第1713号 / 8 / 11

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

*三重支部特集*
○死刑再審事件(久居事件)に取り組む  伊藤 誠基
○三重と愛知・岐阜の建設残土問題  村田 正人
○差別禁止条例の制定に向けて・・・  芦葉  甫
○玉木昌美先生(滋賀支部)を偲んで  石坂 俊雄

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●奈良学園大学整理解雇事件 一審勝訴判決の報告  佐藤 真理
●「コロナ禍の社会の不安が招いたサーズ事件」  細田 梨恵
●新型コロナウイルスが暴いたもの、それとどう闘うか  中谷 雄二
●コロナ危機の中での反核運動-宗教者と議員の提言に寄せて  大久保 賢一
●迫る自由権規約の審査  鈴木 亜英
●「法曹養成制度」としての「法科大学院」-日本の弁護士はなぜ「統一修習」にしがみつくのか?
                                             後藤 富士子
●北信五岳-妙高山(1)  中野 直樹

 


 

*三重支部特集*
死刑再審事件(久居事件)に取り組む  三重支部  伊 藤 誠 基

一 久居事件とは
 現在三重支部団員三名を含む再審弁護団を結成して第二次再審請求を闘っています。特別抗告して今春で二年経過しているところです。
 久居事件とは、一九九四年三重県津市久居(旧久居市)の造成地を死体遺棄現場とする二件の強盗殺人事件の犯人として検挙され、二〇〇二年一二月津地裁で死刑判決を受け確定した濱川邦彦氏が冤罪を訴えている死刑再審事件です。
 共犯者Kが濱川氏と共謀して拳銃で殺害した、実行犯は濱川氏であると供述したいわゆる共犯者の自白で有罪とされてしまったものです。犯行と濱川氏を結びつける物証は何もありません。

二 一審死刑判決の衝撃
 一審は七年を要し、Kを含む検察側証人を反対尋問でつぶしていって、結審を迎えた段階でマスコミの関心も最高潮に達していました。当時の弁護団も僅かな不安を抱きつつも期待をもって判決期日を迎えました。なのにまさかの死刑判決。茫然です。
 途中でこんなことがありました。捜査開始当時詳細に弾丸発見の目的で見分されたはずの犯行車両(警察署保管)から七か月後にKが車両の引当て時に偶然弾丸を発見したというのです。ありえない話で、弾丸発見の日時も領置証書と鑑定嘱託書とでは違っていました。調書を作成した警察官を証人申請して主尋問をして追及しました。ところが、検察官からは反対尋問がありませんでした。なぜしないのか不思議でした。しかし、その後すぐに謎が解けたのです。傍聴していた修習生から電話があり、尋問前に裁判長と検察官が裁判官室(修習生同室)の一角で協議していたというのです。気持ちがもやもやして連絡したというのです。我々は出来レースを闘っていたのでした。
 次回公判では内部通報は当然伏せて、秘密協議をしていたと裁判長を追及したのは言うまでもありません。不退転の決意で公判に臨みました。すると、裁判長の方から定期異動時に転勤する、新しい裁判体で弁論更新手続きをして欲しいと言ってきたので仕方なく矛を降しました。

三 冤罪であること
 一審の有罪判決では、反対尋問で崩した証人の検事調書が次々と採用されていきました。調書作成時の方が記憶が鮮明、具体的であるとか、正に調書裁判の典型です。一般的、抽象的な理由で反対尋問の成果を否定できるなら、弁護人はいくら法廷で反対尋問に成功しても報われないのです。この時ほど刑事裁判の無力を感じたことはありません。
 検察の筋書きも完膚なきまでにつぶしました。なのに、大筋で一致しているとかいう理由で簡単に採用してしまいました。そもそも裁判すること自体が無駄で、やってる意味はありません。
 アリバイ立証もしました。死体遺棄現場に移動することは車を赤信号を無視して爆走しない限り不可能だと言いましたが、少しの可能性でもあればアリバイ不成立とします。名張毒葡萄酒事件でも犯行可能時間が問題となっていましたが、社会通念は刑事裁判では通用しないのです。

四 再審請求における証拠開示と再審法改正の運動
 弁護団は第二次再審請求から証拠開示を求める闘いに移行しています。警察は、Kや濱川氏が当時乗っていた車両の動きを高速道路のICに設置されたカメラ、新交通システムの画像を調べて、時系列で整理していました。濱川氏らはそれらの資料で取り調べを受けていましたが、その資料の開示に応じようとしていません。一度裁判所の釈明で検察官に調査を命じたものの、検察は手元にはないとの回答で終わらせています。あるいは、Kは濱川氏が犯行時着用していたジャンパーに硝煙反応、血糊が付いていると語っており、警察は押収したジャンパーの鑑定をしているのに、鑑定書が証拠申請されていません。
 昨年日弁連の徳島の人権大会で再審法改正に向けたシンポがありました。再審手続ではとりわけ証拠開示の整備が不可欠です。こと死刑再審にとっては一刻の猶予も許されない課題だと思います。

五 濱川氏の現状
 濱川氏は元自衛隊員です。除隊後ゲームセンター、ゲームソフト販売業を営み、暴力団と付き合いのあるKと知り合いになったことから犯行に巻き込まれてしまいました。逮捕時三五歳、今年還暦を迎えてしまいました。先日の面会でふと彼から、昔六〇歳から年金貰えると聞いたことあるが、僕は貰えないのですかと質問されました。咄嗟に、二五年以上掛けてないと駄目でしょ、と回答。後で誤りに気づき、直ぐ手紙で年金機構に照会するよう連絡しました。名古屋拘置所では軽自動車ほどの広さの独房で生活しています。隣室に奥西さんが居たこともあったそうです。他の死刑確定者と互いに顔を合わせることはありません。日中は体を横にして寝ることも許されません。それでも彼は自分の年金を考えるほどの日常を生きています。想像を絶するほどの環境下にあっても心は安定し、面会したときはいつも「僕は心配いりません」と気丈にこちらを気遣ってくれます。
 冤罪を晴らす闘争は止むことはありません。

 

 

三重と愛知・岐阜の建設残土問題  三重支部  村 田 正 人

 三重県で建設残土の問題が県内に広がったのは、二〇一八年一〇月。新聞報道で首都圏で発生する建設残土が大量に運び込まれていることが分かってからである。六本木の米軍施設「赤坂プレスセンター」掘削工事や、東京・大手町にある地上三二階・地下三階の超高層ビル建設工事、横浜市の京急金沢八景駅改築工事などで発生した首都圏の建設残土、年間二六万トンが残土条例のない三重県を標的に運び込まれていた。神奈川県の横浜港、横須賀港で積み込まれた残土は、県南部の長島港(紀北町)と尾鷲港(尾鷲市)へ陸揚げされ九カ所の造成地に運び込まれていた。三重県は、森林開発の許可を与えて、これを容認していた。
 三重県議会は、二〇一五年、伊賀地方の残土不法投棄事件を契機に、残土条例の制定を求めるNPO法人廃棄物問題ネットワーク三重の請願を採択した。しかし、三重県知事は、伊賀市だけの問題で県内全体の問題ではないとして請願採択を無視した。他方で首都圏の建設残土を持ち込ませ、無茶苦茶な造成を容認していたもので、三年間も県民を欺いてきた責任は大きい。
 NPO法人廃棄物問題ネットワーク三重は、二〇一九年一月、三重県知事に対し請願どおり残土条例を制定するように求めた。折しも三重県知事の選挙の年。鈴木英敬知事は、現地視察のうえ残土条例の新設を指示し、二〇二〇年四月から三重県残土条例が施行されることになった。
 翻って、残土問題の根源は、廃棄物処理法の産業廃棄物の定義の中に、建設残土が含まれていないことにある。建設残土は「建設副産物」と呼ばれ、排出事業者責任が元請企業に及ばない。かくては、残土処理の多層下請がなされ、最後は元請企業も知らない残土ブローカーにより不適正な処理や不法投棄が横行することになる。
 愛知、岐阜、三重の木曽川、揖斐川の近傍で起きた建設残土の不法投棄事件は、その典型である。
 Fは、伊勢湾岸道路のIC付近の養鰻池跡地に産業廃棄物を不法投棄したとして、一九九三年七月、津地裁四日市支部で懲役三年、執行猶与五年の宣告を受けた人物であるが、執行猶予が明けると、建設残土ブローカーとして暗躍を始めた。手始めは、岐阜県海津市の農地であった。農地造成と称して持ち込みの承諾をとると、実に六m近くまで残土を積み上げては放置する。岐阜県は農地法で対処するが、現地回復命令を発出するだけで、その後は手が出せない。すると、Fは、三重県桑名市と愛知県弥富市の農地でも同様の手口を使って八mと一〇mの残土の山を作り上げた。
 弥富市の案件は、残土の一部が、弥富市新庁舎の建設残土であり、排出事業者は熊谷組であることが判明している。私は、地権者の代理人として、Fを不動産侵奪罪で弥富署に告訴し、弥富市と熊谷組を相手取り、持ち込んだ残土の撤去を求める公害調停を愛知県公害審査会に申立てた。調停合意に至らないときは、弥富市と熊谷組に対し、所有権に基づく妨害排除請求の訴訟を提起する予定である。 Fに対する残土撤去請求訴訟は、津地裁四日市支部で「東京湾平均海面高を〇メートルとした基本水準点に基づく標高マイナス一・五メートルを超えて堆積している別紙残土目録記載の残土を撤去し、同各土地を明け渡せ。」との判決が出ている。

 

 

差別禁止条例の制定に向けて・・・  三重支部  芦 葉   甫

 新型コロナウイルスの蔓延に伴い、三重県内において、感染者宅への落書き、石投げ行為が発生したとの報道があった。また、営業自粛が要請されている時期に、営業をしている飲食店に対し、「営業を辞めろ」という趣旨の張り紙がなされたとの被害も起きた。新聞記者に聞くと、四日市の店も被害にあったとのことである。
 そして、新型コロナウイルスの前に、もう一つ事件が起きた。二〇一九年一二月に、四日市で最も人が通る場所で、堂々とヘイトスピーチをされてしまった。当職は、遠方の法律相談中のため、対応できなかった。駆けつけた新聞記者曰く、名古屋でヘイトスピーチをしているメンバーが大勢きていたとのことである。おそらく名古屋での対策が功を奏しているため、彼らは、自由を求めて、地方都市へ出張してきたと思われる。団員の少ない地方支部の脆さが表面化した。
 ちなみに、六六期の当職が、修習期及び年齢ともに、最若手である。当職が昨年三五歳になったため、三重支部から〝アラサー〟が〝絶滅〟した。このまま順調に年を重ねると、数年後には、三〇歳代の団員が〝絶滅〟する。

(1)このような現状に関して、個人的に親しくしている県会議員と話をした。その後、県会議員から、差別的言動を禁止する条例を作りたいとの発案があった。政治的な活動は、主に日本弁護士政治連盟三重県支部が主体となって対応しているため、現在、日本弁護士政治連盟三重県支部で議論をしている。
 現状を報告する前に、日本弁護士政治連盟三重県支部の現状を簡単に申し上げる。二〇二〇年七月一日時点で、会員は五七名(三重弁護士会会員数は、一九二名)である。団員の多数も加入している。給費制復活に向けて、国会議員のメッセージ収集を担ったのは、弁政連三重県支部である。今年は、弁政連三重県支部創立一〇周年であり、これまでの間に、各政党の議員、三重県知事との意見交換や懇親会を定期的に行っている。政党ごとに弁政連の担当者がいるため、与野党を問わず、良好な関係性を構築できており、率直な意見交換をしやすい面がある。先日は、犯罪被害者支援のための条例制定にも、会員が関与した実績もある。
(2)当職は、弁政連三重県支部の事務局次長を担当しており、今回、差別的言動を禁止する条例制定に向けて、対応をすることとなった。だが、検討をし始めると、課題が多い。
 一例を申し上げるならば、①理念条例で良いのか、それとも実効性のある条例を作るべきか、②そもそも、「差別」とは何か、③「差別」と評価を下す主体は、どこになるのか、④「差別」で禁止すべき行為は何か、⑤実効性ある手段は何か、などである。
(3)当職の検討段階に過ぎないが、少なくとも、違反者に対する刑罰権の発動には、消極的である。
 その背景は、当職自身が刑事弁護や被害者代理人を担当した経験に依拠する。すなわち、第一に、刑罰規定が定められているといっても、刑事事件が減ったという感覚がない。三重県では、自白事件、否認事件、裁判員裁判、通訳事件などの事件の性質及び弁護士経験年数による〝差別的取扱〟はない。
 第二に、捜査機関の姿勢やスキルについても、疑義をもつことがある。刑罰規定をもうけたとしても、結局、捜査がされない、あるいは、行き過ぎた捜査をするという不安が払しょくできない。

 条例で制定できる限界を考慮しつつ、上記課題を克服するために、思考を巡らせているが…、救済案について、妙案がないわけではない。すなわち、差別を受けた方は、弁護士会に対して、人権救済申立てをしていただくように促す仕組みを作ればいい。費用がかからない上に、弁護士会がオンブズマン的役割を担う仕組みは、被害者側にとって便利だろう。
 だが、この妙案の最大の弱点は、担い手である若手弁護士のマンパワーが圧倒的に不足しており、対応できないことである。若手弁護士の頭数が少ないだけではない。六〇期代は若手弁護士と言われるが、年齢別にカウントすると、三重弁護士会における三〇歳代の弁護士数は、多くないため、体力的にも厳しい時代を迎えつつある。ただ、個人的には、貸与世代という経済的格差(これも「差別」か?)を体験した一人として、差別問題について、有限のパワーで取り組めるような制度を構築できるように、頭をひねりたいと考えている次第である。

 

 

玉木昌美先生(滋賀支部)を偲んで  三重支部  石 坂 俊 雄

 玉木昌美先生が亡くなりました。誠に残念です。私の方が一〇年ほど年長ですので、順番どおりなら私の方が先で、彼は、後のはずなので、余りにも早すぎます。
 彼は、社会的に注目される事件や悪報阻止の運動に率先して飛び込み活躍をしておりました。また、読書家であり、団報執筆の常連でもありました。これから彼の活躍を知ることができなくなることは悲しい限りです。
 三重県と滋賀県は接しており、車で行けば五〇分程ですので距離的に近いということで、彼と親しくなったわけではありません。彼は、各地のマラソン大会に出場しておりました。私も走っていますので、マラソン仲間ということで親しく接しておりました。
 彼の練習方法は、昼休みの時間にびわ湖のほとりを走っているということでした。彼は、団の集会に参加したときは、必ず早朝に走っており、マラソンの練習にも情熱を持って励んでおりました。
 彼は、団の五月集会、総会、日弁連の人権大会等で会うと、何時も、その年一年間の走った大会名と記録を整理したものを私に見せて、「今年は、これだけ走りました」と嬉しそうに報告をしてくれていました。その顔は、見てくださいよこれだけ走っているのですから、成果を認めてよという気持ちが伝わってきました。
 彼は、四国の丸亀ハーフマラソンを走るのを慣例をとしておりました。私も誘われておりましたが、私の都合がつかず残念ながら同走することはかないませんでした。こんなに早く逝ってしまうのなら、時間をやりくりして一緒に走ればよかったと悔やまれます。 
 彼が、何でも全力で精進をしていたのは、自分の身体のことを分かっていたからであろうかと思えてきました。どうか、安らかにお休みください。

 

 

奈良学園大学整理解雇事件 一審勝訴判決の報告  奈良支部  佐 藤 真 理

一 はじめに
 大学再編・学部閉鎖を口実に、奈良学園大学の教授ら七名を二〇一七年三月末に整理解雇・雇止めした事件に関し、奈良地方裁判所(島岡大雄裁判長)は、二〇二〇年七月二一日、教授ら七名のうち五名に対する解雇が違法・無効であるとして、学校法人奈良学園に対して、地位確認とともに、未払賃金・賞与として総額一億二千万余円を支払うよう命じる原告勝訴の判決を言い渡した。
 なお、六五歳定年後再雇用中の二名については、七〇歳までの雇用継続の期待に合理的理由があると認めつつも、無期労働契約の労働者と比べて、雇止めによる経済的打撃は大きいとは言い難く、有期労働契約の労働者を優先的に雇止めすることには合理性があるとして、雇止めを有効とした。

二  整理解雇・雇止めに至る経過
 学校法人奈良学園は、一九八四年に奈良産業大学を開校し、二〇一四年に奈良学園大学と改称した。法人は、二〇一二年、ビジネス学部・情報学部を現代社会学部に改組し、新たに人間教育学部、保健医療学部を新設する「再編」を計画した。現代社会学部が設置できなければ、ビジネス学部・情報学部は存続させるとの教授会の付帯決議がなされたが、法人は、二〇一三年に現代社会学部申請を取り下げながら、前記付帯決議を撤回させ、二〇一四年四月からビジネス学部・情報学部の学生募集を停止し、両学部の教員約四〇名が「過員」になったとして、二〇一七年三月末までに「転退職」するように迫った。
 これに反対した大学教員ら四名が、二〇一四年二月に関西私大教連傘下の教職員組合を結成し、その後、組合員を増やして奈労連一般労組にも加入し、団体交渉等で大学教員としての雇用継続を求めて活動した。法人は、転退職に応じなかった教員を二〇一七年三月末、解雇・雇止めをした。このうち組合員八名(後に一名が取下げ)が、原告となって本訴を提起した。

三 本判決の意義
 最大の争点は、少子化を理由とする学部の統廃合の際に、学校法人は、廃止される学部(ビジネス学部・情報学部)に所属する大学教員を解雇することが許されるのか否かということであった。
 被告法人は、大学教員は、学部、職種とも限定されており、配置転換の義務はなく、整理解雇法理は適用されないと主張したが、本判決は「本件解雇は、被告の経営上の理由による人員削減のために行われた整理解雇に他ならない」として、学部閉鎖を理由とする解雇・雇止めにも、整理解雇法理を厳格かつ丁寧に適用した。
  まず、①人員削減の必要性について、ビジネス学部・情報学部の学生募集停止により大学教員が「過員」状態になったといえるとしたが、法人は六四六億円もの純資産を有している上、社会科学系の第三の学部の設置検討をすすめ、これを合理的な理由なく凍結し、整理解雇・雇止めの意思表示後に第三の学部の設置検討を再開しているが、これらの対応は大学教員削減の必要性を強調することと整合せず、法人は、原告らを「解雇しなければ経営破綻するなどの逼迫した財政状態ではなく、人員削減の必要性が高かったということはできない」と判示した。
 ②解雇回避努力については、希望退職の募集、事務職員への配置転換希望の募集などの法人の対応を認定しつつも、「原告らは、大学教員であり、高度の専門性を有する者であるから、教育基本法九条二項の規定に照らしても、基本的に大学教員としての地位の保障を受けることができると考えられる」とし、法人が、「原告らを人間教育学部又は保健医療学部に異動させることができるかどうかを検討する前提となる文部科学省によるAC教員審査を受けさせる努力をした形跡は認められない」とし、「解雇回避努力が尽くされたものと評価することは困難である」と判示した。
 ③人選の合理性についても、選考基準が制定されてはいるが、当該選考基準を運用する前提となるAC教員審査を受ける機会を付与していないから、当該選考基準を公正に適用したものとはいえないと判示した。
 ④手続の相当性についても、奈良県労働委員会において、二〇一六年七月に組合と法人が受諾したあっせん案(「労使双方は、今後の団体交渉において、組合員の雇用継続・転退職等の具体的な処遇について、誠実に協議する。」)を踏まえた「組合との協議が尽くされたと言い得るかは疑問が残る」と判示した。
  学部閉鎖に伴う整理解雇を無効とした淑徳学園東京地裁判決(二〇一九年五月二三日)と同様に、大学教員に対し、希望退職優遇制度や事務職員ないし初等中等学校教員への配置転換募集等を提案するだけでは、大学教員としての雇用継続とはならず、「解雇回避努力としては不十分」と判示した本判決は、大学教員としての雇用確保努力を尽くすことを求めたものと評価できる。

四 労働委員会での不当決定を乗り越える
 組合は、裁判と併行して、奈良県労働委員会に不当労働行為救済申立てを行った。労働委員会の救済命令をベースに裁判でも判決や和解で勝利していくのが通例であるが、本件では、不誠実団交が認められただけで、不利益取り扱い及び支配介入の不当労働行為が棄却されるという想定外の不当決定を受け(二〇一九年一月)、これを乗り越えるために、主張立証を重ねてきた。

 被告法人は予想どおり控訴し、原告側も雇止めの無効が認められなかった二人が控訴し、控訴審に舞台が移ることになった。原告団・弁護団及び組合は、全面勝利を目指して、引き続き奮闘していく決意である。
 弁護団は、大阪の豊川義明・鎌田幸夫・中西基の各団員、西田陽子(民法協)と私の五人が担当した。(二〇二〇年八月一日)

 

 

「コロナ禍の社会の不安が招いたサーズ事件」  京都支部  細 田 梨 恵

 新型コロナウイルスが流行し、世間が不安な状態となっていた二〇二〇年四月頃、ある男性が「サーズだからうつる」とコンビニ店員に告げ、店を消毒させたという偽計業務妨害罪の疑いで逮捕された。私はこの話を最初に聞いた時に、正直耳を疑った。なぜ今サーズなのか?と。
 接見にて被疑者に聞いた事件の顛末は次のとおりであった。被疑者は、「サーズ」とは一言も言っていない。事件当時、被疑者は、結膜炎(はやり目)に罹患していた。はやり目は、伝染力が非常に強く、結膜炎に罹患している目を触った手を介して、第三者へ伝染する。そのため、被疑者は、コンビニで買い物をした際に、自分が触ったお札や小銭を介して、店員に結膜炎が伝染しないようにと思い「触ったらうつる」と言い、お札や小銭に消毒液をかけるように店員に頼んだ。そして、店員が消毒液を小銭等にかけたことを確認し、安心した被疑者はそのまま店を立ち去った。しかし、店員はこの「触ったらうつる」を「サーズだからうつる」と聞き間違え、店舗全体を消毒するに至り、後日被疑者は出先で警察官に逮捕された。
 コンビニのレジ付近には当然防犯カメラが設置されており、被疑者の発言内容については記録がされていた。弁護人らが、検察官に面談をした際に、防犯カメラの映像を確認した。しかし、明確に被疑者がサーズだと言っているとはまったく聞き取れなかった。検察官としては、この防犯カメラの音声を鮮明化して確認する必要があると述べていたが、音声を鮮明化した結果、最終的に被疑者は嫌疑不十分で不起訴処分となった。
 コンビニ店員が被疑者の言葉を聞き間違えたこと自体を強く責めることはできない。しかし、警察及び検察官は、そのような間違いが介入するおそれがあることを前提に捜査を進めるべきであることは言うまでもない。特に本件は、コンビニの防犯カメラという客観的証拠が存在するのであるから、その内容を確認したうえで、捜査を進めるべきであり、最初から被疑者を逮捕・勾留する必要はない。身柄拘束は、被疑者の生活に大きな影響を与えるにも拘わらず、安易に身柄拘束がなされている現状に危惧をおぼえる。現に、本件の被疑者は、身柄拘束を受けたことを理由に、当時勤務していた就労先を辞めざるを得なくなった。また、コンビニだけでなく、被疑者がコンビニへ行く以前に立ち寄った別の店舗での引き当たり捜査も行われた。その周辺に住んでいる被疑者としては、生活圏で引き当たり捜査が行われたことにより、今後の生活にも支障が生じる。防犯カメラの映像で、被疑者が何を言っているのか鮮明に聞き取れず、本当に「サーズ」と言っていたか、まったく確認すら取れない段階で、このような不必要な捜査を行う必要は一切なかったはずである。以上のような不必要な身柄拘束や捜査によって、被疑者の生活に多大なる影響を与えるような捜査方法には強い憤りを感じる。
 また、本件は逮捕された段階で実名報道されている。現在もインターネットを検索すれば、被疑者の実名が晒されている。実名報道をした報道機関に対しては、不起訴処分となったことについて情報提供し、報道するよう求めた。嫌疑が定まっていない逮捕段階において実名で報道されることが通例である点も問題であるが、その後の処分結果について報道がなされることはほとんどない。逮捕された段階の情報は基本的に捜査機関が有している情報であり、被疑者の言い分や主張は表れない。そのような偏った内容のみを報道し、最終的な結論については伝えないという〝やりっぱなし報道〟も根深い問題がある。そのような報道が、逮捕された人=犯罪者というイメージを世間に植え付け、被疑者の名誉を回復不能な状態とさせる要因になっており、刑事事件に対する報道の在り方に対して問題提起をする必要性を強く感じる(京都第一法律事務所 細田梨恵、高木野衣)。

 

 

新型コロナウイルスが暴いたもの、それとどう闘うか
           愛知支部  中 谷 雄 二(秘密法と共謀罪に反対する愛知の会・相談役)

一 新型コロナウイルスが明らかにしたもの
 新型コロナウイルスは瞬く間に世界中に広がり、甚大な被害を生み出した。同時に私たちの国や社会の実情をあぶり出した。第一に、人間が野生動物の生存テリトリーを無秩序に犯したためこの感染が起きたことがウイルス学者から指摘されている。新自由主義により推し進められた資本のグローバリズム、つまり資本主義による地球開発の過剰が遠因である。第二に、新自由主義によって、貧富の格差が拡大し、各国の医療制度や公衆衛生の施設・制度を「不要不急」の効率的でないものとして病院と病床の急減させた結果、先進国の医療崩壊が起きた。どの国も最も経済的に貧困な層に被害が集中している。富の集中を進めた結果、貧困層は「自衛手段としての水と石鹸での手洗いを確保できない住居が世界の四割」に達し、アメリカの感染者率と致死率は貧困層において顕著に高いと報じられている。第三に、外に向かっては、各国が新型コロナウイルス対応のために国境を閉じ、排他的な一国主義的対応をとり、内に向かっては、非常事態・緊急事態として、感染防止のためにとしてロックダウン(都市封鎖)をはじめとする強権的な手段を執り、平常時であれば到底認められないような国民監視が行われた。第四に、新型コロナウイルスによる生命侵害の危機を理由とした措置は、人類学において人類共通のルールとして知られる死に行く人との別れの場すらも奪い、我々がそれを易々と受け入れてしまった。

二 わが国における新型コロナウイルス対応と問題点
(1)わが国の新型コロナウイルス対応はどうだったか。この間の新自由主義的対応によって、国民が認識しないところで保健所の統合、医療設備・医療体制の脆弱化をまねいていた。新型コロナウイルスへの初期対応の遅れは、オリンピックの開催に固執したことにも起因するが、今まで進めてきた医療体制の弱体化、それを覆い隠してきたことにあった可能性がある。今年の四月、わが国のICUがドイツの六分の一、イタリアの半分ということが新聞に報じられた。連日のようにマスコミに登場する専門家は、「医療崩壊」を防がなければならないと言い、それを理由にPCR検査を受けるためのハードルを上げていた。その時期、「三七・五度以上の発熱が四日以上続くこと」などの厚労省の検査基準は毎日朝から晩までマスコミで流れ続けていた。ここへ来て加藤厚労相は、誤解だという。その結果、人命が失われたが、その重みを感じてもいない。国民の生命を守るという最も重要な部分を、経済的効率化の名の下で削ってしまったことが明らかになったにもかかわらず、政府は病院の統合などの医療の切り捨て政策の見直しを撤回しようとしていない。
(2)政府の対応が場当たり的で思いつきによるもので、全く信頼できないことは、アベノマスクや一斉休校問題で明らかになった。その後も自粛は求めるものの、「自己責任」論により経済的補償をしようとせず、高いハードルをもうけた三〇万円の給付金を一律一〇万円の給付金に改めた後も、これは、「補償」ではなく経済政策と位置づけられた。持続化給付金は未だに届かないというだけでなく、それを電通関連の一般社団法人に丸投げし、そこを通して電通に再委託、子会社に再々委託されるという。緊急の国民の生業を支えるためのお金もなんと二〇億円も中抜きされるなど、身内の金儲けに使われていることが明らかになった。国民の生活を支えるための目的で支出される税金を自民党の関係者(電通は自民党の広告宣伝を一手に引き受けている)の儲けの道具にするなど許されない。まさに惨事便乗型資本主義そのものである。
(3)政府の政策の柱は、コロナ後の経済政策にあった。目前の命を救うための検査態勢の確立やこの国に暮らす人々の生活を支えるための政策ではなく、コロナ後の景気浮揚策としての「GO TO キャンペーン」などばかり。目の前で死んでゆく人をなんとかしろ!それに全力を尽くせという時に、政府がやることがこれか。これが国民の生命や暮らしに責任を持つ政府や首相のやることか。しかも安倍首相は、この状況でも、憲法改正に対する執念を隠そうとしない。憲法に緊急事態条項を盛り込むことが必要だとして、「緊急事態」宣言が出されたのだから憲法に対する緊急事態条項の必要性が明らかになったのだという。法律に基づく緊急事態宣言と憲法上政府の独裁を認める緊急事態条項は全く違う。
(4)コロナ禍で、要請のみで自粛した多くの人が家にとどまり、その結果、感染者数の拡大を抑えられた。その陰で自粛警察に見られるように、自粛要請に従おうとしても従えない人たちをも敵として警察に通報したり、貼り紙をしたり、摘発するなどの行動に出た人々がいる。自粛に伴う責任は、他者に対して感染させないという感染拡大の防止のための責任感に基づく将来に対する責任である。行った行動に対して、その責任を問われる過去に対する責任ではない。補償もなしに自粛を強制されることは生きる道を絶たれる人々を生み出す。そのような事態に対する想像力を欠いた行動である。新型コロナウイルス問題は、日本社会にある「差別」と「排除」を浮かび上がらせた。差別と排除を許さない声を上げることが必要である。

三 私たちはどう闘うか
 他国の報道を見聞きし、政府と国民との信頼感の違いを感じた。政府が情報を隠蔽し、情報操作をし、政府の発表の情報自体の信頼性を疑わなければならない時、国民は、政府の施策に対して安心感を持てない。国が私たちの命や生活を支えてくれるという安心感など今のこの国で持てよう筈がない。①私たちが要求すべきことは、民主主義国家としての大前提である、情報を開示せよ。何が議論され、どのように政策が決定されているのかを明らかにせよということである。情報公開法は、情報非公開法となっている。それが民主主義国家としてのこの国を弱体化させていることを政府や官僚、司法は知らなければならない。②次に緊急事態を理由に憲法改正をはかるなどの火事場泥棒のような行為を許してはならない。緊急事態条項は、憲法秩序を停止して政府に独裁的権限を与えるものである。今の政府にそんな権限を与えられるわけがない。③私たちの側にも新たな工夫が求められている。一つは、この間、集会やデモを行うこともできなかった。ソーシャルディスタンスという言葉には、差別や排除がともなうという批判がある。フィジカルディスタンス=肉体的な距離というべきだろう。私たちがやらねばならないのは、「感染防止のために肉体的距離はとろう」、しかし、よりいっそう社会的には緊密に結びついて、この不正な動きに対抗していこう。そのためにインターネットを通じた会議や集会のシステムなど新しい手段を工夫しよう。しかし、それだけでは足りない。人間はあつまること集うこと寄り添うことをもとめる存在である。人の感情や熱意は直接会ってこそ伝わる部分がある。本質まで奪われてはならない。政府は、「新しい生活様式」をいうが、私たちの日常まで政府が決めるのはおかしい。我々の日常は、我々の最も根底にある抵抗の拠点である。これを国に決めさせるわけにはいかない。感染状況を勘案しながら、折々の集会やデモを開催すべきである。④プライバシー問題は、今後の重大な課題になる。感染状況が深刻になったときに、新たな監視のアプリや制度が導入される可能性がある。その時重要なのは、誰がそれを担うのか、どのような体制で実施されるのか、集めた情報を誰がどのように活用し、何時、どうやって破棄するのかまで明確にさせるべきである。それを今の政府ではなく、独立の民主的に選任された専門機関によって人権を守る形で行わせなければならない。今こそ、私たちに民主主義が問われている。この国でそれを実現する時である。
※「秘密法と共謀罪に反対する愛知の会」機関紙より転載

 

 

コロナ危機の中での反核運動-宗教者と議員の提言に寄せて    埼玉支部  大 久 保 賢 一

はじめに
 四月にニューヨークで予定されていた核不拡散条約(NPT)再検討会議や原水爆禁止世界大会は、コロナ危機の影響で、延期あるいは中止となった。これらの会議は、二〇一七年七月に採択された核兵器禁止条約の年内発効に向けての跳躍台として期待されていただけに、その延期や中止は残念である。
 ところで、核武装国はコロナ危機の陰で核軍拡競争を再開している。特に米国は、二〇一八年の核態勢見直し(NPR)後、実戦での使用が可能な低出力の核兵器の開発や配備を進めながら、通常兵器による攻撃に対しても核兵器による反撃を想定するなど、核兵器使用の敷居を低くしている。ロシアや中国も、核兵器廃絶どころかそれへの依存を強めている。
 けれども、内外の反核勢力は、核武装国や核依存国の態度にめげることなく、「核兵器のない世界」に向けて、着々と運動を進めている。ここでは、四月二七日に合意された「世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会」と「核軍縮・不拡散議員連盟(PNND)日本」の共同提言を紹介しておく。

二つの団体

 世界宗教者会議日本委員会は、平和で安心な社会を実現するために、世界の諸宗教のネットワークを活用し、国際協調、核兵器廃絶・軍縮、環境問題、難民問題、紛争変容・予防、災害復興に積極的に取り組んでいる組織である。会長は庭野日鑛立正佼成会会長、事務局長は篠原祥哲さん。核軍縮・不拡散議員同盟日本は、核軍縮を政策に反映させるための国会議員による国際ネットワーク(PNND)の日本支部であり、超党派の議員連盟である。会長は空席、副会長は近藤昭一衆議院議員、事務局長は鈴木馨祐衆議院議員である。この両団体が、「核兵器廃絶に向けた共同提言文」を発出している。もともと、この両団体は、核兵器廃絶に向けての政治・立法的アプローチと倫理・道徳的アプローチからの協働が重要として、二〇一五年と二〇一九年に共同提言文を発出してきたが、核兵器にかかわる国際情勢が危機的状況あるとして三回目の提言文を出したのである。

情勢認識
 提言の情勢認識は次のとおりである。被爆者の筆舌に尽くしがたい努力にもかかわらず、一万三八〇〇発余りの核兵器が現存している。新たな核兵器開発の姿勢を示す国も存在している。終末時計は一〇〇秒前とされている。一部の国々に自国優先主義がはびこり、多国間における核軍縮交渉の枠組みが行き詰っている。「他者と自己の幸福は本質的に共有されるものである」という哲理は、核兵器廃絶への地球市民の共感を呼び起こし、世界の為政者に対しては、核兵器が絶対悪であるとのメッセージとなっている。核兵器のない世界を創造するという崇高な理想は、倫理的・道徳的側面にとどまらず、法的な側面からも追求されなければならない課題である。だからこそ、宗教者と政治家が大きな役割を果たさなければならない。

核抑止政策の再検証を
 提言は、日本政府に核抑止政策の信ぴょう性の再検証を求めている。その理由は、核兵器保有国間の不信感の高まり、新たに核兵器の保有をもくろむ国や管理体制や透明性に問題のある国、低出力の核弾頭の開発と配備により核兵器使用の敷居が低くされている可能性、更には、核の誤爆、盗難、事故の可能性の高まりなどの状況からして、本当に人々の生命や生活を守るために必要な政策が何なのかを検証すべきである、ということにある。そして、国会議員と宗教者は、再検証のための対話の場を作ることに努めたいとの決意が述べられている。また、その再検証に際しては、「国家が最後の手段として核兵器を使用することが合法的であるか、また適切であるか」という問題と、「三番目の被爆都市が生まれること」を許容する可能性がある非人道的事態を招きかねないことを念頭に置くべきであるとしている。

核兵器禁止条約について
 核兵器禁止条約については次のように述べる。核兵器禁止条約は近い将来発効が見込まれている。日本の世論の多数は「参加すべき」としている。日本政府は、この条約が「究極的な目標としての核廃絶」に有用かどうかも含め検討すべきである。国際社会は、日本がこの条約を支持することを期待している。条約支持へと即座に方針転換できないまでも、発効後一年以内に召集される「締約国会議」にオブザーバーとして出席することを強く望む。禁止条約は、NPTと対立するものではなく、核軍縮義務を補完するものであり、「究極的な目標としての核廃絶」を実現するために不可欠な法的枠組みである。核廃絶に向けた具体的な方策を講ずることを強く要求する。

取り組むべき喫緊の諸課題
 提言の結びはこうである。我々は、「ヒバクシャ国際署名」に奮闘する被爆者に敬意を表し、連帯を強化する。政治的不安定要因が存在する北東アジア地域において「非核兵器地帯構想」実現に努力する。AIロボットの開発、宇宙空間の軍事利用、新型ミサイルの開発などに警鐘を鳴らす。科学技術が兵器開発などに利用される状況を防止する。人類は戦争の歴史をたどってきたといわれるが、人類は、戦争を管理、規制、批判しながら「戦争の違法化」に挑み続け、「非戦」の思想にたどり着いた。その過程は、平和な社会実現のための希求と努力の積み重ねであった。我々は、この歴史の歩みを、前進させるべく、「核兵器なき世界」の実現に力を尽くす。

外務省の対応
 外務省のHPによれば、五月一一日、近藤昭一議員連盟副会長から鈴木外務副大臣に「提言文」が手交され、鈴木副大臣は、共同提言の発出に謝意を表明し、提言をしっかり受け止め、唯一の戦争被爆国として、核廃絶を目指すための取組を継続するとともに、日本が現実に直面する状況も踏まえて、日本国民の生命を守っていくための取組を行っていく旨述べました、とされている。いつもの紋切り型である。ところで、この副大臣は、議員連盟の事務局長である鈴木馨祐衆議院議員である。一見出来レースのようであるが、鈴木さんのような方が、外務副大臣をやっていることは、私たちにとって幸運といえるかもしれない。両団体の提言書作成には鈴木さんも関与しているだろうから、ぜひ、この提言を外務省の政策に反映し、核抑止論から脱却して欲しいと思う。

感想
 私は、この提言を読んで、感動を覚えた。その理由はいくつかある。まず、国会議員と宗教者が、「核兵器なき世界の実現」という共通の目標に向かって、政治・立法アプローチと倫理・道徳的アプローチというそれぞれのアプローチで協働し、政府に核抑止論の再検証を求めていることである。また、被爆者の思いとたたかいに敬意を持ち、連帯していることもうれしい。更には、核兵器禁止条約の到達点を十分に踏まえた上で、「締約国会議」へのオブザーバー参加という具体的な提言をしていることである。そして、「北東アジア核兵器地帯条約」や科学技術の悪用防止にも触れられている。
 私は、両団体の存在は承知していたけれど、共同での提言は知らなかったので、より新鮮に受け止められたのだろうと思う。それぞれの特性に応じて、核兵器のない世界の実現に向けての協働が求められている中で、この両団体の提言は、同じ目標を掲げる多くの団体と個人を励ますものである。私も、核兵器のない世界を目指す一人の法律家として重く受け止めている。
 ところで、提言は、人類は「戦争の違法化」に挑み続け、「非戦」の思想にたどり着いたとしている。私もそう思う。けれども、私としては、その「戦争の違法化」や「非戦」の思想が、日本国憲法に結実していることにも触れて欲しかった。戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認という徹底した「非戦」の思想が憲法規範とされたのは、核のホロコーストが一因である。「核の時代」に紛争を武力で解決しようとすれば、人類の破滅をもたらす。その破滅を避けようとすれば、戦争と戦力を放棄しなければならないという論理である。私は、核兵器のない世界を構築するうえで、日本国憲法は極めて有用だと考えている。日本国憲法は徹底した非戦の思想を基礎として、政治権力を拘束するものだからである。世界から戦争がなくならなければ核兵器はなくならないわけではないが、「非戦」の思想を徹底している日本国憲法は、核兵器のない世界を求める私たちの大きな拠りどころである。そのことを両団体と共有したいと思う。
(二〇二〇年五月三一日記)

 

 

迫る自由権規約の審査  東京支部  鈴 木 亜 英

 国際人権規約のひとつである自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)の日本政府報告の第七回定期審査が迫っている。世界的なコロナ禍のなか審査日程は不確実さを伴うが、今年一〇月一二日から一一月六日の四週間で開催される第一三〇会期で審査が行われることは、今のところ予定通りのようである。
 自由権規約批准国一一六ヶ国の人権状況を八年間かけて順次審査するという新しい審査方式のなかで、日本は巡り合わせもあるが、最初の被審査国一二ヶ国の一角を占めることになった。審査は原則一日程度であるが、これまでの経験では日本審査は一日半程度を要している。政府報告から始まり、審査機関である自由権規約委員会から質問書とも云うべきリストオブイッシュー(LOIと略す)が発せられ、各国政府がこれに答えるというこれまでのやり方は改められ、LOIへの書面回答からスタートすることになった。それもLOIをめぐるやり取りはオンラインで行われるようであるから、効率化が計られる一方で、見え難さも増すことになるかもしれない。
 さて、変わったと云えば、NGOのレポートにも字数制限が導入された。上限は一万語(words)となり、これまで無制限であった字数は狭い枠内に閉じ込められることなった。

 自由法曹団は、国連NGO資格を有する国際人権活動日本委員会に結集した諸団体とともに、以下の一〇テーマの共同レポートを準備している。列挙すれば、次のとおりである。
(1)第一選択議定書(個人通報制度)の早期批准の促進
(2)刑事再審手続きにおける証拠開示の徹底
(3)国歌・国旗の強制中止
(4)治安維持法犠牲者への賠償
(5)教科書検定制度の改革
(6)JAL差別的不当解雇問題の解決
〈7〉消防職員の団結権の保障
(8)レッドパージ犠牲者への賠償
(9)「公共福祉」を理由とする人権制約の撤廃
(10)障害児の性教育に対する妨害中止
 国際人活動日本委員会としては和文原稿はすでに七月一二日に締め切り、翻訳作業に入った。英文原稿は八月一二日を締め切り期限としている。
 いずれも、問題の明確化と分かり易すさを主眼としたレポートにまとめることを目指しているが、これだけのテーマを提出団体ひとつにつき、一万ワーズ限定は非常に厳しいと云わざるを得ないが、制限内で意を尽さなくてはならない。

 これまで私たちは日弁連などともに、日本政府の審査日には数十人がジュネーブ国連本部を訪ね、自由権規約委員会の委員と日本政府とのやり取りを傍聴してきたが、今回は渡航制限があるため、日本―スイス間の往来も待機期間などからままならず、従来の盛り上がりや賑わいは望めそうもない。しかし、市民的及び政治的権利といった、団の取り組むべきテーマのぎっしり詰まった自由権規約審査への注視は決して疎かにできないだけに悩ましい。状況の変化があれば、またお伝えしたい。

 

 

「法曹養成制度」としての「法科大学院」-日本の弁護士はなぜ「統一修習」にしがみつくのか?
                               東京支部  後 藤 富 士 子

一 「司法試験」と「法曹養成」の関係
 日本では、法科大学院が創設された前後を通じて、司法試験は司法修習生採用試験であり、法曹養成の基本は「統一修習」に委ねられている。それは、司法試験受験資格として体系的な法学教育を受けたことを要件としないことからも明らかである。ちなみに、法曹養成制度として法科大学院が創設されたにもかかわらず、統一修習制度を維持したために、司法試験を法曹資格試験とすることができず、移行期の旧試験、その後の予備試験というバイパスを設けたことによって、法曹養成制度としての法科大学院の存在意義は決定的に減殺されることになった。現状をみると、法科大学院は、司法修習生に採用されるためには「無駄」でしかなくなっている。翻って、法科大学院を法曹養成の基本制度にするなら、統一修習を廃止しなければならなかったのだ。
 このことは、旧制度が日本とほぼ同様であった韓国の制度改革を見ればよくわかる。韓国ではロースクールの導入によって、二〇一七年に司法試験制度が完全に廃止され、二年間の司法修習制度も二〇二〇年で終了している。

二 韓国のロースクール制度
 韓国では日本より早く一九九五年頃からロースクールをめぐる議論が始まった。二〇〇七年になって法学専門大学の設置・運営に関する法律が制定され、二〇〇九年に二五のロースクールが開校し、同年八月頃に弁護士試験法が制定されてシステムが完成した。つまり、ロースクール修了者は弁護士試験を受けて弁護士資格を取得するのである。このような全く新しい法曹養成制度が導入されたのは、従来の旧制度に対する根本的な批判があり、それを克服するためであった。旧制度における司法試験は体系的な法学教育を受けたことを受験資格として求めていなかったため、一発試験による選抜機能が振るわなかったことが挙げられている。しかも、司法試験の合格者数は大法院に設置された司法研修院の定員数に制限されていたため、大勢の若者が合格率三%前後の試験を長期受験することになり、国家的人力消費がもたらされた。さらに、大学の学部教育が荒廃化し、豊かな教養に基づいた問題解決能力を持つ法律家の養成は不可能であると認識されるに至った。一方、一九九〇年代に入って、国際化にうまく対応ができる多数の弁護士の育成が大きな課題として登場した。こうした背景からロースクールが導入されたのである。
 まず、法学部との連結を遮断するために、法学専門大学院(ロースクール)を設置する大学は法学部を廃止しなければならない。したがって、ロースクールを設置した二五の大学には法学部はない。ロースクールを設置しなかった大学の場合は法学部が残っているが、その規模はあまり大きくない。
 設置については事実上許可主義であり、地域間均衡を考慮し、非首都圏のロースクールは入学定員の一定割合以上を当該地域の地方大学の卒業者から選抜しなければならないとされている。また、ロースクールの定員の総数を決める総入学定員制度があり(現在まで毎年二〇〇〇名)、個別ロースクールの入学定員も一五〇名を上限としている。
 修学年限は一律三年以上とされ、入学選考要件として、法学部に関する知識を評価する試験を活用してはいけないと規定されている。また、入学定員の五%以上を身体的、経済的、社会的な弱者のための特別選考によって選抜しなければならない。そして、授業料の二〇%以上を奨学金として学生に戻すこととされている。
実務修習は各職域別に実施することになっており、判事になる場合は法院で、検事になる場合は検察で、弁護士になる場合は開業のために六か月間の法律事務に従事するか、または、大韓弁護士協会による修習課程を履修することが必要とされている。

三 韓国の弁護士試験制度
 旧制度の司法試験のときは日本と同様に判事、検事、弁護士の能力を検定する試験として位置づけられていたが、ロースクールの導入によって「弁護士試験」に変わった。弁護士試験の目的は弁護士に必要な職業倫理や法律知識など、法律事務遂行能力を検定する試験として位置づけられている。
 受験資格は、法学専門大学院修士学位の取得あるいは取得予定の者で、法曹倫理試験もあり、法曹倫理科目の履修が受験資格とされている。試験は筆記試験で、選択型と論述型の試験問題を混合して出題され、公法、民事法、刑事法以外に専門法律科目を一つ(これは論述型のみ)試験する。この筆記試験のほかに法曹倫理試験に合格することが弁護士になる要件である。
 なお、経過措置として二〇一七年まで旧制度の司法試験が実施されたが、日本と異なり、法学専門大学院の入学者や卒業者は司法試験を受験できないとされていた。

四 日本のロースクールの起死回生策
 韓国のロースクール制度の意義の第一は、「新しい法律家」の養成のための国家的な合意が挙げられる。二一世紀の法治国家を支える将来の法律家は、良質な法的サービスを提供するために豊かな教養、人間と社会に対する深い愛情や理解、自由・民主・平等・正義を目指す価値観に基づき、健全な職業倫理観と専門的な知識や能力を身につけ、世界的な競争力や多様性を兼備しなければならないとされたのである。第二に、「試験による選抜」から「教育を通じる養成」へと変わったことである。
 そして、その成果は顕著である。ロースクールに入らなければ法律家になれないうえ、ロースクール設置大学には法学部がないから、法律家になろうとする者は自分が専攻する学部教育をきちんと履修することになった。これは、多様な専攻の法律家を輩出している。また、地域均衡政策や弱者特別選考枠などにより、多様性が増大している。さらに、新しい職域の開拓により、社会の色々な分野へ進出しているし、国際法務にも力強い進展がある。
 ところで、日本でも法科大学院が設置された際には、韓国と同じような問題意識と目的意識があった。それにもかかわらず、その制度設計において法曹養成をロースクールに一本化しなかったため、司法試験制度は予備試験がのさばり、「元の木阿弥」である。このままでは、日本の司法・法曹界は衰退の一途をたどるしかない。それを回避するためには、司法修習生採用試験である現行司法試験を「法曹(弁護士)資格試験」に転換する以外に方策はないように思われる。それは「統一修習」の終焉を意味しているから、日本の弁護士が「統一修習」を脱却できるかにかかっている。
※韓国の制度について、二〇一九年一月一一日に開催された「ロースクールと法曹の未来を創る会」主催のシンポジウム【国際法務戦略から見た法曹養成―中国・韓国に後れる日本―】の報告書を参考にしました。「LAW 未来」でHPがあります。
〔二〇二〇・七・六〕

 

 

北信五岳-妙高山(1)  神奈川支部  中 野 直 樹

笹ヶ峰
 一八年一〇月二一日午前五時、車のライトと音で目が覚めた。次々と登山客の車が駐車場に入ってきた。初冬の冷え込みで、我が宿泊所となった車のフロントガラスは霜で真っ白となっていた。黎明の淡い光をたよりに冷え切ったコンビニ弁当を喉に押し込み、ドリップコーヒーで少しぬくもった。六時過ぎに次第に朝の光が力を増した。昨日の雲は退散し、真っ青な秋空に恵まれそうな予感に気持が充填してきた。出発の荷造りができた六時半、標高一三〇〇mの駐車場に朝陽が差し込み、周囲の紅葉した木々を照らし出した。
 山を抱える県では山の稜線が県境となることが多いが、この地で新潟県と長野県の境は妙高山と黒姫山の間を流れる関川が県境となり、その上流に笹ヶ峰がある。笹ヶ峰は新潟県妙高市の陣内である。
 登山口で登山届けを出し、協力金五〇〇円を支払って落ち葉が積もる木道歩きが始まった。ゆるゆるした上りが延々と続く木道の周囲は、黄色を主力とした紅葉の盛りの絶頂期の様子。もっと陽が高くなり、陽光に照らされるとそれこそ燃えるような錦絵の樹間になるだろうと感じた。

紅葉の森と冠雪の山々
 一二曲がりの急坂のターンを繰り返しているとぐっと高度が上がった。眼下に見える山々の肌に光が降り注いで錦の衣を羽織ったような絵となり、その先に頭頂部が冠雪した白馬三山が見えた。富士見峠の分岐で、正面の黒沢岳をはさんで、右にいけば今夜の宿泊・黒沢池ヒュッテへ、左手は高谷池ヒュッテとなる。私は今日火打山に登る計画なので、左手に向かった。
 黒沢岳の巻き道の途中で針葉樹林が切れ、火打山、焼山の連山が一望された。上部に雪が積もっていた。昨日、黒姫山でみぞれ時雨に見舞われたが、標高が四〇〇mほど高いところでは降雪となっていた。
 九時三〇分、高谷池ヒュッテに着いた。私はここに宿泊をしたかったが、完全予約制で、電話をしたときにはすでに満杯だった。小屋の前は休憩する登山客でにぎわっていた。私も荷を解き、コーヒーを煎れて、アンパンをほおばった。ヒュッテは草紅葉がおわった高谷池のほとりにあるが、テント場には色とりどりのテントが並んでいた。このヒュッテのトイレは水洗で、抜群にきれいだった。

火打山
 里からは望めない山である。山歩きをしている方にも馴染みの薄い名だと思う。同音異語では尾瀬の燧(岳)が著名だが、同義である。お隣山の妙高山が市名にもなるほど知名度では圧勝するが、火打山は、妙高山と焼山の間の中央に座して頸城三山を組み、背高は妙高山を六メートル上まわる。深田久弥氏は百名山に選んだ。北信五岳の一員ではないので、この小文では、妙高山のついでに立ち寄った様子になるが、私の本当は火打山に登り、ついでに妙高山に登る、ということだった。
 草枯れの高谷池の右側の岸に付けられた道をしばらく歩くと岩場の登り道となり、台地を経て、天狗の庭とよばれる池塘の点在する湿原となった。ここから写真撮影のとりこになった。秋色を深める草地のなかにある池面が真っ青な空を映しだして空よりも青く染まり、そこに、雪で薄化粧をした火打山、そのさらに奥にある水蒸気を噴出している焼山が連なって、逆さ姿で投影されていた。風がなく鏡のようになった水面のつくりだす芸術品だった。いろんな角度からレンズを向けてシャッターを切った。だいたいはその場では快心の撮影と興奮するものの、自宅に戻ってパソコンで鑑賞すると、撮影時の感動とはほど遠い駄作ばかりである。しかし、ここで撮った数枚は今でも自信作の自負をしている。
 いよいよ登りとなり、薄く積もった雪を踏む。一一時四〇分、「火打山山頂 標高二四六一・七M」の標識があった。その先には溶岩ドームから水蒸気が昇る焼山が座り、その左手には雨飾山の笹原に連なり、その上には朝日・雪倉・白馬三山の北アルプス。これらは互いに眺めあっている仲間の山々だ。ぽかぽか陽気で湯を沸かして餅入りラーメンを食べた後、一三時、来た道を下り始めた。池塘が青く輝く天狗の庭を眼下に、妙高山の頭がすくっともちあがっている。途中の看板に、一五年に妙高戸隠連山国立公園が上信越国立公園から分離独立したと記してあった。北信五岳がこのなかにおさまる。
途中の茶臼山の登り下りをおえて、黒沢池を眺めながら一四時二〇分、黒沢池ヒュッテに着いた(続く)。

 

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