第1695号 / 2 / 11

カテゴリ:団通信

【東北ブロック特集】
*宮城県大崎市における放射能汚染廃棄 物の焼却処分に対抗する裁判闘争  松 浦 健 太 郎

 

●性刑法と家父長制  齊 藤 豊 治

●独自の天皇制論議 - その8 マッカーサーは征夷大将軍であった

●補論 賀詞決議について  伊 藤 嘉 章

●1946年1月24日の二人の会話 - 原爆について語られたこと  大 久 保 賢 一

●土田嘉平団員の思い出  谷 脇 和 仁

●百、二百、三百一筆書き(4)  中 野 直 樹

●石川元也 著「創意 事実と道理に則して 刑事弁護六〇年余」のご一読を薦めます  菅 野 昭 夫

 


【東北ブロック特集】
*宮城県大崎市における放射能汚染廃棄物の焼却処分に対抗する裁判闘争
                      宮城県支部  松 浦 健 太 郎(大崎住民訴訟弁護団)

一 はじめに
 東日本大震災に起因して発生した福島第一原子力発電所事故。この事故により、宮城県大崎市周辺には大量の放射能汚染廃棄物が堆積した。このうち、八〇〇〇㏃/㎏以下の放射能汚染廃棄物の処理をめぐって、平成二九年六月一八日、宮城県の村井知事が、放射能汚染廃棄物を保管する市町村に地元の圏域ごとに焼却する方針を提案した。それに追従した大崎市は、放射能汚染廃棄物の試験焼却を平成三〇年一〇月から実施することとし、同年七月九日、大崎地域広域行政事務組合議会において、同年一〇月から平成三一年三月までの放射能汚染廃棄の試験焼却を実施するための予算を議決した。その後、第六クールにわたる試験焼却が強行され、今後は本焼却に向かうという状況にある。
 このような大崎市の方針に対し、大崎市民を中心に反対運動が展開された。また、大崎市以外で上記知事の方針に追従した自治体においても反対運動が展開され、放射能汚染廃棄物の焼却処分に対して、宮城県中で反対運動が展開されている。かかる住民からの強い要望により、自由法曹団宮城県支部から一〇名(外一名)の弁護士で弁護団を組み、「大崎住民訴訟」を行っている。

二 大崎住民訴訟の内容・進行について
 大崎住民訴訟は、焼却施設が所在する大崎市岩出山池月地区の住民を中心に、大崎市民一二四名が原告となり、大崎地域広域行政事務組合を被告として、放射能汚染廃棄物の試験焼却に関して、焼却施設の処理等経費の支出の差止請求訴訟として提起したものである。しかし、本訴訟提起後、試験焼却が強行されたことから、本年一月三一日付けで、損害賠償請求に訴えの変更をしている。
 この訴訟においては、被告が平成三〇年七月九日の組合議会において、同年一〇月から平成三一年三月までの放射能汚染廃棄物の試験焼却を実施するための予算を議決したことが、違法な公金支出に当たるのかが争点となり、差止を求める根拠は、①原告らの住民組織との覚書・申し合わせ違反、②人格権侵害(平穏生活権)侵害の二点である。
 まず、①であるが、具体的には、被告の同議決ないしその過程が、原告らが居住する地域の水利組合と被告との間で締結されていた覚書(被告が建設する最終処分場に搬入する一般廃棄物は、水質汚染のおそれのある・・・廃棄物は一切搬入しないものとする。)、及び原告らが居住する地域の池月上宮行政区協栄会と被告との間で締結された申し合わせ(「ごみ焼却場の機能・設備等を変更する場合は地元住民に事前に説明し合意を得るものとする。」等」)に反するというものである。
 ①覚書や②申し合わせに関して、締結された目的性格(公害防止協定)、被告側のこれまでの運用実績や担当者の認識等から、一〇〇㏃/㎏を超える放射能汚染廃棄物の試験焼却は覚書や申し合わせに抵触するということ主張立証している。
 また、②人格権侵害に関して、放射能汚染ないしそのおそれについて、他の宮城県内地区での試験焼却後の放射線量増加のデータ分析、リネン吸着法による放射性セシウム拡散の事実等によって、原告らの居住地域は放射能汚染される旨の主張立証し、さらには予測される被告側の反論に対し、バグフィルターによる放射性セシウムの捕捉率(除去率)についての環境省の見解(九九・九%以上)について、環境省の実験が本件試験焼却における焼却炉内の放射性セシウムの状態を再現しているとも認められないこと、本件試験焼却が混焼という方法を採っていることによるモニタリングポストの空間線量が検出限界未満であることは当然であること等につき、主張立証しているところである。
 さらには、放射能汚染廃棄物の試験焼却による健康被害として、内部被ばくの実態や危険性についても主張立証している。
 今後は、内部被ばくの実態につきさらに裁判所に分かりやすく形で主張立証し、本件試験焼却によって内部被ばくのおそれがあり、ひとたび内部被ばくをすれば、がん等の疾病の確率が上昇するという健康被害を受けるか、発がん等の疾病の確率が上昇することへの不安を抱きながら生活を強いられることが平穏生活権の侵害があるという実態につき、強く主張していく予定である。

三 本訴訟の意義目的
 試験焼却ないし本焼却は、福島原発事故由来の放射能汚染廃棄物を焼却するものであるが、いわば福島原発事故の証拠物たるものを、さらに健康被害(少なくとも平穏生活権侵害)が生じかねないような方法で焼却することは許されない。
 さらには、今後の福島第一原発事故由来の放射能汚染廃棄物のみならず、原発再稼働リスクを考える上での誤った認識を与えることになる。
 当弁護団では、放射能汚染廃棄物の焼却処分が、放射能汚染をさらに拡大させ、内部被ばくの健康被害、ないしそのおそれという原告らの平穏生活権を侵害するという点、そして福島第一原子力発電所事故の教訓についても訴えていきたい。

 

性刑法と家父長制  大阪支部  齊 藤 豊 治

 二〇一七年の性刑法の改正は二〇二〇年に見直しが予定されている。二〇一七年改正に関しては賛否両論があり、団員の間でも評価が分かれていると聞く。ここでは、問題をより掘り下げて検討したい。 

一 保護法益の理解の変化
 公然わいせつ罪、わいせつ物陳列罪、強制わいせつ罪、強制性交罪(旧強姦罪)は、各則の配列からみると社会的法益として位置づけられていた。しかし、今日の通説は、公然わいせつ罪やわいせつ物陳列罪は性道徳に対する罪としつつ、強制わいせつ罪と強制性交罪の保護法益は性的自由・性的自己決定権という個人的法益であるとされる。現行刑法は明治四〇年に施行されたが、当時すでに強制わいせつ罪、旧強姦罪を性的自由に対する罪とみるリベラルな見解も有力であった。強制わいせつ罪と旧強姦罪について、①社会的法益一元説、②社会的法益と個人的法益の二元説、③個人的法益説とが存在した。個人の自由、男女平等を保障する日本国憲法が制定されると、①社会的法益一元説は姿を消し、③個人的法益一元説が判例・通説となっていった。しかし、②の二元説も少数説として主張された。
 個人的法益の内容は性的自由・性的自己決定権である。社会的法益の内容は性的道徳秩序であり、その中核は貞操義務である。しかし、日本国憲法の浸透に伴い、強制わいせつ罪や強姦罪は性的自由に対する罪として一元的に理解する説が通説となった。
 しかし、それで問題が解決したわけではない、と私は考える。社会制度としての男子世襲制・家父長制は長期的には弱まってきているが、性刑法の立法及び運用に大きな影響を及ぼしている。日本国憲法は男子世襲制・家父長制を否定しているが、それらは社会的実態として強固に存在し、法律やその運用に強い影響を及ぼしてきた。この点を押さえないと、議論は技術論に矮小化され、迷走する。

二 男子世襲制・家父長制と性への規制
 家父長制は、家長ないし夫が家族及び家族の構成員に対する統率権を持っており、男子世襲制を通して次世代に受け継がれる。この統率権は、明治民法では、戸主権として保障された。男子世襲制・家父長制は、大日本国憲法の絶対主義的天皇制と社会の基礎単位でもあった。
 モデルとして言えば、男子世襲制・家父長制において、女性の最も重要な役割は、結婚して夫の家に入り、夫婦間の性的行為により、世継ぎの男子を出産することであった。二〇世紀末に柳沢厚生大臣が女は「子どもを産む機械」だと発言し、辞任に追い込まれた。家父長制・男子世襲制のもとで、女性の役割は「子どもを産む道具」であった。愛・性・生殖のうち、男子世襲制・家父長制にとって最も重要なことは生殖である。この考えは日本に特有なものではなかった。コモンローでは、妻は夫の主有する「財産」として解されていた。個人的法益一元論は、もっぱら性的な自由、自己決定権に焦点を当てることで、男子世襲制・家父長制による生殖のコントロールという全体の構造をとらえきれない弱点がある。
(1)夫婦間強姦は不成立
 男子世襲制・家父長制において女性は「子どもを産む道具」であるから、妻は夫の性交要求を拒むことはできず、性交応諾義務を負う。夫婦間では強姦罪は原則として成立しないとされてきた。事情は、多くの国々でも同様であり、制定法であれ判例法であれ、強姦罪の客体から「妻」は除かれていた。
(2)旧姦通罪と男子世襲制・家父長制
 妻の貞操義務は、男子世襲制・家父長制を維持する主柱であった。戦後民主化で廃止された姦通罪はその典型であった。姦通は合意の上で夫以外の男と性交することで、相手の男の子どもを妊娠し、出産に至る性質の行為である。男子世襲制・家父長制のもとでは、最も許されない行為とされた。
 江戸時代の終わりまで、姦通は身分の如何を問わず死罪であり、武士である夫は藩主からかたき討ちを命じられ、姦婦・姦夫への仇討ができるまで帰参が許されなかった。明治になって仇討は禁止され、処罰されるようになったが、姦通罪は強姦罪・強制わいせつ罪と並んで、性刑法の主要な柱であった。日本国憲法の下で、姦通罪が廃止されたのは当然であるが、性刑法において、それが持っていた社会的文脈、意味は十分検討されることなく終わり、今日では刑法の世界では忘れられている。しかし、憲法が変わり、民法が変わったことで、男子世襲制・家父長制が消滅したわけではない。
(3)旧強姦罪と男子世襲制・家父長制
 二〇一七年の改正で強姦罪は廃止され、強制性交罪へと変容した。旧強姦罪は、男子世襲制・家父長制と深いかかわりがあった。刑法では法定刑の高さは、法益侵害の重大さと比例すると解されている。旧強姦罪は強制わいせつ罪よりも重い犯罪とされて、法定刑が高かった。明治の立法者がフェミニストであったのだろうか。そもそも、旧強姦罪の重罰は、女性の性的自由を特別に手厚く保護するものであったのか。旧強姦罪は男性器の女性器への強制的な挿入によって既遂となるが、その行為は被害者の女性が、強姦犯人の子供の妊娠と出産を引き起こしかねず、男子世襲制・家父長制からは到底許されない事態が生じる。旧強姦罪は、男子世襲制・家父長制のもとで家長・夫の利益を守ろうとするものであった。旧強姦罪を女性の性的自己決定権、性的自由からのみ理解するのは、一面的な見解である。
(4)性刑法のジェンダー中立化
 二〇一七年改正は、強姦罪を廃止し、強制性交罪を置き、性中立化を一定程度実現し、被害者=女性という固定的な枠を取り払ったが、男性器の挿入にこだわるという点で、不徹底である。しかし、強制性交罪は、被害者の妊娠という枠組みにこだわらず、深刻な性的加害行為を罰するものであり、男子世襲制・家父長制からの一定の離脱を意味しており、改革の一歩として評価できる。
(5)暴行・脅迫の程度
 強制性交罪・強制わいせつ罪では、暴行・脅迫の程度が問題となり、判例・多数説は「抵抗を著しく困難にする」強度の暴行・脅迫が必要であるとする。
 コモンローでは、最大限の抵抗義務を尽くしても、暴行・脅迫に屈服させられた場合しか、強姦罪は成立しないとされていた。日本の武家社会では、奥方は胸に懐剣を忍ばせ、襲われたときこれを振るって抵抗し、抵抗に失敗すれば、その懐剣を用いて自害をすることが求められた。
 近代日本の刑法では、抵抗は明文の構成要件要素とされてはいない。しかし、判例・多数説は強度の暴行・脅迫が必要であると解し、最大限の抵抗義務の履行が「書かれざる構成要件要素」となっているといえる。この義務は貞操義務に由来する。夫以外の男による強制的な性交・妊娠・出産は、男子世襲制・家父長制を崩壊させるものである。とりわけ、夫がいない場面で性的攻撃を受けた場合、妻に正当防衛を義務づけている。暴行・脅迫は、犯行を著しく困難にする程度に達していないのであれば、強姦罪も強制わいせつ罪も成立しないとされる。
 必死の抵抗義務は、女性に多くのリスクを負わせる。しかし、現在も必死に抵抗しない限り、被害者である女性が「ふしだらな女」としてバッシングを受ける。それは男子世襲制・家父長制の論理に他ならない。被害を受けた女性の多くは、加害者を追及することをためらい、多くの事件が闇に葬られる。性的被害を受けたジャーナリスト希望の女性が、勇気ある告発に踏み切るやバッシングの嵐が生じたことは、記憶に新しい。一部リベラル派は、強度の暴行・脅迫が必要なのは刑法の謙抑性の現れとしているようであるが、皮相と言わざるを得ない。それは、男の「性的自由」(濫用、虐待)の擁護につながる。
 性の問題は、愛と性と生殖という三つの要素の関係性において理解する必要がある。男子世襲制・家父長制のもとでは、生殖が最重要となる。性的自由に目を向けるだけでは、問題の構造は見えてこない。
 以上述べてきたような見解は、刑法各論の教科書や法制審議会の議論には表れない。ジェンダー・バイアスが浸透しているのである。

 

独自の天皇制論議 - その8 マッカーサーは征夷大将軍であった 補論 賀詞決議について
                                 東京支部  伊 藤 嘉 章

一 「象徴天皇」は「護憲装置」か
 古い話で申し訳ありませんが、後藤団員は一六五七号で、
①「国家において国民が分断・対立でなく統合されることは、人々の平穏な日常にとって空気のように大切なことである。それを、時々の政治権力に委ねるのではなく、『象徴天皇』という憲法上の地位に委ねたことは、」
②「人類の英知を思わせる」という。

二 国民の天皇
 私見によれば、①の内容を文語調に翻訳すると、
③「日本臣民は朕が赤子なり、臣民中一名たりともその場に安んぜざる者あれば朕の罪なり…とは先帝陛下の仰せなり。歴代の天皇もこの大御心をもって国を統べさせたまい、今上陛下も等しくこれを体したもうものにして、一視同仁は実にわが神国の大精神なり」(白井聡著「国体論」二〇一八年発行・二三三頁)となるのではないだろうか。

三 小林保夫団員の論評について
 前記③の翻訳文が正しいとすれば、後藤団員の①の表現は「一種の天皇制賛歌ではないか」という小林保夫団員の評価(一六六三号)は、妥当なものとなろう。

四 前記の③の文語文の正体は
 この③の文章は、一九二一年(大正一〇年)に安田財閥の総帥安田善次郎を刺殺して自決した朝日平吾の遺書の一部であるという(国体論二三二頁)。

五 天皇の国民から国民の天皇へ
 戦前の国体は、白井の「国体論」六五頁からによると、
①明治時代は 天皇は「神聖不可侵」な「統治権の総覧者」と位置づけられ、日本国を主宰する存在であった。日本の国土に住む住民は「天皇の国民」であった。
②大正デモクラシーの時代の「天皇なき国民」を経て、
③昭和になって、「天皇の国民」から「国民の天皇」へと反転したという。
 すなわち、受働的に支配・動員される「天皇の国民」を、理想的国家実現のために能動的に活動する国民へと転化する。その転化が成し遂げられる時、能動的な臣民によって押し戴かれる天皇は「国民の天皇」であるという。

六 対日占領に天皇を使う「日本計画」
 ところで、象徴天皇制は、日本国憲法に埋め込まれた「護憲装置」などではなく、アメリカが日本を占領支配するための「道具」であった。
 アメリカは、真珠湾攻撃の翌年の一九四二年六月から、CIAの全身である戦略情報局(OSS)において、「日本計画」として、終戦後の占領時における象徴天皇制を視野に入れていたのである(「象徴天皇制の起源」加藤哲郎著・二〇〇五年発行・二八頁以下)。

七 ライシャワーメモ
 元駐日大使は、真珠湾攻撃の一年足らずの一九四二年九月一四日付けでメモランダム(覚書)を作り、日米戦争勝利後の「ヒロヒトを中心とした傀儡政権(PUPPET REGIME)」を陸軍省次官らに提言していたという(前記「象徴天皇制の起源」二六頁)。

八 アメリカが設計した象徴天皇制
 加藤本「象徴天皇制の起源」は読みにくい文章からなる。
読んでも頭に入りにくい。その点、白井聡本「国体論」は、加藤本の内容を要領よくまとめている。
 「想起されるべきは、象徴天皇制を含む戦後レジームの総体が、そもそもはアメリカの戦後対日構想によってその基礎が設計された、という歴史的事実である。――途中省略――
 ダグラス・マッカーサーが強く自覚していたように、アメリカの構想した戦後日本の民主化は、天皇制という器から軍国主義を抜き去り、それに加えて「平和と民主主義」という中身を注入することであった。
 つまり、対米従属構造の下に天皇の権威があり、さらにその下で営まれるものとして戦後民主主義は規定されていた。してみれば、象徴天皇制とは、大枠としての対米従属構造の一部を成すものとして設計されたものだった」(白井聡「国体論」三四頁)。
 これを、「天皇制民主主義」という(同著・一三四頁)。

九 征夷大将軍の任命と天皇制民主主義
 天皇を占領統治の道具として考えていたマッカーサーは、一九四五年九月二七日の昭和天皇との初回会見で、左記のように征夷大将軍に任じられたであった(同著・一七二頁)。
 「陛下 『ポツダム』宣言ヲ正確ニ履行シタイト考エテオ
  リマス……」
 「陛下 閣下ノ使命ハ東亜ノ復興即チ其ノ安定及ビ繁栄ヲ 
  齎シ以テ世界平和ニ寄与スルニ在ルト思イマスガ、此ノ 
  重大ナル使命達成ノ御成功ヲ祈リマス。」
 「『マ』夫レ(東亜ノ復興云々)ハ私ノ念願トスル所デアリ
  マス。」(「昭和天皇実録第九」二〇一六年発行・八三二頁)
 このようにして、青い目の大君となったマッカーサー征夷大将軍は、軍国主義者を裁判にかけ罰することによって、軍国主義という夷を征するとともに、民主主義の扶植というポツダム宣言の実行という占領政策に邁進することになったのである。

一〇 「象徴天皇制」は「護憲装置」という表現の意味
 「象徴天皇制」は「護憲装置」との後藤論稿(一六五七号)を読んでから、私としても、憲法制定過程を少し勉強してみた。その結果、象徴天皇制はアメリカが占領統治を円滑にする都合から押し付けてきたイデオロギー装置であることは、まぎれもない歴史的事実であることを再確認した。
 従って、後藤団員の「象徴天皇制」は「護憲装置」という論考は、安倍政治への揶揄表現であるとの私の当初の感触(一六六〇号)は、正しいものであったと確信した次第である。

一一 賀詞の全会一致の議決
 二〇一九年五月九日 衆議院は全会一致で「賀詞」なるものを議決した
 「陛下におかせられましては、この度風薫るよき日に、ご即位になりましたことは、まことに慶賀に堪えないことであります。
 天皇皇后両陛下のいよいよのご清祥と、令和の御代の末永き弥栄をお祈り申し上げます。
 ここに衆議院は、国民を代表して謹んで慶祝の意を表します。」
 東京支部の澤藤団員はいいます。「天皇制とは、阿諛追従を成分として成り立つものだ。これが、全会一致で成立とはこれは悪夢だ。一人の議員の反対もないことが、無念である。」と(第四八回自由法曹団東京支部総会 特別報告集五頁)。
 なんと共産党まで賛成したとは。これでは共産党の役をしないではないか。ここまで右転落するとは。せめて欠席・遅刻作戦でいてほしかった。

 

一九四六年一月二四日の二人の会話 - 原爆について語られたこと
                               埼玉支部  大 久 保 賢 一

はじめに
 一九四六年一月二四日。幣原喜重郎首相とマッカーサー連合国最高司令官が、二人だけで話をしている。その内容についての公式の記録はない。非公式の会談だったからである。けれども、この日の会談は、日本国憲法九条の誕生に大きな影響を与えたとされている。戦争の放棄だけではなく、戦力を放棄し、交戦権も否認する無軍備・非軍事の平和憲法が制定されたのは、この時の二人の会談に原点があるというのである。
 憲法九条の発案者はだれかというテーマは、多くの識者によって取り組まれてきた。幣原説、マッカーサー説、合作説などがある。いずれの説も、この日に二人が会談したことと憲法九条が制定されたことについては争いがない。誰が言い出したかよりも憲法の内容が大事だという考えももちろんあるだろうけれど、「全力を尽くして御意を奉じましょう」(幣原・「外交五〇年」・中公文庫・二二六頁)と大日本帝国の敗戦処理を決意していた幣原と占領軍の最高司令官という全能の支配者であったマッカーサーが、どのような話をしたかということは興味深いのではないだろうか。私には、その時の会話の内容やその後の展開について詳細に語る能力はない。そこで、ここでは、二人が原爆についてどのような話をしたかということと、それが、九条、とりわけ二項の戦力の放棄にどのように反映したかということについて、少しだけ考えてみたい。

マッカーサーが語ったこと
 マッカーサーは、広島への原爆投下の直前まで核兵器が開発されていることを知らされていなかったという。その彼は、広島原爆について「かつて見たこともない恐るべき爆発力を発揮した。広島市はほとんどあますところなくことなく、一面の廃墟と化した」とし、長崎原爆について「長崎の十万の市民は、一瞬のうちに地獄図絵のうちに死んでいった」としている(「マッカーサー大戦回顧録」・中公文庫・三七一頁・三七三頁)。 
 この回顧録によれば、一月二四日、マッカーサーは幣原に、「戦争を時代遅れの手段として廃止することは私の夢だった」ということと、「原子爆弾の完成で私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のことながら最高度に高まった」と語りかけている。これに対する幣原の反応は、感極まるという風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれます」と言ったとされている(同書・四五七頁)。この回顧録に書かれていることは、一九五五年一月二六日のスピーチでも語られている(河上暁弘・「日本国憲法第九条成立の思想的淵源」・専修大学出版局・三五九頁)。マッカーサーにとっては忘れられない出来事だったのであろう。
 そして、彼は、一九五一年五月五日の上院軍事外交合同委員会で、「日本人は、世界中のどこの誰にもまして原子戦争がどんなものだか了解しています。…彼らは自分の意見でその憲法の中に戦争放棄条項を書き込みました。…(幣原)首相が私のところに来て長い間考えた末、この問題に対する唯一の解決策は戦争をなくすことだと信じますと言ったのです」と証言している(半藤一利・「日本国憲法の二〇〇日」・文春文庫・二九〇頁)。
 マッカーサーが、原子爆弾を念頭に、戦争の廃棄を語ったことは間違いないであろう。

幣原の原爆観
 幣原は、一月二四日のマッカーサーとの会談後の三月二〇日、枢密院で「第九条はどこの憲法にも類例はないと思う。…戦争放棄は正義に基づく正しい道であって、日本はその大旗を掲げて国際社会の原野を単独に進んでいくのである。…従ってくる国があってもなくても顧慮するに及ばない。事実において、原子爆弾の発明は世の主戦論者に反省を促したのであるが、今後はさらに幾十倍する破壊的武器も発明されるかもしれない」と説明している(古関彰一・「平和国家」日本の再検討・岩波書店・五頁)。
 更に、三月二七日の「戦争調査会」(敗戦の原因と実相を調査する会)で、原爆よりも強力な破壊的新兵器が出現すれば、何百万の軍隊も威力を失う。世界は、早晩戦争の惨禍に目を覚まし、戦争の放棄へと進むであろう、と挨拶している(「赤旗」・二〇一六年八月一九日付)。 
 一月二四日のマッカーサーとの会談があったからこそ、彼は、このように語ったのであろう。
 そして、幣原は、制憲議会において、担当大臣として次のように答弁している。
 八月二七日の貴族院での答弁は、「破壊的武器の発明、発見がこの勢いを持って進むならば、次回の世界大戦は一挙にして人類を木っ端みじんに粉砕する」、「文明と戦争とは結局両立しえない。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになる」というものであった(「復刻版帝国憲法改正審議録」・新日本法規出版・二八八頁)。
 八月三〇日には、「原子爆弾というものが発見されただけでも、或戦争論者に対して、余程再考を促すことになっている、…日本は今や、徹底的な平和運動の先頭に立って、此の一つの大きな旗を担いで進んで行くものである。即ち戦争を放棄するということになると、一切の軍備は不要になる。軍備が不要になれば、我々が従来軍備のために費やしていた費用はこれもまた当然に不要になる」と答弁している(同上・三二〇頁ないし三二一頁)。
 幣原は、核兵器の発明は戦争の可能性を奪った。戦争ができないなら軍備はいらないとしているのである。単純明快な論理である。これが、九条一項と二項の原点である。

マッカーサーと日本政府の「転向」を超えて
 その後、マッカーサーは朝鮮政争で原爆を使用しようとした。米国は核超大国のままだし、実戦で使用できる核の開発を進めている。日本政府は、現行憲法下での核兵器の保有も使用も許容されるとしている。両国とも「破滅的兵器」に依存しているのである。一九四六年一月二四日の二人の会話は頓挫しているかのようである。けれども、核兵器禁止条約は採択され、発効に向けて進んでいる。日本国憲法九条は執念深い改憲論と対抗してその命脈を維持している。私は、幣原とマッカーサーの会話は、七三年を経た現在もその存在理由を失っていないと考える。私たちには、彼らの会話の反芻が求められているのではないだろうか。もちろん、天皇を守ろうとした思惑、占領に天皇を利用しようとした思惑、沖縄を切り捨てたことなどを忘れてはならない。敗戦を原爆のせいだけにしてもいけない。けれども、決して元々の平和主義者ではなかった二人が「核の時代」をどう受け止めたかを知ることは、今の時代だからこそ必要な営みだと思うのである。(二〇一九年二月一六日記)

 

土田嘉平団員の思い出  四国総支部(高知県)  谷 脇 和 仁

 自由法曹団の元常任幹事で、四国総支部の高知法律事務所所長・土田嘉平団員が、二〇一九年一二月一四日に亡くなりました。八八歳でした。
 お通夜・告別式のホールには、ご遺族からのたっての希望で「バナナ・ボート」の曲が流されていました。自由法曹団の総会・五月集会の懇親会でも、土田先生の「デーオー・・・」という「バナナ・ボート」は名物で、お聞きになった団員の皆さんも多いことと思います。
 土田先生は、もともと滋賀県彦根市出身で、大阪の加藤充法律事務所(当時)で弁護士をはじめられました。そして一九六六年に、当時団員弁護士が空白であった高知県の労働組合等の民主勢力の切実な要請にこたえ、「よし、俺が行ってやる。」と奥さんと二人のお子さんを連れ、高知に移住して来られました。
 以後高知県内での労働事件や、人権侵害事件の救済の裁判等に従事してきました。一九七四年には、当時の社共共闘で参議院選挙に立候補し、一四万余票(得票率三三%)を獲得し、善戦されました。関係者からは、「高知県人以上に高知県人らしい」と慕われてきました。
 また日弁連の副会長や、長く自由法曹団の常任幹事を務めるなど、全国的にも活動されてきました。
 最近では、二〇〇四年の「こうち九条の会」の設立時の九人の代表の一人として、憲法九条を守る運動の先頭に立ってこられました。
 ところで私の亡父は、高知県教組の組合員で、一九五八年におこった「勤評闘争森事件」(注)の被害者の一人で、以後一九七四年まで裁判闘争を闘ってきましたが、土田先生は一九六六年に高知に登録替えして以後、その弁護団の中心として活動されました。私が土田先生の高知法律事務所へ入れて頂いたのは、そのような土田先生の活動にあこがれてのことでした。なお全くの偶然ですが、お通夜の執り行われた一二月一五日は、六一年前に森事件の発生したその日でした。
 土田先生の遺された高知での自由法曹団員としてのかけがえのない実績を、しっかりと継いでいきたいと思っています。
 謹んで、ご冥福をお祈りします。
(注)勤評闘争森事件
 教員に対する勤務評定を強行しようとしていた文部省に対して、日教組(高知県教組)は「勤評は戦争への一里塚」と反対運動を組織。当時の日教組小林委員長が高知県へ来て、高知県立仁淀高校で森小学校の先生方と会議をしていた際、地域のボスに率いられた父兄の襲撃を受け、三〇数名が重軽傷を負った高知県の教育界最悪の暴力事件。

 

百、二百、三百一筆書き(4)  神奈川支部  中 野 直 樹

朝日岳への道
 九月一六日四時三〇分、朝日小屋の女性主の元気あふれるかけ声で、朝食が始まった。ふっくら出汁巻き卵、さんまの甘露煮、大根おろし、スナップえんどう、ふきみそ、ソーセージ、ごはん、みそ汁のメニューだった。主が今日は午後雨になるかも、と気象予報を伝えた。朝日小屋の泊まり客の行動先は四つに分かれる。一番近いのがイブリ尾根を富山県入善町の北又小屋まで下りてタクシーを呼ぶルート。昨日私たちが歩んできた白馬岳からの道を登るコース。私たちが向かう朝日岳・五輪尾根経由で蓮華温泉に下りるロングな下山道。そして、朝日岳直下から日本海に向かう超ロングな栂海新道。主からそれぞれの道の特徴と注意点が手短に解説された。
 六時、私たちは、いつものとおり最後に小屋を出立した。すぐに朝日岳への登り道に取り付いた。
 見上げる空は雲が覆っていた。広葉樹の灌木の道はやがて針葉樹に占められるようになり、標高差二五〇m登ると、高山植物の草地となった。右手を振り返ると、白馬岳から祖母谷温泉に下りる長い清水尾根から白馬岳にかかっていた雲がとれた。その右手の毛勝山はすっかり青空のもとにあったが、剱岳は雲に隠れていた。
 七時、二四一七mのハイマツに囲まれた朝日岳山頂。百(白馬岳)、二百(雪倉岳)とつないで着いた三百名山。いつのまにか雲が散り、西側の陰を登ってきた私たちも日差しに照らされ、汗をかいた。劔岳がようやく威風堂々とした全姿を現した。ここからみる劔岳は、まさに劔のごとくである。

五輪尾根の道
 ここから蓮華温泉まで六時間の長い下りとなる。途中二カ所の辛い登り返しの裏切りが待っているよと朝日小屋の主が強調していた。東側の下り道に踏み出した。右手に雪渓が残っていた。目の先には、雨飾山、火打山、妙高山の山塊が遠望された。
 空の青さと朝日岳の東面の輝く緑が実に美しく、幾度も振り返りながら下った。吹き上げのコルという標識で分岐となる。左にいくと栂海新道となる。つがみと読む。一九七一年に開通した親不知の海から白馬岳までの二七㎞の縦走路で、朝日岳からの下りでも一二時間のコースタイムである。途中避難小屋が二か所ある。浅野さんはこのコースを踏破すると、日本海から後立山連峰、裏銀座コース、三俣蓮華岳、槍ヶ岳を経て西穂高岳まで続く日本の屋根のつながり道を一筆書きすることとなるらしい。そんなことと結び付けると栂海新道にロマンを感ずる。近年中に、栂梅新道歩きに誘われそうだ。
 湿地の尾根道をゆるやかにトラバースしながら下る。夏季には高山植物が咲き乱れる花園になるだろうと思われる草原が延々と続いている。いくつかのグループと抜きつ、抜かれつし、言葉を交わした。朝日岳、白馬岳の谷間からガスが沸き上がった。単独行の男性が、その自然の移ろいに感嘆しながら、高価な一眼レフを向けていた。この方は一年前の八月に、北又小屋登山口から登って朝日小屋に泊まり、栂海新道を下った、と言っていた。後半は低山歩きだからさぞかし暑かったのではなかろうか。カモシカ原という急斜面の木道に入るころから私たちも霧の中になった。

蓮華ノ森の道
 一一時五〇分、白高地沢に着いた。岸辺に大岩をテーブルにして腰掛けがつくってあり、ここで昼食。朝日小屋で勧められた富山名産の鱒寿司を口に入れた。浅野さんはまずいと言って食べなかった。いったん冷凍をして解凍したものだから、ぱさぱさしていて美味くない。一二時半、出発する頃に雨が落ち始めた。
 ここから蓮華温泉までのコースタイム二時間半。霧雨に濡れながら、木道に滑らないように足下を見つめ続けながら、二度にわたる登り返しにうんざりしながら歩く。一五時、出発の地・蓮華温泉到着。今回の一筆書きの山旅が完結し(終)。

 

石川元也著「創意 事実と道理に則して 刑事弁護六〇年余」のご一読を薦めます
                                石川県支部  菅 野 昭 夫

 団通信二月一日号に宇賀神団員が推薦文を載せていますが、私もこの本を通読してみて、ぜひ皆様にご一読をお薦めしたいと思います。
 本書は、団大阪支部長の岩田研二郎団員のインタヴューに答えて、団長でもあった石川団員が、六〇年余りの活動の中で刑事弁護に焦点を絞りその経験を叙述したものです。
 まず驚かされるのは、一人の団員がかくも多数の大事件を経験され、大闘争に関与してきたかということです。注記されている「無罪判決一覧表」の事件だけでも三二にも昇ります。石川団員の経験の豊富さに圧倒される思いです。そして、この本は、自由法曹団の弁護士活動にとって何が必要で大切なことかを示して余りある有益な書であるというのが私の感想です。
 本書は、題名の通り、官公労のスト権奪還闘争などの各種労働刑事事件、松川・吹田・宮原操車場事件や公選法違反、ビラはり弾圧など数多くの公安刑事事件、今も闘われている日野町再審請求事件、部落解放同盟の暴力・利権との闘い等々おびただしい数の活動や、日弁連における刑法改悪運動及び弁護人抜き裁判法反対の運動まで、その教訓をまとめたものです。読者はこの本を通じて、自由法曹団で長く語られてきた大衆的裁判闘争の真髄とは何か、裁判闘争で勝利するための鍵は事実から出発することであることなどを、著者の活動に則して知ることができます。
 たとえば、本書の最初のほうで叙述されている松川、吹田、宮原操車場事件での著者らの弁護活動の中で、石川団員は、大衆的裁判闘争では、「被告団を主人公にして、弁護団と国民運動という三者の団結が大事と言われていますが、私はその中で決定的に重要なのは、弁護団の役割だと思います。それは、被告団や救援運動のありかたについても意見を述べながら運動を広めていく梁になると考えます。」と総括しています。そして、大衆的な公正裁判の要求を背景に、「訓練された弁護団」が証拠を綿密に検討し、裁判官を説得しきる「工夫」を伝授しています。
 ビラ貼り弾圧の刑事事件では、事件数も多く本質は憲法二一条違反なのだから併合を主張しようという意見が弁護団の中から出てきたが、「しかし、待てよ。そんなことでやったら、何のためにこのビラを貼ったのか。このビラをはらなければならない必要性や意義が飛んでしまう。憲法論を前面に押し出す前に、どういう切実な要求に基づくビラであるかを明らかにすべきだ。・・・抽象的な憲法論が最初に飛び出すことであってはならないというのが、この論議の教訓でした。」と著者は語っています。
 しかし、ときには、あくまでも原則的な闘いが貫徹されたそうです。一九五七年の全逓大阪中郵事件での組合役員の勾留請求では、勾留裁判官に張り付いて尋問に立ち会わせろとの要求を繰り返し、勾留却下を勝ち取るや、検察官の準抗告前に被逮捕者を釈放させて連れ帰り、勾留請求却下後の身柄留め置きを許さなかった活動や、一九五八年の京教組事件では勾留請求却下後準抗告がなされて身柄が釈放されなかったため、人身保護請求を一晩で書き上げて、その勢いで結果的には準抗告を却下させたこと、大教組事件では全員の勾留請求却下後検察官の準抗告が一部認められ、その被疑者について勾留請求却下の執行停止がなされたため、勾留理由開示公判を丸二日間開かせ、終日速記を入れて十数人の弁護人が意見陳述で勾留の違法性を主張し、勾留執行停止の決定をさせたことなど、身柄釈放のための闘いは妥協することなく原則的に釈放まで果敢に取り組まれています。
 本書で叙述されている捜査段階での弁護活動の在り方も、大いに教えられる内容です。捜索差押に立会う時になすべきこと、逮捕されてから身柄釈放まで、各節目で弁護人が行うべき事柄が、筆者の経験に基づき語られ、労働公安事件のみならず、一般事件にも大いに参考になる弁護人の手引きを学ぶことができます。その内容は、日弁連などでみられる刑事弁護の手引きとは一味違う内容です。私も、かつてかなり多くの捜索差押に立会してきましたが、このノウハウを知っておけばもっと違った活動ができたのにという思いです。
 事実と道理に基づいて、相手を説得する方法は、本書で語られている刑法改悪運動などの日弁連活動にも貫徹されています。
 周知のとおり、石川団員の活動は、本書が扱う刑事事件などに限られておりません。労働民事事件、行政事件、一般事件や私も何回かご一緒させていただいた国際活動など多岐にわたっています、しかし、本書は、刑事事件における石川団員の活動を総括したものであり、私たちは、題名の通り「創意」を武器として数多くの勝利を勝ち取ってきた石川団員の活躍を知ることができます。刑事弁護に携わる団員必読の書ではないでしょうか。

 この本の申し込みはきづがわ共同法律事務所の岩田研二郎弁護士へ。
 電 話〇六―六六三三―七六二一
 FAX〇六―六六三三―〇四九四 
 (値段は送料・税込みで一六〇〇円)

TOP