第16999号 / 3 / 21

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●「大阪・大正生健会弾圧に抗して」 顛末記  伊賀 興一

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*埼玉支部特集

●司法にまで「ご飯論法」  伊須 慎一郎

●マッカーサーの原爆使用計画と反共主義  大久保 賢一

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●「排除」か、「共生」か?・・・家事調停の指針  後藤 富士子

●そろそろ左派は経済を語ろう(その10)いまこそ政府紙幣によるバラマキを  伊藤 嘉章

●2011年3月の記憶   杉本  朗

 


 

「大阪・大正生健会弾圧に抗して」 顛末記  大阪支部  伊 賀 興 一

一 弾圧性が顕著な、警備公安警察の大量動員事件
 本年二月四日早朝、大阪府警警備部公安は総勢二〇名を優に超える警官を動員して大正生活と健康を守る会(以下、生健会という)事務所を捜索、会員二名を自宅で逮捕するという弾圧事件が発生した。
 被疑事実は詐欺。携帯代金など未払いのために携帯契約ができず、仕事上、生活上の不便な状況を乗り越えるため、「友情による携帯貸し借り」をした会員二人逮捕。携帯の普及の中で広く見られる違法性のない社会事象でもあるのに、これを無理やり捻じ曲げ、『詐欺』罪該当の疑いとして弾圧しようとした事案である。
 大正生健会事務所からは組織活動用のパソコン二台、会創設以来の大会記録や会員名簿、会計帳簿など被疑事実とおよそ無関係の資料が多数押収され、二名の会員宅からも赤旗配達ルート図などを押収された。まさに、公安警備警察大量動員による生健会弾圧事件であることが当初から顕著であった。
 生健会は、格差が一段と強まっている日本の社会経済情勢の中、憲法二五条生存権保障を求め、貧困からの解放を掲げて生活保護世帯の自立を支援するとともに、生存権訴訟を取組むなど、意義深い活動を行っていることがよく知られている。
 大阪においては大生連が、公正公平な公務否定の維新政治と正面から対決し、都構想がいかに庶民生活に打撃を与えるなど、鋭い論陣を張っている団体として著名。
 大正生健会は誕生からまだ七年目だが、「暮らしのなんでも相談室」を常設し、庶民生活の相談相手として会員も増やし、存在感を増しているところでの、弾圧であった。
 大生連は二〇一三年に発生した元会員らの不正受給事件を口実にした淀川生健会弾圧を当初見抜けず、反弾圧の戦いに立ち上がるのが遅れたことから捜索が全生連にまで及ぶのを防げなかった苦い経験に学び、直ちに弾圧反対闘争に立ちあがった。

二 「弾圧対策は刑事弁護の延長線」の取り組みを徹底
 権力の弾圧は、主に刑事強制手続きを介して、組織と会員に襲い掛かる。
 今回一ケ月以内という短期間で大阪地検公安部検事に不起訴・押収物全部返還・捜査終結宣言を出させることができたのは、たくさんの感動的奮闘によるが、ここにその要因を集約整理しておきたい。
①被逮捕者には連日接見を文字通り実施
 連日接見は、犠牲者を激励し続け、捜査状況と焦点を的確に把握するのに大きく貢献した。被疑者弁護の大原則である連日接見を二人で分担実行し、弁護団の責務を果たした。
 連日接見によって、友情による携帯電話一台の貸し借りという何でもない行為を詐欺罪で問疑する、という仰々しいものに仕立て上げられた事件であることを把握。「携帯売ったやろ、売ることを隠して申し込んだやろ」「事前に相談したやろ」という点に取調べが集中。主観的要素であり、事実がないことが明確であった。
 勾留理由開示公判では、多くの傍聴支援者からの激励が飛び交ったが、それにとどまらず、裁判所からも「貸し付けは譲渡とは考えません」という明確な表明を引き出し、法的論争の局面を変えた。
②オレオレ詐欺対策法として成立した携帯電話不正利用防止法で  は、不可罰
 同法では、「業として有償での譲渡行為」の処罰規定を持つが、貸し借りなどは処罰の対象ではない。不可罰である。家族や会社内、知人、恋人間の貸し借りは社会的には普遍的使用形態ともなっている。
 警備公安警察は、その理解の上で、無理やり、「事前共謀の上、申込時に名義貸しを偽って欺罔した」、という論理上の疑いのみで詐欺容疑を作り上げたのである。
 逮捕、勾留の理由である「罪を犯したと疑うに足りる相当な理由」が客観証拠によらず、論理上の疑いでしかない本件で、どうして逮捕状や勾留状、捜索令状が出たのか、強制捜査の事前司法チェックが機能不全に至っていないか、強い憤りを抱かざるを得ない。
③当事者組織、犠牲者、救援会、弁護団が対策会議で継続対応
 弾圧発生の翌日対策会議が設置された。
 解明された弾圧の姿と本質を広く周知することにいち早く取り組み、発生一〇日後には、二〇〇名が集まる、弾圧糾弾、早期釈放、捜査終結を目指す大衆集会がもたれた。
 弾圧反対大衆闘争は日一日と弾圧反対闘争の正当性に確信を強めた。
 本件は、「単なる携帯の貸し借り」を無理やり「詐欺」に当てはめようとした許しがたい弾圧である。弾圧反対・早期釈放・不起訴要求の全国署名運動が取り組まれた。
 反対運動がこんなに早く広がった要因は、犠牲者と当該組織の確信にある。
④大阪地検公安部検事から不起訴言明、関連捜査もすべて終結言明
 これに先立ち、二月二一日に処分保留釈放、二四日にはすべての押収物件の返還を勝ち取ることができた。
 勾留理由開示公判から処分保留釈放までの数日間、捜査と弁護活動の激突を余儀なくされた。捜査機関は捜査継続、別件逮捕を意図した関連事例調査の動きを示した。勿論弁護団は軽視することなく、その批判に奔走した。
 同種事案を探り、弾圧を維持しようとする権力側のあがきとも見えた。これを許さない弁護活動に成功したと見たが、どうだろう。

三 弾圧を受けて、弾圧と向き合って、弾圧許さぬ、の声強めて
 大生連、大正生健会では、連日被逮捕者を激励し、組織破壊や情報収集介入を狙った今回の弾圧は断じて許せない、という声が集まり、会員も増えているという。
 まさに「弾圧は組織を鍛え、仲間を増やす」の格言通りである。
ほぼ一〇日間という短期間に、各地各種団体から不起訴・捜査終結要請団体署名が四〇〇団体を超えて寄せられた。今も署名が各地から届けられているという。
 友情による携帯一個の貸し借りを、無理やり詐欺被疑事実に仕立て上げて、無関係な団体事務所のがさ入れを強行した異常な弾圧事件に対する抗議の声が、全国に広がったと言っていいだろう。
 関係者の中では、違法な手続きで組織文書の収集や把握など、遣り得を許していいのか、謝罪もないことへの怒りが渦巻いている。
 新型コロナ問題で多数の人々が集まることが困難ではあるが、弾圧を許さず、本来、中立公正であるべき警察の、警備公安警察が市民や自主的団体に対し、違法、不当に牙をむいたことに非難が強まっている。
 このままでは済まさない。
 弾圧受けた大生連、大正生健会は闘う意欲に満ちている。  ( 二〇二〇年三月一〇日記

 

*埼玉支部特集

司法にまで「ご飯論法」  埼玉支部  伊 須 慎 一 郎

 以前にも団通信で報告しました自衛官えん罪国賠請求事件の途中経過です。
 この事件は、二〇一五年九月二日の参議院平和安全法制特別委員会で、仁比聡平参議院議員(当時)が、中谷元防衛大臣に対し、河野俊克統合幕僚長の訪米議事録の存在を追及し、防衛省内に訪米議事録があるかどうか問題となったことが発端となっています。これに対し、安倍首相、中谷防衛大臣、河野統合幕僚長、防衛省黒江哲郎防衛政策局長は、口裏を合わせ、訪米議事録の存在を否定(「防衛省内で同一のものは確認できなかった」)する裏で、中央警務隊が自衛官に対し、ポリグラフ検査、実家を含めた三ヶ所の捜索差押、連日取調べ等の違法捜査を行いました。
 この訪米議事録には、河野統合幕僚長が米軍高官と会談し、法案が国会に未だ提出されてない二〇一四年一二月の時点(国会への法案提出は二〇一五年五月)で、来年の夏までには法案が成立する見込みである、とか、オスプレイの危険を煽っているのは一部の活動家だけである等と発言した記載がありました。
 この国賠請求事件の口頭弁論は一五回開かれています(弁護団は佐々木新一、髙木太郎、小林善亮、横山雅、私)。その中で、被告国は、訪米議事録の存否につき、安倍首相、河野統合幕僚長、黒江哲郎防衛政策局長が、二〇一五年九月当時、委員会等において「仁比議員が示された資料と同一のものの存在は確認できなかった」等と答弁していることにつき、平成三一年四月一九日付け証拠説明書の立証趣旨で、上記安倍首相らの答弁は、「内閣総理大臣らは、国会において、本件提示文書と同一の文書が存在しない旨の答弁を行ったものであり、統幕長訪問時における会談の概要結果に係る記録文書(※注:訪米議事録のこと)が存在しない旨の答弁を行ったものではないこと」と明示しました。これは、いわゆる「ご飯論法」と批判されている、意図的に論点をずらす答弁手法そのものです。
 安倍首相らは、制服組のトップが、安保法制の法案が国会に提出されていない段階で、米軍高官に安保法制の成立時期を伝えたことが、シビリアンコントロールの趣旨に反する問題(安倍首相は何が問題なのか理解していないのかもしれません)等が参議院で追及されるのを恐れ、決済印の大きさや最終ページがないという形式的な理由で、同一のものは確認できなかったとはぐらかし、その後、参議院で安保法制は強行採決してしまいました(採決があったかどうかは疑わしいですが)。
 私は、被告国が、安倍首相らの答弁の意味を、ここまで露骨に、ご飯論法そのものであることを認めているとは思っていませんでしたが、この証拠説明書の記載からしても、被告国は安倍首相らが、国会審議を進めるために不都合であることから、意図的に訪米議事録の存在を否定し、国民に嘘をつきながら、その裏で、自衛官の犯人捜しをしていたことを認めるに等しいものだと考えます。
 これから訴訟は山場を迎えますが、昨年の常任幹事会で、宮城県支部の小野寺義象先生が、国を被告とする訴訟で、被告国の訴訟対応が酷いので、学習検討会を開きませんかと問題提起されていた記憶があります。
 是非、大垣警察の違法情報収集事件の裁判等、国や自治体を被告とする各地の事件の取り組みや情報交換ができればと思っています。

 

マッカーサーの原爆使用計画と反共主義  埼玉支部  大 久 保 賢 一

朝鮮戦争での原爆使用の危機
 米国の軍人マッカーサーは、朝鮮戦争(一九五〇年から一九五三年。ただし、現在も休戦状態)での核兵器使用を考えていた。「三〇発から五〇発の原爆を満州の頚状部に投下すれば、一〇日以に勝利できる」、そうすれば「少なくとも六〇年間は北から朝鮮を侵攻する余地がなくなる」という発想である*ⅰ。広島と長崎への原爆投下の最終決定者であった当時の米国大統領トルーマンは、「アメリカの所有するいかなる兵器も使われうる」と核兵器使用をほのめかしていた(一九五〇年一一月三〇日)。トルーマンとマッカーサーの思惑は重なっていたのである。けれども、翌年四月、トルーマンはマッカーサーを解任している。米国の核廃絶運動指導者ジョセフ・ガーソンは、その解任理由について「マッカーサーが無鉄砲に核兵器の使用を望んだからではなく、それが確実に使われるとの確信をトルーマンにもたせたからだ」としている*ⅱ。沖縄・嘉手納に核兵器を集結させていたトルーマンが、その使用をためらったのは、当時の英仏首脳が、もし朝鮮半島で原爆が使用されれば、ソ連が西側に原爆を使用する可能性があるとの危惧を表明したからだといわれている*ⅲ。結局、マッカーサーは解任され、核兵器の応酬はなかつた。

マッカーサーはなぜ使用しようとしたのか
 マッカーサーは、「現在生きている人で、私ほど戦争とそれが引き起こす破壊を経験した者はいないだろう。…原子爆弾の完成で、私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のことながら最高に高まっていた」と述懐している*ⅳ。その彼も「北からの侵攻」阻止のために核兵器の大量使用を考えていたのである。「北からの侵攻」阻止とはソ連と樹立されたばかりの中華人民共和国の脅威との対抗を意味している。
 マッカーサーは反共主義者であることを自認していた。その理由は、共産主義は独裁であり無神論だということにあった。マッカーサーのその信条は、当時も今も、米国社会を覆っている「アカに支配されるくらいなら死んだほうがましだ」という心象風景と共通している。当時、この風潮は、思想・良心の自由など全く無視する「マッカーシズム」といわれる反共産主義の嵐をもたらしていた。そういう時代背景のもとで、原子爆弾の威力を知り、戦争を嫌悪していたはずのマッカーサーも、朝鮮半島での核兵器使用を画策していたのである。

反共主義者の共産主義理解
 私は、共産主義を好きか嫌いかは各人が決めればいいと思っている。ただ、人間の大量虐殺を禁止しない神様は怪しい神様だと思う。そして、反共主義者が、共産主義が嫌いだという理由で核兵器使用をためらわない感性には吐き気を覚える。他方、共産主義者の暴力にも反対であるし、いわんや核兵器使用など論外である。核兵器が使用されれば、その対立する陣営だけではなく、人類社会の破滅をもたらすからである。核兵器禁止条約は「壊滅的人道上の結末」という言葉で表現している。核兵器は、革命や社会進歩のためであれ、またそれを阻止するためであれ、使用してはならないのである。もし使用されれば、勝者は存在しえず、累々たる墓碑銘が残るだけだし、最悪の場合、墓碑銘を刻む人もいなくなるからである。共産主義に賛成か反対かで、核兵器の応酬などしてはならないと心の底から叫びたい。けれども、共産主義理解は決して簡単ではないようである。

ガルトゥングの姿勢
 「平和学の父」といわれるヨハン・ガルトゥングは、「共産主義を好まない」としている。
 けれども、その彼は、一九七〇年、教育調査団の一員として日本を訪問した時、文部省(当時)の担当者が日本教職員組合と日本共産党には会わないでくれとしていたにもかかわらず、共産党幹部と面会している。その時の感想は「彼らは博識で教養があり、しっかり私の質問に答えてくれた。彼らの話の中に、共産主義を思わせるものは何もなかった。私が『共産党』という名前に疑問を呈したのはその時であった」というものである。そして、共産党は理にかなった主張をしているのに、日本人全体の声を代弁する勢力になっていないのは「共産党」という名前のせいだとしてその変更を進言したそうである*ⅴ。
 一方、彼は、誰かが「私たちは広島に原爆を落とさなくてはならない。それは神が私たちに与えた使命だ」と主張すれば、ほとんどの人がその正気を疑うだろう。しかし、その主張が無害な表現に形を変えたら、同じ考えを持つ人々が増え、一気に間違った方向に動き始める危険を秘めている、と警告している。彼は、核兵器使用にも、それを煽り立てる狂気にも反対なのである。「反共主義も好まない」としている彼は、無知で無謀な反共主義者とは明らかに違うのである。

二つのエピソード
 ここで二つのエピソードを紹介する *ⅵ
 一つは、自民党のブレーンを三〇年間勤めていた憲法学者の小林節さんが、「ぼくは善意から『日本共産党の名前を変えたほうがいい』と言いました。しかし、党大会の文書を読んで、『共産主義はこれからの日本の希望だ』と思うようになりました」と言っていることである。もう一つは、一九七〇年代から文部省に勤務していた寺脇研さんが少し後輩の前川喜平さんと「私は、教職員組合の人としょっちゅう酒を飲んでいたので、自民党のタカ派から『あいつは共産党だ』と言われていましたよ」、「あの人たちは自分に反対するものはみんな『共産党』と言うんですよ」と対談していることである。
 共産主義や共産党は知性ある人々の間でも様々な理解がなされているようである。

むすび
 私は、共産主義とは①人間は自己保存的行動だけではなく、自由な選択に基づく発展が可能である。②その発展を阻む社会を変革し、人間の可能性を全面開花できる社会の実現は可能である。③そのためには、生産手段を資本家の私的所有から社会による掌握へと転換する必要がある。④それは必然の国から自由の国への人類の飛躍である、という思想であり運動であると理解している。そして、その未来社会では、すべての人々が恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生活する物質的・社会的条件を保障され、各人はそれぞれの「自分探し」をしているであろう。
 他方、そんなことはさせない、そんなことは無理だ、としている勢力は決して小さくない。自分のすべてが奪われるかのようにこの思想を恐れる「勝ち組」やそれを忖度する「太鼓持ち」や「茶坊主」はいつの時代にも存在している。そして、日々の労働に追われて考える時間を奪われている人々もまだまだ多いのである。
 そんな時代にあって、断言できることは、共産主義者であれ、反共主義者であれ、他人の思想が気に入らないからといって、核兵器使用などは絶対にしてはならないということである。それは、すべての人間の生存条件を奪うことになるからである。 (二〇二〇年三月一日記)

*ⅰ  ジョセフ・ガーソン著・原水爆禁止日本協議会(日本原水協)訳『帝国と核兵器』
*ⅱ 同上
*ⅲ 水本和美「被爆地の訴えは核軍縮を促進したか」『平和をめぐる14の論点』所収
*ⅳ  ダグラス・マッカーサー著・津島一夫訳『マッカーサー大戦回顧録』
*ⅴ  ヨハン・ガルトゥング著・御立英史訳『日本人のための平和論』
*ⅵ しんぶん赤旗日曜版二〇二〇年三月一日付

 

「排除」か、「共生」か?・・・家事調停の指針  東京支部  後 藤 富 士 子

一 離婚前の監護権紛争と法的手続
 夫婦間で離婚紛争が起きると、未成年の子の親権・監護権が深刻な法的紛争になる。たとえば、子を連れ去った妻が、単独の監護者となるために「監護者指定」の調停・審判を申し立てる。一方、夫は、自らを監護者と指定し、子の引渡しを求める「監護者指定」「子の引渡し」の調停・審判さらに保全処分を申し立てる。この「監護者指定」や「引渡し」は、未だ離婚が成立していない共同親権者の一方から監護権を全的に剥奪するものであり、それは親権を喪失させるのと異ならない。すなわち、離婚後の「単独親権者指定」を前倒しするのである。
 しかしながら、現行民法は、離婚後は父母のどちらか一方の単独親権としているだけで、離婚前の共同親権が否定されるわけではない。したがって、仮に「監護者指定」の申立てがされても、裁判所が審判で一刀両断に「単独監護者指定」をするのは違法というほかない。
 この点に関し、私は、「親権」や「監護権」という観念的な権利を法的に争うことは有害無益と考えている。また、離婚前の「子の引渡し」も、子の福祉を害するだけでなく、関係者全員を不幸にすることを経験的に知っている。それで、経緯がどうであれ、子と同居している親に対する面会交流調停申立てにより、親子の断絶を防ぎ、子の健全な成長に資するかかわりを追求することに努めてきた。すなわち、「監護権」という法的権利概念ではなく、「同居親」「別居親」という事実状態を前提にして、別居親と子の交流を図ることである。

二 家裁の実務運用
 ところが、家裁の扱いは、面会交流は、非監護親と子の面会交流とし、子と同居している相手方を監護者と認めることを前提とする。単に別居しているというだけで、なぜ「非監護親」の烙印をおされるのか。これを認めるわけにはいかないので、調停期日間の面会交流実施を積み重ねて調停合意が見えてきた時点で、「共同監護」調停申立てを新たに追加した。現在の申立書の書式では、事件名が「子の監護に関する処分(○○)」となっているので、(○○)のところに「共同監護」と記載したのである。ちなみに、「子の監護に関する処分」とは、離婚後の監護に関する事項について定めた民法七六六条に準拠しているのであり、監護者指定、面会交流だけでなく、「その他の子の監護について必要な事項」がテーマになりうる。したがって、離婚前であるから、「共同監護」を確認したうえで、面会交流の充実を図ろうとしたのである。結果的に、相手方が「共同監護」条項に同意しなかったため、面会交流条項で調停成立させたが、「相手方を監護者と認める」との条項も入らなかった。
 また、「監護者指定」の申立てについて、家裁の扱いは「単独監護者指定」であるとして、調査官の調査は、「父母のどちらが監護者として適格か」という結論を出す調査と思い込んでいる。そのうえで、心ある裁判官は、そのような調査は、現に実施できている面会交流に否定的影響が出るのではないかと、調査自体に消極的になる。これは、離婚前に「単独監護者指定」をすることが実体法上違法というだけでなく、そもそも調査官が「父母のどちらが監護者として適格か」という「意見」を述べること自体も手続法上違法な越権行為というほかない。
 かように、現実の家裁実務運用は、現行法から乖離しているうえ、紛争当事者を不幸にしている。

三 何のための調停なのか?
 「子の連れ去り別居」から始まる離婚紛争では、「別居」自体に積極的意義が見出せる。別居当初は、子を連れ去られたことの悲嘆で精神科に通うことになる親でも、面会交流などの調停手続で当事者として主体的に事態に向き合うようになると落ち着きを取り戻してくる。そして、子どもと会うことができさえすれば、別居によって夫婦間の険悪状態から物理的に免れるので、むしろ心身の平穏が得られ、仕事に集中できるようになることも少なくない。さらに、子どにとっても、同居している父母間で諍いが絶えない状況から解放されるメリットは小さくない。すなわち、「父母の別居」を〈離婚=単独親権〉と短絡的に結び付けるのではなく、別居という「緩衝地帯」を紛争解決の有利な条件と捉えることができる。
 そうすると、調停は、「どちらが」という「排除の論理」ではなく、「どのように分担できるか」という「共生の道」を追求する場になるはずである。そうすることによってこそ、当事者が紛争解決の主体になりうるのである。  〔二〇二〇・三・七〕

 

そろそろ左派は経済を語ろう(その10)いまこそ政府紙幣によるバラマキを
                                東京支部  伊 藤 嘉 章

GDP年七・一%減
 内閣府が三月九日発表した二〇一九年一〇月~一二月期の国内総生産(GDP)の二次速報は、実質(季節調整値)で前期(七月~九月期)より一・八パーセント減ったという。年率換算では七・一パーセント減という。昨年一〇月の消費税増税に加え、台風被害などの影響もあり、個人消費と企業の設備投資が大きく落ち込んだという。
コロナウイルスの影響が及ぶ
 さらに、今年一月~三月期は新型コロナウイルスの悪影響が強く出ると見られ、国内景気はさらに厳しい局面に入っていることが予想される(朝日新聞三月一〇日付朝刊一面)。
やむをえない自粛措置
 九年前の東日本大震災のときにも、卒業式関連の飲食をともなうイベントが自粛で軒並み中止になり、私の依頼人の飲食店も倒産を余儀なくされた。誤った自粛行動であった。三〇年前の昭和天皇の聖躬不豫の時も同調圧力が蔓延し、各種イベントが中止になった。飲食店の売り上げが減り、GDPが減少し、国民全体が貧乏になる。このようなことは大御心にかなうとは思えないのですが。
 しかし、今回の自粛は感染防止という命に係わることなので反対することはできない。
 今回は飲食をともなう(ともなわなくても)各種イベントの中止だけにとどまらず、インバウンドも国際間のビジネスも縮小し、どれだけGDPが減少するか予測がつかない。
政府の緊急対応策
 政府は、三月一〇日、新型コロナウイルス対策第二弾をまとめた。学校の臨時休校など休業を余儀なくされたフリ-ランスや自営業の人たちのうち、企業や外部から業務委託を受けて働いている人たちについて一律で日額四一〇〇円の休業補償を給付する。フリ-ランスや自営業者に無利子で一〇万円を貸し付けるという。
 財源は、二〇一九年の予備費二七〇〇億円から充当するとの方針という(前記朝日新聞三面)。
まずは財政政策によるばらまき
 しかし、政府のこの緊急対応策は、いかにもしょぼい。消費税率引上げの影響に加えて、新型コロナウイルスの追い打ちで、多くの人が職を失っているのです。
 まずは、所得の補填が必要である。人に優しく国土を造りかえる大型公共事業へのばらまきによる財政支出をしても、消費税率引上げとコロナウイルスの影響によって、消費が抑制されているころから、国民一人一人に金が回るには時間がかかる。そこで、全国民にすぐに金が回るようなばらまきが必要であろう。
麻生内閣・小渕内閣での前例
 麻生財務大臣が内閣総理大臣であった二〇〇九年には、緊急経済対策の一施策として、住民基本台帳に登録されている者、外国人登録原票に登録されている者のうちの特別永住者等に、一人一万二〇〇〇円、但し六五歳以上の者並びに一八歳以下の者には、八〇〇〇円を加算するという給付が行われたことがある。
 なお、小渕内閣の一九九九年に、一五歳以下の子供と六五歳以上の市町村民税非課税者に一人二万円の地域振興券が交付された。しかし、地域振興券で買い物をすると、低所得者であることがわかってしまう。このような社会的ステイグマを生じさせるような所得制限はのぞましくない。高額所得者にもばらまいてあとから税金で取り上げる税制を考えればよいのではないか。 
 なお、ウィキペディアによると、小渕内閣の地域振興券の実行前には、当初は、全国民に一人あたり三万円、総額約四兆円の商品券を交付するという案であったという。
 いまこそ、政府の緊急対応策による所得の補填の他に、全国民一律に一人あたり三万円のバラマキが必要であろう。
財源は何か
 もちろん国債の発行があります。それも機動的に行うために、まずは日銀引き受けによって資金調達を行い、その後に日銀から市中銀行に売りに出す。
政府紙幣の発行も
 たとえば、財務省が一〇兆円の政府紙幣を発行して日銀に持っていき、これを一〇兆円の日銀券と引き換える。実際は一〇兆円札の印刷などせず、財務大臣と日銀総裁の談合によって、日銀のバランスシートの資産の部に政府紙幣一〇兆円と記帳し、負債の部に政府預り金一〇兆円と記帳して政府紙幣の発行は終わりです。
 そして、政府はこの預け金を取り崩して、各種給付金を国民にばらまくというものです。その結果、支給を受けた国民の預金口座には支給額が円で記帳されます。この円建て数字によって、財・サービスが購入できるので、この数字は貨幣にほかならないものです。
 職を失った人にはかけがえのない生活費として、すべて費消されるでしょう。余裕のある高額所得者は使わないで預金残高が増えるだけでしょう。給付金を支給されてラッキーと思う人は飲みに行くでしょう。これはのぞましい消費だと思います。このような給付金がインフレマネーになるのでしょうか。
 政府紙幣は、発行の瞬間に帳簿上日銀券と両替されるのです。政府紙幣は発行しても償還という概念がありません。発行したままというものです。無から有が生じる現象にほかなりません。
安倍総理もかつて考えたことのある政府紙幣
 民主党政権前の麻生内閣の時代には、政府と自民党の間では、政府紙幣の発行と無期限非課税国債の発行が検討されていた。
しかし、民主党政権になってからは、政府紙幣の発行の話は消滅した。そして、公共事業の削減を自虐趣味とし、さらに従前から行われてきた国家事業を唾棄し、事業仕分けなどという馬鹿な超緊縮路線をとった民主党政権は自滅してしまった。
 しかし、悪夢の民主党時代とはいわせない。たしかに民主党時代には租税収入が最低であった。これは「構造改革なくして景気回復なし」などという実現不可能なスローガンを掲げ貧乏志向の構造改革に突っ走った小泉政権がもたらした害悪とリーマンショックの影響にほかならない。
 なお、自らを借金王と自虐し、歴代自民党政権の中で最も多く公共事業に財政支出をした小渕政権が長期政権になっていたならばという歴史のIFを妄想するのは私だけであろうか。
 あらためて政府紙幣はインフレマネーか、紙幅がつきたので次回以降にします。

 

二〇一一年三月の記憶  神奈川支部  杉 本   朗

 まだ、後楽園のボロマンションに団本部があったころの話だ。
 二〇一一年三月一一日は、自由法曹団の事務局会議の日だった。当時事務局会議は午後二時開始で、だらだらと人が集まり、だらだらと会議が始まってちょっとたったころだった。突然、部屋が大きく横滑りするような動きがあった。最初は何だったか分からなかったが、ちょっとしてから、地震か、と気づいた。地震ならすぐにおさまるだろうと思ったのだが、いつまでたっても揺れはやまない。尋常なことではない。表に出てみると、立っている電柱が大きく揺れ、電線がたわんでいた。戻って来ても、まだ揺れている。しばらくして、揺れはおさまった。当時の団本部からは建物の前を走っている春日通りの様子が窓越しに見えた。最初は特に変わった風でもなかったが、段々と道路が渋滞してきた。
 会議室にあったテレビをつけてみると、地震報道一色だった。首都圏の電車がストップしているというような報道だった。春日通りを走るバスが、満員になっているのが見えた。
 さすがにもう事務局会議を続ける気力はなく、テレビをぼーっと見ていた。そのうち、津波警報が発令されたとのニュースが流れた。あぁ、大きい地震だったもんね、と思いつつ、小さくちゃぷっと寄せる津波を思い浮かべていた。それまでリアルに見た津波の映像はそんなものだけだったからだ。
 津波到達予想時刻になるかならないころだったと思う。テレビはとんでもない映像を流し始めた。海面がどんどん盛り上がり、岸壁や堤防を海が乗り越えてくる。海だけではなく、船も乗り越えてくる。陸に上がった海は、そのままどんどん、車や家を押し流しながら、内陸を目指す。圧倒的な量の海が内陸に襲いかかる。ひたすら、海が陸を蚕食する。
 そうした様子を黙って見続けていた。あとで東北の人に聞いたが、地震があったことは分かったが、その後何がどうなっているのかは全然分からなかった、部屋の中はひっくり返っているし、停電してテレビは見られないし、携帯もつながらない中で、何が分かると言うんだ、とのことだった。言われてみれば確かだ。あの日、団本部にいて、ずっとテレビを見ていたことで、リアルタイムに起こりつつある惨状を見ていたのだ。その映像はライブ映像であり、なんらの編集も修正も施されていない映像だった。
 外が暮れなずんで来て、首都圏の交通は完全に閉塞し簡単には帰宅できないことが明らかになった。仕方ないな、飲みにでも行くか、と何人かは団本部を後にして、どこかへ行ってしまった。
 お酒の飲めない私はそのまま団本部でテレビを見続けた。夜になって、地下鉄の一部が動き出すというニュースがあった。私は、大江戸線から半蔵門線を経由して、何とかその日のうちに自宅にたどり着いた。
 この時点で、原発のことは全く分からなかった。福島の沿岸部に原発のあることは知識として知っていたが、それがどうなるのか、ということには全く思いが至らなかった。
 そのあとはあまりにいろんなことがあり、何がどうだったのか、よく覚えていない。日記とかメモをつけない(つけられない)質なので、いろんなことがごっちゃになってしまっているのが残念だ。断片的な記憶はあるのだが、それがどうつながるのか分からないのだ。ここに書いたことも完全に人間メモリによるものなので、正確性については保障の限りでない。

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