第1732号 2 / 21

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●能力・経験を活かすことのできない業務への配転を無効とした判決  塚田 聡子

●組合ニュースの内容に対する介入を断罪~枚方市不当労働行為事件勝利命令~  河村  学

●ベトナム人技能実習生の支援者である斎藤善久神戸大学准教授の話を聞いて  井上 洋子

●少年法問題を考えるズーム集会参加感想文  秋山 健司

●核を手放さない日本政府と政治家  大久保 賢一

●「夫婦別姓」と「子の氏」  後藤 富士子


 

能力・経験を活かすことのできない業務への配転を無効とした判決

愛知支部  塚 田 聡 子

 名古屋高裁で、能力・経験を活かすことのできない業務への配転命令を無効とする判決を得て、先日確定したのでご報告します。
一 事案の概要
 A氏は、安藤運輸という運送会社で、運行管理者兼配車係として勤務していました。同社に転職する前も、運行管理者兼配車係としての経験を積み、この仕事に誇りとやりがいを感じていました。転職にあたって、A氏は面接担当者に、「前の会社を辞めたのは、運行管理者兼配車係の仕事ができなくなったから」と伝えてありました。
 A氏は、安藤運輸に就職後まもなく、これまでの経験を買われ、統括運行管理者に抜擢されました。しかし、運転手不足による配送の遅れや、度重なる輸送事故について、安藤運輸が大手取引先である出光興産から注意を受けると、その責任を一手に取らされ、倉庫係への配転を命じられました。そこで、配転命令の無効を訴えました。
二 高裁までの流れ
 仮処分では、配転について業務上の必要性がある一方で、新しい職場はそれまでの職場の近くであり、賃金もほとんど変わらないことを理由に、A氏に不利益はないとして、配転無効は認められませんでした。
 一審判決では、職種限定の合意こそ認めなかったものの、「配転にあたって、運行管理者の資格を活かし運行管理業務や配車業務に当たっていくことができるとする原告の期待への配慮が求められる」とし、「本件配転命令は、業務上の必要性が高くないにもかかわらず、被告が原告の上記期待に配慮せず、その能力・経験を活かすことのできない業務に漫然と配転したものであり、原告に通常甘受すべき程度を著しく越える不利益を負わせるものであるから、権利の濫用に当たり無効である」とされました。
 これに対し、会社側が控訴しました。
三 高裁で勝訴判決を得るまでの経緯
 高裁では、裁判長から、「あくまで最高裁判例(東亜ペイント事件)の枠組みで判断します」「この程度で著しい不利益が認められると思いますか」と、両当事者のいる前で、あからさまに一審判決を覆すつもりであることが示されました。そのうえ、会社側に、「もっとこういう主張はありませんか」「もっとこういう証拠を出したらどうですか」というアドバイスを繰り返し、会社側の主張や立証が足りていないとみると、「もう一期日設けましょう」と言って、審理を重ねました。
 これに対し、あまりにも不公平な対応だと感じ、「中立公正であるべき裁判所の態度として行き過ぎている」と異議を申し立て、調書に残すよう求めました。
 会社側は、裁判所の指示に応じて主張や立証を重ねましたが、そのいずれもが虚偽であることを、A氏本人が探し出してきた証拠により明らかにすることができました。
 結果、高裁は、一審判決を相当とし、配転無効を認めました。
四 事件を終えた感想
 人はお金を稼ぐためにだけ働く訳ではなく、仕事に誇りややりがいを感じられることも大切です。会社の都合で、労働者の意に沿わない配転が安易になされることのないよう、今回のような判決が積み重なるといいと願っています。
 また、今回の件で、裁判所のあり方について疑問を感じました。これまでの判例や基準に当てはめただけで結論が出るなら、AIに任せれば足り、裁判官は不要です。裁判官に求められているのは、「今の社会はどうあるべきなのか」「より良い社会とは何か」を、時代の流れや社会の変化も考慮しながら考え抜き、妥当と思われる結論を導き出すことではないでしょうか。その際、これまでの判例や基準に変更を加えることが必要であれば、法的安定性にも配慮しながら法理論を組み立てること、それこそが裁判官の腕の見せ所だと思います。

 

組合ニュースの内容に対する介入を断罪 ~枚方市不当労働行為事件勝利命令~

大阪支部  河 村   学

 枚方(ひらかた)市は、大阪の衛星都市の一つであり、「ひらパー」という遊園地がある場所として有名である(有名でないかも知れない)。
 同市の市長は、二〇一五年八月に、大阪維新の会の公認で出馬し当選した伏見隆氏である。
 この市長は、自らが市議の時代から労働組合の権利を「既得権」として批判し、市長就任早々には、それまで許可されてきた在籍専従を認めないという方針を打ち出すなど労働組合を嫌悪し、その活動を抑圧する態度をとってきた。
 ここまでは、橋下元大阪市長に代表される大阪維新の会の「お家芸」のようなものであるが、伏見市長が特異なのは、労働組合が発行するニュースの内容に直接的に介入してきたという点である。
 伏見市長は、市役所職員で構成する労働組合も構成団体として加入していた「戦争法・憲法守れ 枚方実行委員会」が作成したビラの配布や署名のお願い等の活動を問題視し、このような活動を、市職員が労働組合の活動として行ったこと自体「不適切」とし、「節度ある活動を求める」という自粛要請を行った。
 また、そればかりでなく、ほぼ同時に、四〇年以上にわたって職員会館の一室を組合事務所として使用してきた労働組合に対し、その使用目的を「組合事務所としての利用(職員の勤務条件の維持改善及び職員の福利厚生の活動に限る)」と変更して許可した(括弧書き部分が変更点)。労働組合の表現に対し強制的な介入はできないことから、市長の言うことを聞かなければ組合事務所を取り上げるという脅しによって自らの意思を実現しようとしたのである(脅しに留まっている点で、有無を言わさず組合事務所を取り上げてしまった橋下元大阪市長よりましであるが、表現内容自体を抑制するための道具に使っている点では悪質である)。
 その後、市当局は、組合ニュースの内容について、「選挙応援、演説会や署名活動・デモの企画・準備等」を労働組合が行うことや、「戦争法廃止」「TPP断固阻止」「安倍政権打倒」「維新政治反対」などの表現を組合ニュースに掲載することは、括弧書きの範囲を超え、利用目的違反にあたると通告し、現に、日々発行する組合ニュースの内容について、市当局が削除や記事の縮小などを要求を行うようになった。また、労働組合がこれに屈しないとみるや、組合事務所の明渡しを通告した。
 枚方市の対応が政治的表現に対する規制そのものであることは、枚方市は、労働組合の活動・ニュース作成等が組合事務所で行われていたか否かを一切問わず表現内容だけを問題にしていたこと、伏見市長が「政治的」と考える行為だけを問題にし、他の記事(例えば、プロ野球選手の通算最多安打達成を伝えるニュース記事)については全く問題視していなかったことからも明らかであった。
 このような露骨な表現に対する介入に対して、労働組合は不当労働行為救済申立てを行い、二〇二〇年一一月三〇日付で大阪府労働委員会は救済命令を発した。
 枚方市は、審理の際、ニュースの内容を規制したのではなく、組合事務所の使用目的に違反していることを述べただけで、組合が政治的活動を、就業時間外・庁舎外で行うことは何ら規制していないという趣旨の弁解を行っていたが、このような弁解は、前記の事実関係からみても通用しないものであるし、そもそも伏見市長は、労働組合の政治的活動そのものを嫌悪していたのであるから、成り立ち得るはずのない弁解であった。
大阪府労働委員会は「組合が組合事務所で政権や特定政党への批判的記事を掲載した組合ニュースの印刷・発行を繰り返したとして、市が組合事務所の明渡しを求めたことは、組合活動を萎縮・弱体化させる支配介入に当たり、労働組合法第七条第三号に該当する不当労働行為である」と判断した。
 この結論についてはあまりに当然のことであるが、恐ろしいのは、かつてならあり得ないことを首長が率先して行っているにも関わらず、これを諫める職員がおらず、また、これを批判する市民や労働組合の運動が小さいことである。
 昨今、国や自治体は「政治的中立性」などを理由に、市民団体の運動が活発にならないよう、後援を取消したり、公共の場所を提供しなかったり、補助を削減したり、俳句の一つにさえ文句を付けるということを行ってきているし、大阪維新の会のようにこれを「既得権」打破と声高に叫び、集票の材料にする勢力も生まれている。
 このような動きは、結局、市民が表現する機会、市民が考える機会、政治を批判する機会、他者との対話する機会を奪うものであり、民主主義を破壊する動き以外の何ものでもない(伏見市長は、使用目的に反する組合ニュースの表現として「維新政治反対」をわざわざ例示している)。
 本件は、労働組合に対する不当労働行為事件であるとともに、民主主義を脅かす事件でもある。
 なお、枚方市は、命令を不服として大阪地方裁判所に取消訴訟を提起した。労働組合も一部主張が認められなかった点について中労委に再審査申立てを行った。

 

ベトナム人技能実習生の支援者である斎藤善久神戸大学准教授の話を聞いて

大阪支部  井 上 洋 子

 二〇二一年二月四日、国際問題委員会の企画として、ベトナム技能実習生の支援活動をしておられる斎藤善久神戸大学准教授の話をZOOMで聞きました。参加者は団員一五名、団専従二名、ロースクール生一名でした。以下、講演をざっとまとめました。
(総論)
 日本からすれば技能実習生を安価な労働力需給の調整弁として使うものだが、「国際協力」「技能実習」という名をつけている。技能実習生には転職や退職の自由がなく、かつ、借金を背負って来日しているため、使用者への従属度、依存度が高くなる。問題事例があっても、仕事を辞められない、不法行為を訴えられない、職場が許可取り消しや廃業になることを技能実習生が望まない、その結果、違法状態、不法状態の共有を余儀なくされる事態となっている。
(事例)
ア 経済的搾取の例
 弁護士は賃金債権の時効ということで二年分しか請求しないが、民間人のサポーターとして全額をめざす(時効は抗弁事由だから、全額請求は違法ではない)。
 労基署は職場にいる全員を救おうとするので、会社が潰れてしまうことが多い。自分はサポートを求めてきた人だけでも助ける。給与明細がないので、隠しカメラや録音などで給与支払い場面を保全し、労働者がつけていたメモとつきあわせて残業代を確定し、交渉し、三年分の未払い賃金を取った事例。
イ 性的搾取の例
 男性使用者が「残業をやらせないよ」と脅して女性技能実習生に体の関係を迫った。一〇数人いる女性従業員のうち三名程度が応じた。ベッドが並ぶ宿舎で性行為をするのでそれを見ていた従業員がこんなのは嫌だと相談につながった。しかし、告発者はむしろ疎外され、応じた者とそのほかの女性は、「外部にもらすな」「もれたら田舎に帰れなくなる」「金にも困る」ということで口を閉ざし、性的自由の侵害については問題提起出来なかった。そこで、残業代の不払として金銭請求したが、使用者が代理人弁護士をつけ、破産で終了してしまった事例。
ウ 退職強要と損害賠償要求
 職場で体調が悪化して働きに支障がでると、病気の手術歴や既往歴を隠していたという弱みをついて退職を迫り、就労不能期間の家賃やこれまで費用がかかっていることについて使用者が労働者に賠償請求をするといった事例。
エ 暴力事案
 同僚の日本人従業員に対する虐待(尻の穴にたばこをつっこむ、鎖でつないで犬のまねをさせて連れ歩く)を見て、怖くなって技能実習生が失踪した事例。しかしベトナムには帰れないので不法就労となり、一万円程度で手に入る偽造の身分証明書で暮らし、発見されて拘束されたが、その後仮放免されて生活の基盤もないまま、どう暮らしているのかわからなくなった事例。
オ 強制帰国
 夜中あるいは早朝に、急に宿舎にやってこられて、荷物をまとめて空港に連れて行かれる。斎藤先生や支援者が入管にファックスして、強制退去の自力執行がされているので、本人の意思確認をしてほしいと連絡をしたが、うまくつながらず、強制帰国させられた事例。
(弁護士に期待したいこと)
 斎藤先生はこれらを生々しい資料映像とともに報告してくださり、問題発生の現地にバイクですぐに駆けつけたり(月光仮面みたい、古いか・・・)、文書で要求をしたり、関係機関に文書で要請したりと、素晴らしい活躍ぶりが紹介されました。
 そして、弁護士に期待したいことをあげられました。
・事件は各地でおきているので、各地の弁護士と連携したい。
・トラブルがあったときに技能実習生とともに役所へ同行してもら いたい。
・支援者等に対する法的アドバイスがほしい。
・技能実習生を搾取する方向で知恵を貸している「悪徳弁護士」を 排除してほしい。
・活動により逆に訴えられたりしたときに、サポートしてほしい。
 そして、外国人労働者に働きに来てもらうのなら、ちゃんとした形で、すなわち、居住移転、職業選択の自由の保障、労基法の遵守、独立した人格と個人の尊厳を認める形で、働いてもらえるようにしたい、というのが斎藤先生の願いでした。
二 斎藤先生の報告を受けての意見交換
 群馬では、技能実習生制度の矛盾が行くところまでいった結末としての悲惨なベトナム人の刑事国選が多いという報告がありました。また、使用者層へ従業員へのあるべき対応を教える必要があるのではないか、うまくいっている事例の広報をする必要もあるのではないか、経営難と人手不足の農家が、低賃金で劣悪な労働環境の技能実習生によってかろうじて農作物を食卓に届けられていることを認識して、消費者も食料の安さのみを追求することの限界を理解すべきではないか、といったさまざまな意見が出ました。
 また、個々の事件をひきうけるための弁護士名簿を団で作成するとか、実費や報酬が確保されない事件について、せめて実費の負担をする基金を設立できないかとか、団内での技能実習生関係の事件(労働、性的搾取、刑事その他)の報告を求めて集約したらどうか、といった案も出ました。そして、とにかく技能実習生の事件が来たらやろう、ということを確認しました。

 

少年法問題を考えるズーム集会参加感想文

京都支部  秋 山 健 司

 二〇二一年二月七日(日)。この日、私は、自由業らしく、翌日に迫った、集中尋問の最後の詰めを行っていました。一三時二九分となった。私は用意しておいたランチを机に広げながら、ラウンチミーティングの文字を見つめ、「少年法問題オンラインシンポ」が始まるのを待ちました。
 一三時三〇分過ぎ、画面に、同期の小林善亮団員が登場されました。日頃、善亮さんが少年法問題で団のMLで発信を続けておられるのを見ていました。しかし、一日に一〇〇通以上ものメールを受信する私は「メール、メールで、気が滅入る」常況にあり、きちんと追いきれていませんでした。団京都支部司法刑事プロジェクトの一員でありながらも、日ごろ手薄になっている少年事件と治安警察国家問題のことを学ぶのに、このオンラインシンポは良い機会となりました。
三 感染症関連罰則法案にデジタル庁法案と、それ単体でも大問題となる法案が持ち上がっているところにあわせて持ち込まれた少年法改正法案。少年の刑事事件数は統計的に見ても明らかに減っているのに「なぜ今?」という内容。少年法の適用を受けるとしながらも一八、一九歳については、家庭裁判所から検察官に送致(逆送)して刑事裁判にかける対象犯罪を拡大し、厳罰化を強める、実名などの報道を起訴後に可能にするという内容。改正案が通ってしまったら、虐待を受ける等恵まれない家庭環境で育ってきた一八、一九歳が、仲間の窃盗計画に巻き込まれ、心ならずも実行に及び、捕まりそうになり、逃げようと抵抗したところで被害者に怪我をさせてしまったというような事件で、安易に逆送され、実名を報じられ、実刑に処せられる、または、執行猶予となって社会に戻される、という光景が現実のものになると思われました。少年審判や家裁調査官による社会調査が形式化・形骸化し、さらし者にされ、事件を契機に社会の中で「普通」に暮らしていくために必要な教育の機会が失われ、少年の健全育成、少年の自律的非行克服を通じての成長発達権保障という少年法の目的、効果、に反する結果をもたらすと思わされました。
 今回の少年法改正の是非をどう見るか。これは、他者や社会に対する見方によって結論が分かれるような気がします。「人間はルールを守り、理性的に行動するものである。それができない人間は社会から排除されても仕方がない。」という見方をすれば是となるように思えます。「人間は大人であろうが少年であろうが、正邪併せ持つ存在。時と場合によっては悪魔になったり過ちを犯す。そのような人々が社会を構成し、生きている。」という見方をすれば非となるように思えます。私は、自分の過去を振り返ると「あの時、自分が手にしていた揺り籠の持ち手が劣化していたら、自分は傷害致死罪を犯していた。」と思うことがあります。そんな自分は後者の見方をせざるを得ません。与党議員やその補完勢力議員には、そのような人間観が希薄なのではないかと思います。「国民は、黙して働き、税払う」存在と思っているのではないかと思います。そんな議員達の数の力でこの改正を実現させるわけにはいかないと思わされました。月一回行っている団京都支部の街宣で、この問題についても声を上げ、最後まで抵抗を続けたい、そんな思いを抱きながら、一五時三〇分の終了の時を迎えました。
 善亮さんの奮闘されるお姿を見て、三月二〇日一三時開催予定のオンラインシンポ(京都弁護士会主催・日弁連共催予定)の準備に熱が更に上がってくるのを感じました。このシンポでは、日本学術会議会員任命拒否問題を取り上げます。菅総理から排除された芦名定道教授をお招きして、スピーチを頂き、対談を行う予定です。また、菅総理に対する法廷尋問劇、シンポテーマとリンクした幕間ライヴを行う等、盛りだくさんな企画です。近々、京都弁護士会ホームページで参加要領を発表するので、皆様、是非ご覧下さい!

 

核を手放さない日本政府と政治家

埼玉支部  大 久 保 賢 一

 二月四日、核兵器廃絶NGO日本連絡会の共同世話人の一人として、外務省との意見交換会に参加した。この連絡会は、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)などのNGOで構成する核兵器廃絶を求めるネットワークである。外務省からは、國場幸之助外務大臣政務官と大野祥軍備管理軍縮課長が対応した。
 意見交換の目的は、政府に核兵器禁止条約への署名と批准を求めることと、①核兵器禁止条約発効の意義、②安全保障政策における核兵器の役割の低減、③「北東アジア非核兵器地帯」構想、④米国バイデン政権誕生で注目される先制不使用政策への対応、⑤核不拡散条約(NPT)第六条の核軍縮義務の履行、⑥核兵器禁止条約締約国会議へのオブザーバー参加などについて議論することであった。
 政府の基本的スタンスは、禁止条約には入らないということである。その理由は、大きく分けると二つである。一つは、核兵器のない世界の実現のためには、核兵器国がその方向に進まなければならないが、どの核兵器国も禁止条約に反対している。だから禁止条約には意味がない。もう一つは、わが国を取り巻く安全保障環境からして、米国の核という抑止力が必要だという理由である。核抑止論、拡大核抑止論である。北朝鮮、中国、ロシアという核兵器国と対抗するためには米国の核が必要だという思考回路である。
 けれども、「核兵器のない世界」を実現したいということでは皆さんがたと共通しているので、二人三脚でやっていきたいとしている。
 「核兵器のない世界」を目指すとはいうけれど、米国の核を抑止力とするというのだから、結局、当面は核兵器をなくす意思はないということである。二〇〇九年。プラハで、オバマ米国大統領(当時)は、「核兵器のない世界」は「私が生きているうちは実現しないかも…」と言っていたけれど、それと同様の言い方である。自分が生きている間は、絶対に核兵器を手放さないと言うよりも穏健かもしれないけれど、当面なくすつもりはないとの宣言である。究極的には廃絶するということは、いつ来るか分からないし、それは急がないということである。急ぎたい私たちとは、そもそも発想が違うのである。「ゴールは一緒だ。アプローチが違うだけだ」というけれど、今どうするかということでは雲泥の差があることを忘れないでおきたい。そして、「橋渡しをする」ということは、核兵器の廃絶を遅らせようという提案であることも確認しておきたい。
 そんな政府の態度は先刻承知しているけれど、二人三脚でやりたいというので、付き合いは続けている。NGO連絡会だけではなく、日弁連のシンポや反核法律家協会のイベントにも参加してもらっているし、必要な配慮もしている。それが紳士的態度だと思うからである。一緒に進もうと言いながら、動くつもりがないのもひどい仕打ちとは思うけれど、こちらから絶縁状を出すのは大人気ないと考えているからでもある。その昔、レーニンは「紳士諸君。お先に撃ちたまえ」と言ったという。こちらが焦る必要はないのだ。政府が「同席しない」というまで、苦痛ではあるが「同席」するつもりでいる。彼らも「針の筵に座らされているようだ」と言っているという。我慢比べはいつまで続くのであろうか。
 そんな私は、この意見交換会で、一つだけ質問した。「あなた方は、核兵器に依存しない安全保障政策を検討したことがあるのか。抑止論は軍拡競争を招くし、核抑止が破綻すれば核兵器の応酬になるだろう。抑止が破綻しないという保証はあるのか」という質問である。担当課長は、「安全保障政策は私たちだけで決めているわけではないのでお答えできない」ということだった。昔、別の担当課長が、「ほかに政策があるなら、教えてもらいたい」と言い放っていたことがあったけれど、結局、彼らは、米国の核兵器に依存する以外の方策については考えていないようである。典型的な「思考停止」である。
 北朝鮮は、米国と対抗するために、核とミサイルを開発している。日本はその北朝鮮の脅威を喧伝しながら、米国製武器の爆買いをしている。米国政府とロッキード社が、防衛省に兵器の売り込みに来ていたというニュースもある。使用したら、敵も味方だけではなく、地球が滅亡するかもしれない兵器に依存する危険性と愚かさを直視しない政府の発想にはほとほとあきれてしまう。核抑止政策の有効性や限界について何も考えないという没論理的な態度や、核兵器使用がもたらす非人道的な結末を避けようとしない倫理観の欠如を容認することはできない。
 この政府の拡大核抑止政策に賛成しているのは、与党だけではない。二月一二日に行われた、NGO連絡会主催の各政党との「核兵器禁止条約と日本の核軍縮政策に関する討論会」で、立憲民主党の岡田克也氏や国民民主党の玉木雄一郎氏は禁止条約の発効については一定の評価をしつつ、米国の核の傘による安全保障の必要性を指摘して、禁止条約への参加には賛成していなかった。拡大核抑止政策を承認しているのである。
 「有事法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」は、禁止条約への加盟を求める政策を提言している。この二人の発言を聞いて、この提言を、立憲民主党や国民民主党が受け入れるのかどうか、大いに不安を覚えている。国家安全保障の道具として、核兵器の役割を承認するのかどうかという、根本的問題だからである。核兵器は「悪魔の兵器」なのか「秩序の兵器」なのかという二者択一である。
 私は、核兵器に依存する国家安全保障政策を掲げる政権構想に同意することはできない。自国と他国の民衆はもとより、人類社会の滅亡を容認する「核抑止論」を絶対に拒否するからである。
(二〇二一年二月一四日記)

 

「夫婦別姓」と「子の氏」

                  東京支部  後 藤 富 士 子

一 離婚後は「選択的父母同姓」
 戸籍法第六条は「戸籍は、市町村の区域内に本籍を定める一の夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとに、これを編製する。」と定めている。だから、夫婦と子は同じ「氏=姓」になる。これが「入籍」という現象である。そして、婚姻時に夫の氏を称するために九六%の女性が改姓しているという。
 一方、離婚の場合にどうなるか。戸籍の問題では、まず改姓した妻が夫を筆頭者とする戸籍から出ることになり、自分を筆頭者とする単独の戸籍を編製するのが一般的である。氏は旧姓に戻ることもできるが、離婚時の氏を続称することもできる。民法改正前は、必ず復氏しなければならなかったが、離婚に際し子の親権者になるのは母が多く、必然的に子の氏も変更しなければならなくなる。子どもが小学校高学年以上になると、氏の変更は両親の離婚を世間に周知させるようなもので、そのために不登校になった子もいる。そこで、子の福祉に配慮して、「離婚の際に称していた氏を称する」ことができるようになったのである(民法第七六八条一項、二項)。すなわち、離婚の場合、原則は「父母別姓」であるが、選択的に「父母同姓」が民法で認められている。とはいえ、父の氏と母の氏が同じでも、戸籍の上では、子は「父の氏」から「母の氏」に変更することになり、「氏の変更」の家事審判が必要となる。
 なお、「親権」と「氏」の問題は、戸籍上は別個の問題である。改姓した母を親権者として母が旧姓に戻る場合でも、子を父の戸籍に残しておくことはできる。戸籍の子の欄に「親権者:母」と記載されるが、「氏」を同じくする父の戸籍に残るのである。
 ところで、離婚による絶対的単独親権制は、子を巡って離婚紛争を熾烈で消耗なものにしている。そして、親権を失う親(多くの場合、父)は、我が子との繋がりを法律によって断ち切られる辛酸をなめさせられる。さらに、そこでも「子の氏」が最後の決定打になる。婚姻により九六%の女性が改姓しているというから、離婚により氏を変更するのは母親が圧倒的に多い。父は、子の親権が取れなくても、子と十分な交流ができれば、親として実質的な繋がりをもてる。これに対し、生まれた時から父の氏を称していた子が、離婚によって母の氏に変更されると、親子の絆を断絶されたように感じるのは無理もない。他方、子どもにしても、生まれたときからの氏を変更するのは、父との絆を喪失するように感じるのではなかろうか。もし、単独親権者となる母が「離婚の際に称していた氏を称する」ことにすれば、離婚によっても、離れて暮らす父と親子の絆を維持できるという精神的な癒しを得られる。
二 韓国の「父姓優先主義」
 新聞報道によれば、二〇二〇年五月、夫婦別姓の韓国で、子どもの姓をめぐる「父姓優先主義」の廃止が問題になっている。韓国法務省傘下の「包括的家族文化のための法制改善委員会」は、子どもが父親の姓を名乗る「父姓優先主義」を廃止するため、家族関係登録法などの関連法を迅速に改定するよう法務省に勧告したという。これに対し、法務省は「関連法制の改善案を用意し、女性や子どもの権利・利益の向上と、平等で包括的な家族文化の構築に向け努力する」と応じた。
 韓国では、二〇〇五年に男性が絶対的に優先されてきた戸主制が民法から削除された。その際、子どもの姓については父親の姓が優先されるのが原則で、例外として夫婦が結婚の際に合意すれば母の姓を名乗ることができるという但書が設けられた。今回の委員会勧告では、原則である「父姓優先主義」を廃止して、例外であった「夫婦の話合いで子どもの姓を決定する」ことを法定するものである。
 こうしてみると、「夫婦別姓」と「戸主制」は両立することが分かる。すなわち、「夫婦同姓」は、家父長制の名残というよりも、専ら戸籍制度の問題といえる。「戸籍」というからには「家の籍」である。そして、「選択的夫婦別姓」は、これを打破する力を持たない。のみならず、「家の籍」に入籍するだけのことである。夫婦別姓の韓国で二〇〇五年まで民法に「戸主制」があったことを思うと、日本国憲法第二四条に基づき「戸主制」が廃止された日本で未だに「夫婦別姓」が原則にならないのは不思議である。
 とはいえ、韓国で「父姓優先主義」を廃止した場合に、「子の姓」がすんなり決まるか疑問である。それこそ、父か母のいずれかの姓を父母が選択するのだから、日本の婚姻時に夫か妻の姓を選択しなければならないのと同じであろう。
三 「夫婦別姓」は「事実婚」から
 婚姻時に夫の氏を称する結婚をし、父の氏を称する嫡出子を生みながら、離婚時に単独親権者となり、幼い子の氏を自分と同じ氏に変更する母は少なくない。しかし、韓国の例をみれば、「夫婦別姓」でも「子の氏」をどうするかが最大の難問になることが見て取れる。生まれた子の氏について「婚姻時に決めておく」制度では、子の意思が入る余地はないうえ、果たして夫婦で「決める」ことができるのだろうか。
 朝日新聞二〇二一年一月二四日のフォーラム「夫婦の姓、どう考える」で、モデルの牧野紗弥さんは、法律婚から事実婚に切り替え別姓にする準備を進めているという。仕事は旧姓、結婚一一年で一〇歳、九歳、五歳の子がいる。法律婚で姓を変えたことが「夫と対等ではない、所有されている感じ」になっているのではと思うようになった。ジェンダーギャップを「知らない」という環境を家庭から変えたい、「自立し、しなやかな意思を持ち行動する」母でありたいと、家族に別姓を提案。子どもたちは当初、「法律上は離婚となる」ことへの不安を口にした。生活スタイルは変わらないこと、「ママはアイデンティティーである旧姓を名乗りたい」こと、戸籍の仕組みも繰り返し説明した。上の二人には判断する力も、権利もあるとして、自分で姓を選んでもらうという。根底にあるのは「家族は個の集合体」という観念で、自分の考えは共有するが、押しつけない。子どもには自分の足で歩いていける大人になってほしいと願っている。
 結婚前の「姓」をアイデンティティーというなら、それは国家や法律に庇護してもらうものではないと思う。むしろ、現行法制度に反逆する「自我」がなければならない。「事実婚」は、「子の姓」の問題を夫婦がどうやって決めていくのかを試される。その積み重ねによって、真に自律的で豊かな夫婦・親子という家族が実現されるのではなかろうか。
(二〇二一・二・八)

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