第1735号 3 / 21

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●お互いを尊重し合う社会の実現へ向けて  千葉 恵子

●坂本修元団長の思い出  松島 暁

●「国際水準の人権保障システムを日本に」(明石書店)を読んで  永尾 廣久

●団創立100周年記念出版事業編集委員会日記(2)  中野 直樹

●幹事長日記 ~ その1(不定期連載)


 

お互いを尊重し合う社会の実現へ向けて

東京支部  千 葉 恵 子

 森元首相の発言に関する2月9日付の団の声明についての金団員の2月22日団通信の記事に刺激を受け、ジェンダーについての意識、差別しないこと、多様性を尊重する社会について考えていたところ、あるネットの記事に出会いました。
 3月3日配信の「トイレに『男女』の区別がなくなったら?国際基督教大学に出来た『オールジェンダートイレ』を使ってみてわかったこと」(Buzz Feed JAPAN 中村衣里記者)です。
 オールジェンダートイレは、「誰でもトイレ」などとは異なり、個室1つだけのトイレでなく、個室のトイレが連なる、誰もが使用できるトイレで、昨年9月に出来たそうです。
 記者は、現状の男女別トイレを使いづらいと感じるセクシャルマイノリティの人々にとってオールジェンダートイレが必要なものだと理解しつつ、一方で心と体の性が一致しているシスジェンダーの自分は女性用のトイレを使うのが当たり前と思い、オールジェンダートイレを実際に使ってみるとやはり不安を感じ、落ち着かない気分になり、「自分がマジョリティーの側だから感じてしまうのだろうか」と疑問を持ったことをきっかけに、このトイレの設置に関わったICU学生部長の加藤恵津子教授を取材したそうです。
 ICUは,創設当時から人権を非常に重視していて、入学式では新入生が「世界人権宣言」の理念に立つという「学生宣言」にサインするそうです。
 加藤教授の言葉です。
 「人権というのは『マジョリティの人がマイノリティの人の人権を認めてあげる』というものでは絶対にないんです。」「どんなジェンダー、セクシュアリティ、障害、人種にせよ、どんな背景を持っていても人間が人間である限り全員平等でなければならない。人間が全員持っている、幸福で安全に暮らす権利なんです。」「それを考えると、マジョリティのトイレがほとんど占めていて、マイノリティの方には『はい、1個用意してあります。』というものではないんです。」
 明快で分かりやすい。
 同トイレは大学に寄せられていたセクシャルマイノリティの学生の様々な要望に対応した結果ということです。
 トイレは、本館の一番目立つトイレがオールジェンダートイレになり、男性用トイレ、女性用トイレも各階に残されました。オールジェンダートイレを使うことに抵抗のある人は、男女別のトイレが使えます。
 加藤教授は「全ての人が安心できる『選択肢があること』がとても重要です。」と述べます。
 大学では実施前にアンケートが取られ、学生からは不安の声も寄せられ、その声にも配慮したそうです。記者は実際に使用してみて、不安に思っていた音漏れ、盗撮に対する対応、他の人に会いづらい配置などの配慮がされていることを感じます。
 実施後の学生アンケートでは全体としては、「大変満足」「満足」が約60%、「普通」が約30%、実際にトイレを利用した人に限ると約60%が「男女別トイレと同じように使っておりとくに何も意識していない」と回答、「利用したやはり不安だ」という人は15%だったそうです。
 加藤教授は「一度は使ってみてくれて良かった。」「使わないで想像で語るのと、使ってから言うのでは全く違うと思うんです。」「使ってみて不安に感じた人は、もちろん無理せず、男女別トイレを使って欲しいんです。ただ、使ってみて『え、なんだ普通じゃん』って思ってもらえたらすごく嬉しいですよね。」と言います。
 加藤教授の言葉を続けます。
 「マジョリティと呼ばれる側は、これまで自分が置かれてきた状況が自然だと考えるよりも、自分はおまけをしてもらっていたんだ、extra favor をしてもらっていたんだと気づく事が重要です。」「シスジェンダーの人達が『あれ、自分たちって優遇されてきた?』『もしかして自分で自分を優遇してきた?』ということに気づいて欲しい。気づかなきゃいけないんですね。」「そういうことをいちいち考えるのは面倒くさいし、苦しいこともあるかも知れません。だけど結局は下駄を履かせてもらっている人が下駄を脱ぐことなしには平等っていうのはないと思います。」「どんな人も自分は知らない間に得をさせてもらってないかというのを振り返る必要があると思います。」
 ここにはセクシャルマジョリティ、マイノリティの問題だけでない問題提起があると思います。
 この記事を読んで感じたのは、内容も共感したり、大いに考えさせるものであったのですが、その実現に向けての丁寧な手順です。事前のアンケート、アンケートに基づく配慮、実施後のアンケート。
 全ての人が満足するような事というのは中々難しいと思うのですが、このような手順、配慮、配慮の実現を知り、感じると、誰もが自分は尊重されている、と考えることが出来るのではないか、と思いました。
 団員の皆さんにも是非読んでもらいたいと思った記事です。

 

坂本修元団長の思い出

東京支部  松島  暁

 昨年9月8日の午後、同期の加藤健次団員から電話をもらいました。坂本修元団長(以下「坂本さん」と呼ばせていただきます)の遺品整理のため坂本宅に来ているが、「松島さんの原稿が残されているんだけどどうしましょうか」との問合せでした。加藤さんは坂本さんの遺言執行者に指定されていて、私の原稿は、団の100年史の担当部分についての坂本さんの意見を聞きたくて送ってあったものでした。残念ながら、お送りしたときにはすでに入院中で、まもなく亡くなられたため、その意見を聞くことはかないませんでした。
 昨年から団は何人かの先輩団員を亡くしました。坂本さんもそのお一人で、坂本さんには本当にお世話になり、何か書かねばと思いながら今になってしまいました。
 坂本さんは旧小島成一法律事務所、現東京法律事務所の中心メンバー、私は東京合同法律事務所の所属、事務所自体がある種のライバル関係にあったことや、坂本さんと合同事務所の先輩弁護士との間には多少あったようで、私に対しては若干の遠慮があったのではないかという気がします。そのため日常業務をともにされた東京法律事務所の同人の方とは違った思い出となるのかもしれません。
 私が駆け出しの頃に、合同事務所の若手合宿に講師としてお招きして労働裁判のお話しをうかがったことはありましたが、本格的なお付き合いは、坂本さんが団長、私が団事務局長に就任したときからでしょう。最初の事務局会議のことは今でも忘れられません。それまでの慣例を破って、団長自らが事務局会議に出席し意見を述べられたのは坂本さんが初めてではなかろうかと思います。坂本さん、事務局会議中「しゃべる、しゃべる」、会議の4分の3ほどが坂本発言でした。私の次長時代の経験から、団の活力は事務局次長たちの自発的意志と行動によって支えられると考えていましたので、会議の終わりに、「今回は第1回でしたので何も言いませんでしたが、次回以降も同じように話されるのでしたら『弾圧』させていただきます」と坂本さんに申しあげました。ご当人にとっては不満だったかもしれませんが、以後、私からの「お願い」には応えていただけました。ただ、発言はされないものの、首を振ったり傾げたりはされていたし、私の退任後は元に戻ったように聞いています。
 また坂本さんは異常なまでに原稿に修正を加える方でした。改憲手続法阻止運動中、改憲対策本部でブックレットをつくることになり、私が編集の取りまとめ役になったのですが、坂本さんの修正がいつまでたっても止まないのです。入稿日の前日を最終〆切とし、それ以降の修正は一切受け付けない旨を宣言、無事入稿にこぎ着けたのですが、「敵も然る者」、坂本さんは、印刷所に直接、修正をファックスする挙に出たのです。常により良いものをめざす飽くなき追求姿勢が坂本さんの真骨頂でもありました。今回の団の100年史も、船尾元団長の話では、倒れる直前まで推敲を重ねておられたと聞いています。
 坂本さんの思い出としては「司法改革」を外すわけにはいきません。法曹人口の少なさに由来する司法の機能不全という現状を、法曹人口の増加、司法の容量拡大によって打破しようという日弁連主流派(中坊路線)の「司法改革」について坂本さんは、それまで培った現場感覚から強い違和感をもたれたのではないかと思います。その思考と発言の数々は『現場からの検証-司法改革』(学習の友社)にまとめられています。ある時、「司法改革」の積極推進の団員が、いかに司法改革が素晴らしく意義のあることなのかを団の会議で話されたことがありました。私が「団の会議で日弁連のプレゼンテーションのようなことは止めてもらいたい」とクレームをつけたところ、坂本さんは「違う意見もちゃんと聞こうじゃないか」と発言されました。自分と立場の異なる意見であっても謙虚に耳を傾けておられました。
 第一線を退かれてからは、四谷の東京法律事務所や近くのフレンチレストランでいろいろなお話をお聞きしました。最近読んだ本の感想や中国に対する評価、高野山総会での小沢(茂)さんと上田(誠吉)さんのやりとり、メーデー事件の法廷終了後の上田さんのきつい一言等々、失敗談含めてのお話しでした。それでも、ぜひ聞きたいと思っていた中国共産党の干渉をめぐる善隣学生会館事件についてはまったく聞けないままでしたし、団100年史のこと等、まだまだ聞き足りないことが沢山ありました。とても残念です。
 坂本先生、長い間、本当にお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。

 

「国際水準の人権保障システムを日本に」(明石書店)を読んで

福岡支部  永 尾 廣 久

 2019年10月に徳島で開かれた日弁連人権擁護大会のシンポジウムが本となりました。
 このシンポジウムは、個人通報制度と国内人権機関という二つの人権保障システムの実現を目ざしていましたが、どちらも私は耳慣れないものです。難しい話なのかな、弁護士に縁があるのかなと思って読みはじめました。すると、意外にも活用できそうだし、活用すべきものだということが、この本を読んで分かりました。
 個人通報制度とは、国際人権条約で保障された権利を侵害された人が、国内の裁判などの救済手続でも権利が回復しないときに、条約機関へ直接、救済申立ができる手続のこと。日本は、8つの国際人権条約を批准しているが、これらの条約に附帯されている個人通報制度を導入していない。8つの条約とは、自由権規約、社会権規約、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、拷問等禁止条約、子どもの権利条約、障害者権利条約、強制失踪条約。
 また、国内人権機関とは、人権の保障と促進のために設置される国家機関で、世界では120をこえる国・地域に設置されているが、日本にはない。
 日弁連は、このシンポジウムを受けて個人通報制度を直ちに導入し、国内人権機関もまたすぐに設置することを求める決議をしています。
 日本は、国際人権条約を批准・加入しているけれど、個人通報制度を利用できるようにするためには、政府は選択議定書の批准が受諾宣言をしなければならないところ、何回も勧告されているのに日本政府は無視し続けている。
 たとえば、弁護人の立会なしの取調べは、自由権規約に反するという個人通報ができるはずなのに、それができない。
 日本の女性差別の深刻な実情は、森喜郎前会長(オリンピック委員会)の発言で、はしなくも露呈しましたが、女性の8割は収入が200万円以下で、非正規労働者の7割が女性というところにあらわれています。これも、国際機関に訴えることができるはずなのです。
 韓国には、国家人権委員会があり、年に1万件の申立があるとのこと。そして、その事務総長をつとめた人権活動家がシンポジウムで報告しました。韓国では、今では取調べを受けている被疑者に対して弁護人が立会してうしろでメモを取っているのがあたりまえになっているとのこと。日本は韓国よりずっと遅れています。
 国家人権委員会の独立性を確保するためには、法務部(法務省)からの人的独立、そして予算の独立性を強化する必要があると強調されています。なるほど、ですね。
 少し前まで、最高裁判事だった泉徳治弁護士もビデオレターで個人通報制度は絶対に必要だと強調しています。泉弁護士は、裁判所内でまさにエリートコースを歩いてきた元裁判官ですが、個人通報制度が導入されると、最高裁も国際人権条約違反の主張に正面から向きあい、真剣に取り組むことになり、それが憲法裁判の質を高めるからと言います。
 日本では、国際人権条約をいくつも締結しているけれど、個人通報制度がなく、活用されていないため、神棚に祭られて状態になっている。これを日常生活のなかで活かしていくためには、個人通報制度・国内人権機関の2つがどうしても必要だと泉弁護士は繰り返し強調しています。まったく、そのとおりです。
 日本も国際水準レベルで人権保障してほしい、そんな声を高らかにあげるため、必読の本です。シンポジウムのコーディネーターをつとめた小池振一郎弁護士(東京二弁)は、受験仲間で、同期(26期)同クラスでした。少し高いけれど、とてもいい本です。

 

団創立100周年記念出版事業 編集委員会日記(2)

       神奈川支部  中 野 直 樹

団百年史の時代区分
 創立から戦争終結後の再建までが第1章、占領下の時代が第2章、60年安保闘争から1969年高野山総会までが第3章、70年代から80年代が第4章、女性の権利闘争が第5章、90年代以降が第6章、そして今から未来に向けた終章と設定した。団の国際活動は別途コラムとして取り上げることとした。
 2019年8月、各章の字数の割付を行い、主執筆者に「執筆のお願い」文を発信した。第一稿〆切は2020年1月末とした。
意見交換会
 団は過去「自由法曹団物語」との書名で3回出版していた。その実質は「団員物語」で、団としての正史を本にまとめたことはない。百年史といっても執筆を依頼する側でどのようにまとめていくか共通するイメージを持ち合わせていないところからのスタートだった。おおむね一致していたことは、社史風にはしない、かといって団員個人の物語にもしない、その中間的な読み物にする、ということであったろうか。
 したがって、委託を受けた主執筆者も、さてどうするかという戸惑いから始まったものと推察される。編集委員会と主執筆者とサポート役の意見交換会が必須だった。
 1回目は2019年10月21日、蒲郡・西浦温泉で開催された団総会後の午後。強行日程だったが、25名の参加があった。この日までに主執筆者に構想レジュメを出していただき、意見を出し合った。2回目は2020年1月18日(土)、京都市長選に立候補された福山和人団員の激励をかねた京都常幹前の11時から行った。関西の主執筆者に参加いただいた。3回目は3月6日、東京の主執筆者のグループ会議であった。
 2月初めから原稿化されたものがぽつぽつと届き始めた。ところがその頃から新型コロナウイルス感染がひろがりはじめ対面会議をもつことが制約された。そのため執筆者どうしの意見交換の機会をもつことができなくなり、編集委員会と各執筆者との個別の調整で、全体の統一性にも配慮した手直しをしていくしかなくなった。
創立から戦争終結後の再建まで
 この時代を直接経験された団員はすでに鬼籍に入られた。1966年に団結成45年を記念して「自由法曹団物語」が刊行され、1976年にはその後の活動を含めて再編集して「戦前編」・「戦後編」に分けて「自由法曹団物語」2冊が出版されている。この執筆を担当されて間接的に経験されている先輩団員もほとんどが物故者となられ、ご健在としても執筆依頼は困難である。
 ここは岡村親宜団員(東京支部)に引き受けていただくしかない。岡村さんは団員ではあるが、持ち場は日本労働弁護団であり、過労死弁護団である。研究肌であり、労災分野での論文、著書が多い。もう一つの持ち場は源流岩魚釣りであり、この世界では私も長年月、岡村さんと濃厚接触の関係を続けてきた。
 この岡村さんと団の戦前史を結び付けるところに岩魚釣りの遊びがあった。岡村さんの司法研修所の同期に大森鋼三郎団員(故人)がいた。大森さんの父大森詮夫弁護士は1930年に布施辰治法律事務所に入所して自由法曹団に加わり、日本共産党に加えられた3.15、中間、4.16弾圧事件等の弁護活動をしたことが治安維持法の目的遂行罪に当たるとして、1933年9月に検挙・投獄された。1935年12月17日に懲役2年、3年間の執行猶予の判決を受けた。大森詮夫弁護士は弁護士活動に復帰したが、拘留されているときに発症した結核が進行し、1943年3月、妻民子さんと4人の幼子を残して、生涯をとじた(享年40歳)。お子さんのうち長男が河合研一元明治大学教授、二男が大森鋼三郎さんだった。お人とも岩魚釣りの達人であり、岡村さんは釣り上げられた。大森詮夫弁護士没後37年の1980年、偲ぶ会が開催され、戦前を生き抜いた団員等が多数参集した。この司会を務めた岡村さんが、大森詮夫弁護士の遺品、遺稿、妻民子さんからの聴き取り等に尽力され、1983年「万事頼んだぞー弁護士大森詮夫の生涯と思い出」(同時代社)が刊行された。
 この「万事頼んだぞ」は、死の2日前、大森詮夫弁護士が妻民子さんに「万事頼んだぞ。俺が死んだら細井和喜蔵君の無名戦士の墓へ葬ってくれ」と遺言したところからのことばである。その後、岡村さんは、生涯の友・大森鋼三郎弁護士の父を起点として、青山霊園に細井和喜蔵の「女工哀史」の印税で建立された無名戦士墓に合葬された弁護士たちの資料を集め続け、1997年に「無名戦士の墓 評伝・弁護士大森詮夫の生涯とその仲間たち」を刊行した(学習の友社)。さらに2015年、新しく発見・入手した資料を加えて同書の「新装版」を発行した。 
 今回、貴重で希少な岡村さんの執筆作業に、私も手元として関わらせていただいた。岡村さんから必携として治安維持法研究の第一人者である森正名古屋市立大学名誉教授著「評伝 布施辰治」(2014年 日本評論社)を買うように言われた。本文1000頁を超える大著で、定価1万2000円+税だった。日本評論社から大変感謝された。
 今回の執筆にあたり岡村さんは、自由法曹団という枠で新たな資料の発掘もされ、この時代の研究者からも注目される原稿になったのではないかと思う。
余話
 岡村さんは毎週土曜日を論文・釣りエッセイ等の執筆か岩手・花巻を拠点とする岩魚釣りに当てる習慣であったが、コロナ禍で岩手に出かけることができない。運動不足の中で百年史の執筆で座り続けたために腰痛になられたそうだ。

 

▼幹事長日記 ~ その1(不定期連載)

 幹事長に就任してからすぐに、団通信に「幹事長日記」を不定期に連載し、団本部幹事長の悲哀と哀愁と疲弊、そしてその間に多少はあるであろうそこはかとした喜び、さらには団本部に登場する愛すべき人々の人間模様などを書いてやろうという野心があり、それを執行部で公言もしていたのだが、思いのほか団通信に軽くない原稿を立て続けに書くことになり(就任あいさつは別)、その隙に声明や意見書の起案の担当なども次々にやることとなって、すっかり「日記」は遠のいてしまっていたら、平松事務局長に先を越されて「事務局長日記」が団通信リニューアル第1号に載せられてしまった(ここまで一文、適当に息継ぎして下さい)。
 これはなかなかに悔しかったのだが、自分の業務も含めてやっぱ忙しいのよ、ホントに。だからそれでもエイクソっと書く気力もなく、「デジタル庁」関連の論点整理に忙殺というか、頭がずっとこんがらがったままウルトラスーパーストレスフルな日々を送っていたのである。大体、コロナ禍の中、団本部に登場する愛すべき人々といったって、そもそもそんなに登場しない。M次長などは、総会以降、一度も会ってない。そんな中、「日記」に書くようなネタもモチベーションもなかったのだ。で、今日も「デジタル庁」関係の政府文書なんかを読み込もうとしながらカオスに陥ってたところ(それにしても何でこの類の文書はカタカナとアルファベットばかりなんだ!)、団通信担当の専従事務局U氏から、夜8時過ぎに「団通信の編集途中で、無駄にページが余っている。ついては前に公言していた『幹事長日記』を書いて余白を埋めるべし。締め切りは今日中」という鬼のような督促がきたわけである。ざけんじゃねーと言って蹴飛ばしてしまいそうなところではあったが、もともとカタカナとアルファベットのカオスの中に閉じこもっていたこともあり、だったら書いてやろうじゃん、というのがこの原稿である。これを現実逃避といったりする。
 無駄な前置きが長くなったけど、今回書きたかったのはYouTubeチャンネルのことである。ボクが幹事長になってから、団は毎月いくつもの声明、意見書を発表し続けており、それぞれすべてが内容も濃く立派なものばかりだ。こうした文書は執行するだけでなくすべて団のホームページにアップしている。だから関心のある人は、そこにアクセスして読んでもらうことはできるのだが、それとは別に何とかこっちから多くの人の目に留まる工夫はできないものかと考え、YouTubeにそれを紹介する1分程度の動画を作ってアップしたらどうかと提案してみた。誰からも反応がなかったので、だったら俺がまずやってやろうじゃないか、ということで2本撮ったわけです。本当は声明等の内容を分かりやすく解説する動画を作ってアップすればいいのであるが、さすがにそこまでの余力(余力といってはいけないかもしれないが)はないので、まず超短編動画で勝負してやろうと思ったのである。で、これが意外にアクセス数が多く(といっても100くらい)、おっと思ったりしていたのだけど、そうであれば様々な方面からダメ出しもくるわけである。あまりそう思われていないようだけど、ボクは相当に打たれ弱いので(ここのところ大事なところだから、皆さんよく覚えておいてね)、ダメ出しにかなり凹んでしまい、なかなか第3弾に至らずにいる間に、声明、意見書だけがどんどん出されているという事態になっている。
 しかし、やらないよりやった方がいいに決まっているので、これからも動画を流し続けてやろうじゃないか、あーやってやろうじゃないか、などと半ばやけくそ気味に決意を今日新たにしたのである。ダメ出し上等なのである。だから、皆さんチャンネル登録をよろしくお願いします。

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