第1680号 / 9 / 11

カテゴリ:団通信

【 2019年愛知・西浦総会 ~特集2~ 】
*総会プレ企画「三菱勤労挺身隊訴訟から徴用工訴訟へ」  金 井 英 人

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●墨東病院薬剤師パワハラ・賃金未払事件を提訴しました  笹 山 尚 人

●「被爆者に『なる』」という意味-被爆者運動をどう継承するか  大 久 保 賢 一

●赤牛を歩く(3)  中 野 直 樹

 


【 2019年 愛知・西浦総会 ~ 特集2 ~ 】
 総会プレ企画「三菱勤労挺身隊訴訟から徴用工訴訟へ」  愛知支部 金 井 英 人

 日韓関係が外交問題として連日のように報道されていますが、少し時を遡った二〇一八年一〇月三〇日以降、韓国大法院において、新日鐵住金(現:日本製鉄)や三菱重工に対して、韓国人の元徴用工や元女子勤労挺身隊への賠償を命じる判決が確定しています。
 愛知県名古屋市にかつて存在した三菱重工業名古屋航空機製作所道徳工場では、一九四四年五月に、当時日韓併合状態にあった現在の韓国から、女子勤労挺身隊として多数名が動員され、航空機生産に従事しました。彼女達は、日本に来る前に聞かされていた待遇とは全く異なる厳しい環境で働くことを強いられました。そして、韓国に帰った彼女達は、「挺身隊=慰安婦」という誤解から、自国でも、過去を隠して生活することを強いられたのです。
 その後、一九八〇年代後半から、髙橋信さんらが、三菱重工での朝鮮からの強制連行の歴史を調査する中で女子勤労挺身隊の存在と被害に気づき、長い準備期間を経て、一九九九年三月に名古屋地方裁判所に提訴しました。
 裁判では、請求棄却となり、二〇〇八年一一月に確定しましたが、その後、原告五名は韓国光州地裁に提訴し、二〇一八年の大法院判決へと繋がっていきます。
 今回のプレ企画では、そうした約三〇年の歴史の中で、名古屋三菱朝鮮女子勤労挺身隊の権利や名誉を守るためにバトンを繋いだ三名の方を講師としてお迎えします。
 ①髙橋信(たかはしまこと)さん(元高校教師)
   名古屋三菱朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会共同代表
 ②岩月浩二(いわつきこうじ)団員(守山法律事務所)
   名古屋三菱朝鮮女子勤労挺身隊訴訟弁護団事務局長
 ③崔鳳泰(チェ・ボンテ)弁護士
   韓国での元徴用工訴訟代理人の中心人物
 徴用工訴訟の判決をめぐっては、日韓請求権協定などが引き合いに出され、国際問題に発展しています。日韓関係を見ると、今年七月には日本政府が韓国をホワイト国から除外し、八月には韓国が日韓の軍事情報保護協定(GSOMIA)を破棄しました。愛知県では「あいちトリエンナーレ」で展示された少女像が脅迫により展示中止に追い込まれ、日韓の国民感情も不安視されるところです。
 そうした情勢のもと、講師の皆様から日韓での訴訟をめぐる歴史的背景や、判決の内容のほか、この間の運動や日韓両国の対応などのお話しをうかがい、考える機会にしたいと思います。
 この問題についてまだあまり知らないという方も、深く掘り下げたいという方も、ぜひプレ企画にご参加下さい。

 

 

墨東病院薬剤師 パワハラ・賃金未払事件を提訴しました  東京支部 笹 山 尚 人

一 病院職場の労働環境は変だ
 以前から、病院職場の労働者からの相談を聞くたび、病院職場の労働環境は変だ、と思ってきました。
 労働時間働いて、その時間に対応した賃金を受け取る。
 私たちにとって、当たり前の「労働契約」の観念がありません。あるのは無償のボランティア精神。
 だからそこには、無限のただ働きがあります。
 しかも、医療労働者の仕事は増えています。インフォームドコンセントの充実、患者や家族からのクレーム対応、医療過誤訴訟に備えた記録化、発達する医療技術に追いつくための研修。人手が増えなければ、こなしていくことができません。
 しかし、この国の医療政策は、医療機関が人手を増やして、患者のニーズに応じた医療提供を行うことに対しての手当てが少ない。医療機関は人手を増やすことなく、こなすことに汲々としています。
 職場からは当然不満の声が上がる。医療機関の管理者、現場の管理職は、そういう声を抑え込む役割に回る。強く出なければいけないときにパワハラが起こります。
 そんなことが常態化している。私はそう思ってきました。
 そんなときに、本件のお話がありました。
二 本件で問題にした実態
 舞台は、東京都立の、墨東病院というところです。錦糸町にあり、とても大きな総合病院です。相談にお見えになったのは、薬剤科の薬剤師さん。二〇代の女性です。
 その方の体験はこういう内容でした。
・新人の時「夜勤の練習」への従事を命じられたが、それが自己研鑽と位置づけられ、無給。
・勉強会が多数開かれるが、その日シフトが休みでも参加を強制される。自己研鑽で給料なし。「欠席はあり得ない。五年目ぐらいまでは参加して当然。薬剤師は常に勉強なのだから、プライベートの予定なんて入れないで。」と上司が言う。
・始業時刻より三〇分前に出勤することを強制される。
・残業をするには、「超過勤務申請」が必要になるが、その超過勤務申請をなかなか受け付けてもらえない。その場合でも仕事をしないと回らないから結局残ることにはなる。
・上司の許可を得て、超過勤務申請を行ったのに、それがあとで取り消されたことがあった。別の上司が不許可を出したと思われる。
・労基署が来るとわかっていた日、「今日は労基署の立ち入りがあるので、終業時間から三〇分以内にタイムカードを切ること、タイムカードを切った後、職場に戻って『自己学習』をするように」、との指示があった。
・入職一年目は有給休暇の申請を認めないという運用をしている。
・退職する時も、残りの有給消化を認めない。
・「先輩ができていたことができていない。能力がない」などといった叱責を衆人環視の中で繰り返された。
・タイムカード等の記録の実態に対応しない、低い額しか残業代が支給されていない。
三 提訴と本件の意義
 二〇一九年九月三日、相談者を原告とし、東京都を被告にして、私たちは東京地裁に裁判を起こしました。労基法及び職員の給与に関する条例に基づく残業代二〇五万七三四〇円と、付加金請求、上記二の実態を不法行為として、国家賠償請求で慰謝料三五〇万円の支払いを求める内容です。
 提訴の際、記者会見を行いましたが、その様子は、当日のテレビやネット、翌日の朝刊誌面で大きく報道されました。
 それはやはり、本件に高い社会的意義があるからだと思います。
 二で述べたことはほんの一例であり、また、重大なのは、これが
墨東病院薬剤科だけの特殊な例にとどまるものではなく、都立の病院にこの状況が広範に見られることです。
 小池都知事が掲げる「ライフ・ワーク・バランス」は、足元のこの問題にメスを入れることなしには実現などありえません。
 本件はこの実態を告発し、東京都の病院職場、ひいては東京都の職場の働き方の改善を求める取り組みとしての意義があると考えています。多くの方にご注目いただきたいと考えています。
 なお、弁護団は、小部正治団員、長谷川悠美団員に、私です。

 

 

「被爆者に『なる』」という意味-被爆者運動をどう継承するか  埼玉支部 大 久 保 賢 一

被爆者の意味
 被爆者に「なる」などと聞いても何のことやらと思う人が多いかもしれない。基礎知識を整理しておこう。被爆者とは、一般的には、広島・長崎の原爆投下による影響を受けた人という意味である。例えば、爆心地近くにいて蒸発してしまった人、近くに居たけれど生き残った人、投下後、家族を探すためや被害者救援のために爆心地近くに入った人、胎内で被爆した人などである。「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)では、これらのことが証明されれば、政府は「被爆者手帳」を交付することになっている。これは法的な意味での被爆者である。今、私たちが、これらの意味での被爆者になるなどということはありえない。では、被爆者に「なる」とはどういう意味なのだろうか。
昭和女子大学生の取り組み
 昨年一一月一〇日・一一日、昭和女子大学の文化祭(秋桜祭)で、「被爆者に『なる』 戦後史史料を後世に伝えるプロジェクト―被団協関連文書」が発表された。同大学の松田忍准教授(日本近現代史)の呼びかけに答えた学生一二人の研究発表である。松田准教授は、二〇一三年から学生らとともに認定NPO法人「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」が手掛けている被爆者運動資料の保存作業をサポートしてきた。そうしたなかで、資料整理の援助だけではなく、それを歴史資料として分析することに携われば、学生たちの気づきや成長につながるのではないかと考え、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の運動資料などを戦後史資料として分析するプロジェクトを学生らに呼びかけた。学生たちは被爆者の手記・体験記に目を通し、被団協資料を精力的に読み込み、被爆者から被爆体験を聞き取った。当初は「被爆者の痛みに寄り添いたい」と考えていた学生たちは、次第に「それぞれの被爆者にその後の長い人生があり、その人なりの歩み・想い・目覚めなどがある」と気が付いていく。ある学生は「被爆者のお話を聞き取って、原爆は過去で完結していない。自分の問題として考えなければと学びました」としている。二日間で約六〇〇人が来場し、「被爆者の生の声を聴ける最後の世代の人たちが被爆体験に向き合っていることに感銘を受けた」などという感想が寄せられている(この記述は今年一月六日付「被団協」新聞・吉田みちおさんのまとめに依拠している)。
松田准教授のねらい
 松田さんは、このプロジェクトのねらいについて、被爆者運動を歴史の中に位置づけ、その過程で、学生たちが歴史学の方法を体得することにあるとしている。もし、歴史が忘却された過去なのであれば「被爆者運動を歴史にしてはならない」と言えるかもしれない。けれども、E・H・カーがいうように、「歴史とは過去と現在の対話」だとすれば、被爆者運動は歴史にしなければならないというのである(同「被団協」新聞)。私も、ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会に係わるものとして、被爆者運動を「忘却された過去」とするのではなく「過去と現在の対話」として永続したいと考えている。そういう意味で被爆者運動を歴史にしたいとは思う。けれども、「歴史にする」という言葉は、いつもそのような使われ方をするわけではない。
保阪正康さんの「歴史に入った」の使い方
 ノンフィクション作家保阪さんは、丸山穂高衆議院議員の「北方領土を戦争で取り戻してはダメなのか」というような常識外れの発言の主には自分の発言が歴史を侮辱しているという認識はない。こんなラフな思考に基づく歴史観を口にする背景には、「昭和は歴史に入った」という理解があるように思う。私は、昭和を歴史にしたくない。愚かな発言を許さないためも、歴史の視点で語ることが必要だ、歴史の視点で語るとは、E・H・カーがいうように、歴史のひとつの事象には必ず原因があるし、しかもいくつかの原因を見つけ出すことは可能だ。その原因を整理しそれに序列をつけることだ、と言う(毎日新聞・今年六月一五日朝刊)。ここでもカーの「歴史とは何か」が引用されている。
 一九四五年八月は昭和二〇年八月である。昭和は六四年まで続く。松田さんは「被爆者運動を歴史にしよう」といい、保阪さんは「昭和を歴史にするな」という。誤解のないように言っておくと、保阪さんは、「あの戦争を具体的な体験に基づいて語られなくなる事態を避けよう」という文脈の中で、「昭和を歴史にするな」と言っているのである。だから、松田さんも保阪さんも、結局は、戦争体験や被爆者運動を歴史に刻めということを言っているのである。表現が逆なだけなのだ。
学生たちの覚醒
 学生たちが、「被爆者の痛みに対する寄り添い」を超えて、「原爆を自分の問題として考える」ようになったことは、先に述べたとおりである。それが学生たちの「被爆者に『なる』」という意味だったのである。松田さんは、学生たちが今度の活動で得た結論「被爆者に『なる』」は、歴史の当事者として原爆と被爆者の問題を引き受けることを意味している、と評価している。私は、松田さんの学生たちの営みに対するこの評価は、まさに正鵠を射ていると思う。カーは、「歴史とは、人間がその理性を働かせて、環境を理解しようとし、環境に働きかけようとした長い間の奮闘のことだ」ともしている(『歴史とは何か』・岩波新書・二〇〇~二〇一頁)。これに照らせば、松田先生は、学生たちに、歴史学の神髄を提供したのかもしれない。このプロジェクトはまだまだ継続することになっている。そして、「記憶遺産を継承する会」はセンター建設のための大運動を展開している。私たちには、ラフな思考に基づく、常識はずれの人間を乗り越えて、理性を働かせながら環境に働き続けることが求められているといえよう。(二〇一九年六月一七日記)

 

 

赤牛を歩く(3)  神奈川支部 中 野 直 樹

霧がはれて
 深い霧に包まれながらの一人歩きとなった。何も見えず、ほぼ空身であることから急ぎ足となり、一時間五〇分予定のところを一時間ほどで二九二四mの鷲羽岳山頂に立った。ここから一時間ほど下ると三俣山荘である。一五分ほど待つと東側の霧がはれてきて鷲羽池が見えた。引き返しで油断をして転ばないように下っていると、突然ヘリコプターの音がして、荷物を吊り上げた状態で頭上を越え西の方向に向かっていった。ワリモ岳を過ぎたあたりから西側の霧がはれてきて、祖父岳が見られるようになった。九六年、岡村親宜弁護士、故大森鋼三郎弁護士、当時の団の専従事務局森真平さんと太郎平から入山して、黒部川源流の岩魚釣りをし、雪渓を越え、最後はへとへとになりながら沢を登りつめ、源流始まりの一滴の水で乾杯をしたあたりも見下ろすことができた。亡き大森さんの釣り姿が浮かび、心が熱くなった。三俣山荘に泊まるという東京の労山の女性たちにまだぬくもりのある岩魚焼きをプレゼントして歓声を受けたエピソードもあった。今度は西側から東側方向に空身となったヘリが戻っていった。水晶小屋への登り返しの途中で、朝追い抜いた高校生グループとすれ違った。一五時四〇分なのでずいぶん時間がかかったようだ。ここから三俣山荘まで一時間半ほどかかるので小屋の人はやきもきしているのではないか。
北アルプスの真ん中ー水晶小屋
 九六年に源流釣りをしてきたときに泊まった小屋は〇六年に建替えとなった。入れ替え制の夕食はカレー。食べたらすぐ布団に入り眠りに就くという山小屋のサイクルに合わせて布団に横になる。定員三〇名の小屋は満杯で人いきれで室温が上がり、寝苦しく眠れぬ夜となった。気分転換に二度ほど外に出てみたが、霧に包まれ星が望めなかった。
 寝不足の朝、出発の準備をしていると、ヘリコプターが小屋出入口の空き地へ荷下ろしとゴミの荷積みにきた。ここ数日天候が悪く延び延びになっていたらしい。ヘリが中空にホバリングをしながら下ろしたロープの先に円形の鉤がついている。風圧が強く小屋前は通行禁止となった。小屋のスタッフ男性がこの鉤を積み荷のロープにかけようとするがうまくかからない。女性のスタッフも出てきて手伝うがやはりうまくいかない。ヘリの乗務員が窓から身を乗り出してやり方を指示し、悪戦苦闘の末ようやく正常にひっかかり、ヘリはさっと上昇していった。この間、タイミング悪くトイレに入って出られなくなっていた人が、ウンが悪いといいながら出てきた。こんなに真ん前でヘリ作業を観察したのは初めてだった。
水晶岳
 七時出発。素晴らしく晴れわたった。南には槍ヶ岳から穂高連峰、鷲羽岳、三俣蓮華岳、双六岳、笠ヶ岳、乗鞍岳の大展望、東には雲の平の先に美しいカールを開いている黒部五郎岳が待ちかまえ、北にはこれから歩む赤牛岳の長い背中、それと向き合う薬師岳、黒部湖を隔てて立山・剱岳連峰、後立山の山々。言われているとおり、ここが北アルプスのど真ん中だった。ここから見える人工物は黒部ダムと山小屋だけであり、あとは全て山ばっかりである。
 三〇分ほどで水晶岳に着いた。ごつごつした岩場の山頂は狭く、水晶岳(二九八六M)と書かれた木杭一本が傾きながら立っているだけであった。水晶の語源について、私は、野口五郎岳の縦走路からみる双耳峰から落ちる岩尾根が水晶のように見えるところかと思っていたが、これは誤りで、水晶が採取されるところかららしい。また水晶岳は黒岳とも呼ばれているが、振り返って見える水晶小屋のあたりは赤岳と言われているようだ。老夫婦と話をした。八一歳であり、女性は今年富士山に登ってきたと言っておられた。歩く様子をみているとよたよたとされているが、ここまでやってこられる気力に脱帽した。ついでに、烏帽子小屋からずっと同じ方向を向いてきている中年の男女がなんとなく気にかかっていたが、ここでの言動からご夫婦でないと確信した。余計な詮索ですみません。もう一人、同じ長大コースを単独行で歩く女性も気になった。この方は後刻、思わぬ活躍をされることとなる。水晶岳から方向を北に転じて赤牛岳への背道に踏み出した(続く)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

TOP