第1676号 / 8 / 1

カテゴリ:団通信

●えりもの森訴訟の顛末~違法伐採を認定  市 川 守 弘

●開発反対発言禁止 仮処分決定を取消させる  松 村 文 夫

●安倍内閣の即時退陣を求めて-京都アピールの取り組み  中 島  晃

●「第12回 民弁米軍問題研究委員会-自由法曹団沖縄支部 平和交流会」を終えて(2)
                                   林  千 賀 子

●赤牛を歩く(1)  中 野 直 樹

 


えりもの森訴訟の顛末~違法伐採を認定   北海道支部 市 川 守 弘

一 大規模な皆伐の発見
 二〇〇六年九月、市民団体が緑資源機構の推進する大規模林道建設予定地のナキウサギ生息地の視察でえりもの森に入ったとき、山奥の森林が三ヘクタールほどが皆伐されているのを発見した。この森は道有林だったので、直ちに情報公開請求をしたところ、「天然林受光伐」という、老齢過熟木を伐採し下の若木に光を当てて天然林を活性化させるという名目で伐採し、伐採木を売却していたことが判明した。下の若木すら伐採していたので、この名目すら成り立たない。実際は皆伐であったが、伐採(売却)予定の老齢過熟木は三六七本でしかなかった。この事件はナキウサギの生息地の森林破壊に対して森林行政の面から問題にした事件であった。

二 伐根調査
 私たち自然保護団体は、伐採された樹木本数を伐根数を調査して明確にした。最初の調査は一一月だったが、午後三時にはあたりは暗くなり、ヒグマの出没もあったため途中で中止せざるを得なかった。この時数えた伐根数は三〇〇本を超えていた。その後、降雪のため二回目の調査は翌年四月に行った。しかし、この時の調査は一部に残雪があったため、さらに五月に調査をした。五月の調査には総計二〇人ほどの市民が集まり、一本ずつ太さ、樹種を調査し、写真に収めるという調査を行い、八〇〇本を超える伐採を明らかにした。

三 監査請求と住民訴訟
 立木の売買契約は前年に行われていたため、調査完了の前に住民監査請求を起こし、さらに住民訴訟を提訴した(事件番号は平成一八年事件であった)。住民訴訟は、道有林の管理責任者である知事から委任を受けていた日高支庁長への損害請求である。ずさんな行政行為を告発する意味から個々の職員や業者は基本的には相手にしないことにした。

四 訴訟の経過
(1)中間判決
 北海道は、そもそも損害は発生していない、として訴えの却下を求めた。これは住民訴訟の際の損害について、本数等が不明なことから、まずは森林の持つ公益的機能の財産的評価額を前提に提訴していたためである。林野庁や自治体は森林の公益的機能を財産的に算定しており、北海道の場合は年間一一兆円の評価をしていた。そこで北海道の森林面積から一ヘクタール当たりの価値を算出し、本件での財産的損害としたのである。
 裁判所は、全く損害がないとは言い切れないのだからとの理由で、この本案前の抗弁を却下し、本案審理に入ることになった。
(2)現地での進行協議
 翌年の秋、現地での進行協議が行われた際に、北海道は概略図を参考として提出したが、そこに越境伐採までしていた事実が記載されていた。伐区の林班を超えていたのである。以降、この訴訟は、予定木以上に伐採した過剰伐採と伐区を越境して伐採した越境伐採との二つの違法行為が争点となった。
(3)一審判決のお粗末さと高裁の差し戻し判決
 一審判決は、違法行為について一切触れることなく、中間判決の際の北海道の主張のままに、損害がないとして棄却した。しかし、この時点では、すでに伐採木の本数が明らかになっていたので過剰に伐採した樹木の財産的評価(木材評価)を算出していたので、証拠に基づく判断ではなかった。当然ながら控訴審では、損害がないとは言えないから、との理由で一審に差し戻した。この高裁の判決に対して北海道が上告したため、その後一年半審理が止まっていた。
(4)差し戻し審と控訴審
 差し戻された地裁では、二つの違法行為について判断をしたが、過剰伐採という違法行為を認めたものの、越境伐採については認めなかった。これは林班、小林班、伐区などの意味を裁判所が理解できずに、越境することによる隣の林班の形状が変更になることに何らの疑問を抱かなかったことが原因であった。私たちは控訴したが、高裁の裁判官も同じであったため控訴は棄却であった。ここに一二年かけた訴訟が終了した。

五 何が問題であったか
 山奥で行われる森林の伐採は多かれ少なかれ違法な伐採が行われている。問題は、専門用語と独特の手続きで行われる伐採行為に裁判所がついていけないという点である。林班という言葉を知らない裁判官すらいる。知らないなら聞いてくれればよいものを「知ったふり」で判決を書くから始末に悪い。林班境界を伐採によって変更していたら、国や自治体の森林計画が成り立たなくなるのに、それを簡単に認めた裁判官の資質は問題である。
 ただ、裁判官だけでなく、弁護士にも森林問題は分かりにくい。今年、森林法が改正されたため、今後、森林破壊と自然破壊は重大な争点になっていく。団でも森林問題ワーキンググループでも立ち上げたらどうだろうか。

 

 

開発反対発言禁止 仮処分決定を取消させる  長野県支部 松 村 文 夫

 長野県北安曇の小谷村は、白馬沿いに多くのスキー場を擁していますが、利用客が少なくなっているところに、村外から移住してきた「事業家」N(女性)が前村長に働きかけて村全額出資の開発会社を設立させて、社長となり、村内の古民家一〇戸を里見地区スキー場に移築し、内外の富裕層を対象とする高級リゾート地にするという計画を住民に知らせず進めました。
 この計画を知った里見地区住民の佐々木氏らが反対運動を起こしました。これについて、佐々木氏ら五名を相手方として社長Nは、昨年八月誹謗中傷の発言、文書配布を禁止する仮処分を長野地裁松本支部に申請しました。
 小谷村は、Nが社長となっている開発会社に三千万円を出資していました。これについて、佐々木氏らが、批判する発言や文書配布をしておりましたが、Nは、その一部の表現をとらえて「詐欺」「犯罪者」扱いにされ、名誉を毀損されたと主張しました。
 債務者とされた五名はそれぞれの立場で開発反対の発言をしていることから、団員五名がそれぞれ代理人につきました。
 担当裁判官は、四回の審尋で一貫して、犯罪者呼ばわりするのは良くないとして和解を勧めましたが、私たちは、単に「誹謗中傷事項」とする和解案では、反対運動全体を抑制することになるとして、和解に応じませんでした。
 すると、松本支部裁判官は、昨年一二月二五日佐々木氏だけに対して、誹謗中傷発言・文書配布を禁止する仮処分決定を出しました。

 Nは、この仮処分決定に基いて、佐々木氏に対して、誹謗中傷発言一回につき三万円を支払うとする間接強制の申立をし、松本支部裁判官はそれを認容する決定を出しました。
 これに対して、私たちは、執行抗告の申立をしましたところ、東京高裁は、本年四月九日間接強制決定を取り消す決定を出しました。
 その理由は、「(佐々木氏らの)開発計画を批判する活動自体は禁止されるべきものではないことも併せ考慮すると、禁止されるべき行為とそうではない行為とを明確に区別することはできないというべきであり、原決定は、佐々木氏が不作為義務を負うべき表現の内容が十分に特定されているとはいえない」とするものでした。

 他方、私たちは仮処分決定に対して異議を申立てしましたが、それを審理する松本支部では、仮処分決定を出した裁判官を主任とする合議体ですので、審尋でこれまた和解を勧めて来ましたが、私たちは、反対したために、四月一〇日第二回審尋で結審となりました。
 その直後に前記高裁決定が郵送されて来ました。
 このために、松本支部は、なかなか決定を出さず、結審後三か月となる七月一六日になってようやく原仮処分決定を取り消すという決定を出しました。
 しかし、この決定理由は、高裁決定と同様に、禁止すべき行為の区別ができないことを理由にあげておりますが、必要性なしのところであげ、あくまでも、被保全権利<名誉侵害行為>は認められるとしていますのは納得し難いものであり、原決定の正当性を維持したいためではないかと思います。

 住民運動に対してその発言を禁止する仮処分決定が先例となっては、全国的にも悪影響を及ぼしますので、私はこれを覆すのに必死でした。
 間接強制を扱った高裁裁判官から電話があり、「間接強制の審理対象はあくまでも手続に関するものであって、その内容如何は異議審理の対象となる」と言っておりましたが、その問答を通じて、間接強制審では、仮処分審の資料が添付されていないことがわかり、私は、開発反対の理由・発言の経過・内容に関する資料を追加提出しました。これをみて、高裁も、佐々木氏の発言を禁止できないと判断したのだと考えます。
 また、私が担当した佐々木氏だけに決定が出て、同様な発言をした他の債務者は免責されており、私は落ち込んでしまいました。私は、開発計画の無謀性や発言の経過・背景について力説するだけでしたが、これに対して、若い金枝・及川団員は、言論の自由から説き起こし、発言自体の意味の分析・禁止範囲の特定の困難性を論じており、その差が出たと思い、勝訴した二名を補充して、抗告審、異議審に臨みました。
 弁護士五〇年の表彰を受けながら、いまだにこのような苦労、感激を経験しました。
 弁護団は、金枝真佐尋・金枝由香里・及川裕貴・中島嘉尚団員と私です。

 

 

安倍内閣の即時退陣を求めて-京都アピールの取り組み  京都支部 中 島   晃

 現在、新聞報道などで知る限りでは、安倍内閣の退陣を明確にかかげて、アピールを発表して活動を行っているのは、武者小路公秀氏らの世界平和アピール七人委員会と安斎育郎氏ら一四人の学者・著名人らによる「九条改憲に反対し、安倍内閣の退陣を求める」京都アピール実行委員会の二つではないだろうか(もっとも、それ以外にもさまざまな団体・個人が各地で安倍内閣の退陣を求めて活動していると思われるが)。
 世界平和アピール七人委員会は、二〇一八年六月六日、安倍内閣即時退陣を求めるアピールを発表しているが、おそらくこのアピールが安倍内閣の退陣を求める国民へのよびかけとして、社会的に注目される最初の取り組みであると思われる。
 また、「九条改憲に反対し、安倍内閣の退陣を求める」京都アピールは、世界平和アピール七人委員会のこのアピールに呼応する形で、その半年後の一二月五日に京都で発表されたものであるが、東京を中心とした七人委員会と京都を中心とする一四人のアピールが出されたことは、日本の東と西で、二つの中心をもつ形で、安倍内閣退陣を求める国民へのよびかけが発せられたものであって、重要な意義をもつものといえよう。
 京都アピールで注目されることは、このアピールがめざしている九条改憲に反対し、安倍内閣の退陣を求めるよびかけを市民の間に広げるために、草の根の運動に取り組んでいることである。このため、安斎育郎立命館大学名誉教授を代表とする京都アピール市民集会実行委員会を結成して、二〇一九年二月九日(土)に第一回市民集会を開催し、また六月八日(土)には第二回市民集会を開催した。
 二月九日の第一回市民集会については、二〇一九年二月一九日発行の団通信一六六〇号に報告したとおりであり、六月八日の第二回市民集会では、実行委員会代表の安斎育郎さん、池内了さん(名古屋大学名誉教授、世界平和アピール委員会のメンバー)、猿田佐世さん(弁護士、新外交イニシアティブ事務局)の三氏が話しをされたが、その内容は、いまあらためて非戦平和の取り組みを強めることが重要であり、そのためにも、安倍内閣の九条改憲を許さないために市民がともに力を合わせていく必要があることを明らかにするものであった。
 一国の首相が国会で平然とウソをつく(もっとも、本人はウソをついているという自覚すらもたず、その時々にもっとも都合のいいフレーズを発しているにすぎないのかもしれないが)、それにあわせて、公文書の改ざん、変造、隠ぺい、廃棄がなされ、それに統計の偽装・不正も加わって行政の公平さが根底からそこなわれ、国政の私物化が進行している。世界平和七人委員会のアピールが、安倍政権下で、「道義は地に堕ちた」と指摘しているのは、けだし当然であろう。
 その一方で、特定秘密保護法にはじまり、安保法制や共謀罪などの人権を否定し憲法を破壊する悪法を次々と成立させ、さらには憲法九条に自衛隊を明記する改憲を目論むなど、安倍政権は、戦後の歴代保守政権のなかでも、最も危険で兇悪な存在となってきている。
 こうした状況のもとで、安倍内閣の退陣を実現することは、日本の民主主義の将来にかかわる、喫緊の課題であるといっても過言ではない。そうしたことからいえば、いま、全国各地で、安倍内閣の退陣を求める運動がさまざまな形で広がることが求められているのではないかと思われる。
 京都アピール市民集会実行委員会は、今年一一月にも第三回の市民集会を開催して、九条改憲に反対し、安倍内閣の退陣を求める運動を引き続き広げるための取り組みを始めている。大河の流れも一滴のしずくから始まることを肝に銘じて、京都では草の根から運動を広げるため、京都アピールの実現をめざして、意気高くねばり強く取り組みを進めているところである。
 団と団員がそれぞれの地域で、安倍内閣の退陣を求める運動をさまざまな形で取り組み、広げることを願ってやまないものである。
(追記)なお、この京都アピール市民集会実行委員会の事務局には、団京都支部から、中島、諸富健、白土哲也の三名の団員が参加している。

 

 

「第12回 民弁米軍問題研究委員会-自由法曹団沖縄支部 平和交流会」を終えて(2)
                                沖縄支部  林  千  賀  子

〔二日目〕
 朝の八時半過ぎにロビーに集合し、沖縄県民には堪える寒さの中、皆でバスに乗って、平澤(ピョンテク)市の老瓦里(ノワリ)地域に現在ある「大秋里(テチュリ)村」に出発です。ピョンテクは、板門店から南へ約一〇〇㎞離れた、京畿道の最南端に位置しており、植民地時代には日本軍が駐屯し、朝鮮戦争以降は米軍が駐屯している軍事都市です。ここにあるキャンプ・ハンプリーは、一九一九年日本軍により韓国人が動員され建設された基地を、朝鮮戦争中に米軍が拡張したものであり、基地面積は約一五・一㎢です。極東最大の基地である嘉手納基地が約一九・九㎢ですから、キャンプ・ハンプリーも非常に大規模な軍事基地であることがわかります。
 テチュリ村は、もともとピョンテク市の彭城邑(ペンソンウプ)にありましたが、キャンプ・ハンプリー拡張のため一帯が米軍に提供されることとなりました。テチュリの住民は、基地拡張反対などの平和運動を大規模に繰り広げましたが、力及ばず、遂に二〇〇七年二月、同市ノワリ地域への移住に合意しました。この合意内容の一つが、テチュリ住民が移住を受け入れる代わりに、政府が移住団地の行政区域名称を「大秋里(テチュリ)」に変更することでした。しかし、住民ら全四四世帯が移住したにもかかわらず、この合意は果たされていません。現在、民弁メンバーを代理人として、大秋里(テチュリ)名称変更拒否取消訴訟が係属しています。
 「テチュリ村」の傍には平澤平和センターがあり、ここでまず、平澤米軍基地の概要、騒音や米軍犯罪などの基地被害、テチュリ村の移住の経緯、合意不履行等についてお話を聞きました。その後、「テチュリ村」散策に。移住の補償はありましたが、実質は、新しい土地での生活再建には非常に不十分で、生活が大変になってしまった世帯が少なくないとのことでした。散策の途中、運動のシンボル的なモニュメントや運動に携わった人たちの写真が展示してある農機具倉庫で、改めてお話を伺いました。
 平和センターに戻る道すがら、道端の畑の農作物が何なのかが気になって畑を覗き込んでいたところ、一人で農作業をしていた五〇代くらいの男性が、ニコニコと近づいてきてくれました。傍にいた民弁メンバーが「沖縄から来た日本の弁護士だ」との説明をしてくれたらしく、男性は「リアリー?! オキナワイズビューティフルランド!」と、片言英語で直接話しかけてきました。そこからお互い片言英語で必死に意思疎通をし、両方片言だったにもかかわらず、「韓国も沖縄もともに米軍基地の過大な負担に苦しんでいる。ともに闘おう!頑張ろう!」と大いに盛り上がりました。熱意ってすごい、と感じた瞬間です。そして、盛り上がった勢いで、傍にあった一輪車の中を覗いて「これはなんですか?」と質問したところ、それは小さな朝鮮人参だったのですが、「あげる、あげるよ!」と幾つも手渡され、厚かましくも頂いてしまいました。帰国時の土の持ち込みは厳禁のためホテルで丁寧に洗い、無事に持ち帰り、蜂蜜に浸け、いただきました。あまりにも思い出深い朝鮮人参でした。
 平和センターでのランチは、地元の農作物を使った、テチュリ村の方々の手作り家庭料理でした。個人的には今回の交流会で一番美味しかった食事です。厚かましくもほぼ先頭に並んで沢山盛り、さらに厚かましくもお代わりまでしました。
 ランチ後、「テチュリ村」を出発し、ピョンテクの米軍基地見学に行きました。村を抜けていくと、塀の中聳え立っている立派な建物群。占領した者達が勝手に「立ち入り禁止」と決めた広大なエリア。沖縄の米軍基地と同じです。基地周辺の住民が、戦闘機の爆音や振動の被害に、米軍による犯罪に、環境汚染に、苦しみ続けているのも沖縄と同じです。軍事基地の被害、占領下にある苦しみはやはりこうも同じなのかと、暗澹たる思いにかられました。
 夕方、ソウルに戻り、植民地歴史博物館を見学しました。「日本帝国主義による侵奪の歴史と、それに加担した親日派の行為、輝かしい抗日闘争の歴史を記録し、展示する韓国初の日帝強占期専門歴史博物館」(日本語版パンフレットより)です。当館の職員で、当交流会でいつも通訳をして下さっている平和活動家のキム・ヨンファンさんが、丁寧に説明して下さいました。展示内容は、第一ゾーン「日帝はなぜ朝鮮を侵略したのか~帝国の戦場となった朝鮮/「天皇」の代理者、朝鮮総督/銃剣で抑え込み、同化と差別で丸め込む/奪われた野、荒廃した暮らし」、第二ゾーン「日帝の侵略戦争 朝鮮人に何が起こったか~天皇のために喜んで命を捧げよ/余すことなく総動員せよ/「青春弔旗」が掲げられ、動員された人々/帰れない魂、残された人々」、第三ゾーン「同じ時代、違う人生―親日と抗日~亡国の恨(ハン)、独立への夢/国を売って富貴栄華を享受した人々/天皇の臣民に生まれ変わった人々」、第四ゾーン「過去を乗り越える力 いま、私たちは何をするべきか~反民特委の挫折、親日派の帰還/分断と独裁、遅延した歴史正義/共感と連帯の力/私は闘っている」(日本語版パンフレットより)。一つ一つの展示物が、絶対にあってはならなかった歴史の過ちを、強烈に突き付けてきます。言葉を、文化を、土地を、生活を、人生を、生命を奪われた当時の朝鮮の人達。侵略の歴史を背負う国の者として、少しでも多くの事実を知らなければならないと改めて思いました。近いうちに、必ずまた、訪れるつもりです。
 夜の公式懇親会では、とてつもなく多くの海藻を食べました。生のモズクやヒジキがあんなに美味しいとは知りませんでした。お魚のお刺身も新鮮で、ヘルシーだから大丈夫と自らを正当化し、限界まで食べました。
 二次会では、民弁の先生と、南北統一問題について、熱く語り合いました。このときも、私の片言英語は大活躍してくれ、英語力を遥かに超えた意思疎通が(主観的に)出来ました。

 

 

赤牛を歩く(1)  神奈川支部 中 野 直 樹

壮大な計画
 初日は、高瀬ダム湖(標高一二七〇m)から北アルプス三大急登と言われるブナ立尾根を登り、烏帽子小屋(二五三〇m)に泊まる。二日目は、裏銀座縦走コースをコースタイム七時間五〇分歩いて、水晶小屋(二八九七m)に泊まる。余裕があれば鷲羽岳(二九二四m)までピストン(往復三時間四〇分)してくる。三日目は、水晶岳(二九七七m)を超えて赤牛岳(二八六四m)の長い背中道、そして山頂から読売新道を下り奥黒部ヒュッテ(一四八六m)までコースタイム八時間二〇分を歩く。四日目は、黒部湖から針ノ木谷沿いの道を千メートル近く登り返し、船窪小屋(二四六〇m)泊。コースタイム一〇時間を超える苦行が予想される。五日目は七倉尾根を下り、四時間ほどで七倉山荘に下山。
 二〇一六年夏、京都の浅野則明・藤田正樹弁護士とこんなロングでディープな山行に出発した。
ブナ立尾根
 八月四日、間一髪で五時〇四分の横浜線電車に滑り込んだ。これに乗り遅れると信濃大町一〇時二〇分の待ち合わせに大幅に遅刻し、初日に烏帽子小屋に入れないという事態になるので危うかった。
 この時間帯の中央線は特急がなく、各駅停車の乗り継ぎで松本までの旅となった。三日間降った雨は上がり、夏空が広がるとの予報だが、車窓に映る南アルプス、八ヶ岳の上部は雲に被われていた。
 一一時三〇分、高瀬ダムで荷を整えて出発。トンネルを抜け、一〇〇メートルを超える吊り橋がかかった不動沢は、山体がなくなってしまうのではないかと心配するほど激しく崩落し続けている不動岳(二五九五m)から流出した花崗岩の流砂で真っ白く埋まっている。
 一一時五〇分、ブナ林の急坂に取り付いた。烏帽子小屋までの標高差一二〇〇mをひたすら急登する、コースタイムは四時間四〇分。ときくと、ばてばてを覚悟するしかない。ところが二〇一一年秋の経験では効率よく高度をかせげることに集中しているうちに四時間かからずあっけなく着いてしまった。この日は夏晴れであるが、吹き渡る風が心地よく三人快調に登り、やがて樹相がコメツガに変わり、一四時一五分、二二〇八mの三角点を通過した。このあたりからダケカンバの疎林となり、針ノ木岳、蓮華岳が望めるようになり、稜線域には入ったことに心が騒ぎ出し、足も元気をもらった。一五時五〇分、烏帽子小屋に到着した。今回の山旅は荷を軽くするためにすべて食事付の小屋泊である。一泊一万二〇〇〇円を支払い、なにはともあれ六〇〇円のビール缶を手にした。
烏帽子
 小屋から北に片道三〇分の位置に烏帽子岳(二六二八m)が座っている。全国に烏帽子と命名された山は五〇ほどあるらしい。ここの烏帽子岳は、南アルプスと乗鞍岳の烏帽子よりも背が低いが、風格がよく二〇〇名山に数えられている。三人とも以前に踏み跡を残してきているので、今回は二本目のビールを優先して、小屋前から動かない。小屋の前には紫色のききょうの群生が広がっていた。おそらく移植して保護しているものである。
 西側には、黒部川の東沢谷をはさんだ向こうに、今回の山旅の主役赤牛岳、さらにその奥に薬師岳の稜線に沈む夕陽を期待してきたが、あいにくガスがかかっている。地図を開き、以前きた時の記憶を呼び起こしながら、見えない山々を心のキャンバスに描いた。
 三人とも人生を歩む道に大きな変動もなく、改めて、元気で夏の山旅で再会できたことを喜んで乾杯した。浅野さんは最低月二回ペースで山靴を履いている。昭文社「山と高原の地図」に掲載されている著名な山にこだわることなく、日帰りのできる関西や中国、岐阜、北陸の山中をくまなく歩きまわっている。藤田さんは市民ランナーで、日々走り込み、真夏以外は全国で企画されるハーフ、マラソン、さらに五〇キロのウルトラマラソンに転戦している。二人とも心臓と肺活量と足腰はいたって強靭である。私も身の軽さでは二人と変わりはないが、日頃この元気印の二人ほど身体を動かすことがないものだから、地図を眺めて明日からの歩む行程の長さと高低差を予習していると、今回のウルトラ縦走に耐えられるだろうか、と心の風景に薄い霞がかかった。
 一八時の夕食が近づいた頃、西側を覆っていたガスがはれ、赤牛の頭と背中が見えた(続く)。

 

 

 

 

 

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