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上田 月子 五月一一日法律家デモに参加して
高島 泰一 五月一一日法律家デモ・院内集会へ
坂本 雅弥
(大量解雇阻止対策本部)
五月一一日労働者派遣法抜本改正を求める法律家デモ等の報告
大久保 賢一 NPT再検討会議に向けての日本の法律家の提言
永尾 廣久 司法制度改革はせめぎあい
「陰謀」論には与しない
中野 直樹 釣り竿と憲法(一)
井上 洋子
(国際問題委員会委員長)
自由法曹団の英文リーフレットができました
杉本 朗 『上田誠吉さんをしのぶ会』のお知らせ



五月一一日法律家デモに参加して

埼玉支部  上 田 月 子

 二〇一〇年五月一一日、もう少しで正午というときに、日比谷公園霞門近くには人が集まっていました。しかも、ある者は横断幕をかかげ、またある者は大きな長方形の旗を持って、平日の昼間、しかも雨にもかかわらず、集まっていたのです。その一群を発見して、安心しました。なぜなら、その一群の正体を知っていたからです。その一群は、敬愛すべき、弁護士、事務局員、労働組合員らで構成されていました。幸いなことに私もその一員なのでした。

 予定どおり東京法律事務所のカッパを借り、同期の本田さんが午前二時までかかって作った新六二期の横断幕を持たせていただきました。横断幕を作るなんて、私は思いつきもしなかったのに、それを思いついて、しかも新六二期という文字を入れることも思いついて、また、その日の仕事が終わってから実際に作った本田さんはただ者ではありません。この日私は弁護士になって初めて弁護士バッジをつけました。弁護士バッジはなくても弁護士はできるので、弁護士バッジなどいつもは必要性を感じないのですが、「法律家デモ」には必要な小道具です。

 正午になり、街宣車の上から、鷲見先生(自由法曹団)、大黒さん(全労連)、土谷さん(JMIU)があいさつしました。この間街宣車を見上げて話を聞いていましたが、集まった報道陣が写真を撮ってくれるので、カメラ目線にすべきか、それともカメラを無視して街宣車を見上げていた方が自然で良いのか悩みました。あいさつが終わると、いよいよデモの開始です。「新人です!」と書き加えられた新六二期の横断幕を本田さん、高橋さんと持ち、前から二列目で行進しました。

 やがてシュプレヒコールが始まりました。日常ではありえない、路上(しかも車道)で堂々と大声で叫べるところがデモの醍醐味だと思っていたので、心行くまで叫ばせていただきました。

 また、途中、共産党議員が机を前に横一列に並んで出迎えてくれるポイントが二か所ありました。まるでマラソン大会に出ている時に道端の給水ポイントで激励を受けたみたいな感覚でした(もちろん、マラソンほど疲れてはいませんでしたが)。二か所あるのは、衆議院と参議院があるからで、それぞれ請願書類の入った封筒を渡すお約束になっていたみたいなのですが、最初の衆議院で封筒を二つとも渡してしまい、次の参議院では渡すものがなくなっていた、という微笑ましいアクシデントもありました。

 デモは前の方にいたので、参加人数は少ないと思っていたのですが、実際は二五〇名の参加を得て、結構大規模なものだったらしいです。雨の中のデモというのも、熱意が感じられて良かったのではないでしょうか。デモに続いて、衆議院議員会館での院内集会と議員要請がありましたが、「法律家デモ(四年ぶりらしい)」に参加したのは初めてだったので、デモ参加の感想に終始させていただきました。この日のイベントには新六二期が通算八名参加し、内一名は京都からの参加だったことを申し添えます。



五月一一日法律家デモ・院内集会へ

神戸あじさい法律事務所  高 島 泰 一

 本部より兵庫県支部長、幹事長それぞれに参加要請のご連絡を頂いたのですが、時間がとれず事務局の私たちに参加せよとの指示を頂いたのは、五月一一日目前でした。特命を受けた私と相棒の大西氏の参加を登録し、支部より派遣されました。登録派遣労働者として一一日雨の中、新神戸を発つことになったのです。

 東京も雨。日比谷公園では雨の中を二五〇名の団員、事務局、労働組合の方々が、熱い思いで参加されていた。詳細は「しんぶん赤旗」の一二日をお読み下さい。

 雨の中をデモ行進。なかなか風情があったが、途中のぼりを降ろせと警察が言っているのは何故なんだろうなどとお上りさんよろしく国会へ向かいました。

 請願には衆・参とも日本共産党の議員の方がおられ、今の倍の議員が誕生すればと思いながら思わず手を振っていました。デモでは新六二期の団員の皆さんの横断幕が光っていた(前記しんぶんに写真が載っています)。

 デモの後は衆議院第一議員会館で院内集会が行われました。参加者は五〇名ほどに減っていましたが。仁比参議院議員からの情勢の報告、各地からの報告が有ったのですが、突然、兵庫県支部から・・・と指名を受けました。しどろもどろになりながら話した記憶がかすかに残っています。

 派遣法の審議が止まっているとの報告で、それではこのまま静かに廃案になればとの思いがよぎったところで、鷲見幹事長が、徹底審議をして良いもの作らなければ、決して廃案にはさせない。九九年以前に戻す!との言葉に目から鱗でした。

 議員要請では、東京法律事務所の本田先生と行動しました。ただ後ろについて頭を下げるだけでした。本田先生すみませんでした。全員が秘書対応で話が弾みませんでした。ほかのグループでは結構秘書さんに突っ込みを入れていたようで、秘書対応であっても話を引き出す術をと考えさせられました。

 派遣法は難しいと思っていましたが、参加した中で、自分の言葉で話ができるように勉強しなければ。今からでも遅くはないと反省させられました。

 帰りのビールが少し苦かった。



五月一一日労働者派遣法抜本改正を求める法律家デモ等の報告

事務局次長  坂 本 雅 弥 (大量解雇阻止対策本部)

 五月一一日昼、自由法曹団が主催で、派遣法抜本改正を求める法律家デモを行いました。しかし、当日はあいにくの雨。果たして人が集まるのか。始まる前はいろいろと気を揉みましたが、その心配は杞憂でした。当日は多くの団員・裁判当事者・労働組合員が出発地点の日比谷公園霞門に駆けつけました。参加者は主催者発表で二五〇名。しかも、今回のデモは地方からの参加者も多く、埼玉、神奈川という東京近郊の団員だけではなく、京都、大阪、兵庫など地方の支部からの参加もありました。派遣法の抜本改正を求める声がいかに大きいか実感しました。

 昼一二時に始まった出発前集会では、鷲見賢一郎自由法曹団幹事長、大黒作治全労連議長から情勢等の報告がなされました。また、日産自動車とテンプスタッフ・テクノロジーに対して提訴した原告女性が政府案では救われないと力強い訴えをしました。

 出発前集会で盛り上がったところで、デモは霞門を出発。デモ行進では、団の各支部、各法律事務所、各組合から持ち寄った多くの幟や横断幕が華やかにはためいていました。中でも周囲の関心をひいたのは新人団員が作成した手作り横断幕。新人団員が「労働者派遣法の抜本改正を求めます。自由法曹団 新六二期弁護士」と書かれた横断幕を手に、派遣法改正を訴えて行進する姿はとても頼もしく感じました。

 デモ最後では、国会議事堂の議面前で私たちを出迎えた日本共産党議員団に対して派遣法の抜本改正を求める請願を行いました。雨の中、参加者はずぶ濡れになりながらのデモでしたが、充実した請願デモであったと思います。

 デモの後は、院内集会を開きました。団の鷲見幹事長から全般的な情勢報告、日本共産党の仁比聡平参議院議員から国会情勢の報告、全労連の井上久事務局次長から連帯の挨拶をいただき、裁判当事者から派遣法抜本改正に対する期待や要望を訴えていただきました。そして、各政党の三役、衆議院・参議院の厚生労働委員を中心に議員要請をしました。

 今後は、この勢いで労働者派遣法の抜本改正を求めていきたいと思います。六月二日は一七時からJR新宿駅西口で街頭宣伝とアンケート活動を行います。また、六月一五日は一三時からこの間の活動の経験交流と今後の方針を確認する院内集会(衆議院第一議員会館第四会議室)を行います。多くの皆さまのご参加をお願いいたします。



NPT再検討会議に向けての日本の法律家の提言

埼玉支部  大 久 保 賢 一

はじめに

 NPT(核不拡散条約)再検討会議が、国連を舞台に、五月三日から五月二八日の予定で開催されている。この会議は、NPTの三本柱である、核兵器の不拡散、核軍縮、原子力の平和利用について、五年毎に再検討するためのものである。私のもっぱらの関心は、核不拡散はもとよりとして、核兵器廃絶に向けた議論がどこまで進捗するかということにある。昨年四月のオバマ大統領のプラハ演説以降、「核兵器のない世界」に向けた動きが、五年前の再検討会議の時期と比べれば、格段に強くなっている中で、その動きを後退させず、「核兵器禁止条約」の実現に向けて国際社会がどこまで真剣に取り組むことになるか、という問題意識である。端的にいえば、核兵器国や、日本政府のように「核抑止論」(核兵器で自国の安全を確保しようとする立場)に立つ国家が、「核兵器のない世界」を目指して、「核兵器禁止条約」の交渉を始める方向が確立できるか、ということである。

 そのために、「唯一の被爆国」の法律家として、NPT再検討会議に何らかの意見を述べたいという衝動に駆られたのである。それが、以下に紹介する提言である。

「核兵器のない世界」の実現のために
NPT再検討会議に向けての日本の法律家の提言
二〇一〇年三月

 私たちは、唯一の被爆国日本の法律家として、また、一人の地球市民として、「核兵器のない世界」の実現のために、NPT再検討会議に向けて次のとおり提言します。

第一 私たちの課題

 一 各国政府と市民社会は、二〇二〇年までに、「核兵器のない世界」を実現する。

 二 各国政府は、「核兵器全面禁止条約」の協議を、即時、開始する。

 三 各国政府は、核兵器の使用および使用の威嚇が、違法であることを再確認する。

 四 核兵器国は、速やかに、非核兵器国への核兵器不使用を約束する。

 五 各国政府は、非核地帯を拡大する。

第二 提案の理由と根拠

一 核兵器と人類は共存できない。

  1. 一九四五年八月の広島・長崎への原爆投下は、被爆者に「この世の地獄」をもたらしました。その「地獄図絵」の全てを知ることはできません。なぜなら、瞬時に死亡した被爆者は語る機会がありませんでしたし、生存被爆者がその体験を語ることは、自分自身の崩壊に直面せざるを得なかったからです。
  2. しかも、その被害は、被爆六四年を経た現在も、継続しているのです。被爆者は、現在も、被爆体験のトラウマとして、また、放射線の影響による「原爆症」として、その心身を痛めつけられているのです。核兵器は人間に耐え難い苦痛を与え続けるのです。
  3. 核兵器はいかなる理由があろうとも使用してはならない「最終兵器」なのです。私たちは、このことを思考と行動の原点としなければならないのです。

二 核兵器の使用や威嚇は国際法に違反する

  1. 一九九六年。国際司法裁判所は核兵器の使用や使用の威嚇は「一般的に国際法に違反する。ただし、国家存亡の危機においては、違法とも合法とも判断できない」としました。しかしながら、私たちは、戦闘員と非戦闘員の区別もなく、無差別大量に、しかも残虐に人間を殺傷する核兵器は「絶対的に」国際人道法に違反すると考えています。
  2. 一九六三年。日本の裁判所は、被爆者が日本政府を被告として訴えた裁判において、「米国の原爆投下は、国際法に違反する」と判決しています。
  3. 二〇〇七年。「原爆投下を裁く国際民衆法廷」は、トルーマン元米国大統領などを戦争犯罪・人道に対する罪で有罪としています。
  4. 核兵器の使用が国際法に違反するということは、国際司法裁判所でも、日本の裁判所や「国際民衆法廷」でも、既に確認済みのことなのです。

三 被爆者と反核・平和勢力の戦い

  1. 広島・長崎の被爆者は、「この苦しみは自分たちで最後にして欲しい」との思いから、核兵器廃絶運動の先頭に立ってきました。また、原爆被害をできるだけ小さく見せようとしてきた日本政府との「原爆症裁判」も展開してきました。
  2. 一九五四年。ビキニ環礁での米国の水爆実験を契機に、日本での原水爆禁止運動が高揚し、今回の再検討会議には、数千人規模の代表団が六〇〇万人規模の署名を携えて、ニューヨークに結集しています。
  3. 私たち法律家も、被爆者や市民運動と連帯して、「核兵器のない世界」の実現のために尽力してきました。

四 今、求められていること

  1. 今、求められていることは、核兵器の拡散防止に止まらず、核兵器の廃絶です。元々、NPTは、核兵器国の核独占を容認する不平等条約です。国際司法裁判所も、「核軍縮交渉の完結」をNPT六条から導かれる法的な義務であるとしています。
  2. すでに、「モデル核兵器条約」が提案され、国連総会においては、核兵器条約の実現に向けての早期の交渉開始が決議されています。
  3. 私たちは、核兵器の必要性を認める「核抑止論」は「核兵器のない世界」の妨害物であると考えます。
  4. 「核抑止論」を乗り越え、相互の信頼を醸成し、非核地帯を拡大し、核兵器の使用禁止にとどまらす、核兵器全面禁止を実現しようではありませんか。

以上

 私たちは、これを事前にNPT事務局に送付するだけでなく(もちろん英訳して)、それ以外に日本分と英文の意見書(四〇〇部)を作成したり、提言をコンパクトにしたビラ五〇〇〇枚(これも日本分と英文の裏表)などもニューヨークに持ち込んだのである。意見書やビラの受け取りの良いこと。マンハッタンでのビラ配りがこんなに楽しいことだとは想定外であった。

 私たちは、いささかおこがましいとは思いつつ、日本の法律家代表団を名乗ったのである。日本反核法律家協会、自由法曹団、日本国際法律家協会などに呼び掛けて、家族やロースクール生なども含め総勢二七名の参加であるのだから、「僭称」との誹りは免れるのではないだろうか。

 再検討会議の結果がどのようになるかは決して予断は許さない。けれども、「核兵器のない世界」に向けての一歩にはしたいと考えている。

追伸。

 六月一四日午後六時から、日弁連会館クレオで、日弁連主催の「核兵器のない世界」に向けたシンポが開催される。NPT再検討会議の結果も踏まえ、今何をすればよいのかを考えようというものである。外務省の担当者の参加も予定されている。ぜひ、皆さん方の参加をお願いする次第である。

(二〇一〇年五月一〇日記)



司法制度改革はせめぎあい

「陰謀」論には与しない

福岡支部  永 尾 廣 久

 「こんな日弁連に誰がした?」というのは、たいへん刺激的なタイトルです。海川道郎団員の呼びかけにこたえて、私が福岡県弁護士会のホームページに連載している書評に載せたものを一部手直しして投稿します。

 大変よく調べてある本です。でも、本を読むだけではなかなか真相は分からないものだと実感させる内容でもあります。私は、この本で問題となった日弁連総会の全部に出席して、現場の雰囲気を体験しています。それをふまえると、この本の言う陰謀論って、ええーっ、何のこと……という疑問を禁じざるを得ません。

 司法改革について、ひとつの参考文献になる本であることは私も認めますが、後付けだけではよく分からないものです。この本にも紹介されている大川真郎弁護士の書いた『司法改革』(朝日新聞社)、私が日弁連の理事そして副会長の体験にもとづいて書いた『がんばれ弁護士会』『モノカキ日弁連副会長の日刊メルマガ』(いずれも花伝社)も、ぜひ読んでみてほしいと思います。

 「弁護士人口増員に必死で抵抗する日弁連の態度は、『既得権擁護』『思い上がり』という世論の集中砲火にさらされていた」

 これは、まったくそのとおりです。決して財界だけが非難、攻撃していたのではなく、ほとんど全部のマスコミ、そして消費者団体も弁護士人口増員に賛成でした。このことから来る重圧はかなりのものがあります。日弁連執行部は、マスコミの論説委員や司法記者と緊密に懇談の場を持って、日弁連の主張を理解してもらうよう努力したのですが、あまりに溝は深く、容易に克服できるようなものではありませんでした。増員反対論者は、実情をよく話せば国民はきっと弁護士人口増員に反対する理由を理解してくれるとよく言いますが、私の実感では、それほど容易なものとは思えません。

 「老いてますます盛んな団塊世代の弁護士が会務を牛耳っている」

この点はかなりあたっていると団塊世代である私も認めます。しかし、実際には、司法改革をリードしてきたのは、団塊世代より一世代上の世代なのです。それは中坊公平元会長をはじめとして、法曹三者をふくめた各界の指導者は残念ながら、みな団塊世代といったら失礼にあたる年長者の方々です。一九六二年生まれの著者からすると、団塊世代もその上の世代も同じように見えるのかなあと思ったことでした。

 そして、「このままでは戦争になる、日本は再びアジアを侵略すると言う黴臭い議論」を唱えている弁護士のなかに、団塊世代もいることは事実ですが、日弁連総会で前面に立ってアジる弁護士の多くは、団塊世代というよりさらにその上の世代です。そして、これは「族」支配の構造とは無縁ではありませんが、直結しているわけでもありません。

 「族」弁護士がいることは事実です。しかし、それは必要不可欠な専門家集団です。たとえば、倒産企業の再建や整理手続について、専門弁護士集団がいないと実務的に大変なことになって、日本経済が混乱することは必至ではないでしょうか。同じことは消費者や公害・環境問題、憲法そして司法問題についても言えるのです。

 「人権派弁護士は、弁護士人口を少数のまま抑え、経済的な余裕を確保することを人権活動の基盤と認識していた。これを弁護士の『経済的自立論』という。しかし、この理屈は根本的な弱点をかかえていた。日本では、弁護士が少ないために人権救済がいきわたっていない、という批判に耐えられないのだ。日弁連主流派は、経済的自立論を一九九四年頃までは主張するが、世論の支持をまったく受けられなかったため、以後、この理屈を封印する」

 私も「経済自立論」には与しません。しかし、この考えには、今でも人権派弁護士かどうかを問わず、弁護士界の内部に根強い支持があることは間違いありません。

 司法試験に合格するまでは合格者を増やせと声高に主張していたのに、合格したとたん、食えなくなるから増員には反対するという者が増える。これはいかがなものかという批判がかねてよりありました。

 日弁連主流派という明確な潮流があるのか、私には判然としません。ただ、日弁連の歴代執行部を支持する勢力は、私をはじめとして相当数いて、強力であることは間違いありません。

 「近年、弁護士が経済的に困窮していることなどから、裁判所に政策形成を促す訴訟は減っていると思われる」

 ええーっ、これって、どうなんですか……。とても弁護士が書いた文章だとは思えません。だいいち、日本の弁護士がすべて経済的に困窮していると言う事実は果たしてあるでしょうか。若手の弁護士、老齢の弁護士のなかに経済的に困窮している人がいることは間違いないと思います。しかし、弁護士が全員、「経済的に困窮してきている」などという事実は、私の周囲を見ましても認められませんし、弁護士白書にもそのような指摘はありません。政策形成を促す訴訟という意味では、私が長年やっている住民訴訟もその一つですが、少なくなっているとしたら、それは「経済的困窮」以外の要因にもとづくところが大きいと思います。

 著者は一九九四年一二月二一日の日弁連臨時総会について、陰謀があったとし、日弁連の歴史上最大の失敗として記録されるべき大失態だと言います。私もこのときの総会に出席していましたが、陰謀があったなどと今も思っていませんし、「歴史上最大の失敗」「大失態」とも考えません。総会の裏で駆け引きはあっていたのかもしれませんが、それはいつものことで、陰謀と言うほどのものではないと思います。

 「あくまで司法試験合格者増に抵抗する日弁連の態度は、『ギルド社会の既得権擁護の思い上がり』として激しい批判にさらされることになった。その結果、日弁連は国民からまったく指示されなくなり、発言力を失って、当事者のイスから引きずりおろされることになる」

 この「国民からまったく支持されなくなり、発言力を失って、当事者のイスから引きずりおろされ」たというのは、いささか言いすぎだと私は思います。ただ、それに近い状況が生まれていたことは事実です。この当時、日弁連に対するマスコミ論調は極めて厳しいものがありました。

 ところで、この本は、一方でこのように書きながら、「法曹人口の大幅増員が経済界の総意、あるいは、相対多数であったかについては疑問である」ともしています。これは、あとになって冷静に考えれば、という類の批判の典型ではないでしょうか。たとえば、話は違いますが、小泉元首相が実現した郵政民営化について、あれは国民の総意でも経済界の総意でもなかったことは、今になってすれば明らかだと私は考えます。しかし、あのとき、それを押しとどめる勢力もいるにはいましたが、圧倒的に孤立させられ、奔流の中に押し流されてしまったのではないでしょうか。同じことは、政治改革として小選挙区制が実現したことについても言えます。時の流れというものは怖いものだと、渦中にいて思いました。それをあとで、冷静な頭で非難して、どれだけ意味があるのか、いささか疑問ではあります。

 著者が、「日弁連が法曹人口増に徹底抗戦せず、早期に一定の増員に応じていれば」としているのは、実は、私もまったく同感です。少しずつ増やしていき、地方における弁護士過疎も具体的に解消していっていれば、いきなり毎年三〇〇〇人増ということにはならなかったと考えます。しかし、日弁連内には強固な増員反対論があり、それが全体の足を引っ張っていて、徐々に増員するのを難しくしてきたという経緯があります。

 執行部、とりわけ日弁連会長のリーダーシップは大きいものがあります。それは認めます。それでも、日弁連が強制加入団体であって、右から左まで、自民党議員から共産党議員まで構成員とする団体である以上、そしてそのことが強い発言権の裏付けであるわけですから、執行部が独走したり、内部の不団結をもたらすような方針は提起できないのです。そうすると、必然的に一歩足を踏み出すべきときに、時間が遅れたうえに半歩しか踏み出せないということが起きてしまいます。私も、日弁連執行部にいたとき、そのもどかしさを十分に体験しました。

 たとえば、日弁連が強制加入制であることを批判し、任意加入団体にせよという攻撃は最近こそ弱まりましたが、強烈なものがありました。結局、弁護士も行政の指導下に置き、その力を減殺してしまおうと言う動きは強力だったのです。日弁連がいろいろな政策提言をするのを嫌う政界・経済界の意向を反映した動きです。なんでも規制緩和という動きが大手をふるっていて、それとのたたかいに日夜苦労していたのです。

 「法曹一元に熱狂した多くの弁護士は、法科大学院構想を支持し、司法試験合格者の大幅増加を容認することになった」

 著者はこのように書いていますが、この点についても違和感があります。「法曹一元化に熱狂した多くの弁護士」という書き方には、どれだけの根拠があるのでしょうか。私は法曹一元化になったらいいと今も昔も考えていますが、だからといって熱狂していないし、それを実現するために法科大学院を支持したという気持ちはほとんどありません。合格者を増やすのなら、たしかに何年間かみっちり勉強してもらった方が良いと考えたのでした。

 著者は議論の現場におらず、あとから本を読んだだけで批判のための批判をしている気がしてなりません。著者自身は法科大学院について、当時どのように考え、また、今どのように考えているのでしょうか……。

 著者は、「日弁連の惨敗」とか、「日弁連には、権力闘争の当事者となる能力がまったくない」と決めつけていますが、自身が弁護士であるのに残念だなとしか言いようのない表現です。

 いろんな人のいる日弁連が、しっかりした議論をふまえて、一定の方向性を出すならば、それが全員一致でないとしても、世論にそれなりのインパクトを与えることができる力を日弁連は依然として持っていると思います。また、それを期待する国民は少なくありません。その点についての積極的意義がこの本で語られていないのは、残念無念としか言いようがありません。



釣り竿と憲法(一)

東京支部  中 野 直 樹

岩手県花巻市に風変わりなつどい

 若葉光る五月連休、各地でメーデー、憲法記念行事が開催される。行楽・遊びと集会参加、いつも心中葛藤しながらそれぞれの選択をしている時期である。

 今年の春は遅い。新幹線・新花巻駅から乗ったタクシーの走る沿道はまだ冬木立で、宮沢賢治が大正一〇年から一五年まで教鞭をとった花巻農業高等学校の校庭桜も三分咲をこえたばかりである。芽吹き前のリンゴ畑を過ぎてメーターが三千円近くなった頃、大迫(おおはざま)町亀が森という趣ある地名の田園風景のなかに、茅葺き屋根が目を引く。約六百坪あるという敷地の真ん中に堂々と建つ古民家、その玄関上から「岩魚庵」と大書された看板が客人を迎える。母屋の左後方に、古井戸と白壁の土蔵がある。庵主は、岩魚釣り弁護士岡村親宜団員である。

 五月一日、この岩魚庵に三〇名をこえる人々が集った。多くは釣り竿を手にしているが、大森典子団員とその二男・創(はじめ)弁護士の姿もある。この日は「渓流九条の会」主催の「渓流文庫」開所式なのだ。

平和の源流九条に遊ぶ

 二〇〇八年、渓流に遊び、岩魚庵に憩う仲間たちが呼びかけあい、誘い合って「渓流九条の会」が発足した。会の目的は「九条の会アピール」に賛同し、この精神を広げることの一点である。その世話人のひとりに大森鋼三郎団員(故人)がなった。大森さんは、結成の会の挨拶で、「平和でこそできる渓流釣り・山遊び 右手に釣り竿、左手に憲法」と語った。会心のフレーズである。

 釣り人には記録をとり、釣行記を書く人が多い。刊行本も多く、古くから釣り文学というジャンルができている。それぞれがかなりの所蔵本を抱え込んで住まいの一画を占拠し、家族からひんしゅくを買っている。そして釣り人は上戸揃いで、渓で飲み、山で飲み、オフにはオカで飲む。そんな席の一つで、大森さんは、所蔵本を提供しあって共通の財産としよう、岩魚庵の土蔵がよい、名付けて「渓流文庫」と打ち上げた。庵主の岡村さんも「館長」を快諾し、渓流九条の会が管理・運営にあたることになり、二〇〇九年から土蔵内の整備が始まった。ところが、発案者の大森さんがガンに冒され、七月一九日、悲報となった。

 それから九ヶ月、悲しみを乗りこえ、大森典子さんから六〇〇冊を超える遺品の山渓遊び本や渓流を軸とする社会生活史本などが届けられた。ここに岡村さん所蔵の約四〇〇冊と交流のあった釣りの会の会報誌が合流し、土蔵内に並んだ本棚に収められた。土蔵の入り口には、書道家の森谷明仙さんの筆により「渓流文庫」と書かれたけやき板が掲げられ、土蔵内の正面には在りし日の大森鋼三郎さんの釣り姿の写真が引き伸ばされて据えられている。岡村さん、大森典子さん、鋼三郎さんの長兄である河合研一さん(前明治大学教授)からのご挨拶の言葉にまた目頭が熱くなった。

それぞれの源流をもつ人生が合流

 式典後、壁天井が真っ黒な煤光りのする岩魚庵の板敷きの間で、囲炉裏に並べられた串焼き岩魚の芳ばしい匂いと、漆塗りの膳に並べられた春の山菜料理をつまみながらの交流会となった。石川島播磨重工の元差別事件原告を中心とした集団「釣り天狗」所属の男女八名をはじめとした釣りの会の面々、国民救援会中央本部の名刺をもつ釣り人、埼玉土建やJRに勤務する山歩きの方々、早池峰山に障害者のための遊歩道の整備に取り組んでいる仙台の男性らから山や渓とふれあう楽しさが語られた。外来者だけではない。地元で生まれ育ち、生活を重ねている住民の方々、元気一杯の照井明子花巻市議会議員(日本共産党)の参加もあり、乏しいタンパク源の補給として、近くを流れる稗貫川にカジカやうなぎ捕りをすることが日課だった子ども時代の生活史が語られ、また過疎化に直面している市の現状と課題にも話が及んだ。

 岡村さんが一九九一年に岩魚庵を開いた直後から、隣地に住むおじいちゃんが、岩魚庵に灯りがつくと、採りたての野菜を手にして岩魚庵を訪れ、囲炉裏端に腰掛けてコップ酒をちびちび飲みながら、岩手弁でぼそぼそ農業や地域の生活史を語ることが常となった。そのことがおじいちゃんの人生の楽しみになった。私もそのような席にご一緒させていただき、半分も理解できない岩手弁に相づちを打った。やがておじいちゃんは亡くなられたが、岡村さんは、東京からやってきて山ばかり行っている閑人というレッテルがとれ、たくさんの地域社会の人々との交流をされていることに感慨を覚えた。

鋼三郎さんは、岡村さんとの共著「岩魚庵閑談 2000年 つり人社」のあとがきを、「我々は『安らぎの世界』を旅してあちこちでお会いした方々や、自然との共存に努力しておられる方々らとの連帯を感じている」と結んでいる。

 鋼三郎さんが引き合わせてくれたこの集いで、渓流九条の会の会員が目標の九九名を超えたことを喜びあいながら杯を重ね、しこたま酔って寝入った。

 翌朝、雪の下に採れるキノコ狩りと早春の岩魚釣りに誘われた。



自由法曹団の英文リーフレットができました

大阪支部  井 上 洋 子 (国際問題委員会委員長)

 団員のみなさまが、海外に調査に行くとき、海外の団体を訪問するとき、国連などに要請行動に行くとき、海外の客人を迎えるとき、海外の友人と交流するとき、自由法曹団とはこういう活動をしている団体なんですよ、と案内できる英文リーフレットが、ついにできました。

 A4両面を全面カラーにして美しく、写真を多用して読み易く、見出しを活用して活動の要点を紹介し、総会や五月集会の写真をも載せて連帯の強さを示しました。

 初めての試みで、内容など不十分なところもあるとは思いますが、支部、弁護団、調査団、個人など、みなさま、よろしくご活用下さい。どんどん使っていただいて、使い勝手や要望など、今後の参考にお聞かせ下さい。

 大幅原価割れの赤字出血大サービスで一枚二〇円です。送料は別で注文者負担です。

 注文を心待ちにしています。

【ご注文は団本部までFAXにてお願いします】

   FAX 〇三―三八一四―二六二三



『上田誠吉さんをしのぶ会』のお知らせ

事務局長  杉 本   朗

 二〇〇九年五月一〇日に上田誠吉さんが亡くなられてから、一年が経ちました。

 上田さんは、一九五〇年に弁護士登録をされると同時に自由法曹団に入団し、一九五一年には東京合同法律事務所の開設に参加されました。

 メーデー事件、松川事件、砂川事件などの刑事弾圧事件、全電通千代田丸事件、電通バッジ権事件、通信労組野形事件などの労働事件、鶴岡灯油事件、緒方宅盗聴事件、外環道訴訟など、上田さんが手がけた事件は広範囲にわたります。また、裁判に大小はない、有名事件とか無名事件とかはない、どの裁判も一人一人にとって、かけがえのない生命、自由、財産、名誉がかかっている、とおっしゃってらしたとおり、一般民事事件、一般刑事事件にもその力を注がれました。

 事件活動以外にも、在日朝鮮人の権利擁護運動、全国革新懇代表など、戦後民主主義運動に深く関わってらっしゃいました。

 自由法曹団においては、幹事長を経て、一九七四年から一〇年間、団長を務められました。幹事長時代には、団の擁護する人権とは何かをめぐって激しい議論が起こりましたが、幹事長としての上田さんの冷静な判断・指導のもとに、一九六九年高野山総会で新規約が採用され、来るべき七〇年代の複雑困難な情勢に団が対応することが出来ました。一〇年間にもわたる団長時代も、刑法改悪、弁護人抜き法案、思想・潮流間差別事件、拘禁二法、政党法などさまざまな課題が押し寄せて来ましたが、上田さんは、適切な舵取りで、この難局を乗り切りました。

 私たちは、この「ミスター団」とも呼ぶべき上田さんの足跡を振り返ると共に、これから私たちが歩むべき道筋を考えてみたいと思い、後記の要領で、『上田誠吉さんをしのぶ会』を開くことにしました。

 上田さんと共に歩んだ人たちはもとより、直接上田さんをしらない若手の団員もぜひご参加下さい。

日 時  二〇一〇年九月四日(土)午後二時から午後七時まで

場 所  学士会館(東京・神田錦町)

会 費  八〇〇〇円

*パネルディスカッションと懇親会を行います。パネルディスカッションは着座形式、懇親会は立食で行う予定です。

上田さんの思い出などをお寄せ下さい

 別稿にあるとおり、本年九月四日に、『上田誠吉さんをしのぶ会』が開かれます。その『しのぶ会』にあわせて、上田誠吉さんの思い出などを集めた文集を発行します。

 直接上田さんと活動をされたり上田さんをご存知だったみなさんだけでなく、本や論攷などで上田さんにふれただけの若手のみなさんも、次の要領で、ぜひ原稿をお寄せ下さい。

 原稿はFAXまたはメールで、東京合同法律事務所までお送り下さい。

テーマ  上田さんの思い出、上田さんの人となり、上田さんの活動、上田さんの本を読んでなどなど、上田さんにまつわるものであれば何でも可

字 数  一〇〇〇字〜一五〇〇字

〆 切  二〇一〇年七月一二日(月)

集約先  東京合同法律事務所「しのぶ会準備会」

      FAX  〇三―三五〇五―三九七六

      メール  uedasan@tokyo-godo.com