第1718号 / 10 / 1

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

2020年兵庫・神戸総会~特集その4~
○兵庫県における安倍改憲を許さない闘い  羽柴  修
○阪神元町「有楽名店街」建物明渡し訴訟  與語 信也

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●育鵬社歴史・公民教科書、神奈川県横浜市・藤沢市で不採択  小池 拓也
●コロナ禍で露呈した新自由主義の破綻-菅新首相の「自助・共助・公助」という欺瞞に抗して  渡邊  純
               
【追悼】
●坂本修先生を忍ぶ-想いだすことども-  中村 洋二郎
●坂本修弁護士を偲んで  小部 正治
●北信五岳-斑尾山(1)  中野 直樹

 


 

※二〇二〇年 兵庫・神戸総会 ~ 特集その四 ~

兵庫県における安倍改憲を許さない闘い  兵庫県支部  羽 柴   修

 兵庫における憲法九条の改悪を許さない闘いが全県的統一行動(集会)として行われたのは、第一次安倍内閣時代の二〇〇六年一一月三日「神戸ワールド記念ホール」における「はばたけ!九条の心」市民集会である。この集会は、九条の会他護憲関連五団体主催で開催され、七五〇〇人の市民が参加した。その後、第二次安倍内閣発足後の二〇一五年六月二一日、「安保関連法制反対、特定秘密保護法廃止を求める市民集会」が兵庫県弁護士会主催で行われ、九〇〇〇人の市民が会場の神戸東遊園地を埋め尽くした。その翌年二〇一六年五月三日からは「戦争をさせない、九条壊すな!総がかり行動兵庫県実行委員会」(略称;総がかり行動兵庫実行委員会)主催で行われることになったが、この間の経緯は既に団通信で報告したとおりである。

 「戦争させない、九条壊すな!五・三総がかり行動兵庫県実行 委員会」の活動 
(1)兵庫では二〇一六年から五月三日に「戦争をさせない一〇〇〇人委員会・ひょうご/憲法改悪ストップ兵庫県共同センター・九条の心ネットワーク」の三団体の呼びかけで「安倍改憲を許さない」「アベ政治を許さない」改憲阻止のための「一万人集会」が開催されてきた。集会ではメインスピーカーによる二〇分のスピーチ(連帯挨拶)、青年や「ママの会」など各界のゲストや立憲民主、共産党の議員(候補者)からの決意表明を受け、その後神戸市内三ルートのパレードが行われる。二〇一六年は秋葉忠利元広島市長、二〇一七年参議院議員糸数慶子氏(この年のみ屋内集会)、二〇一八年は神田香織さん(講談師)、二〇一九年は落合恵子(クレヨンハウス)さんにメインスピーカーをお願いした。毎年八〇〇〇名近くが参加、先頭がパレード終了地点に到着した時点では、東遊園地の最後尾が出発できない状態であった。
(2)二〇二〇年(今年)は新型コロナ感染拡大による緊急事態宣言により、五月三日開催を延期、一一月三日に寺脇研さんをメインゲストに迎え、「コロナ禍での憲法・平和・民主主義を問う」をテーマにシンポジウムを行う(会場・神戸芸術センター)。寺脇研氏以外のシンポジストは上脇博之神戸学院大教授、永井幸寿弁護士でチューターは津久井進弁護士である。但し、本年度の集会はWeb配信の視聴が原則(YouTubeのライブ配信)で、リアル会議参加は先着五〇〇名の予定。
(3)毎年五月三日の憲法集会とは別に秋の企画として一一月頃に「憲法講演会」を開催している。昨年は水島朝穂教授に「危ない日本の憲法診断―立憲か壊憲か」と題する講演をお願いした。また五月三日の一万人集会を成功させるため直前の三月頃にプレ企画を開催し、さらに全県五二箇所で三団体が分担して憲法集会成功のための一斉街頭宣伝を行い、こうした全企画を検討する事務局会議を自治労兵庫県本部で隔月程度に開催している。

三 兵庫県弁護士九条の会他県下の九条の会の活動

(1)兵庫県弁護士九条の会は、二〇〇五年二月一八日、「憲法第九条の明文改憲に反対する」「兵庫県の弁護士の間で、『会』への賛同者を増やす」「憲法九条を守るための諸活動を行う」の三つの目的を掲げて発足、今年度一五回の総会を迎えた。一五回総会時点で県登録弁護士九六七名のうち二五三名が賛同しており、神戸地方裁判所近くに活動の拠点となる事務所を構えて活動している。この事務所の賃料は月額五万円であるが、現在は「九条の心ネット事務局」が同居している。毎年財政支援として賛同者のうちの維持会員から月額一口一〇〇〇円の維持会費負担をお願いして活動している。一ヶ月一回の運営委員会の会議を行い、「私と憲法」(賛同弁護士)の連載企画と県下九条の会の活動(講演)を報告するNewsletter を年間一〇回(現在は七~八回)発行、今月で一五三号に達する。県下各地の九条の会他からの要請に応えて講師活動を行い、九条の会の財政負担を軽減?するために講師担当の弁護士へ五〇〇〇円の補助をしている。
 尚、弁護士九条の会の総会は毎年四月開催であるが、総会にあわせて公開講座を企画(既に一五回になるが)、今年はコロナ禍で延期、九月二六日土曜に半田滋氏の「急浮上した敵基地攻撃~踏み越える専守防衛~」と題する講演会を開催する。
(2)県下には「憲法改悪ストップ兵庫県共同センター」の他に、「九条の会」の活動が根付いているが、神戸市内の垂水と須磨及び長田、西区、北区、灘区及び東灘区、明石、西宮及び芦屋、尼崎及び伊丹などの各地域・区域の九条の会がネットを形成、合同して各地域で安倍改憲を阻止するための憲法講演会を、結構びっくりするような講師を確保して開催している。その情報・意見交換をしているのが「九条の心ネット」である。九条の心ネットの会議は毎月事務局会議と定例会議が開催される。
(3)「憲法を活かす一万人意見広告運動・兵庫」について
 もう三年前になるが、二〇一七年七月三一日、安倍首相による憲法九条に自衛隊を明記する九条加憲に反対する取り組みとして「戦争させない、九条壊すな!総がかり行動兵庫県実行委員会」は「憲法を活かす一万人意見広告」行動を提起した。九月三〇日を締め切りとして全県に賛同募集(賛同募金一口一〇〇〇円)行うというタイトな企画だったが、締め切りを少し伸ばした一〇月一六日までに、個人八四四四人、七三一団体から賛同(応募口数は一万口を超える)があり、この年一一月三日、同意見広告が神戸新聞に掲載された。意見広告では「今日生まれた子の未来が戦争のない世界でありますように」をメインコピー、これを何とか成し遂げるための私たちの課題として、①「個人が尊重される社会を」②「平和憲法のもと、圧力ではなく対話を」③「基地のない沖縄を」④「核兵器のない世界を」の四点について県民に訴えた。いずれの課題も、立憲主義・民主主義という、国家による人権侵害や無謀な戦争がくり返されてきた歴史をへて、近代的な民主主義国家で生まれた人類の英知・ルールに関わる問題である。安倍内閣によって行われた特定秘密保護法、安保関連法制や共謀罪の強行採決は、戦争を繰り返してきた歴史や戦争の惨禍を顧みることなく乱暴に人類の英知・ルールを踏みにじるもので、絶対に許してはならない。七年と八ヶ月続いた安倍内閣終焉後(菅内閣は安倍内閣の政策を例外なく承継・踏襲していくと言明)もこのことを忘れないで闘っていく必要がある。

四 最後に

 最近気になることがあります(トーンが変わります)。兵庫における九条明文改憲阻止、「戦争させない、九条壊すな!」の闘いは頑張ってるように見えますが、各地の「九条の会」の高齢化の影響は無視できません。弁護士九条の会への講師要請も激減しています。二〇一九年四月から二〇二〇年三月末まで年間六回、今年の四月以降は現在まで皆無です。新型コロナウィルスの感染拡大、緊急事態宣言による集会開催制限により会場が確保できないという事情もあるでしょうが、二〇一八年頃からそうした傾向が見られます。さらに兵庫県弁護士九条の会の運営委員会には、小生をはじめとする二七期が二名、二四期と二六期が各一名、合計四名で運営しています。健康上の問題と高齢化も原因ですが、私たちは年齢制限で参加を許されなかったあすわかも全く同じ傾向であり、講師要請がなく、あすわか劇団の活動も開店休業状況ということです。同様の傾向が全国でも起きているとすれば智恵と工夫で克服していく必要があります。兵庫の総会でも意見交換をしたいと考えています。

 

阪神元町「有楽名店街」建物明渡し訴訟  兵庫県支部  與 語 信 也

 本件は、阪神元町駅の飲食店街「有楽名店街」で飲食店を営む二人の事業主(被告)が、店舗の貸主である阪神電鉄(原告)から、定期建物賃貸借契約終了を理由に店舗の明渡し訴訟を提起されたものです。
 阪神有楽名店街の歴史は古く、それ故に契約関係はやや複雑ですが、簡潔に説明すると、店舗の所有者であった阪神電鉄が、店舗を賃借人に貸して、それを店舗営業者らが転借するという形(阪神電鉄は無断転貸だったと主張していますが)で長くやってきたところ、その賃借人が死亡したことをきっかけに、平成一八年頃、店舗営業者らが直接阪神電鉄と賃貸借契約を締結するということになりました。その際、阪神電鉄は、店舗営業者らとの間の契約を定期建物賃貸借契約として締結しました。
 ご存じの通り、定期建物賃貸借契約というのは、期間が満了したら貸主が再契約に同意しない限り、契約終了となり明け渡さなくてはいけないという、借りる側にとって非常に不利益が大きい契約で、制度自体、借主保護の観点から非常に問題が多いため、その成立過程において法は厳格な要件を定めています。特に、契約するに際し、「事前に書面を交付した上で説明」をすることを求めています。実際のところ、現在においても、定期建物賃貸借契約と普通建物賃貸借契約との違いを理解している一般人の割合は非常に低いのが現状です。
 本件の定期建物賃貸借契約は、賃貸期間を一年とするものでした。被告らはその場所で長く飲食店経営をしており、それで生活をしている人達ですので、被告らにとっては、極めて期間が短く、不利益の大きい内容でしたが、最初の契約がされた以降、毎年再契約が繰り返され、数年間続きました。平成二六(二〇一四)年になって、突如、阪神電鉄から「建物の防火防災上の理由」から再契約はせず有楽名店街は閉鎖すると一方的に通告されました。説明会も開催されましたが、阪神電鉄は借主からの質問にまともに回答をしませんでした。抗議する借主らを無視し、阪神電鉄は、借主らが家賃を支払うも損害金扱いとし、家賃としての受取を拒否するようになりました。
 本訴訟では、定期建物賃貸借契約の形式的な書面は一応揃っていることから、阪神電鉄は、契約は有効に成立しており明渡しの要件は満たしていると主張しています。被告らは、上記定期建物賃貸借契約の実態を前提に、法が求める書面交付の上での「説明」は、単に書面を交付しただけでは足りず、借主が定期建物賃貸借契約は更新がなく再契約されなければ契約が確定的に終了する契約であることを十分に理解できる程度の説明が必要であるとの見解の上で、阪神電鉄の担当者から直接説明を受けたことなど一度もなく、一方的に送られてきた書面に署名押印をしただけだと訴えています。
 これに対し、阪神電鉄は、最初の契約時、担当者が面談で直接契約の内容を伝え、被告らはそれに応じて書面に署名押印をした、その後も毎年、毎年電話で契約の説明をしたと主張し、真っ向から争っています。
 この点、生活の糧として店舗を経営する被告らが、期間一年で、貸主の意向次第で立退きを強制される契約だとしっかり理解していたら、その時点で問題となっているはずです。被告らは、具体的な説明は一切なされず、内容を理解することなく契約をさせられたことは明らかです。本年九月に行われた証人尋問では、この争点に対し、阪神電鉄側の証人として出廷した当時の契約担当者が、被告らに直接面談し説明したと証言しました。しかし、具体的な状況について問い質されると、忘れた、覚えていないを繰り返し、詳細な供述は一切されませんでした。一方で被告らは、証人との面識はない、電話や面談があったことはないと明確に述べました。阪神電鉄の主張がでたらめであることが明らかになったものと確信しています。
 さらに、本件訴訟は、全部で一四軒ある定期建物賃貸借契約の店舗のうち二軒のみを被告として提起されたものですが、「放火防災上の理由」なのであれば、仮に阪神電鉄が被告らのみに勝訴しても問題は解決しません。その意味で、本件訴訟は有楽名店街の店舗経営者らの分断を意図するもので、提訴自体、極めて不当です。訴訟外においては、昨年一一月に提訴されてから、毎回多くの関係者・支援者の方に傍聴に来て頂いており、署名活動や阪神電鉄への協議申入れ等、訴訟外でも活発に活動がされてきました。
 裁判は、次回結審し、判決となりますが、阪神電鉄の請求は棄却されるものと確信しています。

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育鵬社歴史・公民教科書、神奈川県横浜市・藤沢市で不採択  神奈川支部  小 池 拓 也

一 神奈川での不採択の意義
 二〇一一年、神奈川県横浜市と藤沢市は、いわゆる「つくる会」(歴史修正主義、反日本国憲法)系の育鵬社歴史・公民教科書を採択したが、九年を経た本年、両市は歴史・公民とも育鵬社を不採択とした。全国最大の採択地区横浜市約二万五千五百冊、藤沢市約三千五百冊。これら二市の合計約二万九千冊が全国に占める割合は約二・七%。育鵬社の全国採択数に占める割合も前々回二〇一一年採択では優に過半数、大阪市等の採択があった前回二〇一五年も半数に迫る。育鵬社採択問題の半分は神奈川だった、といわざるを得ない。
 神奈川での不採択は育鵬社の全国的退潮を決定づけ、育鵬社のシェアは二〇一五年歴史六・五%、公民五・八%から歴史は一%程度へ。公民は一%を大きく割り込んだ。

二 二〇一五年の採択継続
 私は実は、前回二〇一五年には不採択にできると思っていた。「つくる会」を推進した中田宏横浜市長は二〇〇九年、海老根靖典藤沢市長は二〇一二年に去り、彼らの任命した教育委員は一部のみ。団は高校入試問題分析を含む包括的な意見書やリーフを作成配付し、市民運動も進んでいた。
 ところが、採択を決する藤沢市教育委員会では、青年会議所出身の教育委員長(海老根市長任命)を中心としたシナリオ的議論で育鵬社採択。横浜市教育委員会では傍聴人数二四名でその余は遠隔会場での音声中継の中、社名を伏せての不思議な議論がなされ、今田忠彦委員(中田市長任命)以外育鵬社支持とわかる意見はなかったにも拘わらず、無記名投票では歴史公民とも三対三。岡田優子教育長のもう一票で育鵬社採択。

三 二〇二〇年の不採択に向けて
 団神奈川支部は道徳の教科化を含め、学習会開催や市民団体での講演等にも取り組んだ。
 二〇二〇年に入ると、コロナで街頭活動や集会の制約される中、前回に引き続き、団本部作成の意見書とは別に、社文、労弁、青法協、団の各神奈川県内組織連名の意見書を作成送付した。やはり「県内」「市民」の重みはあると思う。横浜藤沢両市教育委員会への申し入れ、教科書展示会への参加呼びかけや参考資料作成も行った。
 私個人としては、事務所ブログに関係記事を書くと共に、ツイッターに投稿した。コロナで自宅にいる際には全国高校入試問題を五年分検討し、団意見書を改訂した。二〇一五年に何故か産経新聞が報じてくれたことも相まって、育鵬社では入試で不利なことはある程度周知されたと思う(無論、中学教育は入試のためにあるわけではないが)。
 市民の力で、採択手続の透明化は進んだ。藤沢市では採択前段階で既に市立中学校の意見=育鵬社の低評価が公表されていた。横浜市は傍聴人数の制約は相変わらずだが、ネット上への動画配信がなされ、議論で社名は明らかにされるようになった。
 こうして、横浜市、藤沢市とも育鵬社は不採択となった。

四 成果と課題
 育鵬社不採択は本年のみの取り組みでなしえたものではなく、二〇一五年以前からの積み重ねの結果だと思う。
 二〇一一年には、育鵬社のシェアは歴史三・七%、公民四・〇%と公民の方が大きかったのが、団意見書(主として公民教科書を対象)が発表された二〇一五年以降は、冒頭述べたとおり公民の方が小さくなっており、団意見書の成果かもしれない。
 ただ、実際上は、育鵬社採択を推し進めてきた横浜市の今田忠彦委員、藤沢市教育委員長の退任が大きかったことは否めない。
 今後は「つくる会」系教科書の採択自体を防ぐことだけでなく、教育委員の任命等、育鵬社のシェア拡大に寄与してきたものにも取り組む必要があろう。

 

コロナ禍で露呈した新自由主義の破綻-菅新首相の「自助・共助・公助」という欺瞞に抗して
                                 福島支部  渡 邊   純

 九月一六日、臨時国会が召集され、首班選挙で菅義偉自民党新総裁が指名されて、菅首相が誕生しました。菅氏は自民党総裁選挙で「自助・共助・公助、そして絆」というスローガンを掲げましたが、これを見て、私は、菅氏がつま先から頭のてっぺんまでどっぷりと新自由主義につかっていることを改めて痛感しました。単に、自他ともに認める新自由主義者である安倍元首相の下で長年官房長官を務め、「安倍路線の継承」を訴えているというだけでなく、自らが新自由主義路線を宣言したものと受け止めました。

「自助・共助・公助」とは
 「自助・共助・公助」という言葉は、ご存じの方も多いと思いますが、阪神淡路大震災以降、主として災害救助に携わる人の間で使われるようになった言葉です。大規模災害に際して、限られた公的な救助資源を有効に活用して、できるだけ多くの人命が助けられるよう、「自分で逃げられる人はまず自分で逃げて自分のいのちを守ろう(自助)、それが難しい人については家族や地域の自主防災組織が避難を援助しよう(共助)、そして、それも難しい人については、消防などの公的救助組織が救助しよう(公助)」ということです。災害救助の文脈では、一貫して「共助」、つまり自主防災組織や町内会の災害対応機能の強化(つまり、災害を想定して普段から地域での助け合いを強化すること)の重要性を示すために使われてきた言葉です。しかし、災害時を考えてください。被害が目前に迫っていることが予見できる場合、行政が災害情報を住民に伝え避難指示や勧告をしますが、これは公助です。避難所を開設する、これも公助です。災害時に公助のネットワークは二重三重に張り巡らされていて、その不足を補うのが自助・共助なのです。
 このような文脈を無視して、行政一般に「自助・共助・公助」を適用すればどうなるでしょうか。私は、地域の反貧困ネットワーク運動の中で生活保護申請支援にも細々と携わっています。高齢のホームレスの方の生活保護申請に同行したとき、窓口職員は「まだ働けるでしょうから、まずはハローワークに行って仕事探しをしてみたらどうですか(「自助」―高齢で病気も抱えた人に、どうして働けと言えるのか?)」とか「ご家族で援助してくれる方がいるんじゃないですか(「共助」―援助してくれる家族がいたら、どうしてホームレスになるのか?)」とか。くどくどと尋ね、全て論破されて、渋々と申請書(公助)を取り出します。ちょっとした水際作戦ですが、これもまさに「自助・共助・公助」の表れではないかと思います。結局は、「働ける人は自分で働いて生きていってくださいね。それができなくなったら家族や地域に助けを求めてくださいね。それでもダメなら最後に生活保護を認めてあげますよ」ということであり、まさに「自己責任論」そのものではありませんか。

新自由主義が掘り崩した感染症対策の基盤
 菅新首相は、自らの当面の課題として「まずは新型コロナ対策に全力を挙げる」と表明しています。菅さんが本当にそう思っているのなら、問いたい。「あなた方が推進してきた新自由主義に基づく医療保健制度の改悪切り捨てによって、感染症対策の体制が掘り崩されてきたことをどう総括しているのか」と。
 四月七日に緊急事態宣言が初めて発出された時点での、全国の累計患者数(陽性者数)は、約四五〇〇人であり、累計死者数は約一〇〇人でした。緊急事態宣言の理由は、「このまま感染拡大が続けば、保健医療体制が限界を迎え、医療崩壊を起こしかねない。助けられる命を助けられなくなる」ということでしたが、たった全国で四五〇〇人の患者数で、なぜ医療崩壊を起こす可能性があったのか。それは、八〇年代以降の新自由主義「改革」により、保健体制や医療体制が掘り崩された結果です。
 例えば、九〇年当時、全国に八五〇ほどあった保健所は、昨年には約四七〇となり、三〇年で約半数に減っています。保健所の医師も同様の期間に約四割削減(検査技師等はもっと減らされています)。全国の感染症病床数も、九〇年に一万二二〇〇床あったものが、一七年には一七八〇床。なんと五分の一以下です。新型コロナの感染者に転用できる結核病棟も、三〇年の間に約八分の一にまで減らされています。つまり、新自由主義「改革」の一環としての社会保障の削減のなかで、その格好の標的となってきたのが「不要不急」「非効率」の典型である感染症対策であったのです(感染症は常時流行しているわけではありません。病床の稼働率が低いと診療報酬が下がってしまう制度の中、多額の設備が必要でしかも常には稼働していない感染症病床を抱えていられる民間病院がどの程度あるか…)。
 PCR検査の「目詰まり」という言葉が使われ、あたかも各地の保健所に問題があるかのように言われました。しかし、保健所は、感染症法や地域保健法で、地域における感染症対策の中心機関と位置づけられており、実際に、コロナ禍において、①帰国者・接触者相談センターでの相談対応や受診勧奨、②PCR検査の検体採取と検査機関(地方衛生研究所等)への引き継ぎ、③患者の入院治療のコーディネート、④感染者に対する積極的疫学調査(いわゆるクラスター対策)、⑤患者(疑い含む)が出た場合の厚労省への報告や公表…等は、すべて保健所が行うことになっていました。以前より広い地域、多い人口を少ない職員数でカバーし、通常業務を抱えながら、新型コロナ対応の中心になるという、不可能に近いことを保健所職員は強いられていたのです。

新自由主義の破綻は明らか
 少し前に団通信に掲載された「新型コロナウイルス感染症に寄せて」でも指摘しましたが、新自由主義の下で進行してきた格差社会化や医療・社会保障の切り捨ては、危機に対する社会の脆弱性を確実に作り出しています。このコロナ禍の中で、新自由主義の破綻はよりいっそう明らかになっています。
 新首相の誕生、一方で野党の合流や新党結成など、政局はめまぐるしく移り変わっているように見えますが、大事なことは、今後一年余のうちに確実に行われることになる総選挙で、新自由主義を信奉する候補者を一人でも多く落選させることではないかと思います。その筆頭が安倍晋三前首相であり、「安倍路線の継承」を公言する菅新首相であることは言うまでもないでしょう。これから、コロナ禍についても、解散総選挙がいつ行われるかについても、予断を許さない状況が続くと思います。お互いに、体調と感染予防に気をつけながら、でも足を止めずに頑張りましょう。

 

【追悼】

坂本修先生を忍ぶ-想いだすことども-  新潟支部  中  村  洋  二  郎

 坂本修先生の訃報に接し、驚きと悲しみで一杯です。
 天下国家についての御意見をうかがい、個人的にも相談にのってほしいこともあり、近いうちに上京してお会いしたいとの電話したところ、快諾して「待っているよ」と言ってくれたのに、コロナなどのことで延び延びになっていたおり、突然の訃報に接してしまいました。
 坂本さん(以下、「先生」は省略します)が活躍していた東京法律事務所(当時は黒田法律事務所)に私が入所したのは六〇年安保斗争の翌年の一九六一年で、私は修習一三期で坂本さんは一一期だったので、丁度使える人間がきたとばかりにアチコチに盛んにひっぱり回して軟弱な私を鍛えてくれました。
 当時は「総労働対総資本の対立」とも言われた三池斗争を経て、主婦と生活社やメトロ自動車などの中小企業の泥沼争議などで労働運動初めとする民主運動は昂揚していました。それらの一つ一つについて、坂本さんは資本側の悪どさや労働者側の英雄的斗いを熱っぽく語って聞かせました。
 共に斗かったことで、特に印象に残っているのは全自交三光自動車争議での丸山委員長刺殺事件にみせた坂本さんの勇気と執念です。二〇〇人を超える三光労組の委員長が斗争で勝利した翌日、銭湯にいく途中、六歳の子供の前で殺し屋に刺し殺された。警察は非常線も張らず甘い捜査で犯人を逃がしてしまった。全自交や坂本さんの懸命の独自捜査で、「護国団の井上という男が三〇万円ほどで争議のでかい仕事を請け負った」という通報者が現われた。その井上を追跡するのでついてこいと言われて、全自交の幹部の一人と私らの三人で井上が行ったという湯河原温泉の旅館にかけつけた。しかし、井上は芸者も呼んでどんちゃん騒ぎをやった後、親分に差し出す予定の詰めた自分の指を無くしたと大騒ぎをした挙句、どこかに行ってしまったとのことで、旅館の女将さんから二人で聞き取り調書をとった。
 その後、護国団本部との対決があり、坂本さんの自宅のマンションに夜中に何度か訪問ベルが鳴らされ、出ると男が逃げて行ったとのこと。坂本さんはいろいろ考えて、銃刀法違反にならないことで登山用スコップを枕元において寝たとのこと。私は、「そんなことをしたって、相手が複数できたらスコップを使って防禦する余裕はないでしょう」と言うと、坂本さんは「それでも少しでも相手を傷つければ犯人逮捕の手がかりになる」というので、その意気込みに圧倒された。東京事務所のなかでは「そこまでやらなくても」と言う人もいたが、坂本さんは「こんな酷いことに黙っていられるか」と追及を続けた。松本善明議員とともに最高検に直接告訴もしたが、検察からは「固有名詞を挙げて告訴してもよいのか」と逆に脅かされる始末で、遂に犯人をあげることはできなかった。その後、三光労組は暴力団や警察機動隊五〇〇人の介入、組合分裂、刑事弾圧七人起訴(後に無罪)の中で、一定の解決を余儀なくされた。
 坂本さんが成果をあげた一つに御存知の有楽町ビラ配り事件の無罪判決がある。
 通行人の道路通行を妨害しないようにしながら、戦争反対等を訴えるビラ配りに対し、公安警察が監視した挙句、三人の労働者を現行犯逮捕した。認めれば罰金一〇〇〇円だけの道路交通法違反だという。しかし、坂本さんは、被告人の労働者とともに、その本質はかけがえのない言論表現の自由、民主主義を蝕むものであると重視して「ビラマキの権利を守る会」の組織を中心に妥協せずに斗い、三年九ケ月かけて東京地裁、高裁と無罪判決を勝ち取り確定させた。 その影響は計り知れないほど大きかったが、それを勝ち取る坂本さんの情熱はまた素晴らしかった。一〇〇名を超える傍聴人の東京地裁七〇一号法廷での坂本さんの弁論は検察官側の論告を圧倒した。
 主任弁護人の坂本さんは、傍聴人のアンケートで皆から絶賛されたが、ただ一人「弁論はよかったが、検察官よりも良い背広を着て弁論して欲しかった」というアンケートには参った、と苦笑いしていたのを覚えている。
 「ビラは闘う」の総括パンフのなかで「弁護士といえば法廷技術と法律知識のみで闘うというイメージをもっていたが『一人でも多くの人に知らせなさい。それが勝負の鍵です。圧倒的な国民の力で検事を圧倒しましょう!』」と述べたことが記述されている。
 当時、「大衆的裁判斗争」が一つの流行り言葉のようだった。私はその教えを受けて、東芝臨時工訴訟で、二年間闘った仮処分で敗訴し、「守る会」とともに是正を求めた七人の原告の本訴で、「臨時工制度撤廃」を旗印に、毎回、原告が準備書面を手書きで作成して陳述し、乳飲み子をかかえた女性臨時工が代理人席で立ちあがり、授乳させながら「裁判長の訴訟指揮に異議があります!」と抗議していたのには、裁判長だけでなく隣に座っていた私も圧倒された。本訴で逆転勝利し、高裁、最高裁でも勝利して拡がりを持った斗いに、坂本さんからは珍しく賞められて嬉しかった。
 坂本さんは「労働事件を二〇件以上かかえてはいけない。無責任になる」と言っていましたが、ある時、私の事件数をかぞえたら三九件になっていたので驚き、疲れていたのか、「東京事務所入所当時、三年ほどしたら郷里の新潟で活動したいと言っていたのが、いつのまにか足かけ一〇年になっていたし、母親が癌に罹患したことで新潟に戻りたい」と申し出ました。当然、反対されたが、最終的にトップの小島成一先生(元自由法曹団団長)が「止むえない。本人の自由だ」と言ってくれたとき、坂本さんは「私らにそんな自由はない!」と一喝されたことがズシンと胸に響いた。
 しかし、新潟地震で二〇〇人もの地震悪用首切り事件(北越製紙事件)の弁護もしたいという口実にして新潟に戻ることが認められ、結局、坂本さんもいろいろと援助をしてくれた。
 新潟に戻ると、田中金権金脈事件(信濃川河川敷裁判、鳥屋野潟裁判)、新潟水俣病裁判、第四銀行ニセ定年制裁判、新潟放送差別事件、国鉄民営化反対斗争などが相次いで押し寄せ、裁判官忌避と弾劾事件等もあって前にもまして多忙となり、若い人達と新潟合同法律事務所を設立して大衆的裁判斗争に取り組み続けました。新潟に戻ってからあっという間に五〇年余が経過した。
 坂本さんには、憲法をめぐる講演会の講師として何度か新潟の集会に来ていただきましたが、忽ちにして新潟でも坂本フアンが増えました。「新潟に行くときは白身の魚をご馳走しろよ」と言っていたのに、いつも私のよんどころない用事のために果たせず申し訳ないと思っていた。
 近年、民事裁判を中心とするIT化問題が急浮上し、ITは高齢者には不得手であることは置いても、IT化は、便宜的な拙速主義のもとで公開裁判や直接主義、国民の切実な訴え、が無視されないか、憲法論が棚にあげられて簡単に切り捨てられないか、弱者救済と権利擁護の裁判の魂が抜け落ちないか、と不安で一杯なこの頃である。そのようななかで、どのように大衆的裁判斗争が可能なのか、坂本さんと意見交換したいと願っていた矢先で訃報に接した。
 坂本さんとの幾多の想い出とともに、残念な想いと悲しみで一杯である。
 ただ、坂本さんをはじめ多くの先輩・先達が築いてくれた道のりがあり、優れた若手団員が輩出していることで、さらに正しく前進していくことを信じている。
 坂本さん、ご苦労さまでした。安らかにお休みください。

 

坂本修弁護士を偲んで  東京支部  小 部 正 治

 今年七月七日、坂本修弁護士(一九五九年入所)が転倒による脳挫傷のためなくなりました(享年八七歳)。坂本弁護士は、秋田県出身、自称「神主の息子」で、中央大学法学部を卒業、黒田寿男法律事務所(当時)の創設期に入所され六〇年以上在籍していました。突然の逝去で、所員一同深い悲しみの中にいます。コロナ禍のために、偲ぶ会等の予定も未定です。

坂本弁護士の多面的な活動
 坂本弁護士は、まさにこの国の「政治革新」に情熱と人生を捧げた人でした。日頃から、しんぶん赤旗を精読しこの国の政治の在り方にしばしば憤り、時には日本共産党中央委員会総会に宛て直接様々な提案・問題提起を行っていました。
 坂本弁護士は、ある時期、事務所のオピニオンリーダーとして積極的な役割をはたしたと思います。人情の機微にふれる優しさもあり、様々な活動に対しては大胆かつ積極的な行動提起をされ、二〇年後輩の私は活動の厳しさと楽しさを学びました。
 全国で二〇〇〇人を超える平和と民主主義・人権を愛する弁護士が結集する自由法曹団(一九二一年創立)の役員を歴任し、二〇〇三年には自由法曹団団長になりました。坂本弁護士に期待された役割は、何と言っても、国会に提出される予定の「悪法」を阻止するたたかいでした。先生は「モグラたたき」と称されていましたが、いつも先頭に立ち、「悪法」反対運動の火付け役(法案が社会・職場に及ぼす弊害・害悪を実感できるように可視化する)となり、意見書・ビラ・パンフレット・ブックレット等の「物」をいち早く準備し、学習会の講師として全国から「坂本弁護士きたる」で、情勢の見通し、闘うことの重要性や今何をなすべきかを語り、その地の取り組み・運動を激励しただけでなく、労働組合・民主団体・諸政党にも働きかけ全国的なたたかいを組織していきました。国会の審議に際しても、国会参考人として、労働者派遣法案(一九八五年)、小選挙区制(一九九三年)、民事訴訟法改定(一九九六年)、労働基準法改正法案(一九九八年)、会社分割法案(二〇〇〇年)、労働基準法(二〇〇三年)と何度も発言しています。
 坂本弁護士は、労働事件の活動でも「常にバッターボックスに立っていたい」と言い続け現場で闘い続け、コーチ・監督になることを拒否していました。執筆活動も、御自身の意向というよりも求められて書くことが多かったようです。不朽の名著「労働裁判」や実践的な「格闘としての裁判」(一九九六年)、「国家機密法の全て」(一九八五年)「現場からの検討 司法改革」(二〇〇一年)、「暴走するリストラと労働のルール」(二〇〇二年)などです。何度も何度も推敲する事務局泣かせで、資料を渡したら戻ってこない弁護士泣かせでした。

六月末まではお元気だったのに
 坂本弁護士は、配偶者坂本福子弁護士(一九六〇年入所、その後松本善明事務所(現在の代々木総合法律事務所)を経て渋谷共同法律事務所へ、二〇一三年一月一二日逝去)を失ったときは激しく落ち込み事務所に来ない時期がありました。その後は、毎日のように事務所に来て、自席で事件活動・執筆活動を継続していました。時々の社会的事象に関して所員に積極的に語りかけ意見交換をし、互いに事件に関する法律相談もしました。
 最後に執筆したのは、二〇二一年に創立一〇〇周年を迎える自由法曹団の編纂中の「正史」の一部「第三章 六〇年安保闘争と自由法曹団」であり、特に「極左暴力主義集団」の弁護活動をめぐる自由法曹団の高野山総会(一九六九年)での規約改正問題を中心とした約三〇頁の原稿でした。坂本弁護士は、六〇代はじめ頃、糖尿病が悪化して入院後、健康には人一倍留意し一日一四〇〇カロリーの規制を必ず守り(超える分は隣席の所員に)、食事一時間前には注射を目立たぬように指示通りに打つ人でした。その後大きな病気もなく溌剌と仕事をしていました。

弁護士としての活躍
 坂本弁護士が担当・関与した事件は極めて多数であり、そのごく一部しか紹介することはできません。一九六〇年ころ、「誕生三~四年目の黒田法律事務所が主婦と生活社争議、メトロ自動車争議をはじめとする激しい中小企業争議に取り組み、さらには三井三池、安保闘争に参加し、一丸となって全力をあげた時期でもある」と「東京法律事務所の五〇年」に先生が記載しています。初めて取り組む事件が三〇〇日を超える職場占拠で警察と暴力団が跋扈する中で争議は敗北しつつも労働者に大きな財産を残しました。その翌年には、数十万人の警官と二〇〇名の暴力団が多数の組合員と対峙していた三井三池ロックアウト&無期限ストライキ(一九六〇年一月)の現場で五〇日間活動しました。
 坂本弁護士は、権力等の謀略・公安事件に「逃げず」に多数関与してきました。「事務所は数多くの政治的弾圧や謀略に対して、たたかいぬいてきた歴史を持っている。政治的弾圧、謀略の的にされるのは、多くの場合、日本共産党、その組織、党員、支持者の活動である。だが、それは、つねに人権そのものへの鋭く、卑劣な侵害で有り、放置すればそのことによる禍いは広範な国民に及ぶ本質を持っていた。」(前記五〇年)故に、所員の政党支持の如何に関わらず統一戦線の立場からともにとりくんできたのです。三光自動車委員長刺殺事件(一九六二年)はストを終えて自宅に帰った丸山委員長を五歳の愛児の面前で数名の男が刺殺したため、告訴して闘った事件です。有楽町駅ビラまき事件(一九六二年)、電電公社の職員が駅前でビラ配布していたことが道路交通法に違反するとして逮捕起訴された事件であり、その後無罪が確定して「ビラまきの権利」が現在では定着した素晴らしい先例です。日本共産党宮本顕治宅盗聴事件(一九八〇年)では、主犯で自白していた山崎正友弁護士が来所し、ともに創価学会との闘いを進めていました。美濃部都政を承継すべく立候補した総評副議長太田薫氏が選挙最終日の演説会で襲撃されて負傷した新宿駅東口事件(一九七九年)や日本共産党国際部長緒方靖夫宅盗聴事件(一九八六年)では、私もご一緒して告訴し真相究明と犯人捜しに奔走しました。
 事務所の伝統である労働争議のたたかいもいくつかご紹介すると、暴力支配の職場で組合差別と闘った芝信用金庫事件(一九八〇年和解)は、その際是正できなかった女性差別を損害賠償だけでなく昇格まで勝ち取った最高裁和解(二〇〇二年一〇月)まで坂本福子先生とともに闘い続けました。「リーダースダイジェスト争議」はアメリカに逃げた資本を追いかけてNYでのビラ配布・本社要請などで五年間の泊込争議に勝利しました(一九九一年)。一九八九年前後の「労働戦線の統一」では様々な組合が分裂・破壊の危機にありましたが、全国各地の自治体労働組合に関する組合費請求事件等の闘いの中心となり、その後自治労連の発足とその弁護団結成にも尽力しました。また、国や自治体の民営化が進む中で、NTTの五〇歳定年押しつけ・全国配転攻撃に正面から全国的に闘う体制・弁護団を組織するなど重要な役割を担ってきました。

志を受け継いで
 私たちは坂本修弁護士を失いましたが、多くの含蓄に富んだ言葉とともにたたかう姿勢・志の重要性を教えてくれました。私たちは、それぞれが様々な分野で多くの労働組合・民主団体の方々とともに、人間らしく働き・暮らせる日本をめざして、事件活動や諸運動に取り組んでいます。今後も、一人ひとりが全力を挙げて取り組みを発展させることが、坂本先生の遺志を受け継ぐことと自覚しています。

 

北信五岳-斑尾山(一)  神奈川支部  中 野 直 樹

戸隠山との再会
 一九年一一月二日午前七時、上信越高速道の黒姫野尻湖PAで車中泊をした私は、戸隠キャンプ場の駐車場に着いた。オートキャンプ場内には家族用の大きなテントが張り巡らされ、朝餉の準備を行う大人、はしゃぐ子どもらのにぎにぎしい声に満ちていた。
 紅葉した木々の頭上には、戸隠山の鎧のような縦襞岩壁がそそりたち、朝焼けに燃えていた。見える見える、二〇年前のあの日、平和元弁護士とともに命の危機感に直面した剣の刃渡り、蟻の戸渡りのデェィンジャラス地帯が。標高一一〇〇mにあるこのキャンプ場は類い希な絶景を背景としたお勧めスポットだ。
 時折、二〇年前の記憶が蘇るのにつきあいながら、不動滝ルートを登り、八時半、不動避難小屋に着き、ここで一休。二〇年前は左の戸隠山に向かったが、今日は右の高妻山への稜線道に進んだ。

石祠
 この登山道には、飯縄山の参道と同じく、一三の仏が祀られている。仏には、如来、菩薩、明王の三派がある。明王はひねくれ者を厳しく説き伏せる仏、例えれば叱って育てる教育者。菩薩はやさしく悟りに至ることをサポートする仏、例えればほめて育てる教育者。如来は悟りの境地に至った仏、お手本。これが順次、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿しゅく如来、大日如来、虚空蔵菩薩と続く。石仏はほとんどなく、石祠が代替していた。なお、四天王にいう天はここにいない。天は仏法以外の業界で一芸に秀でた神が仏法社会にトラバーユしてきた専門職仏で、人に教えを説く役目に就いていないので参道の石仏になっていないようだ。

高妻山
 平野部から見えないために北信五岳グループの参加要件を満たさず、山愛好家にも馴染みの薄い高妻山。しかし、深田久弥氏の観察眼にかない百名山の名誉を得た。三文殊石祠を過ぎたあたりで右方向に飯縄山が、左手にすっくと立ち上がった姿美しい高妻山が現れた。
 石祠を数えながら五〇分で五地蔵山に着いた。展望はない。ここから稜線は左に四五度曲がって標高差三五〇mの登りとなる。六弥勒では、深い樹林に覆われた戸隠山の裏面の姿が見えた。表面と全く異なる山容で別山のように見える。この裏面には山道はない。八観音あたりで、うれしいことに、右手に雨天のために現地では見えなかった黒姫山の二重富士が秋色を深めた裾野をひろげて姿よく拝めた。さらに火打山、妙高山の頸城山塊が存在を顕してきた。この間歩いてきた山々が一望でき、友たちが集まったようで楽しい気分となった。
 九勢至を過ぎるといよいよ山頂に向けた急登の踏ん張りとなり、一〇阿弥陀を経て、一〇時五〇分、高妻山二三五三mの標識に到着した。

乙妻山へ
 雲ひとつない晩秋の青空のもと、朝日岳、雪倉岳、白馬三山、五竜岳、鹿島槍・・槍穂の大パノラマがここまで至った者をねぎらってくれた。北アルプスはすでに冠雪していた。パンをかじりながら稜線の先を見た。そこには地図では点線表示のコースタイム一時間の乙妻山が座っていた。深田久弥氏が足をのばすことを断念した山である。確かに乙妻山までとなると、朝からのコースタイムが往復一一時間三〇分を超え、一一月もなると下山中に日没となってしまう。
 今は快晴で、ガスもわいていない、風なし、体調悪くない、よし行こうと決め、一一時三〇分腰をあげた。一一阿しゅくを過ぎると、岩場の下りとなり、その先は、シャクナゲやはい松が行く手をじゃまする道を上り下りしながら、一二大日如来を経て、一二時一五分、乙妻山(二三一八m)に着いた。一三虚空蔵。高妻山には一〇名ほどいたが、私も入れて三名がここまで来た。
 北アルプスが心なしか近くなった気がした。この場所は、妙高山、火打山、焼山の火山性の連山、その西に、雨飾山といういとも美しい名で人気度では群を抜く名山を丸ごと望むことができた。振り返ると凛とした品格ある姿の高妻山があった。こんな苦労のご褒美があるのはうれしいものだ。

ロングな下り

 地図をみると乙妻山から高妻山に戻り、五地蔵山から弥勒尾根を経て駐車場に戻る所要時間は五時間近く。時刻は一二時半。のんびりはできない。十分にくたびれているはずの脚を屈伸してほぐし、帰路へ。
 高妻山直下の岩場の上り返しは息があがった。
 弥勒尾根の登山道は木の根がはりだした段差の大きい急勾配の、滑る土のえらく歩きにくい道だった。西日に照らされた黒姫山を見上げるほどのところまで下ると正面には残照を受けた飯縄山が待ち受けた。
 一六時三〇分、日没前に駐車場に着いた。車で戸隠の中心部に向かい、戸隠神告げ温泉で汗を流し、明日の北信五岳の山旅のしめくくり斑尾山に備えて、道の駅しなの駐車場に車を止めた。ラジオから流れるラグビーワールドカップ決勝、南アフリカーイングランド戦を聴きながら寝入った(続く)。

 

 

 

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