行ったらメシが食えると喜ぶ朝鮮人もいたと父は語った。これも調べてみると、日本が食糧を強制的に供出させていたから、当時の朝鮮半島は食糧不足状態になっていたことによる。

 三池炭鉱で中国人や朝鮮人を働かせていたことは私も知っていた。しかし、三井の各企業にも朝鮮人徴用工が働いていたなんて知らなかった。私は三井化学の社史などを読んで父の話の裏付けをとった。明らかに父は加害者の一員だった。

父の弟は八路軍に

 父の弟(永尾久)は八八歳になる今も大川市内で健在だ。召集令状が来たので、あわてて結婚し、一夜妻をおいて中国へ渡った。終戦時は中国東北部(満州)にいて、武装解除された。鉄嶺にいたとき、八路軍の募集に応じて工兵隊の便衣隊員となり、中国東北部を行軍してまわった。蒋介石の国民党軍との国共内戦に参加したわけだ。「三大規律、八項注意」をスローガンとする紅軍(八路軍)の規律の良さを叔父は今も高く評価している。そのうち、紡績工場に配属され、そこで、日本人女性と知り合い結婚した。日本に残していた妻は叔父の帰りを待ちくたびれて、離婚手続きを終えていたのが幸いした。

四七歳で脱サラ

 父は四七歳のとき脱サラを図った。五人の子どもをかかえ、サラリーマンでは子どもたちを大学にやるのは無理だと考えたからだ。父は小売酒店を始めたが、人をつかう身からの転身で、すぐには客に頭を下げることができなかった。

 三池争議があり、三池工業高校が甲子園球場に初出場して優勝した。周囲にたくさんの炭鉱社宅があり、お酒が大い売れたおかげで、兄弟五人のうち四人まで大学にすすむことができた。

 こんな父たちの生い立ちを、私は『まだ見たきものあり』という一五〇頁ほどの新書版の本にまとめた。まとめるのに父が死んでから、一二年かかった。

三笠家の人々

 大正二年生まれの母が昨夏、九三歳で亡くなった。母についても生前に聞きとりをし、本人も思い出の記を書いた。それをもとにして、少しずつ調べていった。母の父は、久留米市内の高良内町(かつての高良内村)の収入役や助役などをやっていた。三笠市太郎という母の父について、私にはかすかな記憶しかない。

 戦前の不景気のときのことだ。久留米駅頭に「ちょっと待て。東京も不景気なのだ。考え直せ」というポスターが貼られた。三笠市太郎については、久留米市役所に問い合わせて、いろいろ教えてもらった。久留米市史や古い人物誌にも三笠市太郎は登場していた。

 そして、母の異母姉の夫に中村次喜蔵という将軍がいることを知った。久留米市史にも登場している。中村次喜蔵は第一次世界大戦が始まると、中国の青島(チンタオ)にあったドイツ軍の堅固な要塞を攻略して一躍勇名をはせた。青島にあったドイツ軍要塞攻略戦の写真や図面も手に入れることができた。皇居に呼ばれて天皇の前で御前講義もしたという。そして、大尉のとき、陸軍大将秋山好古(よしふる)の副官となった。「坂の上の雲」に出てくる、日露戦争で騎馬兵団を率いて大活躍した、あの秋山好古である。さらに陸軍大将宇垣一成の副官もつとめた。五・一五事件が起きた頃(一九三二年)のこと。母はちょうど福岡女専の修学旅行で上京していて、事件にぶつかった。

 その後、中村次喜蔵は陸軍中将として中国に派遣され、関東軍を構成する陸軍一一二師団長となった。そして終戦直後、現地で「割腹」自殺した。中村次喜蔵について調べるため防衛庁の戦史研究室に照会し、靖国神社の近くにある偕行社に訊くことにした。偕行社の担当者は、いろいろ親切に教えてくれた。

 一九六二年発行の陸士二四期生会誌に「中村次喜蔵君の追悼録」が特集されており、そのコピーも送ってもらった。これによって「英語に長じ、長身の堂々たる好漢」とか、その人となりを知ることができた。

 自殺した状況についての復員連絡局の報告書も入手することができた。中村師団長は割腹したのではなかった。愛用の拳銃で自殺したのだった。自殺する直前に部下の将兵を前に指示した言葉が、次のように記録されている。

 「大東亜戦争は遂に終わった。諸君はぜひ内地に帰還し、新しい日本の建設につとめられたい。ここの戦闘の責任は、ひとり指揮官たる小官にあり、諸君らに責任はない」

 このとき、参謀長と兵器部長も同時に自殺しており、その位置をしるした図面も手に入れた。残った人々は進攻してきたソ連軍に連行されてシベリア送りになり、多くの人が生命を失った。

 大牟田の家(三井の社宅)は全焼したが、幸い一家は全員無事だった。

釜石ラグビー部七連覇

 母の異母兄の子に三笠洋一という人がいる。戦後、東大野球部で活躍し、新日鉄釜石ラグビー部の監督として活躍した。洋一は既に故人となっているが、奥様が東北で健在だということが判明したので、手紙を出したところ、洋一の活躍状況がさらに分かった。東大野球部のほうは手がかりがなく調べられなかったが、ラグビー部の活躍のほうは探しているうちに格好の本にぶつかった。新日鉄釜石ラグビー部が史上初の七連覇をなし遂げた時代だ。一九七七年から一九八五年までのことで、既に私は大牟田に弁護士として戻っている。主将として活躍した松尾雄治の書いた本『勝つために何をすべきか』(講談社)にこの三笠洋一が「ゴム長靴をはいてきたラグビー部長」として登場する。そこでは松尾雄治を釜石から勧誘に来た好人物として描かれている。

『三笠家の人々』

 私は、いま母につらなる人々の歩みを読み物としてまとめようとしている。まだ完成版ではないが、母の旧姓をとって『三笠家の人々』と名づけ、少しずつ書きすすめている。さらに、アルバムと聞きとりの録音テープを組み合わせたDVDをプロに頼んでつくってもらった。『一緒に生きて幸せでした・・・』というタイトルの三〇分もの。父と母が元気なころに語る音声も入っているので、聞くたびに懐かしい思いにかられる。依頼者の方々にも見てもらったところ好評だった。



夕張問題検討会へのお誘い

東京支部  前 川 雄 司

 市民問題委員会では夕張問題の検討会を左記のとおり行うことにしました。夕張問題とは何なのかに関心のある方、ぜひご参加ください。


日時 八月三一日(金)午後五時三〇分〜
場所 自由法曹団本部
内容 保母武彦他「夕張 破綻と再生 財政危機から地域を再建するために」(自治体研究社)を素材に、報告と意見交換をします。

※この本を読んでいなくても参加してください。

 以下、この本の第I章から、夕張問題の位置づけを紹介します。

 この章は、マスコミや一部の学者を使った大々的な「夕張たたき(バッシング)」のキャンペーンの分析から始まる。

 その第一段階は、財政破綻の原因をあげて夕張市政の責任にする「夕張市責任論」である。夕張市に全責任があるのであれば、財政再建の全責任も夕張市がとるべきであり、厳しい住民負担と行政サービスの削減もやむを得ないという世論誘導がなされ、夕張市の自己責任で借金の返済を行う過酷な財政再建案になっていった。

 国鉄分割民営化の「カラ・ポカ・ヤミ」キャンペーンとよく似た手口ではないだろうか。もっとも国鉄は財政破綻ですらなかったのであるが。

 その第二段階は、住民負担と行政サービス削減の厳しさである。それが「見せしめ」効果を生み、各地の地方議会で「第二の夕張にならないために」という議論が盛んに行われ、行政サービスを自粛する動きが目立っているというのである。

 それだけではない。政府は、全国の自治体に夕張の惨状を見せつけることによって、総務省が検討している「自治体破綻法制」制定の地ならしをしようとしているということだ。

 夕張問題は夕張だけの問題ではない。全国の地方自治体の問題であり、地方自治の根幹にかかわる問題となっていることがわかる。

 その意味で、夕張市の財政破綻の原因と責任を広く明らかにすることが求められている。

 「いざなぎ景気」を越える景気回復がいわれる中で、地域格差が広がっている。地方の経済と財政が危機に瀕するなかで、夕張はその氷山の一角として、起こるべくして起こった財政破綻であったという。自治体財政破綻の予備軍は急増している。どこの市町村が財政破綻してもおかしくない状況が広がっているというのだ。(今回の民主党の躍進の一つの要因ともなっているでしょう)

 その背景を、この本は次のように述べる。

 二〇〇一年に第一次小泉内閣が発足し、その最初の所信表明演説で、小泉首相は、「競争的な経済システムを作ること」「競争政策を確立」することを表明した。それ以降、市場原理主義を基調とする構造改革により、格差と貧困が深刻となった。「国土の均衡ある発展」は一八〇度転換され、「効率の悪い」地方への財政資金の流れが断たれ、合併で末端行政組織が再編され、東京大都市圏の強化が図られる一方、希望のもてない地域が全国の農村・地方に広がった。また、公共サービスを市場経済に任せる地方自治体解体政策が進められてきた。

 構造改革がめざした「競争的な経済システム」からすれば、夕張市の財政破綻は「競争力をつけなかった夕張の責任」であって、競争社会の必然的な結果にすぎないことになる。また、公共サービスを極限まで切りつめる「夕張市財政再建計画案」は、「民間に任せる」立派なモデルであって、全国の自治体が手本にしてほしい、ということになるであろう。

 政府が推進してきた市場原理主義に基づく「競争的な経済システム」形成のなかで、財政破綻に至った最初の犠牲が夕張である。夕張問題は、全国各地の地域社会と地方自治の将来に重要な影響を与える可能性がある。

 「夕張市財政再建計画」で公共サービスを「全国最低水準」に設定させることは、ナショナルミニマムを限りなくその水準近くまで切り下げるための実験ともなる。夕張を国の自治体解体モデルにしてしまうか、それとも夕張を、今後に予測される地方財政破綻地域の民主的再生モデルにするか。そのどちらの道を歩むかが、問われている。

 夕張市とその市民への哀れみではなく、全国的な重要課題が凝縮された焦点としての夕張問題に真摯に対応することが、各自治体を守り、現在と将来の日本の地方自治を発展させることになる。

 長い引用になってしまいました。夕張問題は、まさに新自由主義による憲法破壊の一つの焦点となっていると言えそうです。ぜひ、ご参加ください。



上田誠吉団員講演録「司法の行方を考える」希望者に差し上げます

東京支部  泉 澤  章

 昨年秋、東京合同法律事務所の学習会にて上田誠吉団員が講演した「司法の行方を考える」の講演録が出来上がりました。上田誠吉団員は、同年九月八日に傘寿を迎えました。

 先般の自由法曹団五月集会(熊本)にて全体会資料として既にお配りしておりますが、参加されなかった団員の方を含めご希望される方に、差し上げますので下記の要領でお申し込み下さい。

「司法の行方を考える」を何冊希望と明記の上、郵便にて郵券をお送り下さい。

一冊分=八〇円切手二枚。

   〒一〇七ー〇〇五二 

   東京都港区赤坂二ー二ー二一永田町法曹ビル二階

   東京合同法律事務所 担当斉藤宛

   不明な点は、事務局斉藤迄お問い合わせ下さい。

   電話 〇三ー三五八六ー三六五一