第1738号 4 / 21

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

*コロナ禍に負けない!貧困と社会保障問題に取り組みたたかう団員シリーズ⑤(継続連載企画)
●生活保護費引下げ違憲訴訟大阪地裁勝訴判決のご報告  清 水 亮 宏

●「1971年4月5日を忘れない」を読んで - 司法反動と民主化運動への思いを強く -  田 原 裕 之

●樋口英明元福井地裁裁判長著「私が原発を止めた理由」 書評と、これを契機とする「科学論争」についての検討  守 川 幸 男

●米バイデン政権と対中・対日政策―変わったことと変わらないこと(下)    <上・下・2回連載>  井 上 正 信

●小林徹也氏の1726号論稿への批判(中)<上・中・下・3回連載>  金  竜 介

●書評 『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著・集英社新書)
【第3回】環境破壊・不平等は、資本主義否定なくして解決しないのか?  川人  博


 

コロナ禍に負けない!貧困と社会保障問題に取り組みたたかう団員シリーズ⑤(継続連載)

生活保護費引下げ違憲訴訟大阪地裁勝訴判決のご報告

大阪支部  清 水 亮 宏

 2013年から3年かけて実施された生活保護費の引下げについて、処分の取消しや慰謝料の国家賠償を求めて提訴した裁判(いのちのとりで裁判)について、2021年の2月、大阪地裁において勝訴判決を得ることができた。全国としては、2020年の名古屋地裁判決に続く2例目の判決である。
 本裁判で問題となっている生活保護費の引下げは、①年齢・世帯人数・地域差による影響を調整する「ゆがみ調整」と、②物価の下落(厚労省独自の計算では4.78%の下落)を理由とする「デフレ調整」を内容とするものであった。
 しかし、ゆがみ調整に関しては、専門家の意見を聞かずに、その影響力が2分の1にされ、デフレ調整に関しては、専門家の意見を全く聞くことなく実施された。
 また、デフレ調整における計算方法があまりにもでたらめであった。厚労省は、物価が特に高かった2008年を起点にして、物価が下落したと扱ったほか、異なる種類の計算方法を混合させたり、物価の下落率が大きく計算される傾向のある計算方法を一部で取り入れるなど、統計学上問題のある計算方法を採用していた。総務省統計局が採用する計算方法を用いた場合には物価の下落率は2%程度にしかならず(厚労省方式だと4.78%)、この数値の違いだけを見ても、厚労省がいかにでたらめな計算を行ったかがわかる。
 大阪地裁判決(森鍵一裁判長・齋藤毅裁判官・日比野幹裁判官 言渡日2021年2月22日)は、①世界的な原油価格や穀物価格の高騰を受けて、石油製品を始め、多くの食料品目の物価が上昇していた2008年を起点したことについて、統計等の客観的な数値等との合理的関連性や専門的知見との整合性を欠くと指摘した。また、②厚労省方式で算定した物価下落率(4.78%)と総務省統計局方式で算定した物価下落率(2.35%)の差に触れ、このような差を裏付ける統計や専門家の作成した資料等があるとは言えないと指摘した。さらに、③このように下落率が著しく大きくなった要因として、教育娯楽(上記で挙げた電化製品など)に属する物価下落の影響が増幅された点を挙げた。
 そして、統計等の客観的な数値等との合理的関連性や専門的知見との整合性を欠き、判断過程・手続に過誤・欠落があるとして、裁量権の範囲の逸脱・濫用があると認め、生活保護費の引下げが生活保護法3条・8条2項に違反するとした上で、処分の取消しを命じた(ただし、精神的損害の国家賠償は否定された)。
 本裁判で問題となっている引下げは、あまりにも問題が多いものであり、生活保護基準部会(生活保護基準の改訂等について検証する国の審議会)のメンバーや統計学の専門家が法廷で証言し、不当性を訴えたほどであった。しかし、生存権裁判特有のハードルの高さから、見通しが明るかったわけではない。その意味では、生活保護利用者が引下げによっていかに過酷な生活状況を強いられているかを訴え、裁判官が原告側勝訴の判決を書く後押しをすることが重要であった。期日では、毎回原告の意見陳述を行い、生活状況を訴えたほか、貧困論についても詳細な主張を行った。これらの訴訟活動が判決に繋がったと期待したい。
 本判決に対しては、原告側も国側も控訴している(原告側が控訴したのは国家賠償が否定されたため)。闘いの場は大阪高裁に移ったが、大阪地裁の画期的な判決が覆されることのないよう、最大限の努力をしたい。

 

樋口英明元福井地裁裁判長著「私が原発を止めた理由」 
書評と、これを契機とする「科学論争」についての検討

千葉支部  守 川 幸 男

この論考の骨子
 原発差止の判断が続いているが,その根拠や理由付けは様々である。焦点は、これらを対比しながらの樋口理論の有効性と位置付けであり「科学論争への深入りの戒め」である。
樋口さんと私
 樋口さんは関西電力大飯原発3、4号機の運転差し止め判決(2014年5月21日)の裁判長である。感動を呼んだ「国富の喪失」の判示は、樋口さんの筆による。
 昨年、千葉の第1陣避難者訴訟の高裁判決前決起集会に樋口さんをお呼びし、講演のあとやや長いインタビューを行って、差止問題に関心を持った。その後もメールのやり取りや資料の提供、電話でのやり取りが続き、表題の本(167頁)を贈呈された。21頁の「素人も理解できる説明ができてこそプロ」との記述は、執筆中に私が敬意を持って送ったメールの表現である。
本のご紹介
 第1章は「なぜ原発を止めなければならないのか」であり、第2章は「原発推進派の弁明」で、樋口さんが逐一反論している。第3章は「責任について」であり、訴訟のあり方や裁判官の姿勢についても論じている。この点は千葉の講演会において、私がインタビューで突っ込んで質問した。
 ポイントは三つ
(1) 運よく、2号機と4号機に欠陥があって東日本壊滅は免れた!
 これは私が少しセンセーショナルに表現したものであるが、事実である。2号機はベントできず、格納容器爆発で東日本壊滅の危機もあったが、どこかに欠陥があって、運よく圧力が抜け壊滅は免れた。また4号機は当時定期点検中で、使用済み燃料プールの水が干上がる危険があったが、隣接する原子炉ウエル(原子炉上部の空間)に張られていた水が、仕切りがずれて燃料プールに流れ込むという奇跡が起こった。1,3,4号機での水素爆発は、格納容器の外側の建屋の爆発にすぎなかった。これらは、私からの素人の質問を受けて、23頁で詳しく解説された。
(2) 原発と住宅メーカーの耐震強度の比較
 比較するのは、原発の圧力容器につながっている配電や配管と住宅の構造である。比較対象が違うようだがこれでよい。原発の耐震強度は、建設当時から少しずつ向上しているが、現在でもせいぜい1000ガル強だ。配電や配管の損傷で電気または水が絶たれれば過酷事故につながる。
 他方、三井ホームは5115ガルである。これは構造の耐震性で配電や配管の耐震性ではないが、一般住宅では電気や水が断たれても命を守ることができる。
(3) 「原発敷地に限っては強い地震は来ない」??
 これは、この本の帯に書いてあり、関西電力の主張を樋口さんが皮肉ったもので、続けて「という地震予知に依拠した原発推進」とある。
 差止をめぐる裁判では科学論争に踏み込むことが多いが、これに対して樋口さんが弁護団に対しても批判を持っている点である。
① 樋口さんの判決では、現に日本のあちこちで1000ガル台から時に4000ガルの地震が起きている。関電が主張する3.11当時の700ガル(その後、控訴審段階で856ガルに引き上げられた)ではとうてい安全性は立証されていないとして、科学論争をむしろ封じて、短期間で判決に至った。
② 昨年12月4日の大阪地裁の大飯原発訴訟判決は、原発の設置変更許可処分を取り消した行政訴訟であるが、原発の耐震設計に関する基準地震動策定に関して、審査過程の過誤欠落を指摘した。
③ 本年3月18日の水戸地裁の東海第2原発訴訟判決は、避難計画の不十分さから再稼働を認めなかった。ただその前提としての基準地震動の設定について過誤や欠落を否定した。
④ 問題は、この二つの裁判における樋口理論の有効性と位置づけである。
 ②と③の事件では、基準地震動に関する規制委員会の審査基準と当該敷地の地震の規模に関する科学論争が行われた。ほかの土地での大地震は間接事実で、当該原発敷地の地震の規模の予測が要件事実だから、この点の科学論争は避けられないという発想は一概に否定できない。だから、樋口理論がそう簡単にほかの裁判所に受け入れられるとは限らない現状で、樋口理論は補強的に使う、という考え方はあり得る。ぜひ議論してほしい。

 

「1971年4月5日を忘れない」を読んで-司法反動と民主化運動への思いを強く-

愛知支部  田 原 裕 之

 団通信1737号(2021年4月11日号)に、京都の村山団員の「1971年4月5日を忘れない」という記事が掲載されていました。その年は、私が大学入学した年です。もう50年も経つんですね。ロートルの昔話に少しお付き合いください。
 昨年配付された青法協弁学部会設立50周年冊子に梓澤弁護士と坂口弁護士の「司法修習23期」の記事が掲載されています。村山団員の記事と同時期を対象にしています。
 1970年代初頭は、青法協攻撃など司法反動の嵐が吹き荒れ、青法協裁判官部会解散という事態の一方で、司法の民主化を求める国民的運動が繰り広げられた時代だった。
 私もその当時の「同時代人」なので、思い出話を一つ。
 長沼ナイキ訴訟で平賀書簡問題が大問題になっていたころ、原告弁護団に彦坂敏尚団員がいた(弁護団事務局長だったようだ。)。
 その息子さんが、私の高校(札幌です)の2年後輩。彼が、最近父親のところにマスコミが取材に来て騒がしい、と言っていた。大騒ぎだったらしい。1970年のこと。その息子さんも、現在弁護士登録している。
 翌1971年4月、私は名古屋大学入学。新入生歓迎企画で「司法反動、修習生罷免」の講演会があった。講師は、罷免された坂口徳雄さん(23期)の1期上の22期の弁護士。誰あろう、水野幹男弁護士でした。同弁護士は愛知県では誰でも知っている弁護士。過労死問題で、全国的にも知られているのでは(川人先生、岡村先生ほどではないかもしれませんが)。すごいエネルギッシュな人だと思った記憶がある。これが、私が「弁護士」なる人種を初めて見た機会だった。
 50年前のことだが、司法反動に抗し、司法の民主化のために闘った歴史は忘れてはならないと思う。23期の闘いは、少なくとも34期の私の中に引き継がれている。若い団員の方も一度はそのころの歴史に触れてもらいたい(年寄り臭いなア)。
 ちなみに、1971年に名古屋大学法学部に入学した中で、団員の弁護士が6人はいる。

 

米バイデン政権と対中・対日政策―変わったことと変わらないこと(下) <上・下・2回連載>

広島支部  井 上 正 道

 2021年3月16日2+2において、日本政府は米国に対して台湾防衛への何らかの約束をしたと考えざるを得ない。これまで日本政府は、日中国交正常化以来の歴史的な日中関係の発展の中で、台湾海峡有事に言及することはなかった。1999年周辺事態法が制定されてからでも、台湾海峡有事を周辺事態とは言わなかった。あくまでも両岸による平和的解決、平和的統一を求める立場を維持してきた。これが日中国交正常化以来の日本政府の原則的で一貫した姿勢であった。
 このような日本政府の対中政策は大きく転換をしようとしているのではないであろうか。なぜか?日本政府が米国と取引したのは尖閣防衛である。尖閣諸島へ安保条約第5条が適用され、米国がコミットすることとの引換だ。
 米国はこれまで尖閣諸島防衛についてオバマ政権以来たびたび安保条約第5条が適用されると述べている。しかし他方で米国は、尖閣諸島の領有権については特定の立場をとらないと中立的な立場を表明している。
 日米防衛政策見直し協議(いわゆる米軍再編協議)で合意された2005年10月「日米同盟:未来のための変革と再編」では、尖閣を含む島しょ部防衛は日本の役割としている。2015年新ガイドラインでは、島しょ部防衛を「主として」日本の役割(日本語仮訳では主体的と訳している)、米軍は「自衛隊の作戦を支援し及び補完するための作戦を実施する。」とだけ述べる。いざ尖閣有事で米軍がどこまで「血を流す」作戦を行うか曖昧だ。
 2014年4月24日訪日したオバマは、尖閣諸島へ中国が軍事的侵攻を行った際に米国は軍事力を行使するか、レッドラインを引くのか、という質問に対して、レッドラインはひかれていない、米国は安保条約を適用しているだけだとして、以下のように述べた。
 「同時に、首相にも直接言いましたが、この問題をめぐって、日中間で対話と信頼構築ではなく、事態を悪化させる行為を続けることは、大きな誤りです。米国は対話と信頼構築を外交手段により促進するために、できる限りのことをします。」
 オバマはむしろ安倍首相に、余計な紛争を起こさないよう気を付けてくれ、米国を巻き込まないでくれとくぎを刺したのだ。
 バイデン政権の対中政策により、尖閣防衛に関する米国の立場が変化したのであろうか。私は米国のこの姿勢が変化したとは思えないのだ。今回の2+2共同発表文は、「閣僚は、日米安全保障条約第5条の下での尖閣諸島を含む日本の防衛に対する米国の揺るぎないコミットメントについて議論した。」と述べるだけだ。米国が本当に尖閣諸島を日本と共同して軍事的に防衛することにしたのであればこのような中途半端な表現にはならなかったであろう。日米間で尖閣諸島へ安保条約第5条が適用されることの具体的な実践につき日米間で綱引きが行われているのであろう。
 米国にとって尖閣諸島防衛をあいまいにすることの戦略的価値は極めて高い。尖閣諸島へ安保条約第5条が適用されるという口約束だけで、日本は米国への軍事的支援を喜んで行うからだ。安保条約第5条が尖閣諸島へ適用されることは条約の条文からは当然であるが、それで米国の共同防衛義務が直ちに生じるものではない。第5条は「自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するよう行動する」と宣言しただけである。
 今回日本政府は2+2において、我が国の日中国交正常化以来の対中政策を大きく転換させた。この代償は極めて大きいであろう。何よりも中国の日本に対する脅威が高まり、その結果日本にとって中国の脅威がさらに高まり、安全保障環境がさらに悪化する。敵基地攻撃能力保有論も中国への脅威に対する軍事的抑止と対処が目的だ。米国は台湾海峡有事を想定した軍事的対処をしようとしている。安保法制の下で、平素から行われる日米共同の対中国警戒監視活動、情勢緊迫時での抑止のための日米共同演習、重要影響事態での米軍支援、これらを通じて行われる武器等防護活動は、日本が米中戦争に巻き込まれる「自動スイッチ」となる。
 2+2共同発表文で「閣僚は、同盟の運用の即応性及び抑止態勢を維持し、将来的な課題へ対処するための、実践的な二国間及び多国間の演習及び訓練が必要であると改めて表明した。」。私は「将来的な課題」に台湾海峡有事が含まれていると読んでいる。

 

小林徹也氏の1726号論稿への批判(中)        <上・中・下・3回連載> 

 東京支部  金  竜 介

極論を立てて自ら立てた極論を叩く小林氏の手法
 小林氏は下記のように述べる。
 ある表現がある人にとって不快感を与えれば、そのような表現がすべて法的に規制されるべきということにはなりません。
 小林氏は、いったいどういう法規制を想定しているのか。一人の女性が不快だといえば女性差別と認定されてその表現を規制できるような法律が作られると本気で考えているのであろうか。
 ある人に不快感を与えたらその表現をすべて法的に規制すべきという論者はいないのであるから、全く無意味な言葉だ。
 さらに付け加えれば、小林氏がここで「不快感」との言葉を用いているのは、意識的に使ったわけではないとは思われるが、ここで使うべき用語ではないことを指摘しておく。多くの被害者たちが、ヘイトスピーチは「不快な表現」ではないことを社会に認知してもらおうと必死に訴えているにもかかわらず、そうした被害者の声が小林氏の耳に届かないことが非常に残念である。
 〈差別をする人間はすべて悪人である〉〈ある人に不快感を与える表現はすべて法的に規制すべき〉との意見を持つ者は存在しない。差別を行う者は全て極悪非道であると考える人間やある人に不快感を与える表現はすべて法的に規制すべきと考える人間を自ら想定してこれを叩くという手法を用いる弁護士の姿は非常に滑稽だ。このような論法が他者の目にどのように見えるかを小林氏にはよく考えてもらいたい。
「人種等を理由とする差別」との用語
 まず小林氏の誤解を正しておく。
 「人種等を理由とする差別」との用語は、人種、皮膚の色、世系、民族的若しくは種族的出身、国籍を理由とする差別の意味で使われることもあるが、これに限定せず、性差別、障がい者差別、部落差別などを含む概念としても使われるものでもある(日弁連が昨年12月に行った意見交換会のタイトルは「人種等を理由とする差別を撤廃するための取組に関する意見交換会」であり、人種差別を含めて広く差別全般について議論された。人種差別に限らず性差別など他の差別事由も含むものとして「人種等を理由とする差別」という用語が日弁連で使用されていることの一例として挙げておく)。
 小林氏は、私が用いた「人種等を理由とする差別」との文言をとらえて、「まさか、部落出身であることが「人種」であるなどと考えておられるわけではないでしょう」という。これに対しては、部落出身であることは人種ではない、「人種等を理由とする差別」との用語は部落差別を含めて使用される場合もある、というのが私の回答となる。
 「人種等を理由とする差別」という語に小林氏がひっかかったのは、その言葉の使われ方をあまり知らなかったための誤解であることをまず指摘しておく。その上で、私が、「人種等を理由とする差別」との文言を用いて杉島幸生氏の著書を批判した理由を述べておくこととする。
 インターネット上の差別的表現について論じる際には、差別事由が部落差別であるか否かに関わらず、「人種等を理由とする差別」についての知識が必要である。この点の理解なくインターネット上の差別的表現を論じることはできない。杉島氏の著書についていえるのは、当該著作の前半を書ける程度に部落差別に関する知識を著者が有していると考えていることはわかるが、後半部分-同著の主題であるインターネット上の差別的表現についての論述は、人種等を理由とする差別についての理解がないために誤ったものとなったということだ。
 人種等を理由とする差別という用語を使ったのは、このような理由であるから、この点についての小林氏の文書は的を射たものではない。

 

-書 評- 『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著・集英社新書) 
【第3回】環境破壊・不平等は、資本主義否定なくして解決しないのか?

東京支部  川 人  博

寄稿予定内容
第1回 衝撃的な著作と著者の登場(掲載済)
第2回 宗教はアヘン、SDGsもアヘンなのか?(掲載済)
第3回 環境破壊・不平等は、資本主義否定なくして解決しないのか?(今回)
第4回 著者は、資本主義に代わる選択肢を示し得ているか?(次回)
(第3回と第4回は表裏一体の関係にあるので、そのようにお読みいただきたい。)

資本主義否定と選択肢
 斎藤氏は、「社会の基盤が大きく揺らぐ危機を前に、行きすぎた市場原理をやめ大きな政府が市場に介入するという程度の対策では、不十分なのである。・・・また、北欧型福祉国家に持続可能性を足した『脱成長資本主義』でも不相応なのだ。・・・中途半端な解決策は、長期的にはもはや機能しない。・・・実際、右派ポピュリズムの台頭に、既存の自由民主主義勢力は対抗できていない。だから、普通のリベラル左派の議論には退場してもらおう。そして、こう言わなければならない。『コミュニズムか、野蛮か』。選択肢は2つで単純だ!
 もちろん、ここで選ぶべきは、『コミュニズム』である」(286~287頁)。
 マルクス譲りというか、バッタバッタと他説をなぎ倒し、歯切れよく自説に導く著者の文章に対して、モヤモヤ感が解消されてスッキリした読後感をもつ人がいるかもしれない。しかし、私は、そのような気分にはとてもなれない。なぜなら、斎藤氏は他者批判の厳しさにもかかわらず、自らの選択肢を具体的に提起できていないからである。彼の説く『コミュニズム』も、そのキーワードとしての「コモン」も、抽象的で観念的な域を出ていない(第4回寄稿参照)。
分析の緻密さと代替構想の粗さ
 私は、初めてマルクスの著作を読んだ17歳頃から、70歳を過ぎた現在に至るまで、つまり、ほぼ人生を通じて、資本主義について考え続けてきた。社会の様々な矛盾を解決するには、資本の論理によって動く資本主義体制を否定するほかはない、というマルクスの提起に、心情的に共感し、合理的なものと受け止めた。学生時代は、社会の実像には疎くどちらかと言えば観念的なものではあったが、弁護士になって、労働現場の人命侵害(じん肺・過労死等)の実態などに深く接するにつけ、「資本論」の様々な指摘の的確さを実感した。「資本論」第1巻第8章に、20歳の婦人服製造女性労働者の超長時間労働による死亡の報道記事が引用されている。いまから30年前に、当時富士銀行女性労働者の過労死訴訟を担当していた私は、ロンドン郊外に出向いて、マルクスの引用した新聞記事の実物を調査したこともある。1988年「過労死110番」がスタートし、同年11月にシカゴの新聞社が過労死をkaroshi or death from overworkと訳し報じたが、1863年のロンドンの新聞は、上記縫製労働者の死亡をDeath from simple over-workと報じていた。過労死が日本固有の現象ではないことは、こうした史実によっても裏付けられる。
 だが、他方では、年齢を重ねるごとに、資本主義を否定した後に、代わるべき社会体制の構想については、実に難しい課題であると考えるようになった。「資本論」は、資本主義社会の批判的分析という意味では文字通り人類史に残る書であるが、代わるべき体制としての「社会主義」「共産主義」構想については、粗いものに止まっている。そして、代替構想が粗いということは、実は資本主義否定の正当性にも連結する問題ではないか、と考えるようになった。20世紀に生まれた、ソ連・東欧の「社会主義」国家は、すでに解体し、中国は、独裁制を維持したままの資本主義国家そのものである。
 斎藤氏の著作もまた、21世紀のグローバル資本主義を緻密に批判的に分析するという意味では、良くできた内容ではあるが、代替構想は粗い。本来、選択肢を具体的に提示できてこそ、資本主義否定の理論が意味を持ってくるのである。
(つづく)

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