第1690号 / 12 / 21

カテゴリ:団通信

●取調べへの弁護人の立会いについて  山 口 健 一

●元気なアメリカの労働運動に学ぶ  永 尾 廣 久

●INF条約失効後の日本を取り巻く核兵器の状況-日本政府へ核兵器禁止条約批准を求め、北東アジア非核地帯を実現させよう(3)
                                                    井 上 正 信

●女性部活動報告  千 葉 恵 子

●百、二百、三百一筆書き(1)  中 野 直 樹

【2019年愛知・西浦総会~特集 12~】
*事務局次長退任のあいさつ  遠 地 靖 志
*退任挨拶  深 井 剛 志

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取調べへの弁護人の立会いについて  大阪支部 山 口 健 一

 取調べへの弁護人の立会いは、最近、刑事弁護の新たな課題としてクローズアップされています。日弁連は、昨年(二〇一八年)四月意見書を発表。今年(二〇一九年)一〇月には徳島で開催された第六二回人権大会で、弁護人の立会いを求めるシンポジウムを開催し、大きな反響を巻き起こしました。
 これまで私たちは、弁護人の立会いは、知識としては知っていても、それを捜査弁護の課題として位置づけたことはなかったし、これまでも非拘束事件や少年事件での立会いの事例がいくつか報告されたことはありましたが、例外的なものであり、組織的に取り組んだことはありませんでした。
 もし取調べに弁護人が立ち会えば、捜査が根本的な変革をとげることは明らかでした。
 この数年間、私たちは、弁護人の立会いについて諸外国の制度も調査しながら検討を重ねました。その集大成が、昨年(二〇一八年)の近弁連大会と、今年(二〇一九年)の人権大会のシンポジウムでした。
 「立会いなければ取調べなし」といっても、その制度設計にはさまざまな仕組みが考えられます。弁護人が立会わなければ取調べは一切できないし、立会いなしに作成された調書は、証拠能力がないとする制度が考えられます。
 また、被疑者が弁護人の立会いを求めれば、弁護人が立ち会うことができるという制度も考えられます。弁護人が取り調べに常時立ち会うことができないとすれば、その場合、弁護人が立ち会わないで作成された証書の証拠能力をどうするかという課題が残ります。
 被疑者が逮捕された場合、一定の時間(たとえば、弁護士に連絡してから二時間程度)は取調べができない、その時間までに弁護人が到着しなければ、立会いなしで取調べができるという制度も考えられます。
 被疑者本人が、被疑者が「弁護士さんが立ち会わないと話しません」ということで実質的に黙秘が貫かれれば、ずっと立会う必要はないし、憲法で保証された黙秘権が実質化することも考えられます。しかし、私たちがこれまでに経験したのは、黙秘で臨むが、その黙秘が貫けないという実態です。
 弁護人が立ち会えば、どんな受け答えをするのか、黙秘するのかが、弁護人とともに判断できることになり、被疑者にとってはこれほど力強い制度はありません。
 どのような制度設計をするにしても、被疑者が弁護人の立会いを求めない、あるいは、その権利を放棄した場合、どうするかという検討も必要です。
 厚労省事件で逮捕された村木さんは、弁護人のいない取調べは、ボクシングのリング上で、全くの素人がプロの選手とレフェリーやセコンドなしに闘わされるようなもので、勝負は最初から決まっていると言われたことがあります。
 日本の刑事司法を変えるために、日弁連はこの間、最大限の努力を積み重ねてきました。刑事司法の改革は、私たち弁護士が、その最前線に立つことでしか実現しませんでした。
  その最初の出発点が、一九八九年の松江の人権大会。
 その当時は被疑者段階で弁護人がつかず、多くの事件が弁護人のないまま捜査側の都合の良いように調書が作成され、裁判所は捜査側の主張を追認する機関になっていました。
 これを打破したのが、当番弁護士制度と、それに続く被疑者国選制度でした。
 これにより、捜査段階で被疑者に弁護人がつくのは当たり前になり、刑事司法改革の大きな一歩になりました。今では、全勾留事件が国選化されました。
 今後の課題は、逮捕段階の被疑者国選です。
 次の大きな改革は「被疑者取調べの可視化」、すなわち取調べの全過程の録音録画でした。諸外国では、多くの国で可視化が実施されており、日本は立ち後れていました。
 日弁連は、一九九〇年代半ばから可視化に取り組み、二〇〇九年には、日弁連の努力と、それを支援する世論の後押しを受けて、一部ではありましたが身体拘束下の全過程の録音録画、すなわち可視化が実現しました。その結果、任意性、信用性を争う事件が大幅に減りました。ただ、最近問題になった、実質証拠化の問題については、最近の判例はそれを否定する傾向にありますが、引き続き注視していく必要があります。今後の課題は、参考人を含む全事件の全過程の全面的な可視化です。
 被疑者国選が、可視化が、日本の刑事司法を大きく変えたことは、今や誰でも評価するところであります。
 次は、弁護人の取調べに対する立会いです。
 立会いも、きっと被疑者国選や可視化と同様、いや、それ以上に困難な課題かもしれません。しかし、この制度なしには日本の刑事裁判をさらに変えることはできません。
 逮捕段階からの被疑者国選、参考人を含む全事件、全過程の可視化、そして取調べの立会いが実現したとき、日本の刑事司法は、画期的な変革をとげるに違いありません。
 日弁連は、人権大会の決議を踏まえて、今、この問題を専門的に取り組む組織を立ち上げる予定になっています。今後はこの組織を中心に、日弁連を挙げて一日も早い実現をめざして努力していきます。

 

 

元気なアメリカの労働運動に学ぶ  福岡支部 永 尾 廣 久

フランスはストライキの季節
 日本では久しくストライキなる言葉を聞かない。ところが、フランスではマクロン大統領による年金改悪に抗議して全国的にストライキがうたれている。
 私の通うフランス語教室で、フランス人の講師は一般人の受けとる年金より公務員のそれが三倍も高いのはおかしいとマクロン大統領は言っている。みんな平等にすべきだとして、高い年金を引き下げようとしていると説明した。低いほうを引きあげるのではなくて、高いほうを引き下げるというのは日本でも同じことがやられているが、日本ではストライキを打つ話は出ない。そんな元気がない。しかし、誇り高きフランス人は生活を守るために立ち上がった。
 アメリカの教員組合は保護者を組織化し、地域で共闘組織をつくったうえでストライキに立ち上がり、労働条件を改善させた。ウエストバージニア州では初め教職員は五%の賃上げ、一般公務員は三%賃上げという回答だったのをストライキ継続によって、すべての公務労働者が五%賃上げになったという。
アメリカの労働組合も熱い 
 自由法曹団員であると同時に日本労働弁護団に加入している人は多いと思う(私もその一人)が、ぜひ最新の『労働者の権利』三三三号を読んでほしい。岸朋弘団員(東京)のロサンゼルスの報告と木下徹郎弁護士(東京共同)のウエストバージニア州の報告を読んで、私は久しぶりにアメリカのことで胸が熱くなる思いがした。アメリカなんて労働運動不毛の地じゃないの、そんな思い込みは完全に間違っていた。
 アメリカでは、労働組合の組織化は日本(一七%)より低くて一〇%ほど。そのうえ、立法(労働権法)と司法の両面から労働組合の組織化に対して攻撃が加えられている。さらに、公設民営のチャータースクールが大繁盛していて、公教育は窮地に立たされている。
それに対してロサンゼルスの教職員組合は立ち上がった。三万人の組合員の一人ひとりに組合は一対一で対話し、それをデータベースに入れて分析する。
 組合財政を強固にするため組合費を三〇%値上げする。そして保護者を組織化し、すべての学校で組合は保護者との連合体をつくる。
ストライキは組合員の九八%が参加するだけでなく、保護者たち地域のコミュニティ組織のメンバーまで参加した。
 ウエストバージニア州でも、保護者との共同行動を追求し、イギオロギーや立場をこえた団結と共同行動を実現した。それは「公共の利益のための団体交渉(公益のための交渉)」と呼ばれた。それまでの団体交渉を根本から変えるものだ。つまり、教員組合のリーダーは、公共の利益を徹底的に要求することにこだわった。この姿勢こそが労働組合と地域の人々と結びつけ、地域社会全体の利益を考えて行動することになり、ストライキの成功をもたらした。それが先に紹介した公務労働者が一律五%賃上げを勝ちとった秘訣だ。
 いやあ、すごい。日本でも、ぜひ元気が出るような運動を目に見えるかたちで実現したいものだ。
労働運動を元気にするための交流会
 『労働者の権利』を読んだ翌日、「労働弁護団通信」三三九号が届いた。そこにアジア太平洋系アメリカ人労働者連合(APALA)のメンバーを迎えて一〇月末に東京でシンポジウムと交流会が開かれたことが紹介されている。
 要するに、アメリカの元気な教員ストライキから学ぶシンポジウムが開かれ、「労働運動を元気にする」交流会がもたれたのだ。
 ウエストバージニアでは、教員だけでなく、ストを支援する保護者や生徒たちといった地域の人々が集まり、赤いTシャツを着て(教育のために赤を着る)、プラカードを掲げながらストライキを行ったことがビデオなどで紹介された。
 アメリカの労働運動はトランプ政権から攻撃されながらも、APALAを設立し、また移民労働者の組織化にとりくみ、ウエストバージニアを皮切りにオクラホマ、ケンタッキー、コロラド、アリゾナ、ノースカロライナと全米に広がる教員ストライキ、最低賃金を一五ドルというキャンペーン、ギグ・ワーカーの組織化、社会正義ユニオニズムの台頭なども紹介されたという。
 詳しくは、『労働者の権利』三三三号と労働弁護団通信三三九号をぜひ読んでほしい(労働弁護団に加入していないときは、身近な団員から入手してください)。

 

 

INF条約失効後の日本を取り巻く核兵器の状況-日本政府へ核兵器禁止条約批准を求め、
北東アジア非核地帯を実現させよう(3)  広島支部 井 上 正 信

三 日本へ中距離ミサイルが配備されることの含意
1 我が国へ米国の中距離ミサイルが配備されることによって、どのような事態になるでしょうか。私たちはこのことの意味を真剣に考えなければなりません。中国に対する抑止力だ、などと牧歌的なことを議論していては、私たちの置かれた状況を見誤ります。抑止力論はまさに思考停止をもたらします。
 中距離弾道ミサイルが発射されれば、七~八分で着弾します。発射を探知してから、その情報を分析して本当に我が国を攻撃しているのか、誤った情報ではないのか、核弾頭なのかなど時間をかけて分析するいとまはありません。敵国が中距離弾道ミサイルを発射したことを探知すれば、ただちにわが陣営の中距離核弾道ミサイルを発射しなければ、虎の子のミサイルや軍事基地などが破壊されます。これを核戦略では「警報発射」と呼びます。「ヘアー・トリガー」と称されることもある態勢です。鳥の羽が触れるほどのわずかの力で核兵器の発射の引き金がひかれるほど、核抑止態勢が不安定となっているのです。このことの怖さは、敵ミサイル発射が誤報であったとしても、反撃のためわがミサイルを発射するということになることです。間違った情報が、あるいは間違った判断が取り返しのつかない核のホロコーストをもたらすのです。
2 米ソ冷戦時代、両国は同じように「警報発射」態勢をとっていました。米ソどちらかが先制核攻撃を行った場合、ミサイルの命中精度が高い上、多弾頭ミサイルであるため、固定サイロ内の地上発射大陸間弾道ミサイルはそのままでは確実に破壊されるので、敵ミサイルが到着する前に発射するという態勢でした。空軍基地におかれた戦略爆撃機も、地上にある限り破壊されるため、平時から常時半数が飛行していたほどでした。
 しかし、そうなれば米ソ両国はどちらが先制攻撃しても、結局互いに確実に破壊されるでしょう。そのことから相互抑止が働くという核抑止論=相互確証破壊が唱えられたのです。
3 私たちは我が国が実際に核攻撃されるとの具体的なリスクに直面した経験はありません。一九六二年キューバ危機の際には、世界が核戦争の瀬戸際に立ちましたが、その後の米ソデタント(緊張緩和)と、米ソ間の核戦力の均衡状態と相互確証破壊により、あまり深く考えることはなかったと思います。日本がソ連から核攻撃を受けるとすれば、米ソ間の第三次世界大戦での極東戦線において、米軍の前進基地となる日本に対して核攻撃があることはわかっていましたが、それは想像を超える事態でした。
 しかし、INF条約失効後我が国へ米国の中距離ミサイルが配備されれば、それが核弾頭であれ通常弾頭であれ、八〇年代のヨーロッパ市民が置かれたと同じ状況に立たされるでしょう。北東アジアのどこか(南シナ海や台湾周辺)で起こりうる米国と中国との武力紛争は、常に想定されてきました。安保法制(特に重要影響事態法、外国軍隊の武器等防護)もそのような事態を想定して日米同盟の抑止力を高めるとして制定されました。もし抑止が破れて武力紛争になれば、私たちが住んでいる地域が限定核戦争の戦場となることを想定せざるを得ません。
4 米国の中距離ミサイルを我が国へ配備させることは、私たちの生存を脅かすものとして、絶対に阻止しなければならないことです。そのためには何をしなければならないでしょうか。
 日本政府が米国の中距離ミサイル配備を受け入れるのは、米国の核抑止力に日本の防衛と安全を依存しているからです。日本政府の核抑止力依存政策は、私たちが想像している以上に、きわめて根深くて強固なものです。米国が核軍縮をしようとすれば、その最大の障害物として日本政府の抵抗を受けます。日本の防衛と安全を米国の核戦力に依存するという日本政府の核抑止依存政策を転換させることこそ今求められています。
 ではそのためにどうすべきなのか。核兵器禁止条約は現在三三か国が批准しており、残り一七か国が新たに批准すれば条約として発効します。日本政府は、核兵器禁止条約を敵視しています。その理由として主張していることは、核不拡散条約(NPT)と矛盾する、日本政府は核兵器国と非核兵器国の対立を仲介しながら現実的な核軍縮措置を取ろうとしているが、核兵器禁止条約は核兵器国と非核兵器国との対立を深めるだけだ、というものです。しかし日本政府の立場は、結局核兵器国に寄り添い、それが許容する範囲内での核軍縮を提案するというもので、すでに国際社会では見向きもされていません。核兵器禁止条約は核不拡散条約と矛楯するものではなく、これを補強するものです。
 日本政府の核抑止力依存政策を改めさせるため、国民の多数が賛同している核兵器禁止条約を日本政府が批准することを求める運動を強めること、北東アジア非核地帯を実現するための運動を強めることが今ほど求められている時はありません。  
 一九八〇年代のヨーロッパでの壮大な反核運動を想い出しながらこの論考を書きました。(終)
※この原稿はNPJ通信にアップされているものを団通信掲載用に若干の修正を加えたものです。

 

 

女性部活動報告  東京支部 千 葉 恵 子(女性部部長)

沖縄総会ご報告
 二〇一九年九月一六日、一七日、女性部の総会を沖縄で開催しました。
 せっかくなので、沖縄を色々と回りたい、ということで一五日は、オプショナルツアーとして辺野古基地見学、オリオンビール工場見学を行いました。辺野古基地では、当日が日曜日だったため、残念ながら座り込み支援はできませんでしたが、常設テントにいらっしゃった方から、今までの戦いの歴史や現在の工事の進行等について、色々と教えていただきました。
 一六日は、各部員の経験交流、予算、決算、来期の人事について議論、決定しました。
 沖縄支部から新垣支部長、本部から森本部事務局長(当時)に参加いただき、ご挨拶いただきました。新垣支部長からは九月一八日に第一回口頭弁論が予定されていた国土交通相が埋め立て承認撤回を取り消した採決を国の違法な関与として沖縄県が起こした訴訟に対する思いが話されました。新垣支部長、森元事務局長、お忙しい中、本当にありがとうございました。この場をお借りして改めてお礼申し上げます。
 沖縄の多くの部員に参加いただき、米軍人による性犯罪事件、貧困、DVの問題に対する取り組み、普天間、辺野古の問題に対する取り組みなどの経験、近況などを話してもらいました。沖縄以外から参加した部員からも、これまでの弁護士人生を語ってもらったり、行田市消防士パワハラ事件、九条俳句事件など各弁護士が取り組んだ事件の報告がありました。子育て、親の介護と仕事の両立などの経験交流もありました。
 各地の弁護士の色々な話を聞くことができて、有意義な総会となったと思います。
 一七日は、一日沖縄ツアーを行いました。瀬長亀治郎さんの記念館「不屈館」、糸数ガマ、沖縄平和記念公園、ひめゆりの塔と平和記念館を訪れ、色々と考えさせられる機会となりました。
 人事ですが、部長は千葉、事務局長は近藤里沙(埼玉支部)、運営委員は湯山薫(神奈川支部)、青龍美和子(東京支部)、立花ほの佳(埼玉支部)、水谷陽子(東京支部)、渡邊萌香(静岡支部)、監査は岸松江(東京支部)です。

 

 

百、二百、三百一筆書き(1)  神奈川支部 中 野 直 樹

北アルプスの連なり
 北アルプスの北部は黒部川を挟んで、西側に毛勝山、剱岳、立山連峰が聳え、東側に後立山連峰が屏風絵を描いている。立山の後ろという脇役的命名であるが、後立山連峰は、日本海岸の難所である親不知から立ち上がった稜線がずっと繋がって南進し、最後は針ノ木岳で区切りとなる長大な屋根である。越中(富山)と越後(新潟)・信州(長野)の境となっている。針ノ木峠を挟んで再び立ち上がる船窪岳、不動岳、烏帽子岳、野口五郎岳、水晶岳、鷲羽岳と裏銀座縦走路が続き、他方、立山連峰は薬師岳、黒部五郎岳に連なり、東西の二つの屋根は三俣蓮華岳で合体する。そして、槍穂岳連峰へと北アルプスの連なりのハイライトを迎える。
蓮華温泉
 九月一四日午前二時三〇分、蓮華温泉の駐車場に着いたが満車で、一キロほど手前に見えた駐車場に戻った。京都から向かってそろそろ到着する浅野則明弁護士にここにいることを知らせるために道端に立った。間なしに京都ナンバーの車がやってきて無事合流となった。数時間車中で仮眠することとした。
 七時蓮華温泉を出発した。蓮華温泉は新潟県に位置し、撮鉄マニアが通う大糸線沿線の姫川温泉から長い山道をたどってたどり着く標高一四七〇mの秘境の湯だ。上杉謙信が銀山を開いたときに発見したと言われている。蓮華の名の由来は後で記す。
 今回の山旅は、蓮華温泉を起点に、白馬岳(百名山)、雪倉岳(二百名山)、朝日岳(三百名山)をトライアングルで周回してこようというものだ。今年の夏は天候不順で計画していた山行がことごとく中止となったが、この週末はよさそうだ。
白馬大池への道
 浅野さんの計画書ではまだ歩いたことのない鉱山道を辿って三国境、白馬岳へと向かうことになっていた。鉱山道とは上杉謙信が発掘に着手した雪倉岳下の銀山開発のために開設された道である。この鉱山は江戸時代から明治・大正と山師たちがいろいろ試掘をしてみたが、事業的にはうまくいかなったとのことである。鉱山道は沢沿いの道なので、せっかく天候に恵まれたのだから展望のよい白馬大池経由の稜線道を選ぶこととなった。栂の樹林帯を抜け、標高二〇〇〇mの天狗ノ庭を過ぎると右手に雪倉岳(二六九〇m)、その奥に朝日岳(二四一七m)の雄大な山体が眼前を占めた。北アルプスの始まりのところにあるこの二つの名山は、岩陵の厳しさを基調とする北アでは異色の存在で、南アルプス系の容姿だと感じた。
 一〇時、白馬大池に着いた。大池山荘の前は色とりどりのテントで華やぎ、多くの登山者がくつろいでいる。私たちはカメラをもって池のほとりにいき、真っ青な空を背景とした乗鞍岳を写していると、池から離れてくださいとの声がかかった。立入禁止でもないのにと小屋の方を振り返ると、小屋のスタッフがヘリコプターの荷揚げ下ろしがあるので危ないと言う。あわてて池から離れてテントが張ってあるところに戻る途中に、もうヘリが近づいてその風圧にあおられてふらつき、テントの天幕ロープに足をひっかけてひっくり返ってしまった。上手く避難をした浅野さんは余裕しゃくしゃくにヘリの動きを動画に撮って、ラインで送ってきてくれた。
小蓮華岳への道
 一〇時四五分出発。空の青さと草原の萌葱色が水面を彩る白馬大池が次第に小さくなった。やがて、右斜めに小蓮華岳(二七六六m)への道が見えてきた。地図をみても「大」がないのに、なぜ「小」なのか。後立山連峰の南端に針ノ木岳と並んで蓮華岳がある。この蓮華岳とは他人関係である。実は、雪を被った白馬岳は、越中や越後の日本海側からみると、蓮華の開花に似ていたことから大蓮華山と呼ばれていたらしい。信州側の麓の安曇では、春に山肌の雪が消えてくると馬の形が現れ、その頃に田植えを始めることから「代馬岳」と呼ぶようになった。それが「白馬岳」と格好いい名に変換した。漢字のマジックである。そのうちに訓読みではなく、音読みで「ハクバ」と誤って呼ばれるようになり、村の名は「白馬・はくば」となった。しかし、山の名は「しろうまだけ」が正しい。信州の人々の命名が勝ち、大蓮華山という呼称は地図から消えたが、なお、新潟県との境に位置する「小蓮華岳」という名が残った。
 浅野さんの話だと、NHKが二〇〇九年から放映したドラマ「坂の上の雲」のエンディングに出てくる山道は、今歩いているルートの小蓮華岳への登り道だとのこと。ところが次第に霧がわきはじめ、小蓮華岳を眺めるスポットの船越の頭では、坂の上だけでなく、坂の下から雲のなかになってしまった。私たちは、時間にゆとりがあるので、雲散を期待して待機することとした(続く)。

 

 

【2019年 愛知・西浦総会~特集 12~】
事務局次長退任のあいさつ  大阪支部 遠 地 靖 志

 あっという間の二年でした。一〇月の愛知・西浦総会で無事、事務局次長の任期を終えることができました。船尾前団長、加藤前幹事長、泉澤幹事長、西田前々事務局長、森前事務局長のもとで、ストレスなく楽しくすることができました。また、次長仲間にも恵まれました。団本部専従事務局のみなさん、大阪支部のみなさん、事務所のみなさんの支えにも助けられました。本当にありがとうございました。
 教育問題と改憲阻止対策本部を担当させていただきましたが、いちばん印象に残ってるのは、教育問題委員会と治安警察委員会の合同で取り組んだ少年法適用年齢引き下げ問題です。私が次長に就任したときにはすでに法制審部会での議論が始まっており、問題点が明らかになりつつある頃でした。もともと教育問題委員会で取り組んでいた関係で、教育担当次長として関わるようになりましたが、合同会議では、これまで私が考えたことのないような視点からの議論がなされたりもして、とても勉強になるとともに、こうした委員会での活動が団の活動を支えていることを実感しました(次長になる前は、団本部の活動に関わるのは総会や五月集会ぐらいで、正直言うと、普段はどんなことをしているのかはよくわかっていませんでした。)。
 また、弁護士八年目から一〇年目という、これから中堅としての役割を期待される時期に本部事務局次長を経験し、全国の団活動を肌で感じることができたのは、とても貴重な経験でした。
 次長を退任したからといっても、少年法適用年齢引き下げ問題はまだ終わっていません。来年二月の法制審総会に向けて、法制審事務局が強引に引き下げ案をまとめるという話もあります。教育問題では、大学入試「改革」で再びクローズアップされた安倍「教育再生」、教科書問題、教育の働き方改革と変形労働時間制の導入、二六条改憲問題などさまざまな課題も残っています。参議院では改憲勢力が三分の二を下回り、また、「桜を見る会」問題で弱っているとはいえ、安倍首相はまだ改憲の野望を捨てていません。地元大阪では安倍政治の大阪版とも言うべき維新政治、大阪市解体(大阪都構想)が目下の課題となっています。
 団員としての活動の軸足は大阪に戻りますが、可能な限り本部の活動にも積極的に参加していきたいと思いますので、これからもよろしくお願いします。

 

 

退任挨拶  東京支部 深 井 剛 志

 一〇月の西浦総会で事務局次長を退任しました、東京支部の深井剛志です。
 私は事務局次長として、労働問題委員会、原発問題委員会、STOP秘密保護法共同行動の担当をさせていただきました。
 一年目の二〇一八年は、働き方改革関連法が成立する時期でしたので、労働法制改悪阻止に関する活動が、主要な業務になりました。院内集会や学習会を繰り返し開催し、私自身も大変勉強になった一年でした。
 また、その時期には、福島原発事故の損害賠償をめぐる地裁の判決も相次いで出されており、原発事故に関する動きもあった年でした。判決に対する声明や決議の起案なども多く経験し、様々な角度から判決を分析し、批評することはいい経験になったと思います。二〇一九年の三月には、現地調査企画として、主に新人弁護士とともに被災地を視察し、調査しました。参加者からは、現地を見ることの大切を学ぶことができ、大変良い経験となったとの感想をいただきました。
 団本部での事務局会議や常任幹事会にも初めて参加し、情勢をめぐる密度の濃い議論に参加することができ、大変新鮮でした。毎月、楽しく、会議に参加させていただいていたと思います。就任前は、勤まるものかと思いましたが、あっという間に任期の二年間も終わりました。
 残念なのは、本部の事務局体制が縮小した状態で任期を終えることとなってしまったことです。現在、本部の事務局次長は、五人しかおらず、昨年と比べて二人も減少しています。しかしながら、事務局次長の業務は、二年間続けてわかりましたが、大変魅力的で、なおかつ楽しい仕事です。次長は、各委員会において、様々なことを提案し、実行に移すことが可能です。企画や学習会、五月集会での分科会など、様々なアイディアを出すことが出来ます。そのように、自由にいろいろと提案できること、それが次長の一番の面白さだと思います。
 若手の次長が様々なアイディアを出すことで、どんどん団もよい方向に変わっていき、今後の活動に活かせていければいいと思います。
 最後に、二年間、様々なところで支えてくださった皆様、ありがとうございました。今後も様々な活動で関わっていきたいと思います。

 

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