第1682号 / 10 / 1

カテゴリ:団通信

【 2019年愛知・西浦総会~特集4~ 】
*団総会「徴用工」のプレ企画と愛知支部若手会の報告  梅 村 浩 司

地元事件紹介その2
*原審を変更した住民訴訟控訴審判決について  福 岡 孝 往

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●KLMオランダ航空無期転換労働審判の報告  髙 橋   寛

●「松川事件70周年記念全国集会」での報告  鶴 見 祐 策

 


【 2019年 愛知・西浦総会 ~ 特集4~ 】
 団総会「徴用工」のプレ企画と愛知支部若手会の報告  愛知支部 梅 村 浩 司

 愛知支部では、七年前に若手会を結成して、活動をしてきました。
沖縄ツアー、静岡・三重県などの原子力発電所等をめぐるツアー、二、三か月に一回程度の勉強会を行ってきました。そして、今回の団総会のプレ企画は、若手会の幹事会のメンバーが、企画をして準備をしています。
 若手会では、総会でのプレ企画の企画準備に先駆けて、名古屋地裁に提訴された名古屋三菱朝鮮女子勤労挺身隊訴訟の勉強会を、二回に分けて行いました。講師は、プレ企画で講師をお願いしている岩月浩二団員と、高橋信さんでした。
 日韓の判決の内容、日韓請求権協定のみならず、日本と朝鮮半島等の歴史、徴用工の強制動員の歴史等を学びました。ここでは、前者の点は総会プレ企画に譲り、後者の点を報告します。
 日本は、明治初めの江華島事件以来、朝鮮半島への進出をすすめました。日清・日露の戦争は、朝鮮半島の権益支配権をめぐる争いでもあり、それに勝利した日本は、一九〇五年九月に第二次日韓協約を結び、韓国の外交権を奪い、統監府を設置しました。ハーグ密使事件後の一九〇七年七月には、第三次日韓協約及び秘密覚書を結び、韓国内政を統監府指揮下に置き、韓国軍隊の解散などをさせました。その後、日本は、韓国から警察権を奪い、一九一〇年二月に、「韓国併合に関する日韓条約」を結び、朝鮮総督府を置き、朝鮮半島を完全に支配することになりました。
 そして、一九一〇年から一九四五年八月一五日までの三六年間にわたり、日本帝国主義による朝鮮半島支配が行われました。
 一九一〇年から一九年までは、憲兵警察の支配、経済支配、同化政策が推進されました。その間に行われた土地調査事業では、農地が国有地に編入され農民の土地が取り上げられ、朝鮮人地主の土地所有や小作料の保障をすることともなりました。その後、一九三一年の満州事変、一九三七年からの日中全面戦争へと中国への侵略戦争がすすむ中で、「皇国臣民化」政策が強化されました。一九三七年七月には、毎月一日が「愛国日」(後に「興亜報公日」)とされ、神社参拝も強制されました。同年一〇月には、「私共は、大日本帝国の臣民であります。」「私共は、心を合わせて天皇陛下に忠義を尽します。」との内容の「皇国臣民の誓詞」が制定され、以後、学校、官公署、職場で斉唱されました。一九三八年三月には、朝鮮教育令が改訂され、日本国内と同一の教育体系とされ、朝鮮語が随意科目となりました。一九三九年一二月には、朝鮮民事令が改訂され、一九四〇年二月から八月まで創氏改名の実施が強要されました。一九四一年三月には、学校における朝鮮語教育が全面的に廃止されました。そして、戦争の泥沼化と戦線の拡大の中、日本国内での労働力不足を補うために、朝鮮半島からの強制連行が行われるようになりました。
 一九三九年七月以降、「朝鮮人労務者内地移住に関する件」により「募集」の名による強制連行(第一次連行)が行われました。一九四二年二月には、「朝鮮労務者活用に関する方策」が閣議決定され、同年三月以降、「官斡旋」による強制連行(第二次連行)が行われました。一九四四年八月八日に「半島人労務者の移入に関する件」が閣議決定され、同年九月から「国民徴用令」が朝鮮半島でも適用され、一九四五年八月まで「徴用」による強制連行(第三次徴用)が行われました。
 なお、一九四三年一〇月三日施行の軍需会社徴用規則には、従業員を原則として徴用工とみなすと規定されており、一九四四年の「半島人労務者の移入に関する件」が閣議決定の際にも「新規徴用」と「現員徴用」との文言が使用されており、一九四四年以前に強制連行された人についても、「徴用工」と言っても間違いではありません。
 名古屋三菱朝鮮女子勤労挺身隊訴訟の原告らは、一九四四年六月に日本に連れてこられます。当時、原告らは小学校六年生か卒業後間もなくで、皇民化教育のため、日本に対するあこがれを抱き、日本を心から信頼していた少女たちでした。名古屋地方裁判所の判決は、皇民化教育の結果を、以下のように指摘しています。『本件勤労挺身隊員らは、一九三〇年代の後半に国民学校に入学したが、当時の国民学校では、児童らは、毎朝の朝礼で東に向かって見えない天皇陛下に最敬礼をし(皇居遙拝)、声を合わせて皇国臣民の誓詞を唱えさせられた。
 歴史の授業では韓国の歴史ではなく日本の神話が取り上げられ、「天皇は神である。」、「日本は良い国である。」などと教えられた。
 修身の授業では、二宮金次郎、楠木正成、東郷平八郎などが教えられ、また、教育勅語を暗記させられ、覚えないと罰を受けた。君が代や軍歌なども教えられた。学校内では、朝鮮語の使用が禁止され、使うと罰を受けた。
 一九四〇年(昭和一五年)ころに創氏改名が行われ、学校内では日本名で呼び合った。
 本件勤労挺身隊員らは、これらの教育を素直に受け入れていた。』このような少女たちは、一九四四年五月ころ、校長、担任、隣組の班長らから「日本に行けば、女学校(当時、韓国では女子が進学する道は極めて限られていた)に行ける」、「働いてお金ももらえる」と騙され、保護者が反対した場合には憲兵に逮捕される等の脅迫を受け日本に行けば女学校へ通えると信じて、勤労挺身隊に参加することにしました。
 上記訴訟の控訴審の名古屋高等裁判所は、少女らが皇民化教育を受けた若年者であったこと、勧誘したのが少女らが信頼していた又は敬意を払うべき対象とされていた者であったこと、勧誘内容が、向学心をもち、上級学校への進学を希望していた少女らに魅力的であったこと、親などの反対に対しては憲兵などからの脅しがあったことなどから、「各勧誘者らが本件勤労挺身隊員に対して、欺罔あるいは脅迫によって挺身隊員に志願させたものと認められ、これは強制連行であったというべきである」と判示しています。
 そして、日本に連れてこられた少女たちは、劣悪な条件下、過酷な労働を強いられた上、賃金も支払われませんでした。
 そのうえ、一九四四年一二月六日には東海地方を襲った東南海地震で犠牲者を出しました。加えて、解放後、韓国に戻った少女たちは、植民地時代からあった「挺身隊」=「慰安婦」との誤解に加え、貞操観念を絶対視される社会で、「汚れた女」との烙印を押されることに怯えて過去を隠し、息をひそめるような生活を強いられました。
 挺身隊動員の過去が発覚して破談したり、離婚されたり、夫から虐待を受ける、夫が家を出る等の家庭崩壊を味わい、生涯にわたる被害を受けました。
 徴用工判決以降の日本政府の行動の背景には、上記のような歴史をなかったものとする歴史修正主義があります。
 かつて、ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、「過去に目を閉ざす者は、現在に盲目となる」(一九八八年)と演説をしました。
 今日の安倍内閣の態度、巷の嫌韓報道は、現在に盲目になっている態度といえます。
 一九八八年、名古屋三菱朝鮮女子勤労挺身隊員についての草川昭三衆議院議員(公明党・国民会議)の質問に対して、宇野宗佑外務大臣(当時)は、「戦時中朝鮮半島に住んでおられた方々に対する当時の軍部、そうした関係者がいろいろと悲しい思い出を作らせてしまったということは幾つもの例がございます。・・・私たちといたしましては十二分に配慮をし、またその人たちのご遺族の、またご本人の名誉というものを新しくきちっとするということが大切だと考えております。何らかの措置をとるように努力いたします。」と答弁しています。
 今こそ、日本政府が何らかの措置をとることが求められています。

 

 

*愛知支部・事件紹介その2
原審を変更した住民訴訟控訴審判決について  愛知支部 福 岡 孝 往

 住民側の請求を全面認容した第一審判決を変更し、一部認容する判決が、二〇一九年七月一六日、名古屋高等裁判所において下されたので報告する。
一 事案の概要
 一九五一年、豊橋市と現ユニチカ株式会社(補助参加人)との間で、補助参加人の工場誘致をめぐり、豊橋市が補助参加人に対し工場敷地の提供等、諸便宜を供与する一方で、補助参加人が工場敷地を使用する計画を放棄した場合には工場敷地を豊橋市に対し返還する旨の合意(本件契約)がなされた。そして上記合意に基づき、補助参加人は豊橋市内で工場の稼働を開始した。
 二〇一五年、補助参加人は工場の操業を中止したが、工場敷地を豊橋市に対し返却することなく、第三者に売却をした。これに対し豊橋市は、補助参加人に対し何の請求権も有していないとして補助参加人に対し何の請求を行わなかった。そこで市民が豊橋市の執行機関である豊橋市長に対し、債務不履行または(取引的)不法行為に基づく損害賠償請求として、工場敷地の売買代金相当額である六三億円の支払いを補助参加人に対し請求するよう求める事案である。
二 事実経過
 二〇一六年八月二三日、訴訟提起(原告一三〇名)
 二〇一八年二月八日、一審判決言渡し(全面認容)
 二〇一八年二月一九日、控訴提起(豊橋市長)
【四回の口頭弁論を経て】
 二〇一九年七月一六日、判決言渡し
三 控訴審における主張等
 原審に引続き控訴審においても、返還請求権の存在及び返還対象となる土地の範囲についての本件契約の解釈が争われた。
 住民側の請求を全面的に認容した一審をうけ、控訴人及び補助参加人は、一審では明らかにしなかった補助参加人の内部資料を提出し、控訴人の補助参加人に対する請求権の不存在を主張した。当該内部資料は、返還対象となる土地の範囲について、一九六五年時点における補助参加人の意思が記載されていたため、契約時点(一九五一年)の当事者の意思を推認させるものであり、控訴人及び補助参加人の主張に沿うものであった。しかし、豊橋市当局と補助参加人との間で、豊橋市が有する土地返還請求権を消滅させる旨の画策をしたものの、市議会決議を経ることが出来ないと判断し、契約変更を断念した経緯記載されていたため、豊橋市に配慮し、一審では提出しなかったものと推測される。
 なお、住民側は豊橋市に対し、当該資料に対応する資料を明らかにするよう求めたところ、控訴人は対応する資料が存在しないと主張した。
四 控訴審判決及びその問題点
 控訴審は、六三億円全額の請求を認めた一審判決を変更し、約二一億円にかぎり請求を認容した。
 控訴審判決においては、数々の問題点が存在するが、特筆すると①証拠に基づかずに契約解釈を行っている、②「補助参加人に極めて大きい影響を与える」として、補助参加人の不利益にのみ過剰に配慮しているといった問題が認められるものであった。
五 今後について
 控訴審判決に対して、住民側、豊橋市長、補助参加人の三者全てが上告及び上告受理申立を行ったことから、今後、争いの場は最高裁に移ることとなる。控訴審判決の問題点を明らかにし、住民側の請求が全面的に認容されるよう引き続き尽力する所存であり、団員の皆様には引き続き、ご支援をお願いしたい。

 

 

KLMオランダ航空無期転換労働審判の報告  東京支部   髙 橋   寛

一 はじめに
 KLMオランダ航空(以下「KLM」という)は、エールフランス‐KLM傘下の航空会社であり、一九一九年に設立されたオランダを代表する航空会社である。
 この度、私が所属するKLMオランダ航空事件弁護団が、二〇一九年八月一九日、KLMの有期契約客室乗務員であった申立人三名全員の(無期転換を前提とする)地位確認を認める労働審判を得たため報告したい。KLMオランダ航空事件弁護団は、現時点で、論点が異なる「一陣」と「二陣」も並行して訴訟を行っている。今回労働審判を得たのは、「三陣」にあたるため、ここでは三陣に重点を置いて報告する。
 なお、本労働審判は現在、相手方の異議申し立てにより本訴に移行している。
二 概要
 申立人らは、KLMにおいて有期契約社員として約二ヶ月+三年+二年の合計約五年二か月間勤務してきた客室乗務員三名である。
 申立人らは、KLMの採用選考を経て、いずれも二〇一四年三月二四日にKLMとの間で約二か月間の「訓練契約」を締結し、オランダのアムステルダムにおいて約二か月間、訓練に従事した。その後、間を置かずに二〇一四年五月二七日から三年間の有期雇用契約を締結し、更に二〇一七年五月二七日から契約期間を二年間として契約を更新した。
 申立人らは、二〇一九年一月、訓練期間を含めた労働契約の通算期間が五年を超えていることから、KLMに対し、労働契約法一八条に基づく無期転換権行使を通知した。
 しかし、KLMは、訓練契約は労働契約には当たらないとして、無期転換を認めず、申立人らを二〇一九年五月二六日付で「雇止め」とした(厳密には、労働契約法一八条一項により、有期労働契約の終了日の翌日を始期とする労働契約が無期転換申込時点で成立したとみなされるから解雇に該当するのではないかと思われる。)。
三 KLMでの訓練の実態
 訓練期間を労働契約期間に含めれば、通算の労働契約期間は五年を超え、訓練期間が含まれなければ通算の労働契約期間はちょうど五年に収まるため、本労働審判の争点は、訓練契約が労働契約に当たるかという点である。
 弁護団は、訓練の実態やKLMにおける取扱いからすれば、訓練契約は当然に労働契約に該当すると主張した。
 まず、採用選考段階から見ても、KLMの採用選考は当然、客室乗務員としての採用選考が行われ、二〇一三年二月に交付された内定通知にも「我々はあなたが日本ベースのアジア人キャビンアテンダントとして明確に選ばれたことをお知らせすることを喜ばしく思います」などと記載されていた。
 訓練自体についてみても、申立人らは、KLMの決めたスケジュールやカリキュラムに従い、KLMの指揮命令の下で訓練に従事していた。訓練期間中、申立人らは、日本とオランダを往復する航空機でいわゆるフライトのOJTを行う機会が三回あり、通常の客室乗務と同じように、航空機内での物販や食事の配膳、日本人乗客への応対などを行った。
 また、訓練契約においては、訓練手当として約一八万八〇〇〇円(訓練期間終了後に振込)と日当として一日あたり七五ユーロ(約一万五〇〇円)が支払われており、訓練に対する対価が支払われていた。
 さらに、KLMは、二〇一七年一一月の時点で、会社内部やオランダ本国の労働組合に対して宛てた文書で、訓練契約を含めると通算期間が五年を超えることが「許容範囲を超えるリスク」と述べ、現在では訓練を五年間の雇用契約期間の最初に行っている。
四 審判と今後について
 以上のような事実を主張して、弁護団は裁判所に対して申立人らの地位確認を求めた。これに対し、KLM側は「訓練生は司法修習生と同様の立場にあるから、修習生が労働者にあたらないのと同様、訓練生も労働者にはあたらない」といった主張を行ったが、裁判官(審判官)や審判員は大きくは取り上げなかった。
 裁判官は、心証を直接明かしはしなかったものの、KLM側が無期雇用はできないと述べたため、第二回期日において、審判が出されることとなった。
 審判の内容は、申立人らの労働契約上の地位を認め、バックペイの支払いを命じるというもので、申立人らの申立てをすべて認める内容であった。
 勝利審判を得たものの、残念ながら、KLM側から異議が出されたことで本件は訴訟に移行している。弁護団、原告団としては、無期転換を求め、再度本誌上において勝利報告ができるよう、気を引き締めて闘っていく所存である。 

 

 

「松川事件70周年記念全国集会」での報告  東京支部 鶴 見 祐 策

 九月二二日と二三日に福島大学で表記の集会が開かれた。映画監督の周防正行さんの講演、布川事件の桜井昌司さんらのシンポが行われ、全国各地から二日間で一二五〇名を超える盛会だった。元被告の阿部市次さんの挨拶があり、元弁護団として私にも機会が与えられ次のことを話した。
一 はじめに(省略)
二 松川事件の本質
 松川は「戦後最大の冤罪事件」と言われます。そのとおりですが、このところ事件の真相が意外と知られていないことを気づかされます。単に捜査を誤った「冤罪」とは違います。最初から狙う「犯人像」を決めていた。事件後の間もない時期に国警福島隊長(新井裕・後の警察庁長官)は「二つの幹線と一〇本の支線を一本にできればしめたもの」と語っています。すでに国鉄と東芝労組の幹部を標的とする筋書きが用意されていた。少なくとも捜査首脳は無実を知りながら「犯人」に仕立てたのです。だから「権力犯罪」であり、立件自体が「政治的な謀略」なのです。
三 その「謀略」の時代背景
 七〇年前の日本はアメリカ占領軍(GHQ)の施政のもとにありました。極東の反共基地の構築を目指したアメリカは、日本政府に「経済安定九原則」の実行とドッチプランに基づく官公庁と企業の労働者の大量首切りを強行させました。この年を節目に占領軍自体が労働運動と民主運動の鎮圧に乗り出しました。一月の総選挙で共産党の躍進(三五名当選)にも神経を尖らせました。四月には共産党の非合法化も視野に入れた団体等規正令(後の破防法)が公布されました。
 とりわけエネルギー産業の拠点だった福島は、彼らの戦略上の重要拠点でした。福島市に軍政府が置かれ法務担当の軍人が日本の検察と警察を配下に置き睨みを利かしていました。裁判所も埒外ではあり得ません。八月に入ると共産党の県委員長も呼び出されています。仙台から来た高級将校が党員名簿を要求し「これは作戦命令だ」「七日以内に提出しないと軍事法廷にかける」と脅しました。委員長は、すぐに姿を晦らまして要求に応じなかったのですが、それが「列車転覆の何日か前だった」と国賠の法廷で証言しておられます。
 軍政府としては首切りに反対して最も先進的に闘ってきた国鉄と東芝労組の幹部党員の確認と特定が目的だったのでしょう。
 鉄道の管理は米軍の専権でした。下り列車の運休が現場作業に必須の条件でしたが、ダイヤ変更の経緯は日本側の誰も知らない。だれが、いつの時点で決めたのか、検察側も立証できず、裁判でも明らかにされませんでした。米軍に纏わる謎の種が尽きません。作られた限られた時間ですが、その間にレール両端の継ぎ目を外し漏れなく犬釘を抜き去るには、組織された屈強で熟練した相当数の人員が必要でした。
 かつて大陸で行われた謀略事件を連想させずにおきません。
四 昭和天皇の発言
 ちなみに田中道治(ミチジ)宮内庁長官が昭和天皇と交わした会話の記録(拝謁記)が最近の話題になっています。今年の九月一八日にNHKが「WEB特集 昭和天皇『拝謁記』の衝撃」として放映したなかに松川事件に関する部分があります。私は知らなかったのですが、数日前に知らせてもらいました。そのなかに「昭和二八年一一月一一日の天皇の発言」として「一寸法務大臣にきいたが松川事件はアメリカがやって共産党の所為にしたとかいふ事だが、過失あるが汚物を何とかしたといふので司令官が社会党に謝罪にいっているし」と記載されているとのことです。
 この「アメリカがやって共産党の所為にした」の発言に仰天した田中長官は「柳条溝事件の如き心地し容易ならぬ事と思ふ」と感想を付記しています。関東軍が列車を爆破した「張作霖事件」の連想かもしれません。ちなみに法務大臣とは犬養健(タケル)でしょう。彼は昭和二七年一〇月三〇日から二九年四月二一日まで法務大臣でした。最後に造船疑獄で指揮権を発動して逮捕直前の佐藤栄作を逃がした責任を問われて辞職した人物として名を残しています。
 この発言の時期が重要です。松川裁判では二審の不当判決が同年の一二月二二日ですから、その言渡しが間近に迫った時機にあたります。この発言は、当時の上層部には「松川事件はアメリカがやった」との情報が伝えられ、その認識が彼らに共有されていたことを物語っています。その反面として「共産党の仕業」のデマ宣伝が流され、その奔流に国民の大多数が騙されてきた構図が鮮明に浮かび上がってきます。
 事件が起こるや翌日に内閣官房長官(増田甲子七・内務官僚で勅撰の福島県知事)名による「共産党の仕業」を示唆する談話が報道されるのですが、これもこの情報に平仄を合わせた政治謀略の一環であったと推測するのに十分でしょう。
 この新たに報道された事実の客観的な分析と解明が待たれるところです。権力の規制などで闇に葬られてはなりません。
五 国賠判決の評価
 さて私が所属する自由法曹団は一〇〇年目を迎えつつあります。松川運動は、まさに「大衆的裁判闘争」の原点ですから、自由法曹団でもその作風と伝統の継承が欠かせないわけです。
 その関係から差戻審の門田判決と国賠訴訟の勝利判決を改めて読み返しております。国賠判決の最終章の書きだし「元被告は無実である」に今も新鮮な感銘を抑えることができません。「自白」は「捜査官の想定に基づく強制誘導」「虚偽架空の作文」、アリバイの「明白な証拠を手にしながら、これを無視し、公訴を提起し追行した」「人の生死にかかわる重大事件の審理の過程でこのようなことがおこなわれたということは、まことにおどろくべきことである」「公正なるべき刑事裁判の経過の上に、明白かつ重大な汚点を残した不祥事だった」など私たちが知る裁判所とは思えない言葉で弾劾しています。
 ちなみに門田判決は、最高裁に陣取る下飯坂裁判官などから汚い言葉で非難されました。実際に刑事裁判一筋でこられた門田実裁判長は、無罪判決後、刑事から外され最後まで家庭裁判所に配転されています。司法の守旧派が盤踞する司法官僚の差し金でしょう。その門田さんが何かの機会に残された文章(「松川裁判の思い出」朝日新聞)のなかで、この差戻判決に触れて「もっとすごいことが書いてある」との趣旨を述べておられます。
 判決文の量は厖大ですが、機会をみてお読みになることをお勧めします。
六 松川運動の神髄
 松川運動の神髄は「大衆的な裁判批判」にあると私は思います。二審の有罪判決が出されたとき広津さんは悪意の誹謗を浴びせられました。「裁判は専門家に任せろ」「素人は口出しするな」と言わんばかり。それにめげず広津さんは、二審判決を克明に分析しその誤りと不正を抉りだす文筆活動に傾注されました。四年以上にわたりました。それに多くの人々が新たに触発されたと言えるでしょう。
 数多くの人々が実際に現地を踏査され、脱線実験に参加され、権力による虚構の筋書きを体感され、それを周辺の人々に伝えて最後には大きな世論として発展させました。危機感に襲われた最高裁田中耕太郎長官は「雑音に耳を貸すな」と全国の裁判官に伝達しました。裁判官や学者や評論家の中には提灯を持つ者もおりましたが、この流れは止められない。「公正裁判」を求める声が充満する中でマスコミの論調も変わってきました。これは自然の成行きでした。その過程で捏造構想の骨格を瓦解させる「諏訪メモ」の存在が暴露され、最高裁の逆転につながるのです。
 今では「裁判批判」は何の違和感もなく国民に浸透しています。七〇年を振り返って日本の司法改革の観点からして実に大きな変化と言えるでしょう。現在の司法は未だ多くの問題を抱えておりますが、例えば真の陪審とは程遠いとは言うものの「裁判員制度」の創設や「白鳥決定」後の再審の潮流にも「裁判批判」運動の流れが大きな影響を及ぼしていると思われます。いま制度改革として論議さている「未提出記録の開示」や「取調の可視化」「弁護士立会い」なども無縁ではありません。
七 むすび(省略)
 以上
 紹介した「天皇の発言」の報道は早くも攻撃の対象とされているが、まだネットで披見が可能である。「WEB特集 昭和天皇『拝謁記』戦争への悔悟 NHK NEWS WEB」を見てほしいと思う。

 

 

 

 

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