第1706号 / 6 / 1

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

*北陸三県支部特集*
株主も原発を止める!-志賀原発株主差止請求訴訟  坂本 義夫

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●新型コロナウイルス感染症に寄せて-「いつか見た光景」の正体  渡邊  純

●種苗法改正案今国会成立を断念-廃案に追い込むまでご協力を  柳  重雄

●「そのときには皆一緒にくたばるわけだ」-絶滅危惧種からの脱出のために  大久保 賢一

●「社会は存在する」とジョンソン英首相  後藤 富士子

●バーチャルの沖縄旅行 2020年5月(後編)  伊藤 嘉章

●新刊書(本年2月)の紹介 「平和憲法とともに 深瀬忠一の人と学問」稲正樹・中村睦男・水島朝穂編
                                            高崎 裕子
●北信五岳-飯縄山(1)  中野 直樹

 


 

*北陸三県支部特集*
株主も原発を止める!-志賀原発株主差止請求訴訟  富山県支部 坂 本 義 夫

一 富山地裁への提訴
 二〇一九年六月一八日、北陸電力(以下「北電」)の株主八人が、会社法三六〇条に基づき、北電の代表取締役五人に対し志賀(しか)原発の運転等差止請求訴訟を提起しました。
 志賀原発については二〇一二年に石川・富山両県の住民らが北電に対し民事差止請求訴訟を金沢地裁に提起し現在も係属していますが(金沢訴訟)、今回は株主が原告となり北電本社のある富山地裁へ提訴したものです(富山訴訟)。
 今回の富山訴訟には、後記二と三のとおり大きく二つの意義があると考えています。

二 運転差止めの新しい方法を切り開く訴訟
 まず、富山訴訟は、原発の運転差止めの新しい方法を切り開く訴訟です。
(1)三・一一後、原発の運転差止訴訟は、設置変更許可処分取消等の行政訴訟や人格権に基づく民事差止請求訴訟が多数闘われています。しかし富山訴訟では、会社法三六〇条に基づく株主差止請求を選択しました。
 株主差止請求による原発運転差止めは、過去に福島第二原発で闘われたことがありますが(東京高判一九九九年三月二五日)、三・一一後は富山訴訟が唯一です(なお、東京電力の株主による株主差止請求訴訟が東京地裁に係属していますが、これは原発運転差止めではなく東海第二原発への資金援助の差止めを求めるものです)。
(2)人格権に基づく民事差止請求では、原発事故により人格権が侵害される危険があることを主張し差止めを求めます。事故を防ぐには運転を止めればよいので、金沢訴訟では原発の「運転」の差止めのみを求めています。
 これに対し株主差止請求では、原発維持・稼働によって電力会社に著しい(または回復しがたい)損害が生じる危険があることを主張して差止めを求めます。維持・稼働を止めるため、富山訴訟では、原発の「運転」だけではなく安全対策や燃料購入など運転の「準備行為」の差止も求めています。
(3)また、人格権に基づく民事差止請求では、原発事故により人格権が侵害される危険があることを主張立証しますから、金沢訴訟では「事故の危険」が主張立証の中心課題となります。
 これに対し株主差止請求では、原発の運転や準備行為により北電に損害が発生することを主張立証します。したがって富山訴訟では、「事故の危険」だけではなく、通常運転による使用済み核燃料の生成・保管の危険や無駄、運転の準備行為の無駄・損失、再生可能エネルギーへの転換を行わないことの損失、原発がなくても電力が十分に足りていること等、原発の不要性や不経済性が本来的な論点となります。
(4)以上のように、原発の不要性・不経済を真正面から主張し、運転の準備行為をも差止めの対象としていることが、これまでの差止訴訟にはない富山訴訟の大きな意義と特徴です。

三 株主が自らの主張の場を新たに切り開く闘い
 次に、富山訴訟は、株主が自身の主張を全面展開できる場となります。
(1)原告らは一九九〇年以来、株主総会において、質問権や株主提案権を行使し、志賀原発の廃炉を求めてきました。しかし、外部の目が入らない株主総会では、原告らは発言する度に罵詈雑言を浴び、まともな議論もなく数の論理で意見を封じられてきました。
(2)これに対し富山訴訟は万人に公開され、主張の制限も罵詈雑言も、多数決もありません。原告らは、原発の維持・推進がいかに危険で不合理で不経済であるかを、全面的に主張することができます。
 原告らはこの訴訟によって、抑圧されてきた自身の主張の場を新たに切り開いたのです。

四 注目と支援を
 富山訴訟は、原発運転差止めの新しい方法を切り開くフロンティア訴訟であり、ほとんど経験がありません。全国の団員の注目と支援をお願いします。
 訴訟の進行状況や書面、サポート方法等は「志賀原発を廃炉に!訴訟原告団ホームページ」に載っています。よろしくお願いいたします。

 

新型コロナウイルス感染症に寄せて-「いつか見た光景」の正体  福島支部 渡 邊   純

街の光景に感じた既視感
 世界で猛威を振るっている新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、国内でも感染者・死亡者が増加し緊急事態宣言が発出される事態となった。学校の休校要請、イベントや営業の自粛要請、外出の自粛要請などがなされ、福島県でも五月中旬まで街から人の姿が消えた。今年のGW中、食料品や日用品を買い出しに駅前の繁華街に行っても、買い物客もいつもの一~二割くらいの印象で、街は閑散としていた。街を歩く人はみなマスクをしている。
 こうした街の姿を見ていて、私は、なぜか強烈な既視感にとらえられていた。「これはいつか見た光景だ」と。
 私の「いつか見た光景」とは、二〇一一年三月以降の福島県中通りなどの光景だ。原発事故によって、頭の上から放射性物質が降ってきて、市役所等で観測されていた空間放射線量は顕著に増加した。原発から半径二〇㎞や三〇㎞以内の地域にいた人には避難や屋内退避等の指示があったが、中通りの多くの地域は指示の対象とはならなかった。しかし、街を歩く人の姿は消え、生活のための必要最小限の外出をするときも、マスクやヤッケ姿の人が目立った。食料や医薬品、ガソリンなどの生活必需品は不足し、営業しているガソリンスタンドには、㎞単位の行列が生じた。みな、「これからどうなってしまうのだろう」という不安におびえながら、閉めきった家の中に閉じこもり、息をするのさえはばかられるような緊張感の中で、マスメディアの報道やネット情報に一喜一憂しながら、一週間、一〇日、二週間と時を過ごした(避難しようにも、公共交通機関は運休しており、ガソリンも入手困難で、すぐには避難しようがなかった)。
 もちろん、頭の上から放射性物質が降ってきている状態と、新型感染症が拡大している状態は、災厄(ハザード)の種類も危険性も異なるし、災厄を引き起こしこれに責任を負うべき主体が明確に存在するかどうかも異なる。しかし、原発事故当時私が感じた、足下から安心感が瓦解していく感覚や、科学的な根拠の明示やオープンな議論のないままに事態が進行していくことに対する違和感などは、もしかすると、今回の感染症拡大の中で、どこに住んでいるかにかかわらず、多くの国民が共有するに至ったのではないだろうか。
原発事故と同様のことが繰り返されている。
 未知の脅威に人々がさらされる中、国が明確な方針を指し示すことができず(あるいはその責任を放棄し)、根拠も曖昧なまま各種の要請をしたという今回の事態は(少なくとも学校の一律休校については感染症専門家の間でも意見が分かれていたし、専門家会議にも諮らずに決めたことは首相自身が明確に述べていた)、原発事故当時の官房長官の「直ちに健康に影響が生じるレベルではないが、念のため…」などの発言と通底するものがあるように思われる。また、放射性物質の大量放出は想定されておらず、事故後に、除染特措法や支援機構法など新たな法律を制定することが必要となったという経過は、新型コロナウイルス感染拡大の事態に対応できないとして、あわてて新型インフル特措法改正がされたという今回の経過と共通する。
 災厄が目の前に出現してから、事前の備えがなかったことに気づき、慌てふためいて弥縫的な対策を打ち出し、対応は現場任せという点は、九年前の原発事故と何も変わらず、同じことを繰り返している。

なぜ事態は繰り返すのか
 なぜこのようなことが繰り返されるのか。原発事故政府事故調の畑村委員長風に言えば「想定外を想定する想像力の欠如」ということになるのかもしれない。
 しかし、新型感染症の出現について言えば、近年でも〇八~〇九年の新型インフル流行で日本でも多数の感染者が生じており(幸いにも病原性が高くなかったために大惨事にならなかった)、こうした経験を踏まえて新型インフル特措法が制定されたはずだった。現在の日本の感染症法制の中で中心的な位置を占めるのは感染症法であるが、同法は、患者・感染者の(強制的)治療と隔離、汚染場所の消毒、建物への立ち入り制限などができるにすぎず、アウトブレイク防止のために、広く社会活動の制限をすることはできない。これを可能とするのが新型インフル特措法だったはずなのだ。しかし、政府は、「(病原体が特定されているから)新感染症に該当しない」として特措法改正に踏み切った。本当に必要なときに迅速に発動できないという笑えない事態となってしまったのだった。人権制約が可能となる特措法の適用に慎重を期すのは当然であるが、特定の検察官の定年延長を「解釈変更」で強行した姿勢とはいかにも対照的だ。
 いずれにせよ、新型感染症の国内アウトブレイクは、決して「想定外」ではなかったはずなのである。
 もっと問題だと思うのは、新型インフル特措法には、社会活動制限に対する補償や賠償の根拠となる規定が存在しないことだ(医療提供の強制等については補償賠償の規定がある)。ことは「強制力のない要請にとどまるから」などという皮相な次元にとどまるものではない。感染症の拡大予防のため国民・住民の行動を制限する以上、制限によって被害が生じることは当然に予測されうる。これに対して正当な補償や賠償が行われなければ、行動制限は実効性を欠いたものになりかねない。特別定額給付金の支給等の措置はとられたものの、行動自粛により収入を絶たれた人や障害者、給食で栄養をとることができなくなった子どもなど、社会活動制限による被害をより強く受ける人への配慮は欠けている。本来想定されるべきこと(想定内)が想定されていなかったのだ。
 九年前の震災や原発事故の際は、曲がりなりにも災害救助法や被災者生活再建支援法が適用され、被災者に対する避難所や仮設住宅、食事の提供、被災者生活再建支援金の支給などが行われた。今回の感染症については、それらは行われていない。現在の行政解釈上、感染症の拡大は災害法制上の「災害」に該当しないからだ。しかし、現在の災害法制の中では、きわめて不十分ではあるが、ある程度被災者の生活再建支援のために役立てることが可能な法的スキームがある。これらは、実は、災害法制における「災害」の定義の読み替え(解釈変更?)と一定の予算措置をとれば、感染症まん延時にも適用・準用は可能なはずである。もちろん、これまで別個の法体系として取り扱われており、所管も異なることから、諸方面の調整なども必要だが、「その気になれば使える法律の仕組み」はある。感染症への災害法制の適用については、全国で災害復興支援に携わってきた弁護士有志が提言を行っているが、政府の反応はない。その気になれば、国公法や検察庁法の「解釈変更」よりもよっぽど意義のある解釈変更が可能なはずなのだが、今の政権にはその姿勢が見られない。

既視感の本当の正体
 こうして考えてみると、人の姿が消えた街を見て私が感じた既視感、つまり原発事故と新型コロナをめぐる事態の共通点の「本当の正体」に気がつく。それは、単に「街に人がいない」といったものではなく、この国が「ひとりひとりのいのちと暮らしを最優先にする」という哲学に貫かれていないということだ。だから、危機のたびに同じことが繰り返されるのだ。原発事故をまるでなかったことのようにして五輪招致に奔走した政権が、いままた新型コロナで同じことを繰り返しつつある。新型コロナの「第二波」があるのか、いつ来るかは予測できないが、幸いにも来なかったとして、何事もなかったようにすべてを元に戻そうとすれば、それは、新たな危機に直面したときの日本社会の崩壊をお膳立てすることになりかねない。
 自然災害にしろ感染症にしろ、自然の脅威はあらゆる人を無差別に襲う。しかし、自然の脅威によるダメージは決して平等ではなく、弱い立場の人に集中する。新自由主義の下で進行してきた格差社会化や医療・社会保障水準の切り下げは、危機に対する社会の脆弱性を確実に作り出している。皆が自然の脅威にさらされている今こそ、過去の災害などの経験に学び、「ひとりひとりのいのちと暮らしを最優先にする」国を作るための運動と政策提言が必要だと強く思う。

 

種苗法改正案今国会成立を断念-廃案に追い込むまでご協力を  埼玉支部 柳   重 雄

種苗法改正案の今国会成立見送り
 新型コロナウイルス感染拡大の最中、まるで火事場泥棒のように「検察庁法改正案」を国会通過させようとしてきましたが、全国の団員をはじめとして法案審議に対する怒りの声が爆発的に広まり今国会での成立を断念させるに至りました。今国会通過を狙っていたもう一つの火事場泥棒的悪法「種苗法改正案」も二〇日、今国会成立を見送る方針を固めるまでに追い込みました。但し、政権与党はまだ断念してはおらず、改定案の審議入りを求めており、予断を許さない情勢が続いています。

種苗法改正案とは
 種苗法改正案は要するに種苗法に基づき品種登録された育種権利者の許諾なしに農家が自家採取・増殖(農業者が種や苗を栽培して得た種を次の栽培のために使うこと)をすることを禁じるというものです。農水省は種子を開発した育種権利者を守り、海外流出を防ぐために必要である、また種苗法において保護される品種は、新たに開発され、種苗登録された品種に限られるのであるから、それ以外の在来種等の一般品種の利用は何ら制限されないと説明していました。
 日本の農業者にとって、種子は人類共有の財産であり、自家採取・増殖による農業は農業者にとってまさしく生命線でもあります。種苗法が改正されると、農業者は登録された品種の育苗権利者から、自家採取・増殖の対価を支払って許諾を得るか、許諾を得られなければすべての種苗を新しく購入するしかなくなるので、結局登録品種は自家採取・増殖一律禁止になり、違反すると一〇年以下の懲役または一〇〇〇万円以下の罰金、農業生産法人では三億円以下の罰金になり、また裁判を起こされ多額の賠償金も請求されることになります。農水省は一般品種は制限されないと言いますが、種子企業が工夫を加え新品種として品種登録をしたうえで、在来種等の自家採取・増殖をして栽培をしてきた農業者に対し、刑事告発をしたり、損害賠償請求をしてくることは十分に考えられるところです。改正案の中では品種登録に際して、種苗の持つ「特性表」を求め、それだけで育種権利者が容易に裁判に勝てるような制度にもなっています。また改正案では在来種等を自家採取・増殖して農業を営んできた農業者の権利の保護が全くなされていないことを考えると、改正案によって農業者は結局自家採取・増殖の権利を奪われてしまうおそれが高いと言わざるを得ません。

種苗法改正案の本質
 結局、種苗法改正案の本質はかつて中南米諸国を荒らしまわった「モンサント法」(自家採取禁止法)の日本版に外なりません。農家が種苗のすべてを毎年モンサントのような種子企業から購入せざるを得ないような法制度にし、そうした企業の莫大な利益を保障する反面で、農業者の自家採取・増殖の権限を奪い、多額の負担を強いるものです。
 二〇一七年にはいわゆる種子法が全く突然に廃止されてしまったことは記憶に新しいと思います。都道府県等が公に管理、普及してきた種子を民間のグローバル種子企業等に委ねるためのものでした。今回の種苗法改正も種子法廃止と同じ狙いのものであり、グローバル種子企業等に種子の管理を委ねて、これらの企業の利益を保障するというものです。まさに日本の種子をひいては日本の農業をグローバル企業、大企業の餌食に差し出すような法案であると言わねばならないと思います。安倍政権の極端な大企業優先路線、グローバル企業優先路線、新自由主義路線の現れといわねばなりません。

種苗法を廃案に追い込むまでご協力を
 種苗法改正案は今年三月国会に提出され、早期成立が目論まれてきました。しかし、「検察庁法改正案」の反対の声が広がり、そのおかげで種苗法反対の声も広がりました。女優の柴咲コウさんもツイッターで改正への懸念を示し、これを契機にインターネット上などで慎重論が広がったとも言われています。全国の食健連、農民連、有機農業者その外多くの農業・食に携わる人達の反対の声も広がり、その結果今国会通過断念という状況にまで追い込んできたと思います。しかし、政権与党や農水大臣はこだわりを見せ、「予定通り今国会で審議を」と叫んでいます。今国会成立を見送ると言っても、まだまだ壁は厚そうです。安倍首相はこれら悪法の成立を断念したわけではありません。種苗法改正案の審議入りを許さず廃案に追い込むまで引き続きご協力をお願いします。

 

「そのときには皆一緒にくたばるわけだ」-絶滅危惧種からの脱出のために
                               埼玉支部 大 久 保 賢  一

今、思うこと
 私は、核兵器も戦争もない世界が欲しいので、その気持ちをいろいろな人に伝えることにしている。先日も「核持って絶滅危惧種仲間入り」という雑文を学生時代のバドミントン部の友人たちに発信した。そうしたら、当時からの親友で、今も私の健康状態を心配してくれている中小企業の社長から電話があった。「大久保。核兵器廃絶どころじゃないよ。会社が危ないよ。中国から部品が入ってこないから、製品が納められないんだよ」というのである。彼は笑いながら話していたけれど、深刻な問題であることはもちろんである。核兵器なんか無いほうがいいに決まっているけれど、それどころじゃないというのは本当にそのとおりだと思う。新型コロナウィルス・クライシスは、あたかも、人類社会の終焉かのような報道が行われている。人類はその全英知を振り絞って対応する必要がある。ウィルスなんかに負けるわけにはいかないのだ。
 私はそれなりの時間生きてきたからあきらめられるとしても、まだまだこれからの人たちから生存の基礎を奪うことはできない。そのために、自分にできることはしたいと思う。私にはウィルスへの対抗策を考える能力はない。せめて手洗いとうがいをするくらいである。けれども、何かできることがないかと考えてしまうのだ。そこで思いつくのが、非力なりにやろうとしている核兵器も戦争もない世界を作るための工夫である。
 小惑星の地球への衝突や超巨大地震や津波の発生を止めることはできないけれど、せめて、核兵器や戦争はなくして、新型ウィルスや気候変動や格差などの本当のクライシスに備えなければならない。核軍拡競争に大金を使い、無益な殺し合いをしている場合ではないと心の底から思うのである。そして、核兵器や戦争は人間の営みであるから、なくすことは可能だと確信しているのである。

絶滅危惧種という指摘
 私の好きな「核持って絶滅危惧種仲間入り」という川柳は、二〇一九年の作品である。ところが、もっと前に、人類が絶滅危惧種になったという表現をしていた人がいたのである。ドイツの哲学者ギュンター・アンダース(一九〇二年~一九九二年)は、一九六〇年に、「われわれは死を免れぬ種族=人類という状態から、『絶滅危惧種』の状態へと移ってしまった」と指摘していたのである。その理由は、人間が核兵器を持ち、それを使用したからである。
 彼の主張を私なりに理解すると、核兵器が使用されれば、すべての人が同じように悲惨な目にあうことになる。これはもちろん悲劇である。けれども、更なる悲劇は、ほとんどの人が核のもたらす悲劇を気にしておらず、大半の人々は全く気が付いていないことだ。なぜ、そうなってしまうかというと、私には関係ないことだと思っているからだ。その背景には、われわれが脅かされている危険は、私を個人的に脅かしているのものではない。したがって、その脅威は個人的には誰も脅かしていない。だから、それは私個人には関係がない。私が個人的に不安を覚えたり憤慨する必要はない、という思い込みがある。われわれの脅威であっても、私だけの脅威でなければ、私個人の脅威ではないという錯覚がある、というのである。
 これは、確かに深刻な指摘である。人類絶滅の危険性(いろんな人が指摘しているし、現代の科学者は終末まで一〇〇秒としている)が客観的に存在しているにもかかわらず、それに気がついていないとすれば、お気楽といえばお気楽である。
 そして、ギュンターは言う。放射線を浴びない展望台があれば、そこから傍観者として手を汚さず眺めていればいいかもしれないけれど、そんな場所はない。にもかかわらず、人は「そのときには皆一緒にくたばるわけだ」とつぶやいて、危険があることを否定しないが、抵抗もしないのである、と。
 ギュンターは、一九四五年八月六日の広島以降、「現代の平和」が消滅するだけではなく、戦争が起こり平和の時代があった「人類の時代」も消滅する原子力時代に入ったことを警告し、その事態を乗り越えるための提案をしているのである(ギュンター・アンダース著・青木隆嘉訳『核の脅威―原子力時代についての徹底的考察』・法政大学出版局・二〇一六年)。

一緒にくたばるのは嫌だ
 今、世界には一万四千発弱の核兵器がある。それが意図的であるか事故や過失であるかを問わず、使用されれば「壊滅的人道上の結末」が人類社会を襲うことになる。それは「みんな一緒にくたばる」ことを意味している。ギュンターの警告はまだ意味を持っているのである。けれども、事態が改善されていないわけでもない。人類は「核兵器禁止条約」を作り、そんな事態を避けようとしているところである。しかし、他方では、そんなことはさせないと抵抗している核兵器保有国や日本政府がある。核兵器は自国と国民を守る最後の砦だというのである。そして、「そのときには皆一緒にくたばるわけだ」とつぶやいて、危険があることを否定しないが、抵抗もしない人も少なくないのである。
 原子力時代において、自分の人生を、誰かの道具としてだけではなく、主体的に生きたいと考える人は、そういう人たちに働きかけ、共同しなければ、核の力で人間を支配しようとする勢力に打ち勝つことはできないのである。
 そのために求められていることは、核が人類に何をもたらしたのかを知ることと、それは無くさなければならないという意思の形成と、それは無くすことができるという確信に基づいて、愚直に、核での支配をもくろむ勢力とたたかい続けることである。
 被爆者はその営みを続けてきた。私たちは、それを継承しなければならない。それを怠った時、みんな一緒にくたばってしまうからである。(二〇二〇年三月一八日記)

 

「社会は存在する」とジョンソン英首相  東京支部 後 藤 富 士 子

 朝日新聞五月九日の「多事奏論」によれば、ジョンソン英首相は、コロナに感染して自己隔離中の三月末、ビデオメッセージで「今回のコロナ危機で、すでに証明されたことがあると思う。社会というものは、本当に存在するのだ」と締めくくった。医療崩壊を避けるために退職した医師や薬剤師らに復職を呼びかけたところ、二万人が応じ、さらに七五万人もの市民がボランティアに名乗りを上げてくれたことに感謝して。
 「社会は存在する」というのは、サッチャー元首相の「社会など存在しない。あるのは個人とその家族だけだ」という発言のアンチテーゼ。米CNNテレビは、専門家の警告を軽視し対策が遅れた「科学否定主義者の男たち」としてトランプ米大統領やジョンソン英首相を挙げ、それと対比して、「不釣り合いなほど素早く断固として行動した指導者の多くが女性だった」と指摘した(五月一一日赤旗)。だが、もしサッチャーが現職だったらどうだっただろうか? 英米で死者が多いのも目に付く。
 西谷修東京外語大名誉教授は、新自由主義は経済思想というよりも国家統治の思想だという。サッチャー元首相が「社会などというものはない。あるのは家族と国家だけだ」と言ったのが典型的で、人々が結びつき連帯を伴う社会というものが、福祉に対する「依存」を生み出し経済成長を停滞させているという認識で、富む者の自由と貧者の自己責任を説く。そして、社会を個人に分断し、連携意識とか共同性に支えられている関係をすべて解体して、社会を市場に溶解させたのだ(五月八日赤旗)。
 今回のコロナ禍は、グローバル資本主義の帰結とも指摘されている。また、ワクチンの開発にも時間がかかるし、短期間で終息を望めない。こうして、感染症による危機から人々の命と暮らしを守るのは、国家ではなく社会にほかならないことを教えられる。
                                                                                                                                                     〔二〇二〇・五・一四〕

 

バーチャルの沖縄旅行 二〇二〇年五月(後編)  東京支部 伊 藤 嘉 章

第三章 三日目
那覇警察
 月曜日の午前九時三〇分、那覇警察署を訪ね、あらかじめ伝えておいたとおりに、担当の者に、一昨日に調印した示談書と示談金の領収書を提示した上で、コピーを渡した。
 これで、今回の沖縄旅行の往復の交通費を依頼人からもらった目的を達成することができました。
 あとは、こころおきなく見学旅行を続けることができます。
一の宮と朱印
 神社仏閣に興味のない私ですが、全国の国分寺めぐりと、全国一宮の朱印集めだけは続けています。なぜ、沖縄には、国分寺がないのに、一の宮があるのだろうか。延喜式に載っていない神社は一の宮とは認めないとか。沖縄や北海道に一の宮があるのは違和感を覚える。などというのは差別ではないだろうか。そもそも一宮には定義がない。複数の一の宮がある国は幾つもあります。
 ところで、沖縄の一の宮・波上宮の祀神はなにか。由緒書によると、この地は、「ニライカナイ」への祈りの聖地であったというのに、普天満宮と違って、ニライカナイを祀らずに、御祭神は、伊弉冉尊・早玉男尊・事解尊、そして、相殿神に、竈神・産土大神・少彦名神とあります。この雑多な神名をみると、その道に不勉強の私には、めまいがしそうになります。朱印を貰えれば見学の目的を達成したので、隣の対馬丸記念館へ行く。
平成天皇慰霊の旅の追っかけ 対馬丸記念館
 海底の対馬丸が発見されたときの平成天皇の御詠
  疎開先の命いだきて沈みたる  
     船深海にみいだされけり
 「緊張感いっぱいで迎えた六月二七日であったが、両陛下の体いっぱいから出る優しさ、微笑みに緊張もほぐれお迎えすることができました。……
 今回の行幸啓は対馬丸関係者に取って受け取り方は一様ではない。しかし日本国象徴たる天皇が犠牲者への慰霊と、鎮魂、また遺族生存者と懇談のためおいでくださったことは一つのけじめになるのではないかと思う。」(理事長・高良政勝)(対馬丸通信・平成二六年一〇月二五日発行・第二九号三頁)。
 なお、天皇来館に向けての準備の中で、周りの道路では側溝のふたをあけてまでお掃除をしたという。綺麗になっていいのですが。
 対馬丸犠牲者の漂着現場である奄美大島・宇検村船越海岸に、二〇一七年、対馬丸慰霊碑ができたという。なお、靖国神社にも対馬丸の碑があったと思ったが、調べてみたら、日ロ戦争での殉難船、常陸丸であった。
首里城
 正殿の焼け跡がなまなましい。この焼け跡をこのまま、火災遺産として後世に伝えてほしい。広島県の原爆ドームのように。
 そして、首里城公園には敷地が余っているのだから、正殿の復元はどこか空いている場所に作ってもよいのではないか。
 火災遺産として残すことによって、正殿は、令和元年に火災で焼けた。そして、その七四年前の一九四五年の沖縄空襲の時もこのように燃えてしまったのだという戦争遺跡を後付けでつくることができます。
 「琉球王国の政治・外交・文化の中心地として威容を誇った首里城」(「一般社団法人沖縄美ら島財団首里城公園管理部」作成のパンフレット)も、一八七九年、明治政府よって武力制圧され、琉球王国は消滅し、沖縄県となった。本土では、藩とは一八七一年(イワナイ)県という廃藩置県と覚えた。沖縄は、藩とは一八七九年(イワナク)なった琉球処分であった。
 首里杜館で、首里城御膳の昼食をとる。ビールはたのまない。なんで頼まなかったのだ。地ビールの味、ラベルのデザイン、そしてビールの味を書くのが旅行記ではないかといわれたことがあります。頼まなかった理由は、帰りの飛行機のフライト時間が長いからです。
玉陵
 最後に、琉球王国歴代の王様の墓「玉陵」、ギョクリョウ・あるいは、ギョクのミサンザイとも読んでしまう「たまうどん」を見学する。小さい「ど」は入力不可。
 ここは気持ちのいいところではないので何も書くことがありません。

第四章 総括的感想
 本土の考古学では、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館のリニューアル展示では、歴博の藤尾慎一郎氏ほかの知見にもとづき(同人著「弥生時代の歴史」講談社現代新書・参照)、水田稲作を始めた弥生時代は紀元前一〇世紀までさかのぼるという展示がされています。従って、いままで縄文晩期といわれていたこの時期を、弥生早期と言う。そして、縄文晩期の夜臼式土器等は、これからは、弥生早期の土器と呼ぶことにして、弥生土器の定義を変えた議論は知っていましたが、沖縄には、弥生時代も古代もなく、後期貝塚時代の次には、グスク時代(本土の戦国時代に相当するのか)に突入することを最近まで知りませんでした。
 オキミューで「三訂版高等学校 琉球・沖縄の歴史と文化」という教科書を買いました。二頁に「琉球・沖縄」を学ぶ意義のひとつとして、「沖縄という地域で、私たちの祖先がどのように独自の歴史を形成してきたか、先人の足跡を学ぶことによって沖縄人(ウチナーンチュ)として、沖縄に生きるものとしての、自分自身のアイデンティティの確立をはかることができる」とあります。
 沖縄支部の団員の皆様も、この副読本で学んだのでしょうか。

 

新刊書(本年二月)の紹介
「平和憲法とともに 深瀬忠一の人と学問」稲正樹・中村睦男・水島朝穂編
                                北海道支部 高 崎 裕 子

 故深瀬忠一先生は北大法学部元教授。憲法学者として恵庭裁判・長沼裁判に協力。「立憲民主平和主義」の原則に立って、具体的な裁判とのかかわりで画期的な「平和的生存権」の理論を構築し、憲法学界で「平和的生存権」を最初に裁判で論じた。
 恵庭事件は、自衛隊演習の被害に苦しむ恵庭・野崎牧場の野崎兄弟が通信線を切断、国は器物損壊罪で告訴したが自衛隊法違反で起訴された。北海道新聞が小さい記事で報道したが、ほとんどの人はもちろん、先生も気付かなかった。法学部生の笹川紀勝氏(明治大学元教授、国際基督教大学名誉教授)が気付き、「重要ではないか」と相談。先生は「記事を見た途端ゾーッとし、全身を戦慄のようなものが走り、事柄の本質=野崎兄弟が有罪になれば自衛隊が合憲になる。憲法を盾にして闘わなければ勝ち目はない」。先生は、戦後初めて一般市民が刑法ではなく「自衛隊法」で裁かれる裁判で、もし有罪判決となり司法が「自衛隊を合憲」とした場合、その判決が先例となり国民は生命・財産・人権を自衛隊に侵害されても泣き寝入りを強いられることを瞬時に理解した。「権力を相手にたたかうことと、被告人の人権や国民の平和に生きる権利が侵害されるのを憲法学者としての良心と理性、またキリスト者・市民としての責任として放置できるのかと、繰り返し悩んだ末「覚悟を決め」たという(二女深瀬ふみ子氏ニューヨーク市立クィーンズ大学非常勤助教授)。故彦坂敏尚弁護士に相談。「やりましょう」の言葉で歴史的な闘いが始まった。先生の人生はこの時から、大学での教育・研究中心から実践活動を伴う人生に大きく転換した。先生は、裁判に勝つには「世論・理論・弁論」の三論が必要と強調、特別弁護人として法廷で陳述し、「理論」面で歴史に残る大きな貢献をしたばかりか、現地に何度も何度も足を運び調査を重ね、雑誌・世界に論文を発表するなど理論と実践の両面で粘り強く、考えられる全てをやり切った。
 野崎兄弟の「無罪」判決は肩すかし判決と言われたが、先生は「これで良かったのだ」「自衛隊合憲とさせず、「平和的生存権」の実質を守った。」とし、そして長沼判決で「初めて平和的生存権という「人権」がドーンと出た」と言われた。
 さらに、自衛隊イラク派遣差止訴訟名古屋高裁判決では「平和的生存権は基本的人権の基礎」と具体的な権利性が認定され、大きく結実した。深瀬理論は、現在係属している安保法制違憲訴訟等々の憲法裁判の理論的支柱となっている。

 本書は、先生の没後四年有余を経て、北大の教え子だった稲正樹国際基督教大学元教授、同じく中村睦男北大名誉教授・北大元総長、共同研究者であった水島朝穂早大教授の三氏が編者となり、編者を含めたゆかりの二七人が先生の憲法理論や憲法学者、教育者、キリスト者としての功績や生涯をたどり執筆した。
 第一部「憲法学者からみた深瀬憲法学」、第二部「憲法裁判と平和的生存権の拡大」、第三部「深瀬忠一の人と信仰・学問」の三部構成で、内藤功弁護士は「世論・理論・弁論の三論一体で闘った恵庭裁判―弁護団の立場から」、笹本潤弁護士は「平和的生存権―国連でどのように議論されてきたか」、池田賢太弁護士はコラムで「北海道と陸上自衛隊南スーダンPKO派遣差止訴訟」、私はコラムで教え子の一人として温かく包容力ある優れた教育者であった思い出を「北大法学部での出会い」として、それぞれ執筆した。

 先生は、キリスト者として、内村鑑三、新渡戸稲造等が創設した札幌独立キリスト教会に所属し、そこで「平和研究会」を創設、毎年、憲法学・国際政治学・国際法をはじめ、平和に関する広い分野の優れた研究者を講師として招き平和講演会を開催し、その内容を冊子とし「平和文庫」と名付け、一人で発行してきた(九一年一号~一五年二九号)。先生は私の法律事務所にその冊子や論文等に必ず自筆の言葉を添えて直接届けて下さった。水島朝穂教授の講演の冊子には、「最後まであきらめずに求む平和的生存権保障の世界」と記されていた。
 平和憲法の危機の今こそ、平和憲法の定着のために生涯を捧げた先生の歩みを、是非多くの方々にお読みいただきたい。
 新教出版社 二〇二〇年二月発行 四六判、税別二〇〇〇円
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北信五岳―飯縄山(一)  神奈川支部 中 野 直 樹

団 一四年 福井・あわら総会
 団総会会場で受付をすると分厚い資料袋を渡される。全体会場の席に座ると、まず古稀表彰記念文集を手にとって今年はどなたかなと、氏名をながめるのが習性となっている。以前は人数も少なく、皆さん控えめに書いておられたとの印象があるが、最近は古稀団員の数が多いし、自分史というか、私の団員物語を魂込めてがっちり書かれる方が多くなった。あわら総会では四一名のうち二六名の古稀団員の名が文集に並んでいた。ぱらぱらとめくっていたところ、「古稀残日録」と藤沢周平小説(清左右衛門残日録)から一部お借りした題を付けた一万字近い大作があった。長野県支部 武田芳彦古稀団員。生まれと性格から始まる文章はただちに勢いが出て、冨森啓児団員が六五年に開設した長野中央法律事務所に入所したあとの事件活動エピソードは痛快な読み物として目が離せなくなった。総会冒頭のセレモニーはどこかにいってしまった。その最後のところの「山歩きのこと」で興奮が沸騰した。「国内はアルプスの高い山から近くの低い山まで、北は北海道から九州まで。海外は中国チベットの未踏峰ガンシカ峰(標高五二五四m)の遠征、イランのサバラン峰(四八一一m)、ネパールヒマラヤの多くのトレッキングコース、ペルーアンデス、ヨーロッパアルプス、カナダロッキーなどに及ぶ。しかし、なんと言ってもヒマラヤは格が違う。・・山のお蔭で私は元気だ。」

懇親会場での約束
 懇親会場の檀上でも武田さんははつらつの挨拶をされた。私は、同期で縦走山行の同僚となっている京都の浅野則明さんと一緒に、武田さんのお膳の前に表敬訪問をした。期待したとおり山談義で盛り上がった。そこに新団長に選任確実となっている荒井新二さんが加わった。話題が、長野中央法律事務所が設立五〇年となること、一一月一五日に記念レセプションが開催されること、ところがその日は新執行部第一回めの常幹の日であり三役の出席が難しい、ということに及んだ。酒の勢いと武田さんの機転で、中野が荒井団長の名代で記念レセプションに出席し、翌日は山に行こう、という解決案が登場した。
 私が警備公安警察を相手とした緒方氏宅電話盗聴事件弁護団の活動をしていたときに、長野県では警備公安警察官が勤務中に労働組合や民主団体の事務所に泥棒に入り窃盗を繰り返していたという事件が発生し、被害を受けた団体が国と長野県と警察官個人を被告として国家賠償請求裁判を起こしていた。法律の要件事実的にはかなり困難な事件だった。冨森団員が主任となった弁護団がつくられた。私はこの事件の支援集会に緒方弁護団として呼ばれて話をして夜のごちそうになったことがあった。長野中央法律事務所の皆さんとも交流した。この事務所の事務局長は栗岩恵一さんだった。栗岩さんは元スキーワールドカップ大回転選手だった。当時、団本部に出入りする有志で白馬のヒューマンペンション・コンパスを定宿として八方尾根スキー場に遊ぶという恒例企画が続いていた。栗岩さんに出張してきていただき、スキー指導を受けるという特典付きだった。栗岩さんは現在、全国勤労者スキー協議会会長である。
 そんなご縁もあったことから、私はこの解決案を受諾した。

今日もかがり火は燃えるⅣ
 記念誌を受け取ってホテルメトロポリタン長野の会場に入った。式次第をみると、八法亭みややっこの憲法噺で幕開け。飯田美弥子弁護士の軽妙なおしゃべりが期待されたとおりのウケをとっていた。プログラムに来賓ごあいさつとして一人「中野直樹様・自由法曹団本部前事務局長」と書かれており、全く恐縮してしまった。
 長野中央法律事務所は一〇名の先輩団員が退所ないし死去され、九七年弁護士登録の村上晃弁護士をはじめとした四名の団員で五〇年来のかがり火を燃やし続けている。
 車椅子の冨森団員がご挨拶をされた。付添で冨森団員の娘さんとその夫杉本朗団員(神奈川支部)の姿があった。冨森団員は長野で数々の困難な人権救済活動に奮闘しながら、日本共産党の衆院議員候補者として六九年から八三年まで六度出馬されたそうである。武田さんの「残日録」には、「どうしても当選に届かなかった。良く健闘したが、いずれも全国で最も惜敗度の高い選挙だった。応援弁士から支持拡大まで、それこそ一人の選挙運動員として粉骨砕身したと思う。事務所で鉢巻きを巻いて電話掛けをしているとき、依頼者から『先生どうしたんですか』と問われ、『受験勉強』と答えるくらい必死だった。冨森さんを国会へ送り出せなかったことが四二年の弁護士活動の中で一番悔やまれる。」と回顧されている。
 一七年一〇月に「自由法曹団長野県支部五〇年のあゆみ 民衆とともに」が発行された。そのなかに冨森団員が七人の物故団員のお一人となっていた。この年二月一二日に逝去。
 翌朝、昨日のみぞれ混じりの冷たい雨が上がり、晴れわたった空のもと、武田さんの車に乗って飯縄山を目指した。(続く)

 

 

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