第1711号 / 7 / 21

カテゴリ:団通信

【今号の内容】
*新潟 / 長野県 / 山梨県 / 静岡県 支部特集
○浜松郵便局・ゆうちょ銀行更衣時間訴訟で勝利和解-制服更衣時間は労働時間  塩沢 忠和
○裁判員裁判におけるマスク着用問題  渡邊 幹仁

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*生活保護基準引き下げ / いのちのとりで裁判特集

○生活保護基準引下げ違憲訴訟(いのちのとりで訴訟)  阪田 健夫
○生活保護基準引下げに対して 司法の役割を放棄した名古屋地裁判決  森  弘典

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●学童保育指導員10人の雇止めを許さない 守口市学童保育指導員雇止め事件  愛須 勝也

●コロナ危機の陰で核軍拡が進んでいる  大久保 賢一

●北信五岳-黒姫山  中野 直樹

●坂本修元団長が逝去されました  笹山 尚人

●近藤ちとせ団員へのメッセージ  田井  勝

 

 


*新潟 / 長野県 / 山梨県 / 静岡県 支部特集
浜松郵便局・ゆうちょ銀行更衣時間訴訟で勝利和解-制服更衣時間は労働時間
                               静岡県支部  塩 沢 忠 和

一 はじめに
 郵政産業労働者ユニオン(以下「郵政ユニオン」)が、日本郵便を相手に雇用形態による格差是正のための大きな闘いを挑み、現に貴重な成果を獲得しつつある中で、この浜松では、三人の組合員が、金額的にはささやかであるものの、全国的に大きな影響を及ぼす制服更衣時間を実労働時間と認めさせる闘いで、ほぼ請求どおりの勝訴的和解を勝ち取った。

二 提訴に至った経緯
 発端は、不本意にも浜松から静岡に転勤(新幹線通勤)させられたT君(郵政ユニオン組合員)の切実な要求に基づくものだった。家族(とりわけ子供)との時間を何よりも大切にするT君にとって、約七分と言えど制服から私服に更衣する時間は、帰宅に当たり希望する新幹線(静岡―浜松間は約三〇分に一本)に乗れるか否かを大きく左右する。そこでT君は、更衣時間は実労働時間だという自分の要求を認めさせるべく東海エリア人事担当部長と果敢に交渉をしたが、やはり一人の闘いでは埒が明かず、郵政ユニオンが交渉事項として大きく取り上げたものの、不誠実な回答を繰り返すだけであったことから、T君のほか、組合の有力メンバーであるゆうちょ銀行のS・Hさん、日本郵便のS・Nさんが、郵政ユニオン組合員を代表する立場で原告となり、二〇一六年六月提訴に踏み切った。

三 訴訟の経過
(1)郵便局もゆうちょ銀行も、勤務時間中の制服着用が義務づけられ且つ制服での通勤が禁止されている(事業所内の禁止ポスター)。事業所内には更衣室が設置されているから、当然のことながら皆ここで更衣する。制服着用が義務づけられている以上、更衣が本来の業務に密接に関係する準備行為であることも争いようがない。
 原告らが主張した「更衣に要した時間」は七分間で、二年前に遡っての未払残業代請求額は三人合わせて約五八万円。これは絶対に勝てる事件と確信しての提訴であった。
(2)ところがゆうちょ銀行は「制服通勤を禁止していない、従って事業所内での更衣を義務づけておらず、会社の指揮命令下にはない」と主張。一方の日本郵便は、さすがに「制服通勤禁止」のポスターを貼りまくっていて「禁止していない」とまでは言わず、「制限は緩やかである。これに反しても処分を受けた者はいない。制服通勤している者が約三割おり、事実上黙認されている」との、「スピード違反は禁止されているが、スピード違反をしている者は相当数いる」と言うに等しい答弁を繰り返した。
 しかも裁判中に、制服通勤を禁止しているマニュアルを突如「改訂」して禁止表現を曖昧にしたり、職場に貼りだしてあった「制服通勤禁止ポスター」を突如撤去するなどした。
(3)これに対し原告側は、全国の郵政職場における制服通勤禁止ポスター貼付状況、現に制服通勤禁止のチェックをしていることのアンケート結果、他企業における労基署是正勧告事例(イオン等)や労働時間にした企業の実例(みずほ銀行等)、さらには『まさか!給料が正しく支払われていない?』と題して更衣時間問題をわかりやすく取り上げた「NHKあさイチ」報道等を証拠提出し、被告を圧倒した。

四 四年弱かかっての勝利和解
(1)双方の主張・立証は、提訴後一年四ヶ月後の二〇一七年一〇月にはほぼ出そろい、裁判所からの和解勧告を受けた。実はそこからが長かった。被告日本郵便は、「更衣時間の見直し作業を進めており、それに基づく就業規則の改定を行う予定である」と言い出し、もとより原告らは、金銭請求が目的ではなく、最終的には就業規則改定を求めての提訴であり、早期に具体案を提示するよう求めた。
 ところが二〇一九年四月に至ってようやく出された更衣時間見直し(就業規則改定案)は、実に巧妙な、実質的には拘束時間が一五分長くなる不利益変更を伴うものであった。
(2)原告らにしてみれば、これでは何のために一年以上も待たされたのか全く納得できず、和解交渉の打ち切り、証人尋問等に入ることを求めた。
 それでも裁判所は、和解を諦めず(?)粘り続け、終盤になって裁判長は、原告側が想定していなかった「裁判所としての和解案」を出すと言い出した。
 それは第一に、ほぼ原告請求どおりの「解決金」を支払わせる。第二に、和解である以上、被告側に「更衣時間は労働時間である」とストレートに認めさせることはできないが、原告側からすれば「被告が原告らの主張を認めたのだ」と理解できる和解案を、何とか工夫する。第三に、口外禁止条項は一切設けない。というものであった。
(3)本年三月一一日、裁判所からの和解案が正式に提示された。その骨子は、被告らが原告ら三名に合計五六万円(三人の請求の千円以下を切り捨て、万単位での請求をそのまま認めた金額)の解決金を支払う前提として、被告らは、原告らが本件提訴をした時点で、原告らそれぞれの事業所(浜松東郵便局及びゆうちょ銀行・浜松)において、「社員が制服を着用して通勤することを原則として禁止していたこと、及び、その結果として、当該郵便局の社員が事業所内において更衣を行うほかなかったことを認める。」というものであった。
 「社員が事業所内において更衣を行うほかなかった」とは、かの最高裁判決(二〇〇〇年三月・三菱重工事件)が「当該行為が、使用者の指揮命令下に置かれたものと評価することができる」とするための要件である、「事業所内において行うことを義務付けられ、又はこれを余儀なくされたときは」を意識しての文言であることは明らかである。
 要するに裁判長は原告らに、「被告に更衣時間が労働時間であることまでは認めさせることができなかったが、最高裁が、労働時間と認めるための要件としている事実関係については被告らに認めさせたと理解すればよく、且つ、口外禁止条項がないから、原告らはそのように理解して和解したと内外に訴えればよいではないか」と暗に言っているのだ。
(4)「勝てる事件でなぜ判決を獲得せず和解で終わらせたのか」との批判が聞こえてきそうで、弁護団内部でも正直迷いがあったが、最終的には原告らの選択により、本年四月一四日和解成立に至った。

五 本件勝利和解の意義
 今浜松の職場では、「更衣時間裁判の勝利を踏まえ、すべての社員に遡って割増賃金を支払え」とのビラがまかれ、運動が盛り上がっている。全国の郵政ユニオンの職場でも、この勝利和解を手掛かりに、北海道、大阪、兵庫等でも裁判を起こそうとしている。そして何よりも、頓挫している就業規則の改定に、この勝利和解を生かすことが求められている。
(弁護団は塩沢・岡本英次団員・平野晶規団員) 

 

 

裁判員裁判におけるマスク着用問題  新潟支部  渡 邊 幹 仁

 新型コロナウイルス感染拡大の影響から、裁判所では様々な取り組みがなされています。現在の社会情勢を考えると、一定の配慮は必要やむを得ないものと感じていますが、他方で行き過ぎな措置もあるように見受けられます。

一 緊急事態宣言解除後の裁判員裁判
 五月二五日までに緊急事態宣言が解除され、それに伴い、それまで中止・延期となっていた裁判員裁判も徐々に再開されるようになりました。新潟でも六月から順次、裁判員裁判が実施されています。
 実施にあたって、随所に、裁判所の「取り組み」が見られます。ここでは、新潟地裁での実情を中心に見てみます。
 まず、裁判員の選任手続についてです。従前は裁判員候補者を全員、「候補者待機室」という会議室一部屋に集めて行っていました。現在は、いわゆる「三密」を避けるためとして、裁判員候補者を二グループに分けたうえで、それぞれ法廷の傍聴席に、間隔を空けながら座ってもらっています。
 公判中の法廷では、裁判員と裁判員との席の間には、一席ずつ透明のアクリル板が立てられ区切られています。
 傍聴席は、三席に一席となるよう空けて着席することが求められます。実際には、着席可能な座席にテープを貼っておき、それ以外は着席しないよう注意があります。そのため、(社会的耳目を集める事案でなくても)傍聴整理券を事前に配布し、整理券を持っていなければ傍聴できない取り扱いとなっています。傍聴できる人数が通常の三分の一くらいですので、すぐに上限人数に達してしまうようです。
 少し前までは、あたりまえのように行われていたことが、新型コロナウイルスの影響で一変しています。

二 マスク着用問題
 特に裁判員裁判において、裁判所から、被告人や証人、弁護人にマスクを着用するよう要請されます。これは、新潟地裁に限らず全国的な取り扱いのようです。
 新潟でも、緊急事態宣言解除後に行われた裁判員裁判で、同様の取り扱いでした。被告人質問時、被告人も弁護人もマスクを着用したままだったので、裁判員や傍聴していた修習生からは、「マスク越しで声がくぐもっていた」「声が聞き取りづらかった」という声が上がったようです。実際、公判中にも裁判長が、被告人の発言を何度も聞き直すということもあったようです。また、判決言渡し後の説諭で裁判長からは「(被告人の)声は聞き取りづらかったが、・・・」という発言もあったとのことです。裁判後の記者会見では、裁判員から、マスク越しでは被告人の表情が確認しづらかった(反省の様子なども含め被告人の表情も確認したかった)、という声もあがっていたとのことです。
 このように、マスク着用によって、事実認定者に被告人の表情を十分に見てもらえない、声が十分に伝わらないという問題が生じています。また、証人についても、表情も含めて、証言の信用性の判断材料となると考えられますが、マスク着用によって、それも困難となります。このように、マスク着用は、被告人の正当な権利を実現できない危険性をはらんでいます。
 他の地域では、弁護人が工夫を凝らしている例もあるようです。飛沫が飛ばないようマウスカバーや、フェイスシールドなどを、被告人や弁護人が着用して、被告人質問や、冒頭陳述・弁論などを実施する例などもあるようです。マスクの着用に比べて、表情を確認しやすくなったり、声も聞き取りやすくなるということです。
 新潟では、現時点では具体的活動まで至っていませんが、裁判所等に対してマスク着用の弊害を訴えていき、必要最小限の利用にとどめるよう要請し、そのための代替手段の実現に力を入れていかなければと考えています。

 

 

*生活保護基準引き下げ・いのちのとりで裁判特集*
生活保護基準引下げ違憲訴訟(いのちのとりで訴訟)  兵庫県支部  阪 田 健 夫

 生活保護基準引下げ違憲訴訟は、厚生労働大臣が、①二〇一三年八月・②二〇一四年四月・③二〇一五年四月と三年連続で生活扶助基準を引き下げたことに対し、原告らが、このような基準引下げは、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と定める憲法(二五条)と、憲法二五条を具体化した生活保護法(三条、八条)に違反するものであり、違憲・違法であると主張して、引き下げられた基準に基づく保護変更決定の取り消し(地域によっては国賠も)を求めている訴訟である。     
 現時点で、全国二八の都道府県で提起され、原告の総数は約一〇〇〇名にのぼる。
 被告となっている市や国(厚生労働省)は、当初、答弁書や被告第一準備書面において、生活扶助基準を引き下げた理由について、生活保護法八条二項が、「前項の基準は、……最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであって、且つ、これをこえないものでなければならない。」と定めており、基準が「最低限度の生活の需要」を越えている場合には違法な基準となるから、そのような場合は越えないように引き下げなければならない、と主張し、訴訟を進めてきた。
 生活保護法八条二項に関しては、老齢加算訴訟(福岡訴訟)の最高裁判決(二〇一二・四・二第二小法廷判決)が、「生活保護法八条二項によれば、保護基準は、……最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであるのみならず、これを超えないものでなければならない。そうすると、仮に、老齢加算の一部又は全部についてその支給の根拠となっていた高齢者の特別な需要が認められないというのであれば、老齢加算の減額又は廃止をすべきことは、同項の規定に基づく要請であるということができる。」と述べており、今回の訴訟における被告の主張は、このような老齢加算訴訟の最高裁判決に基づくものである。
 他方、老齢加算訴訟(東京訴訟)の最高裁判決(二〇一二・二・二八第三小法廷判決)は、一般低所得高齢者世帯の消費支出額との比較を根拠として、「七〇歳以上の高齢者について現行の老齢加算に相当するだけの特別な需要があるとは認められないため、加算そのものについては廃止の方向で見直すべきである。」とした「生活保護の在り方専門委員会」の意見について、「統計等の客観的な数値等との合理的関連性や専門的知見との整合性」があると評価したうえで、厚生労働大臣の判断は、このような専門委員会の「意見に沿って行われたものであり、その判断の過程及び手続に過誤、欠落」はないから、老齢加算廃止は裁量権の逸脱・濫用ではない、と判断している。
 これに対し、今回の訴訟で被告がいう「ゆがみ調整」は、二〇一三年の社会保障審議会・生活保護基準部会の報告書を根拠とするものであり、また、「デフレ調整」は二〇〇七年の「生活扶助基準に関する検討会」の報告書を根拠とするものである。その意味で、老齢加算最高裁判決と同様の論理によって、今回の基準引下げについても、裁量権の逸脱・濫用ではない、とする判決が安易に出されてしまうのではないか、非常に危惧されるところである。
 そして、仮に、そのような安易な判決が最高裁で確定してしまうと、今後は、社会保障審議会・生活保護基準部会において、一般低所得世帯の消費水準との「かい離」状況を「検証」しさえすれば、最低限度の生活の需要を超えている基準を引き下げることは「生活保護法八条二項の要請」であり、むしろ引き下げないことが違法となるから、基準の引下げに対して全国で訴訟を提起しても、判で押したように、基準の引下げは違憲・違法ではなく適法であるとする判決が大量生産されることになる。
 さらに、生活扶助基準と比較される「一般低所得世帯」についても、現在は、「第一・十分位」(下位一〇%)階級であるが、今後は、階級を細分化し、たとえば、「第一・五十分位」(下位二%)階級と比較することなども考えられる。そうすれば、物価が下がらなくても、生活扶助基準はさらに引き下げられることになる。
 こうした意味において、この訴訟は、きわめて重要な意義を有している。
 私見であるが、原告が勝訴するためには、「著しさの統制」といわれる「社会観念審査」と一体化した判断過程審査を「精緻化」することではなく、今回の基準引下げが、憲法適合的に解釈しなければならない生活保護法八条二項「前項の基準は、……最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであって、且つ、これをこえないものでなければならない。」の解釈を誤ったことに基づくものであり、重大な「目的違反ないし動機違反」として裁量権を逸脱するものであることを最大限強調し、立証する必要がある。そのための理論的根拠となるのは、高田篤・大阪大学教授の鑑定書である。

 

 

生活保護基準引下げに対して司法の役割を放棄した名古屋地裁判決
                                愛知支部  森   弘 典

一 判決言渡
 二〇二〇年六月二五日、名古屋地方裁判所民事第九部(角谷昌毅裁判長)は、①二〇一三年八月から三年かけて行われた生活保護基準引下げの処分取消と②国家賠償の請求について、原告一八名の請求をいずれも棄却する判決を言い渡した。傍聴席から「不当判決」という声が上がったように、原告、弁護団、支援者の司法に対する期待は崩れ去った。

二 判決の問題点
 -厚生労働大臣の広い裁量の容認と人権軽視の貧困観
(1)はじめに
 判決には、国が生活保護基準引下げの算出根拠とする「デフレ調整」「ゆがみ調整」の問題などもあるが、最大の問題を挙げれば、裁判所が司法の役割を放棄したことである。
(2)国民感情、国の財政事情などを広く考慮できるとしたこと
 まず、生活保護基準引下げを厚生労働大臣の広い裁量に委ねてしまったことである。
 判決を通して拠って立つ「規範」は、老齢加算廃止(福岡訴訟)に関する最高裁判所判決が示した「統計等の客観的数値等との合理的関連性や専門的知見との整合性」でさえなく、「保護基準中の生活扶助基準を改定するに際し、生活扶助基準の改定の必要があるか否か及び改定後の生活扶助基準の内容が健康で文化的な生活水準を維持することができるものであるか否かを判断するに当たっては、厚生労働大臣に・・・専門技術的かつ政策的な見地からの裁量権が認められるものというべきである」というものである。
 しかも、この「政策的判断」においては、それが正しい知識に基づくものであるか否か、扇動された結果形成されたものであるか否か、衝動的なものであるか否かを問うことなく、「国民感情」までも考慮できるとされている。特に、「もっとも、・・・生活扶助基準の改定が、・・・自民党の政策の影響を受けていた可能性を否定することはできない」としながら、「しかしながら、・・・生活保護費の削減などを内容とする自民党の政策は、国民感情や国の財政事情を踏まえたものであって、厚生労働大臣が、生活扶助基準を改定するに当たり、これらの事情を考慮することができることは・・・明らかである」としている点は、裁量の範囲が際限なく広くなっており問題である。
(3)ゆがんだ貧困観
 次に、ゆがんだ貧困観に立ち、生存権という重要な人権を軽んじていることである。
 生活保護基準引下げに当たって厚生労働大臣が生活保護利用者の生活実態を考慮していないという争点についての判断部分で、判決は「原告らは、経済的な制約のある中で、衣食住といった生活の基本的な部分や社会的活動に関して不自由を感じながら生活していることは認められる」としながら、「他方で、多くの者は食事を一日三食取っており、外食をすることもある上、食事の内容が社会的に許容し難い程度に乏しいものとまでは認められないこと、一定の貯蓄をすることが可能な者もあること、映画、カラオケ、日帰り旅行などの娯楽や文化的活動を行っている者がいることなどが認められる」ことに照らすと、生活保護基準引下げ前後における「生活保護受給者の生活が最低限度の生活を下回っていたと認めることはできない」と判断している。
 その内容さえ問うことなく、「多くの者」は一日三食とっていたとか、外食をする「こともある」とか、貯蓄をすることが「可能な者もある」とか、映画、カラオケ、日帰り旅行などを「行っている者がいる」だけで、「最低限度の生活を下回っていたと認めることはできない」とは、驚くべき貧困観であり、人権感覚である。

三 今後の課題
 判決を踏まえて、改めて次の課題を解決すべきであると考える。
(1)世論、政治的な圧力
 まず、生活保護基準引下げは、生活保護利用者に対するバッシングという「世論」から始まり、判決で「国民感情」が正面から指摘されているように、「世論」に終わっている。また、勝訴判決は予算に大きな影響を及ぼすという「政治的な圧力」を無視することはできない。
 この「世論」「政治的な圧力」に負けない正しい知識を広げる運動を展開していく必要がある。
(2)社会保障制度を脆弱化させるのではなく堅固にする「攻め」 の運動
 新型コロナウイルス感染拡大により生活保護の必要性が顕在化している。と同時に、労働、医療、子育て、教育、住宅などで従来の制度の要件緩和や臨時・緊急対策が必要となっているように、社会保障制度の脆弱性が顕在化、可視化している。
 改めて、今こそ、生活保護基準の引下げは、生活保護だけでなく、生活保護基準に連動する労働、保育、教育、医療、介護、住宅、税制など、多くの市民に関わる問題であることを広く伝えていく必要性を感じる。
 また、こういう社会保障制度を実現していくべきだという積極的な提案、「攻め」の運動をしていかなければ、ナショナル・ミニマムが切り崩され、人権が踏みにじられ、憲法が破壊されていくばかりである。
 たたかいは、控訴審に移る。権利はたたかう者の手にある。是非、多くの方々とともに連携、連帯して声を上げていきたい。

 

 

共立メンテナンスによる学童保育指導員一〇人の雇止めを許さない-守口市学童保育指導員雇止め事件
                                 大阪支部  愛 須 勝 也

一 はじめに
 二〇二〇年五月一五日、新型コロナ禍で学校現場が混乱する中、大阪府守口市から学童保育の民間委託を受けた株式会社共立メンテナンス(本社東京都文京区。以下、「共立」)により本年三月をもって雇止めされた指導員一〇人が、地位確認等を求めて大阪地裁に提訴した。裁判所は自粛、記者クラブも記者レクを行わないという中、原告一〇人全員と支援者、弁護団が感染防止に務めながら提訴行動を行い、結局、マスコミ各社も取材活動を行って、新聞、テレビでも大きく取り上げられることとなった。

二 守口における学童保育の歴史
 守口市では五〇年前から学童保育を直営してきたところ、二〇一一年に当選した西端勝樹市長(大阪維新の会)は、当選直後から、市の事業の民営化を打ち出し、二〇一六年には「改革版もりぐち改革ビジョン」を発表。学童保育の民間委託も盛り込まれた。これに対して、指導員が加入する守口市職員労働組合(市職労)は守口市学童保育連絡協議会(学保協)とともに反対運動を展開。短期間に四万筆を超える署名が集まり、学童保育民営化に対する市民の関心の高さが示された。

三 維新市政下での民間委託
 このような市民の声を受けても市は民営化の方針を諦めず、二〇一八年三月には市議会で民間委託の方針が決定、同年七月にはプロポーザル(公募型企画競争方式)による委託先が選定された。ただ、市民から寄せられた指導員に対する信頼の高さを無視できず、仕様書には「指導員の採用機会の確保に配慮する」ことが盛り込まれた。四社が応募したが、共立が優先交渉権を獲得。共立は、「ドーミーイン」などのホテルや学生寮・社員寮の経営を中心に事業展開してきた会社であるが、最近は、「PKP事業」(Public Kyouritu Partnership=官民連携)と称する自治体向け業務委託事業を展開し、直近では震災で大きな被害を被った陸前高田市から包括的業務委託を受け、市中心部にホテル建設を計画するなど、全国の自治体に深く食い込んでいる。共立はプレゼンテーションの中で、共立への転籍を希望する指導員全員受け入れを約束し、現給保証を打ち出した。選定委員会の講評にも、「保護者や児童の安心確保のためにも転籍希望者の受け入れや処遇に係る具体的な提案がなされており、かつ収支計画においてはその提案が裏付けられていることは高く評価できる」とされた。共立の方針は、業務委託契約の特記仕様書でも「民間委託後も引き続き従事しようとする転籍希望者は必ず雇用すると事業者が示した決定方針については誠実に履行すること」と盛り込まれた。このようにして、二〇一八年八月二一日、共立は守口市との間で受託期間五年の業務委託契約を締結した。

四 学童保育指導員との雇用契約
 学童保育の指導員は、守口市の直用時代(公立公営)には一年更新の非常勤嘱託職員あるいは臨時職員(アルバイト)として雇用されてきたが、市当局と市職労の間では、恒常的・継続的職務を担当する非常勤職員の雇止めはしないという労使合意に基づいて、更新が継続され、大多数が経験豊かな指導員であった(七年~三五年)。指導員は、民間に雇用が変わることに大きな不安を感じたが、市当局が、実施主体は今までどおり守口市で民間業者に任せきりにはならないと言明し、保護者向け説明会でも、指導員は、保護者と児童に慕われ人間関係も築いており、引き続いて民間事業者で雇用してもらいたいと説明したこと、民間委託に反対し指導員をそのままにしてほしいというパブリックコメントに対する市のコメントでも、民間業者において雇用するように求めると表明していたことなどから、少なくとも共立が市から受託している五年間は雇用が継続されるという期待を持って、共立との雇用契約(契約期間一年)を締結するに至っている。

五 共立による運営開始と団交拒否
 共立による運営が始まって、守口市学童保育指導員労働組合(以下、「組合」という。なお、同年三月に臨時大会を開催し、組織変更)は、共立に対して団体交渉を申し入れた。共立は、団交の日程調整に応じていたが、突如、日程を白紙に戻し、組合規約を提出するように求めてきた。組合とすれば応じる必要はないが、過去にも東大阪市で学童保育を受託し、そのときも団交人数の制限などの団交拒否をして救済命令を申し立てられたことから早期の団交開催を優先して規約を提出した。ところが共立は、「(規約が)労組法に違反する」として団交を拒否し、どこが抵触するのか明らかにされたいという要求に対しては「自分で考えろ」という態度を取った。共立による運営が開始されて半年経っても団体交渉は開催されないため、組合は大阪府労働委員会に不当労働行為の救済を申し立てた。共立は、第三者が口を出すことを極度に嫌い、学保協や指導員の自主的活動にまで過度に介入してきた。組合は、学童保育の質を向上させることも活動の柱として、保護者会や学保協などと共同して活動をしてきた。そんな組合の活動を嫌悪した共立は、府労委の救済命令申立事件においても、資格審査を先行しない以上、実質的な答弁はしないと繰り返し、調査期日も欠席を繰り返した。そして、二〇二〇年四月二〇日、府労委により不当労働行為と認定され、団交応諾とポストノーティスを命ぜられた(最終陳述から二か月足らずの命令公布という異例の速さであった。共立は中労委に再審査申立)。

六 指導員一三名の大量雇止め
 共立は、二〇一九年一〇月頃から、各指導員個別に契約更新の意向聴取を行ったが、組合の役員に対しては意向聴取をしなかった。 二〇二〇年二月二〇日には、守口所長が、「上からは意向聴取はしないと聞いている。普通は一か月前までになければ継続でしょう」などと述べていた。ところが、共立は、同年三月に入るや組合役員らに対して、過去の出来事を捉えて注意書なる文書を交付した。通知書を交付された指導員は一三名、そのうち組合員は一二人で、組合四役(委員長、副委員長、書記長、書記次長)については退職の意思を表明していた二名を除き、全員に注意書が交付された。その内容は、身に覚えのないものや、「会社を批判した」「会社に反抗的であった」「会社をおちょくった」などというものが並んでいた。注意書の内容で懲戒処分を受けたものは一人もおらず、雇止めを正当化するために取って付けたものに過ぎないことは明らかであった。原告らは、注意書の撤回を求めたが、二〇二〇年三月末をもって、一三人の指導員の雇止めがされた。そのうち、一〇名が提訴したのが冒頭の集団訴訟である。「#子どもたちのところへ戻してください」。 一日も早く原告ら指導員が子どもたちのところに戻れるように力を尽くしたい

七 民間企業による公務の変質にストップを
 共立メンテナンスに限らず、全国の地方自治体では公務の民間委託(自治体民営化)が広がっている。とりわけ、二〇二〇年四月からの会計年度任用職員逃れのためか、ここ数年での民間委託が急増している。しかし、学童保育のような業務を利潤追求を第一に考える民間企業に委託すれば、今回のような事態になることは容易に想像できる。何でも民営化に価値を見いだし、公務サービスの内容を考えない維新の政治手法と共立のような企業がコラボすれば最悪の事態を生み出す。全国でのも民間委託の監視をしていく必要がある。(弁護団は、城塚健之団員、原野早知子団員、谷真介団員、佐久間ひろみ団員と当職)。

 

 

コロナ危機の陰で核軍拡が進んでいる  埼玉支部  大 久 保 賢  一

はじめに
 新型コロナの感染者数は、世界で五二一万人を超え、死者は三三万八二三二人とされている(五月二三日現在)。その内、米国は約一六〇万人の感染者、九万六〇〇七人の死者である。米国の感染者数も死者数も群を抜いている。トランプ大統領は、その原因は、中国が間違いをおかし、それをWHOが見過ごしたからだとしている。中国やWHOの対応が、迅速かつ適切であったかどうかは検証が必要であるとしても、トランプ大統領の言動が当を得ているとも思われない。今必要なことは、中国やWHOと対立することではなく、世界の英知を集約して、新型コロナ対策を講ずることであろう。そのトランプ大統領は、コロナ問題で中国と対立するだけではなく、新型核で中国への圧力を強化するという戦略を進めている。

「中国への戦略アプローチ」
 トランプ大統領は、五月二一日までに、「中国への戦略アプローチ」と題する報告書を議会に提出した。それによると、中国は、貿易・投資、表現の自由と信仰、政治的干渉、航空と航行の自由、サイバー諜報と窃取、兵器の拡散、環境破壊、世界的な保健問題などの分野で、多くの約束を果たしていない。中国の発展を封じ込めようとはしないけれど、穏健な外交が無益と分かれば、米国は公の場で中国政府に対する圧力を強化し、見合う代償を課すことで国益を守る行動をとる。中国による大量破壊兵器の使用やその他の戦略攻撃の抑止を意図した新型核の開発など、核兵器の最新鋭化を重点的に進める。すでに実戦配備されている小型核弾頭W76―2や開発中の海洋発射型巡航ミサイル(SLCM)なども、ロシアだけではなく中国にも使う、などとされている(『赤旗』五月二三日付他)。外交での成果がなければ新型核兵器の使用まで視野におく強硬姿勢を鮮明にしているのである。中国の行動に多々問題はあるけれど、「アメリカ・ファースト」で、世界の環境問題などには目も向けず、INF全廃条約やイラン核合意から脱退し、更には、五月二二日、非武装偵察機の領空内飛行を相互に認める「領空開放(オープンスカイ)条約」からの脱退を通告していることを棚に上げ、新型核兵器による脅しをかけるやり方はあまりにも傲慢で危険な行為であろう。

核実験再開の動き
 更に、五月二二日、米紙ワシントン・ポスト(電子版)は、トランプ政権の匿名の高官の話として、米国の政権内で、一九九二年以降実施していない核爆発実験を再開するかどうかの議論が行われたと報じている。同紙によると、五月一五日に開催された国家安全保障関係の会議で、ロシアと中国は低出力の核実験を実施している。両国との交渉をするうえで、米国が「すぐに実験できる」ことを示せば優位に立てるとの議論になったという。実験再開については、核兵器を維持・管理する国家核安全保障局(NNSA)が「真剣な不同意」を示したので結論は出なかったようである。こうした議論について、アメリカのシンクタンク「軍備管理協会」のダリル・キンボール会長は「他の核兵器国へ後に続くように招くもの」、「前例のない核軍拡競争の号砲となるかもしれない」としている(『赤旗』五月二四日付他)。この話し合いは今後も続くようであるが、もし、核爆発実験が再開されることになれば、「核軍拡競争の号砲」となり、核不拡散体制(NPT体制)は瓦解するであろう。「壊滅的な人道上の結末」(核兵器禁止条約)が訪れる危険性が高まることになる。

日本政府の態度
 日本政府は、二〇二〇年版「防衛白書」の素案で次のような状況認識を示している。中国については、自国に有利な国際秩序の形成を目指した国家間の戦略的競争を顕在化させようとしている。各国に医療専門家の派遣や物資の提供をしているが、社会不安や混乱を契機とした偽情報を用いた影響工作も指摘される。東シナ海や南シナ海での活動の活発化は、各国が感染症の対応に注力する中、周辺国から反発を招いている、などとしている。米中関係については、種々の懸案が存在し、相互に牽制しあっていると指摘している。北朝鮮については、内部の引き締めを図りながら、体制の指導力や軍の体制維持をアピールしている。昨年五月以降に発射されている短距離ミサイルは固体燃料を使用して通常の弾道ミサイルより低空で飛翔するので、ミサイル防衛の突破を意図している、などとしている。日米関係については、米軍内にもコロナ感染は広がっているが、安全保障任務の遂行には影響はないし、能力維持を図るとしている(『毎日』五月二三日付)。中国の危険性や北朝鮮の行動を敵視しつつ、日米関係強化を図る姿勢が顕著である。米中関係の緊張緩和や北朝鮮との融和政策などは全く問題にされていないようである。もちろん、米国の核政策についての異議も述べられていないし、核兵器依存と武力行使容認の姿勢に変化はない。

北朝鮮の動き 
 五月二四日のNHKニュースは、朝鮮労働党機関紙『労働新聞』が、金正恩委員長が中央軍事委員会の拡大会議を開催し、核戦争の抑止力強化と戦略兵器運用の強化が示されたと報じている。会議の時期や方針の詳細は報道されていないが、北朝鮮がアメリカとの交渉が進展していない中で、核兵器に依存する姿勢を強化していることは推測できる。朝鮮戦争の終結や朝鮮半島の非核化の道は険しさを増している。

むすび
 トランプ大統領は、表立っては、北朝鮮との対話は継続しながら、その陰では、新型核兵器の開発や配備を行い、核兵器使用の敷居を下げている。世界は、コロナ危機の中にありながら、政治的、軍事的対立は何ら軽減、解消されていないのである。日本政府もその軽減や解消に努力するのではなく、米国との政治的、軍事的関係の強化を進めている。トランプ政権には、核兵器を使用しないなどという選択肢はない。安倍政権にも、トランプ大統領に核兵器依存を止めるよう働きかけるなどという選択肢はない。彼らは、核兵器を必要かつ有用なものとしているのである。
 イスラエルの歴史学者ユバァル・ノア・ハラリは、『ホモ・デウス』の中で、「二〇世紀後半、人類は生産手段をめぐる論争が高じて、自らを跡形もなく消し去りかけた」としている。米ソの対立の深い部分に「生産手段をめぐる論争」があったかもしれないけれど、「自らを跡形もなく消し去りかけた」と過去形で語ることには同意できない。核兵器禁止条約は、核兵器が継続的に存在することによりもたらされる危険(事故による、誤算による、または、意図的な核兵器の爆発によりもたらされるものを含む)は、すべての人類にかかわりがあるとしている。その危険とは「自らを跡形もなく消し去る」という「壊滅的な人道上の結末」を意味している。その危険は継続しているのである。
 核兵器禁止条約の批准国は、五月二〇日のベリーズ(中央アメリカ北東部にある英連邦の国)で三七ヵ国になった。あと一三か国の批准と九〇日の経過で発効することになる。けれども、核兵器保有国と日本政府はその効力発生を妨害している。私たちの命と安全を脅かしているのは、コロナだけではなく、核兵器と軍事力に依存する政治リーダーたちでもある。コロナ対策には無能なリーダーが核軍拡競争にひた走る姿を見ていることは苦痛である。コロナとともに退場させなければならない。(二〇二〇年五月二四日記)

 

北信五岳-黒姫山  神奈川支部  中 野 直 樹

北国街道
 戦国時代に上越・春日山城の上杉が川中島に出陣したルートで、江戸時代に街道として整備された。長野・善光寺から新潟・直江津で北陸街道と接続する。旧信越本線もこのルートに敷設された。現在の国道一八号線が北国街道を踏襲したもののようだ。上信越高速道・信濃町インターを降りて直ぐの一八号線沿いに、道の駅しなのふるさと展望館がある。
 一〇月一九日深夜、この道の駅に車を止めて車中泊となった。このあたりは柏原という地域で、江戸時代の俳人小林一茶の生誕地であり、終焉の地でもある。逆境の人生を歩んできた一茶は、五〇歳のときに遺産分割争いで確保した実家の一画に戻った。そのときに「是がまあつひの栖か雪五尺」と詠んだ。一茶は雪深いこの地でも逆境の晩年を歩むこととなる。すぐ近くにある一茶記念館が詳しい。

黒姫山
 車の屋根を打つ雨音で目が覚めた。うつらうつらしているうちに夜が明け、シュラーフから出て、雨上がりの車外で背伸びをした。目の前に今日のお相手の黒姫山が座っていた。朝陽が紅葉した中腹の山肌を照らしていた。山頂部は雲の中。空は、青空と雲が激しく勢力争いをしており、私は当然、青勝利に願をかけたが、やがて黒姫山は雲に包まれた。気象予報は寒気がはいってきており、時折時雨れる、と告げていた。
 八時、標高八二〇mの黒姫高原スノーパークの駐車場からゲレンデ内を上る小泉登山道を歩み出した。出発から小雨模様で傘を差しての登山となった。
 黒姫山は、北信濃に伝わる黒姫伝説に名の由来があるそうだ。標高二〇五三mで、二百名山の一員。地元では信濃富士とよばれている、ずんぐりだが美しい山姿だ。昔、黒姫山という四股名の関脇がいたので、私はてっきりその力士がこのあたりの出身かと思っていたが、それは誤認で、この力士は新潟・糸魚川出身でその地元にある青海黒姫山という山名からとったという。ちなみにこの青海黒姫山という美しい名の山は三百名山に加えられている。
雨山に慕情なし
 連想があちこちいくのはひとえに視界がないからだ。野尻湖の眺めがよいと書かれている地図の記載もまったく役立たない。一一時過ぎに黒姫乗越の分岐を過ぎたあたりに、イノシシかシカが身体についた寄生虫を落とす泥水のぬた場があった。近寄るだけでもダニが飛んできそうで、気持ちよくない。ここから下りになって地図にはオオシラビソの森と書かれた実に暗い樹林を抜けて池塘帯になった。激しくなった雨足に往生しながら笹原を進んだ。
 黒姫山は、南から東側に外輪山のような稜線尾根があり、そこに最高点がある。この外輪山の北から西側に火口原が広がり、そこに池塘が点在し、庭園のようになっている。黒姫山全体が信濃富士とよばれるような円錐形であるが、この山上の庭園にさらに小黒姫山(御巣鷹山)と名付けられた円錐形の山が盛りあがり、池の水面に逆さ富士に映るそうだ。いわば黒姫山は親富士と子富士の二重構造となっている。ここらあたりの事前の仕込みも自分の目で確かめようもなかった。
 やがて西登山道との分岐から外輪山に上る道となった。一二時半過ぎに山頂に着いた。

冬到来のお告げ
 山頂までは人影も見かけなかったが、山頂では、九名グループと夫婦とあいさつをした。雨があがり、腰をおろして昼食をとることができた。ところが一三時頃に今度はみぞれが降り始めた。あわてて荷造りをして下山を始めた。外輪山をそのまま先に進んで黒姫乗越の分岐をめざす。地図にはこの山道はコメツガの森と書かれていた。先ほど通ってきた森のオオシラビソはマツ科モミ属の植物で、別名アオモリトドマツである。コメツガはマツ科ツガ属らしい。松ぽっくりの形が違う。
 気温が急激に下がり始めた。みぞれ雨が傘を持つ手を容赦なく濡らし、冷たくしびれてきた。黒姫乗越から往路の下りとなった。
一五時四〇分、駐車場に着き、かじかんだ手でハンドルを握って、妙高山中腹の池の平温泉の日帰りの湯にかけこんで身体を温めた。信濃町まで下りて、夕食をとり、コンビニで翌日の食材を買って、暗い夜道を走り、次の五岳をめざして笹ヶ峰キャンプ場の駐車場に車を止めた。

 

 

坂本修元団長が逝去されました  東京支部  笹 山 尚 人

 団長を務めた、坂本修団員が逝去されました。突然のお別れでした。
 私がこの報告を書く任ではないとは思いますが、所属事務所である東京法律事務所の運営委員会議長を務める立場から、団員のみなさまに対する最低限の報告をしようと考えました。

一 公式ステートメント
 まず、七月一三日に事務所が自由法曹団宛てに送付した、事務所の公式ステートメントは以下のとおりでした。
 「当事務所所員で、自由法曹団の団長を務めた、坂本修弁護士(一一期)が、二〇二〇年七月七日、関東中央病院にて逝去しました。満八七歳でした。
 坂本修弁護士は、草創期の黒田法律事務所(のちの東京法律事務所)に参加し、数多くの刑事弾圧事件や、労働事件を担当しました。また、坂本修弁護士は、第二次世界大戦の際自ら体験した軍国主義の世の中の恐ろしさの痛苦の体験を原点に、日本国憲法にある平和と民主主義・自由と人権を守り伸張し、もう一つの日本を目指してたたかう運動に、多くの労働者や市民のみなさまとともに、一貫して取り組み、生涯を捧げました。
 二〇二〇年六月二九日、坂本修弁護士は、書店で買い物中に突然転倒し、その際、後頭部を強打し、関東中央病院に搬送されました。坂本弁護士はそのまま入院し、治療を受けてまいりましたが、治療の甲斐なく、転倒による脳挫傷のため、逝去しました。
 なお葬儀については、生前坂本修弁護士が「近親者による密葬」を強く希望していたため、既に近親者によって執り行いました。香典等の御厚意は故人の遺志により謹んでご辞退いたします。
 東京法律事務所所員一同は、事務所が創設された初期のころから六一年にわたって事務所で活動した坂本修弁護士との突然の別れに動揺し、また深い悲しみの中におります。
 事務所として、なんらかのお別れの機会を設けたいという思いはありますが、新型コロナウイルス感染症拡大の社会問題のさなかでもあり、いずれ改めて皆様にご案内したいと存じます。
 坂本修弁護士が倒れた書店で最後に購入された書籍は、蜂飼耳編著「大岡信 『折々のうた』選 詩と歌謡」と、軽部謙介著「ドキュメント 強権の経済政策  官僚たちのアベノミクス2」(いずれも岩波新書)でした。文化を愛し、そして日本の現在と未来を真剣に憂いて私たちのなすべきことを考え続ける、そのために学ぶ。最後まで、坂本修弁護士らしい選択です。東京法律事務所は、坂本修弁護士の志を受け継ぎ、今後さらに平和と民主主義、自由と人権を発展させる活動に所員一同まい進してまいりますので、よろしくお願い申し上げます。最後に、みなさまの生前の坂本修弁護士とのご厚誼に、心より御礼申し上げます。」

二 坂本さんとのお別れ
(1)坂本さんの入院については、私は翌三〇日に知りました。ご家族からの連絡では、自分の名前を伝え、話もしている、今はICUにいるが一週間後には一般病棟に移る予定とのことでした。年齢が年齢ですから心配でしたが、新型コロナのためにご家族でもなかなか会えないということでしたので、私たちもお見舞いにうかがえません。ご家族と連絡を取り合いながら、快方に向かうことを願うしかありませんでした。持ち前の強い意志と、体力で、なんとか乗り切ってくれるだろうと、楽観もしていました。
 そうした中、七月七日夕刻になり、急に心臓の動きが悪くなり、そのまま逝去されたとのことでした。私は、夜になって連絡を受けました。
 なお、坂本さんが倒れたときの様子は、書店の防犯カメラに写っており、事件性はないとのことでした。
(2)坂本さんの遺言に「近親者による密葬」とあり、また、新型コロナ問題もあるためご家族などにご迷惑をかけないよう、お別れにも慎重を期さざるを得ませんでした。団員のみなさまはじめ、坂本さんと親しく付き合ってくださったみなさまに葬儀のご連絡も出来なかったことは、まことに心苦しいことでした。お詫び申し上げます。
 私は議長として、ご家族にご挨拶し、坂本さんとお別れする機会を持つことができました。坂本さんは、実に穏やかな顔をされていました。もう一つの日本を目指して奮闘されたのに、それを見ることが叶わなかったことは無念だったでしょうが、もう一つの日本を目指して全身全霊を捧げてこられたその生涯に、悔いはなかったでしょう。坂本さんの志を受け継いでたたかう。そのことを坂本さんに、誓うお別れとなりました。

三 最後に
(1)坂本さんとの思い出を語り始めれば、きりがありません。坂本さんと交流のあったみなさまそれぞれに、坂本さんの思い出があるでしょう。
 私が東京法律事務所に入所したのは二〇〇〇年一〇月。坂本さんに依頼のあった事件を「君がやってくれ」と言われて引き取ったことは何度かありましたが、事件をご一緒したことはありません。そのせいか、私には坂本さんは、「情熱の人、情勢をしっかり見極める、年齢の割に頭の柔軟な人、若い人と話をするのが大好きな人、この年齢なのに真剣に日本の未来を憂い自分のできることを奮闘する人」でした。
 故・坂本福子団員が亡くなられたあとしばらくは落ち込んでおられましたが、改憲策動を許さず、日本の未来を切り開く活動に残る生涯を捧げると考えられたときから、再び情熱もってご自身の活動に取り組まれるようになり、二〇一六年に、事務所から山添拓さんを参議院に送り出すときも奮闘されました。
(2)私が坂本さんと最後に話したのは、事務所で「作業台」と呼ばれる場所でした。倒れる一週間ほど前だったと思います。
 ここでよく坂本さんと話をしました。私が眠気覚ましをかねて郵便物や新聞などを読んで片付けたりしていると、話し相手を求めて所内をウロウロするのが常だった坂本さんが、「ちょうど良い話し相手を見つけた」とばかりに寄ってこられるのです。(笑)そしてひとしきり、「情勢討議」をするのです。
 坂本さんは、私に、「このコロナの状況で、これから日本はどうなっていくんだろうね。」「あんたがた事務所を切り盛りするのも大変だね。これからどうする?」と聞いてこられました。私は、正直に、「さっぱりわかりません。」と答えました。
 最後に交わしたのが、こんなつまらない会話だったなんて。後悔しています。もっと坂本さんと話をすれば良かった。そして、あの優れた脳髄から、この難しい社会を生き抜くためのヒントを少しでも聞いておくんだった。私たちが、社会を変える展望と情熱を持っていることを伝え、坂本さんの心を温めることに役立ちたかった。
 きっと、東京法律事務所の所員は、私と同様の後悔をしている人が多数いるでしょう。
(3)最後に、ご承知のとおり、坂本さんの生涯は、自由法曹団とともにありました。大変なもの書きだった坂本さんが、最後に取り組んだのは、団の一〇〇年史の原稿でした。この原稿は、ほとんど形になっていると聞いています。坂本さんが最後に情熱傾けた原稿が、なんとか世に出そうなので、その点はホッとしています。関係者のみなさん、どうぞよろしくお願いいたします。
 団員のみなさま、そんな坂本さんを、それぞれの胸に生きる坂本さんを、どうか一瞬でも、思ってあげてください。そして、団の活動を発展させ、平和と民主主義、自由と人権が花開く日本をつくるために、団員一丸となって奮闘しようではありませんか。私は、そのつもりです。

 

 

近藤ちとせ団員へのメッセージ  神奈川支部  田 井   勝

 二〇二〇年一月二七日、神奈川支部の元事務局長、近藤ちとせ団員(五七期)がお亡くなりになりました。
 近藤団員の特に自由法曹団でのこれまでの功績を紹介し、追悼のメッセージとさせて戴きたいと思います。

 近藤団員は、二〇〇四年一〇月に弁護士登録、横浜合同法律事務所に入所されました。
 そして二〇〇九年一〇月から二年間、団本部の事務局次長として奮闘されました。
 本部では労働問題委員会、国際問題委員会、構造改革PTを担当されました。
 当時はリーマンショックを理由とする大規模非正規・派遣切りが社会問題となっていました。そのなかで近藤団員は、労働問題委員会において、国会での院内集会、新宿駅頭での街頭宣伝、様々な意見書作成などで奮闘されました。
 国際問題委員会では、アメリカで開催されるNLG(ナショナルロイヤーズギルド)総会に参加し、持ち前の英語力を生かし、英語でスピーチをするなど活躍されました。
 構造改革PTは、近藤団員が次長時代に新しく設置されたPTです。地域主権改革の名のもとに、地方の住民自治がゆがめられるとの視点で、意見書等を発表されました。 
 また、次長就任時の二〇一一年三月、東北の大震災が起こり、その後は被災者支援、原発問題などにも積極的に活動されました。
 後輩の自分から見て、近藤団員は当時、とても積極的に、そして楽しそうに団本部の活動をされていたように思います。

 次長を退任した後、近藤団員は神奈川支部での活動に重点を置きます。
 二〇一四年一〇月から二〇一七年二月まで、神奈川支部の事務局長を務めました。前任の阪田団員が体調不良となって辞任せざるを得ず、いわばピンチヒッターとして近藤団員が事務局長に就任するに至ったものです。
 近藤団員も当時、持病を抱えていました。病気は一旦完治していたものの、いつ再発するかもしれない、予断を許さない状況にある中で事務局長の職を引き受けることは、本人自身も負担だったと思います。
 それでも、近藤団員は阪田団員が辞任した後、自ら名乗り出て事務局長に就任しました。
 同年一〇月に事務局長を辞任した阪田団員は、そのわずか二か月後に亡くなりました。
 大勢の仲間の団員が嘆き悲しむ中、近藤団員は、団支部の事務局長として、阪田団員の遺志を継ぎ、様々な運動の中心となりました。
 翌二〇一五年、通常国会で戦争法(安保法)が審議入りされ、全国でこれに抗う運動が大きくなりました。近藤団員は、当時の小賀坂幹事長と共に、「関内駅で連日、反対街宣を行う!」と決め、本当にその年の六月から九月まで、月曜から金曜の午後五時~六時まで関内駅前でほぼ連日、宣伝と署名集めを続けました。そしてその連日宣伝に並行して、国会前での総がかり行動などへの参加、各種集会への参加とスピーチ、学習会の開催、声明・決議の発表、他地域での街宣参加等々も行いました。この時は近藤団員が中心となり、神奈川支部として大きな力を示すことができたと思います。
 戦争法が成立した後も、近藤団員は運動を辞めようとしません。戦争法反対三〇〇〇万筆署名集めとして街頭での活動を続けました。
 「街頭宣伝をもっと見栄えよくしたい」、「街中を歩いている人が振り向いて、署名しやすい雰囲気を作りたい」と、宣伝にあわせて音楽を鳴らしたり、風船を作って子供たちに配ったり、ちょっと値段が高めの着ぐるみを借りて宣伝に使ったり、チラシも明るい内容に変えたり、綺麗な横断幕・旗を作成したり等々。近藤団員の様々なアイディア・工夫で、宣伝がとても華やかになり、結果的に、街を歩く多くの人から注目を集めることが出来ました(この工夫は、私たちの今の宣伝活動にも生きています)。

 近藤団員は自由法曹団の活動と並行して、弁護団事件でも奮闘されました。
 日産自動車を相手とする非正規・派遣切り事件弁護団では、同社のデザイン本部で働く派遣労働者のたたかいを担当し、派遣先との黙示の労働契約を裁判で認めさせるため、法廷内外で奮闘されました。裁判では勝てなかったけど、近藤団員の奮闘で労働委員会では画期的な命令を勝ち取り、最終的には昨年(二〇一九年)八月に和解解決を勝ち取ることが出来ました。

 建設アスベスト訴訟弁護団では、二〇〇八年の提訴時から弁護団事務局として活動を続けました。
 この裁判での原告の被害は、近藤団員の病気の症状と重なっています。原告の被害実態を聞きとるのはきつかったと思います。実際、近藤団員は「〇〇さん(原告)の話を聞くのはきついよー」とよく言っていました。それでも、近藤団員は大勢の原告の聞き取り担当を引き受け、原告と一緒になって陳述書や原稿を作り、原告個々の壮絶な闘病実態を裁判所に訴えました。

 二〇一八年一〇月、近藤団員の病気が再発し、体調を崩して一時入院となりました。
 それでも、退院して翌二〇一九年一月からは弁護士の業務に復帰し、懸命に頑張っていました。
 業務復帰した後も、体調は良くありません。歩くスピードも遅くなり、身体も痩せていきました。それでも、近藤団員は出来る限り事務所に来て、私たち後輩の作った書面を見ては意見を言い、時には添削を行い、そして、期日にも出頭していました。昨年の八月、裁判所での三時間の集中反対尋問期日にも参加しました。

 近藤団員は、その年の自由法曹団本部の五月集会も、そして一〇月の総会も参加しました。一〇月の総会は、医師からドクターストップがかかっていたと聞いています。それでも近藤団員の熱い思いに仲間も家族も負け、周りの仲間が自動車を手配して会場近くまで送迎したり、あるいは歩くときに肩を貸したりしながら、近藤団員は無事、総会全ての日程に参加することが出来ました。

 総会に参加した後の一〇月二八日、近藤団員は事務所での弁護士会議に参加し、その翌日から自宅で療養生活に入りました。
 自宅療養になってからも、「弁護士に復帰したい」、「復帰するためにトレーニングを続ける」といって、リハビリに頑張っていました。また、法律雑誌や論文、団作成の資料などを読んでいたと伺っています。家族と、そして、家にお見舞い・看病に来る仲間と共に、病気と懸命にたたかっていました。

 近藤団員は昨年末から入退院を繰り返し、年明けの一月二七日のお昼過ぎ、病院のベッドで亡くなりました。
 亡くなる前日の早朝、呼吸困難となり、昏睡状態で自宅から病院に運ばれました。それでも、近藤団員は生きるため、ベッドの上で必死に頑張りました。二六日から二七日にかけて、大勢の仲間が近藤団員の部屋に集まり、代わるがわる近藤団員を励まし続けました。
 近藤団員のお通夜・葬儀には、多くの弁護士仲間、依頼者の方、事件の当該原告・支援の仲間が集まりました。
 皆、近藤団員が亡くなったことへの悲しみと、近藤団員への感謝の思いをもって、参加されていたと思います。

一〇 亡くなってもう六カ月経ちました。
 近藤団員のいない生活に少しずつ慣れてきたような気がするけど、それでも、家裁の調停待合室にいる時、霞が関の駅の階段を昇って東京地裁に向かう時、関内駅前を通る時、事務所近くの王家餃子のお店に行った時、団本部に行ったとき…、ふとした時に近藤団員を思い出し、悲しみと寂しさを感じることがあります。
 近藤団員が残してくれた多くの財産がこの神奈川に残っています。そして、近藤団員と出会えたから、私たちも様々な活動を続けられていると思います。
 昨年、近藤団員は団支部が中心になって企画した集会でのデモのコールとして、「平和のため、九条にチャンスを!」「生きるため、九条にチャンスを!」というフレーズを作りました。正直、あんまりこなれてないものかもしれないけど、近藤団員の熱いメッセージだと思います。
 私は、この二月から神奈川支部の事務局長になりました。いつかこのコールを横断幕にでも使って、街頭宣伝やデモをやってみようと思います。
 これからも、高い空から、団の活動を見守り下さい。ありがとうございました。

 

 

 

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