第1740号 5 / 11

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●創立100周年記念刊行第一弾!!
自由法曹団物語「人間の尊厳をかけてたたかう30話」普及のお願い  吉 田 健 一

●伊藤和子さんに声援を!  杉 本  朗

*コロナ禍に負けない!貧困と社会保障問題に取り組みたたかう団員シリーズ ⑦(継続連載企画)
●【寄稿】人権としての生活保護といのちのとりで裁判  井 上 英 夫

●日米首脳共同声明は台湾問題の平和的解決を目指すものか?  井 上 正 信

●核兵器禁止条約発効の「実効性」  大 久 保 賢 一

●日本国憲法の「司法の型」  後 藤 富 士 子

●そろそろ左派は経済を語ろう(その12)とんでも本「人新世の「資本論」」を読む  伊 藤 嘉 章


 

創立100周年記念刊行第一弾!!
自 由 法 曹 団 物 語「人間の尊厳をかけてたたかう30話」普及のお願い

団長 吉 田 健 一

 今年で創立100周年を迎える団が、新たな自由法曹団物語「人間の尊厳をかけてたたかう30話」(出版:日本評論社)を刊行します。21世紀初頭の時代の不正義・苦難に向き合い、人権救済と発展をめざし、全国の自由法曹団の弁護士が人々と力を合わせて 懸命に取り組んできた裁判・運動のドキュメンタリーです。
 団は、2002年に創立80周年を記念して「自由法曹団物語 世紀をこえて」を刊行しましたが、今回創立100年を記念して出版する「自由法曹団物語」にも、現場主義を重視し、事実と道理に基づき、人々とともに裁判や運動をすすめる姿勢が貫かれています。30話のテーマは、概ね後記のとおりですが、21世紀に入った時代の変化を反映し、さらには平和や人権をめぐる国際的な動向をも受けて、新たな課題に対する挑戦が示されています。
 今後の活動を進めるうえでも、大いに力となる一冊です。団員一人ひとりが購入していただき、お手元において活用していただくのはもとより、裁判闘争や運動などに取り組んでいる関係者、とりわけ若い世代の法律家やこれから法律家をめざす世代の皆さんにも、ご購読いただくよう大量普及をお願いします。全国各地で、人権保障の志をもちチームワークによって困難な課題を乗りこえ、時代を切り拓いてきた自由法曹団員の姿に触れていただき、自由法曹団とともに歩むきっかけとなる一冊に本書がなることを期待します。
 本書は、5月集会の会場でも、購入していただける予定ですが、現地参加の有無にかかわらず、是非とも、予め別紙(本団通信の最後尾頁)の購入申込用紙でまとめて多数申し込んで下さい。順次発送いたしますので、よろしくお願いします。(なお、団を通じての場合は、定価20%引で一冊税込2000円とさせていただきます)。
 本書は、団創立百周年記念事業の一環として、編集委員会(委員長が船尾徹、副委員長が渡部照子・今村幸次郎の各団員と吉田、事務局長が中野直樹、年表担当が荒井新二の各団員)により、団百年史、団百年年表とともに企画されました。30話は、編集委員会からお願いして担当を引き受けてもらい、コロナ禍のもとで執筆を進めてもらった各団員の皆さんの原稿にもとづくものです。また、編集作業にあたっては、多くの団員に協力スタッフとして担当してもらいました。末尾になってしまいましたが、各団員の皆さんのご苦労に感謝する次第です。

~自由法曹団物語30話~
[第1部] 憲法と平和
①9.11とアフガン戦争・イラク戦争N0、②自衛隊イラク派兵差止訴訟、③辺野古をはじめとする沖縄の闘い、④広島憲法ミュージカル運動、⑤自衛官の人権弁護団・北海道
[第2部] 権力による人権侵害と対決して
⑥猿払事件最高裁判決の壁に挑む、⑦えん罪根絶の闘いをつなぐ、⑧この国のダンスカルチャーを守るために、⑨公安警察による市民監視・共謀罪との闘い、⑩9条俳句不掲載事件、⑪中国人性暴力被害者と共に、⑫教育現場での「日の丸・君が代」強制に抗して、⑬七生擁護 ここから裁判
[第3部] 労働者のいのちと権利をまもって
⑭いすゞ非正規切り裁判、⑮社会保険庁分限免職裁判、⑯「夫の過労死の敵討ち」から「過労死の防止」へ、⑰アスべスト訴訟の闘い
[第4部] 市民のいのちと人間の尊厳をまもって
⑱大阪維新とのたたかい、⑲銚子市県営住宅追い出し母子心中事件、⑳原爆症認定訴訟、㉑東日本大震災からの復興、㉒福島第一原発事故の責任追及と被害救済に立ち上がった人々、㉓原発なくそう九州玄海訴訟、㉔逆転裁判・B型肝炎訴訟、㉕宝の海・有明海の再生をめざして、㉖えひめ丸事件
[第5部] 立ち上がる市民と法律家の群像
㉗あすわかの誕生、㉘司法修習生の給費制維持・復活運動、㉙へイト・スピーチと闘う、㉚性的少数者の尊厳と平等を求めて

 

伊藤和子さんに声援を!

神奈川支部  杉 本  朗

 2018年1月のある日、伊藤和子さんがテレビを見ていると,AV制作会社社長が淫行勧誘罪の容疑で逮捕されたというニュースが流れた。ご存知のとおり,伊藤さんはAV出演強要問題について積極的に被害者のために取り組んでいる。伊藤さんはこのニュースを見て,次の三文からなるツイートを発信した。
 「逮捕されて制作会社社長が顔を必死に隠しているシーンを見て思ったこと。嫌がる女性たちに出演強要し、顔や体、最も知られたくない屈辱的なことを晒させて拡散しズタズタに傷つけて、自分たちは陰に隠れて巨額の利益を得る。そんな鬼畜のような人たちはみんな顔を晒して責任と取ってほしいと思う。」
 これが全ての始まりだった。
 逮捕された制作会社社長は,不起訴処分になるや,伊藤さんに対して名誉毀損を理由に500万円の損害賠償請求訴訟を提起してきた。
 しかし,引用したツイートを読んで欲しい。ここのどこに制作会社社長に関する具体的な事実の摘示があるのだろうか。名前は勿論出ていない。ツイートが発信された日時から,顔を必死に隠しているのは制作会社社長だと分かるかもしれないが,そんなことは普通の人びとには分かりようもない。しかも,第1文はツイートする状況の説明でしかない,短歌でいえば,「…を見て詠める」というタイトルのようなものだ。
 しかも,仮にこのツイートが制作会社社長のことを言っていたとしても,それは伊藤さんの感じたことを述べているに過ぎない。せいぜい論評だ。
 これで負けるはずはないと伊藤さんは,名誉毀損のエキスパートを代理人に立て,一審を闘った。実際,制作会社社長は,今回の逮捕について報道の仕方や警察の記者レクについて,新聞社や東京都を訴えたがいずれも請求は棄却され,確定している。
 ところが,東京地裁は2019年11月,伊藤さんに5万円を支払え,という判決を出した。もしかしたら裁判所は,ちょっとお行儀が悪いよ,というノリで5万円だけの支払を命じたのかもしれない。しかし,AV出演強要の被害者のために闘ってきた伊藤さんにとって,この判決は容認できないものだった。一審代理人に加えて,伊藤さんのお友だちも代理人に加わり,弁護団が結成された。控訴審では絶対に不当判決を跳ね返す,という意気込みだった。
 しかしながらなんと東京高裁は2020年10月,賠償額を20万円に増額して伊藤さんに敗訴を言い渡した。
 地裁も高裁も,伊藤さんのツイートは制作会社社長を名指したものだとしているが,もうそこのところから分からないし,仮に制作会社社長が名指しになっていたとしても,フェアコメントの法理はどこへ行ったんだろう。
 というわけで,団内外から多くの代理人を募り,実働でも20人近くが集まり,上告と上告受理の申立てを行った。コロナ禍ということもあり,弁護団会議はWEBで行い,しかも代理人各人の都合で夜の8時からとか行われた。終わったのが11時を過ぎていたこともある。申立理由書の締切は2021年1月4日で(今から思えば年末年始にかかるので理由書提出期限の延期を申立てれば受け入れて貰えたのかもしれないが,弁護団はそうした日和ったことはしない方針だった),年末ぎりぎりまで会議を重ねた。当初は,年内12月28日に理由書を完成させて,東京高裁へ郵送する段取りだったのだが,結局年内に理由書は完成せず,理由書として製本できたのは1月3日、4日の午前中に私が車を出して、伊藤さんの事務所から東京高裁まで車で運んだ。
 最高裁では、伊藤さんの人脈を駆使して、高裁で意見書を書いて下さった木村草太さんにさらに意見書を作成して貰ったほか、和田真一さん、上野千鶴子さんら学者の方々、AV出演強要問題に取り組んでいるNPOの方々などの意見書を提出した。
 この年末年始は理由書作りでバタバタしたが、あとからいい思い出だね、とみんなで言えるよう、ぜひ最高裁に弁論を開かせて、法廷へ伊藤さんと弁護団が揃って出かけたいと思っている。
 なお、今でも弁護団は募集中なので、弁護団に入って伊藤さんを応援したいという方は、お名前、事務所住所・電話番号、所属弁護士会をご記入の上、後記杉本のアドレスまでメールでお知らせ下さい。
 また、意見書の作成や、コピー代その他消耗品費など、出費がかさんでいるので、カンパの方も下記口座までお願いします。本当は、伊藤さん支援用の口座を作りたかったのですが、結構銀行がうるさかったので、杉本が昔作ってほったらかしていた預り口口座をカンパ用に使うことにしました。
 伊藤和子弁護士の裁判を応援する会も立ち上がり(新倉修さんと後藤弘子さんが共同代表)、ホームページも作成されたので、こちらもぜひご覧下さい。

<杉本アドレス> attysugi@gmail.com
<カンパ口座> みずほ銀行横浜支店 普通2340014 「預り口弁護士杉本 朗」
(アズカリグチベンゴシスギモトアキラ)
<伊藤和子弁護士の裁判を応援する会>
 https://kazukoito-voice.site/

 

コロナ禍に負けない!貧困と社会保障問題に取り組みたたかう団員シリーズ⑦(継続連載)

【寄稿】人権としての生活保護といのちのとりで裁判

いのちのとりで裁判全国アクション共同代表日本高齢期運動サポートセンター理事長   
井 上 英 夫

 今年2月22日、大阪地裁は、国の生活保護基準引下げ違憲訴訟(いのちのとりで裁判)で、2013年から3回に分けて実施された平均6.5%・最大10%の引下げを生活保護法違反とする画期的判決を下した(判決文等については、いのちのとりで裁判全国アクションHPをごらんいただきたい)。
 初めに、裁判への自由法曹団のご協力、ご支援に感謝申し上げ、敬意を表します。
1 権利はたたかう者の手にある
 勝利の報に接し、真っ先に浮かんだのは朝日訴訟原告朝日茂・健二さんの口癖「権利はたたかうものの手にある」である。
 大阪地裁勝訴判決は、憲法97条が、お墨付きを与えている人類の「人権のためのたたかいstruggle」すなわち人権としての社会保障・生活保護確立のための社会保障裁判闘争の成果である。
 生活保護基準は2003年、制度開始以来初めて引下げられ、2006年の70歳以上高齢者への老齢加算廃止と続き、2013年からも引下げが相次いでいる。
 保護基準引下げは、「自助、共助、公助」すなわち国民の権利否定、国の責任放棄(公的保障でなく助け、支援するだけ)路線の先導役を果たしてきた。周知のように生活保護基準引下げにより、自動的に国民生活のあらゆる分野での給付の削減、負担の増大が可能になるからである。そして「自助、共助、公助」は菅政権によって社会保障にとどまらす、新型コロナ対策をはじめ政策全般に拡大されたことに注意が必要である。
 裁判は、人々の強い怒りを根底に、国の「公助」=恩恵路線を裁き、人権としての保障責任を正面から問うものである。
 そもそも日本の生活保護水準は低く、「健康で文化的な生活」には程遠かったものが、度重なる引き下げで、一層苦しく、困難な非人間的な生活を強いられている。これは、憲法25条違反、生活保護法違反である。
 また、憲法13条の認める人間の尊厳すなわち自己決定を否定され、「物価偽装」すら行う国の理不尽・不合理な引下げ手続きへの強い怒りがある。
 この怒りは、老齢加算廃止、母子加算廃止、その後の度重なる基準引下げに対する年間5000件に上る全生連(全国健康と生活を守る会連合会)の集団審査請求運動、さらには、2013年からの年金減額に対する年金者組合による12万6000件以上の審査請求、そして裁判となって表れている。
 老齢加算廃止を争った生存権裁判では、全国9都府県で約100名以上、いのちのとりで裁判では29都道府県1000名、年金引下げ違憲訴訟では、47都道府県で5000名を超える原告が立ち上がっている。原告が朝日茂ひとり、東京地裁だけだった朝日訴訟に比べても、人々の人権意識は高まっているといえよう。
 生存権裁判では、2010年の福岡高裁判決を除き、敗訴が続いた。「権力の砦の裁判所相手に裁判やっても勝てない、無駄だ、政治、政策運動によって制度は勝ち取るべきだ」というような声すら耳にした。
 裁判がすべてではなく、人権のためのたたかいの有力な「一つ」の手段であり、法廷外のあらゆる民主的運動と連帯しなければ真の勝訴はないのはもちろんである。
 筆者は、裁判は形式的な勝ち負けの結果だけではない、原告はもちろん、人々の人権意識をたかめ、改悪をおさえ、人権にふさわしい制度、政策に変える力も持っている、内容では裁判所、政府を追い込んでいる、最高裁ですら基準決定の手続き・過程を無視できなくなっている、と発言し続けてきた。
 大阪地裁の画期的判決は、この流れを受け、保護基準決定の手続き、物価偽装に絞って生活保護法違反と断罪した。判決は、消費者物価指数の下落率(2.35%)よりも著しく大きい下落率(4.78%)を基に改定率を設定した点などが、「統計等の客観的な数値等との合理的関連性や専門的知見との整合性」を欠き、生活保護法3条、8条2項に違反し、違法であるとした。
 生活保護が、恩恵から憲法25条の保障する基本的人権 へと発展してきた歴史を無視できず、実質的には憲法違反を認めたとさえ言えると思う
2 人権としての社会保障・生活保護の歴史と意義
 大阪地裁勝訴判決を生み出す力となり、今後の戦いにとって決定的に重要なのは、人権保障発展の歴史と意義をしっかり学ぶことである。
 世界的な社会保障の発展をみれば、国により発展の道筋の違いはあっても、恩恵から権利(契約や法律によって保障される)へと発展し、現代では権利の中でも最高位の基本的人権(Basic Human Right)すなわち人権として位置づけられている。
 1946年に公布された日本国憲法も、世界で最も進んだ憲法として、基本的人権の保障を掲げ、1950年の現行生活保護法も、まさにこの人権保障を具体化する法律として作られた。したがって、保護受給権の根拠は憲法第25条にあり、国の主張のように生活保護法によって与えられたものではなく、人権としての地位を占めているのである。
 「自助、共助、公助」論は、戦前の恩恵の時代、しかも昭和4年公布の救護法どころか、明治7年の恤救規則の時代に舞い戻る時代錯誤もはなはだしいものである。
おわりに
 昨年6月の名古屋地裁、そして、今年3月の札幌地裁と不当判決の流れも続いている。未だ壁は高いと言わざるをえないが、朝日訴訟が、1960年の東京地裁判決を契機に「燎原の火のように」ひろがり日本をゆるがせたように、大阪地裁勝訴判決を人権としての社会保障・生活保護確立を目指す「社会保障レボリューション」への第一歩としたい( この点、井上他編『社会保障レボリューション-いのちの砦・社会保障裁判』(高菅出版、2017年)をご覧いただきたい)。
 今後とも、いのちのとりで裁判へのご参加、ご支援よろしくお願いいたします。

 

日米首脳共同声明は台湾問題の平和的解決を目指すものか?

    広島支部  井 上 正 信

1 4月20日の衆議院本会議で、日米首脳共同声明に「台湾海峡の平和と安定の重要性を強調するとともに、両岸問題の平和的解決を促す。」と明記されたことを質問され、菅首相は、「当事者間の直接の対話によって、平和的に解決されることを期待するとの従来の立場を日米共通の立場としてより明確にするものだ。」と答えました。
 あたかも共同声明のこの一文により、日米が台湾問題の平和的解決にコミットするかのごとき説明を行ったのです。また共同声明に台湾が明記されたことにつき、「台湾海峡の平和と安定にとって意義がある。」と述べました。
 これらの菅首相の発言は、日米首脳共同声明は台湾有事において我が国が軍事的に関与することを約束するものではない、台湾有事を心配する必要はなく、日米は台湾問題の平和的解決を促すかの印象を与えています。
 しかしながらこのような評価は、事態の推移や情勢を誤魔化し、思考停止に陥らせるものです。菅首相は他方で、台湾有事の際に重要影響事態を認定するかという質問については、「一概に述べることは困難。」とはぐらかす答弁を行っているからです。
 米中国交が正常化された1979年に米連邦議会のイニシャチブで制定された台湾関係法では、第2条B項(3)において、米中国交正常化が台湾の将来が平和的手段により決定されるとの期待に基づくものであることを明確に表明する、と中国へくぎを刺しています。他方で台湾の自主防衛力を強化するため軍事支援をする規定を入れています。米中国交正常化が「同床異夢」であったことは、その出発点からの宿命のようなものといえます。
 翻って我が国の国内法ではどうなのでしょうか?確かに1969年11月佐藤・ニクソン共同声明で、台湾地域の平和と安全維持が日本の安全にとって重要な要素であるとしています。マスコミ報道で今回の日米首脳共同声明へ台湾問題が明記されたのは50年ぶりと述べているのはこれを指しているのです。
 当時の我が国には有事法制はありませんでした。沖縄施政権返還に伴い、安保条約が沖縄へ適用されることになり、在沖縄米軍基地の使用が事前協議の対象になるため、共同声明にはわざわざ「沖縄の施政権返還は、日本を含む極東の諸国の防衛のために米国が負っている国際義務の効果的遂行の妨げになるようなものではないとの見解を表明した。」と述べているのです。
 この意味は、台湾有事の際に米軍が日本の基地から出撃するにあたり、日本政府は事前協議において予め「NO」とは言わないことを約束し(在日米軍基地自由使用の保証)、いざとなったら核兵器の持ち込みも容認するということです。有事の際の核兵器持ち込みは密約にしました。
 当時の日本政府が米国へ協力できることはここまででした。台湾有事で出撃する米軍への軍事的支援はできなかったのです。そのため1994年第一次朝鮮半島核危機の際に、米国が北朝鮮を攻撃しようとして1059項目の詳細な軍事支援を要請した際に対応できなかったし、1996年台湾海峡第三次危機の際に米国が軍事支援を要請した時にもこたえられなかったのです。この経験がその後の有事法制の制定へとつながりました。
 その後1999年に周辺事態法ができ、2003年以降有事法制が制定され、さらに安保法制でこれがバージョンアップされました。その結果現在では重要影響事態認定による戦闘地域での米軍支援と米軍防護、存立危機事態での米軍との集団的自衛権行使、特定公共施設利用法による総力を挙げた米軍支援が可能となっています。
 1969年の共同声明で台湾問題が書き込まれたことと、今回の共同声明で台湾問題が書き込まれたこととでは、全く意味合いが異なっていることをしっかり押さえておくことが必要です。
 米国にとっての台湾関係法と我が国にとっての安保法制を比べた場合、こと台湾有事にあたって、どれだけの違いがあるというのでしょうか?米国は台湾関係法第2条B項(4)、第3条C項により、事実上台湾防衛義務を負うことになりますが、我が国も安保法制と日米安保条約やその関連取り決め、政治的誓約(2+2での合意、日米首脳会談での合意など)により、事実上の台湾防衛義務を負うことになるはずです。
 台湾有事で我が国はどのような立場に置かれ、どのような行動をとることになるのか、その結果はどうなるのか、この究極の問題に対して、菅首相は答えていないし質問をはぐらかしました。これは我が国の長年にわたる安保防衛政策の悪弊である、政治家が現実を見ようとしない、事実を隠す、意図を胡麻化す、その結果平和と安全について思考停止に陥ることになるのです。
 私たちはこのような悪弊を取り払い、しっかり現実を見定めた議論をすべきであると考えます。さもないと、私たちが気付かない間に「悪夢」ともいうべき現実、台湾への中国の武力侵攻に伴い、日米が共同して中国との戦争に入り、我が国領土へのミサイル攻撃が行われるという現実に直面することになりかねません。菅首相や岸防衛大臣に私たちの平和と安全を委ねるわけにはゆきません。

 

核兵器禁止条約発効の「実効性」

埼玉支部  大 久 保 賢 一

はじめに
 核兵器禁止条約(以下、禁止条約)が発効した。究極の暴力である核兵器を条約という理性で制御するシステムの始動である。
 核兵器国や日本政府は、この条約は核兵器の抑止力を否定し、安全保障環境を無視しているので、署名・批准など論外だとしている。核兵器廃絶勢力と依存勢力との対立が、禁止条約の発効を契機として、より先鋭化している。
 この小論では、この対立の中で飛び交う禁止条約には「実効性がない」という言説を検討する。
 結論を示しておけば、「実効性がない」という意味が、条約は締約国だけを拘束するという形式論でいえば「正論」であるが、この条約は「核兵器国に何らの影響も与えない」とか「核兵器廃絶には何の役にも立たない」という主張であれば、それは大きな間違いである。そのことは、核兵器国とりわけアメリカが、禁止条約に敵意を示していることが雄弁に物語っている。アメリカの敵意の理由は、禁止条約がアメリカの核兵器観を根底から否定していることと、核兵器を法的に禁止していることにある。
アメリカの核兵器観
 アメリカは各国に対する「核兵器禁止条約に関する米国の懸念」という書簡で「禁止条約に断固反対」としている。その理由の一つが「禁止条約は米国の抑止政策を傷つける」というものである。元々、アメリカは、核兵器(原爆投下)は戦争を早期に終結させ、多くの人命を救った「救世主」だ。核兵器は冷戦を熱戦にしなかった「秩序の兵器」であり「長い平和をもたらしている。核兵器は、抑止力として敵国の侵略を防ぎ、いざという時の報復手段となる安全保障の切り札だ。同盟国の安全を保障するものだ、などとしている。このような核兵器礼賛がアメリカの核兵器観である。
 これに対し、禁止条約は、核兵器のいかなる使用も「壊滅的人道上の結末」をもたらすので、「核兵器のない世界」の達成と維持は「世界の最上位にある公共善」だとしている。核兵器の使用のみならず、存在そのものを違法としているのである。禁止条約は、アメリカの核兵器観を全否定しているのである。
 核兵器を国防の道具と考えているアメリカからすれば、禁止条約は「危険思想」なのである。これが、アメリカが禁止条約を敵視する第一の理由である。
アメリカの条約観
 ところで、アメリカ憲法は、締結した条約は最高法規であるとしている。禁止条約を受け入れれば、当然、その条項に従わなければならないことになる。立憲主義や法治主義を前提とする近代国家では普通のことである。日本国憲法にも同様の規定がある。条約を締結するとはそういう法的拘束を受けることなのである。拘束を受けたくなければ条約を締結しないことになる。だから、アメリカや核兵器国は禁止条約に入らないのである。これは形式論理としては成り立つ議論である。核兵器国やそれに同調する勢力は、この論理に従って条約には加盟せず、「実効性がない」と主張しているのである。
強行法規(ユス・コーゲンス)という考え方
 けれども、条約に入らなければ全然影響を受けないかというと、そうはいかない場合がある。ある事柄が人道や正義に深くかかわる場合である。国際法には、強行法規(ユス・コーゲンス)という概念がある。絶対に破ってはならない掟という意味である。例えば、ジェノサイド(集団殺戮)、人道に対する罪、奴隷制度、拷問などである。条約があろうがなかろうが、人間として絶対にやってはならないことがあるという思想である。その内容は時代とともに変化している。奴隷制度や拷問が当たり前の時代があったけれど、現在では条約や国内法によって厳禁されている。強行法規という概念の背景には人道と正義が潜在しており、それらが、人権思想の進化とともに、具体的な法規範として顕在化してくるのである。
 禁止条約は、ヒバクシャにもたらされる「容認しがたい苦痛と被害」に着目し、核兵器のいかなる使用も、武力紛争に適用される国際法に違反し、人道の諸原則および公共の良心に反するとしている。これは、被爆者の「人類と核兵器は共存できない」という証言を踏まえての言明なのである。禁止条約は、核兵器の使用をジェノサイドや奴隷制度と同様の強行法規違反と位置づけ、それを明文化しているのである。違う言い方をすれば、禁止条約は核兵器使用の強行法規違反をあぶりだしているのである。
 強行法規は、明文のあるなしにかかわらず人類社会における最低限の規範である。禁止条約に参加するかどうかにかかわらず、国際社会はその掟を無視することはできないのである。アメリカは、人権を尊重する文明国だとしているし、国際法を守る国を自任している。そういう国が強行法規を無視することは自己矛盾となる。それを避ける唯一の方策は、禁止条約を無い事にすることである。これが、アメリカが禁止条約に敵対する第二の理由である。
まとめ
 禁止条約が核兵器国に影響を与えていることは明らかである。だからアメリカは、禁止条約の批准国にその批准の撤回を迫り、その他の国にも、禁止条約は「危険なまでに非生産的だ」などとする書簡を送っているのである。核兵器についてのフリーハンドを確保し続けたいという思惑である。けれども、撤回した批准国はない。
 これまで核兵器を全面的に禁止する法規範は存在しなかったが、今般、核兵器はその存在そのものが、条約で禁止され、廃絶されるべき物とされたのである。単に、道徳的に許されない物、政治的に排除された方が望ましい物というだけではなく、法の世界で許されない物とされたのである。
 法は、人類が社会の秩序を維持するための手段として形成してきたシステムである。物理的な暴力の応酬ではなく、理性と言論での問題解決の手段として、紆余曲折はあるけれど、現在あるような形に発展してきたのである。
 禁止条約は、その法の発展法則を反映して、核兵器の存在を違法としてその廃絶を目指すとしているのである。「核兵器のない世界」を実現する上で画期的な進化がここにある。
 禁止条約に「実効性がない」という言説は、禁止条約の発効がもつ意味を過少に評価し、「核兵器のない世界」の早期実現を妨害しようという悪あがきか、底の浅い形式論である。そんな言葉を鵜呑みにしてはならない。私たちは、禁止条約がもたらす「核兵器のない世界」への着実な一歩を確認し、更なる一歩を踏み出さなければならない。
(2020年1月25日記)

 

日本国憲法の「司法の型」

東京支部  後 藤 富 士 子 

1 「三権分立」と司法
 立憲主義の大黒柱の一つである「三権分立」は誰でも知っているだろう。国家作用を立法・司法・行政の三権に分け、それぞれを担当する者を相互に分離独立させ、相互に牽制させて人民の政治的自由を保障しようとする自由主義的な統治組織原理。ロックやモンテスキューが唱道した。
 しかし、現実の「三権分立」制は、国により異なっている。たとえば、アメリカの大統領制はほぼ完全な三権の分立を認めているが、イギリスの議院内閣制はむしろ立法・行政の融合を示している。また、フランス・ドイツなどの「大陸法系」の諸国では、行政裁判制度により行政権の司法権からの独立を強調するのに対し、「英米法系」の諸国はこれを認めない。
 戦前の大日本帝国憲法も一応三権の分立を認めていたが、天皇の統治権総攬の原則によって統合されていた。戦後の日本国憲法では、立法権は国会に、行政権は内閣に、司法権は裁判所に分属させているが、議院内閣制であり、裁判所の法令審査権を認めている。また、旧憲法で認められていた行政裁判は、現行憲法では「終審として」は認めていない。議院内閣制という点で日本の三権分立制はイギリスとアメリカの中間だと言われることがあるが、そのことに何の意味もない。むしろ重要なのは、戦後の司法は、「大陸法系」の行政裁判が排除されている点で「英米法系」に転換されたこと、そして、裁判所の法令審査権を認める点で完全に「アメリカ型」になったということである。
 なお、イギリスは硬性憲法をもたず、議会主権であるため、裁判所は「法令審査権」をもたない。これに対し、アメリカは、立法府との関係で「法令審査権」をもつ「司法権の優越」であり、硬性憲法についても司法審査型の違憲立法審査制度である。
 ところで、日本の司法は、戦前は「ドイツ型」だったが、戦後改革で憲法上は「アメリカ型」に転換された。しかし、既存の司法の人的物的組織を踏襲しなければならないので、歪曲が起きやすい。最大の問題は、アメリカのように法律家が大勢いなかったことである。裁判官さえ必要な数を揃えられない有様で、キャリアシステム(子飼いの官僚制)のまま現在に至っている。
 私が常々「何か違ってるんじゃない?」と感じるのは、この「ドイツ型」と「アメリカ型」の問題が根底にあるのだと思われる。ちなみに、「法治国家」はドイツ語の“Rechtsstaat”の和訳であり、大陸法系では「法による行政」を行政裁判制度で担保する。これに対し、「法の支配」は英語の“rule  of  law”の和訳であり、英米法系は、議会の制定する法に万人(たとえ国王といえども)が服するという意味で「法の支配」なのである。ところが、日本では司法制度全体を通じて「ドイツ型」と「アメリカ型」がチャンポンになっているために、「法治国家」と「法の支配」が殆ど同義のものとして使われ、差異が認識されることがない。民事訴訟制度は「ドイツ型」がそのまま踏襲され、官僚裁判官制度と相まって「当事者主義」が著しく変容されている。
2 法曹養成制度の転換 ―「ドイツ型」から「アメリカ型」へ
 平成の司法改革で司法は「よくなった」のだろうか?そう考えながら、何を基準に「よくなった」か否かを判断するのだろうか?とも思う。
 私自身の総括は、司法改革は頓挫し、あたかも民主党政権の失敗のような打撃を被ったと考えている。中でも法科大学院の失敗は致命的だと思う。司法試験が司法修習生採用試験である限り、法科大学院は無用である。現に法科大学院自体が半減して予備試験が繁栄し、「元の木阿弥」である。
 翻って、「統一修習」制度は、国民と時代が必要とする法律家を養成する制度なのだろうか?と考えると、「ノー」と断言できる。それは「ドイツ型」の制度であり、「在朝法曹」たる官僚裁判官と検事、「在野法曹」たる弁護士を養成するものであって、「司法権の優越」を担う、資格が一元化された法律家を養成しない。しかし、日本国憲法は「司法権の優越」という「アメリカ型」の制度なのだから、それを担う法律家の養成も、それにふさわしいものでなければならない。すなわち、統一修習を廃止して、アメリカ型の法科大学院制度を追求することである。この改革は、韓国が実証している。
 平成の「司法改革」に邁進した法律家は、「やってる感」に自己満足したかもしれない。これに反対した弁護士たち、とりわけ司法試験合格者数増員と法科大学院設立を敵視した者たちは、頓挫したことを喜んでいるかもしれない。そのどちらの立場でも、国民不在である。しかし、司法は国民のものである。日本国憲法の下で法曹となる者は、司法における国民主権(当事者主権)の実現に責任を負っている。法科大学院制度は、失敗のままに終わらせることはできない。その起死回生策は、「統一修習」廃止にほかならない。
(2021.5.3)

 

そろそろ左派は経済を語ろう(その12)とんでも本「人新世の「資本論」」を読む

    東京支部  伊 藤 嘉 章

第1 この本は、とんでも本なのか
1 SDGsはアヘンなのか
 著者は、「はじめに」で、国連が掲げ各国政府も大企業も推進する「SDGs(持続可能な開発目標)」では、気候変動は止められないのだという。SDGsはアリバイ作りのようなものであり・・・「SDGsはまさに現代版『大衆のアヘン』である。」と切ってすてる(3頁)。
2 ならば言おう。
 著者は「脱成長コミュニズム」という現代版アヘンを吸引して、陳腐なマルクス教の「必然の国から自由の国」という幻覚を見ているのではないかと。
第2 「脱成長」の意味を問い直す
1 アンチテーゼとしての脱成長は、GDPに必ずしも反映されない、人々の繁栄や生活の質に重きを置く、量(成長)から質(発展)への転換だ。プラネタリー・バウンダリーに注意を払いつつ、経済格差の収縮、社会保障の拡充、余暇の拡大を重視する経済モデルに転換しようという一大計画なのである(134頁)。
 私見→かつて、田中角栄は言った。「福祉に回す金は空から降って来ない。外国がくれるわけではない。みんなが汗水たらして稼ぐしかない。」と。GDPの増大なくして社会保障の充実はないのである。
2 GDPとは異なる「ラディカルな潤沢さ」265頁
 「ラディカルな潤沢さ」が回復されるほど、商品化された領域が減っていく、そのためGDPは減少していくだろう。脱成長だ。だが、そのことは、人々の生活がまずしくなることを意味しない。
 私見→確実に貧乏になります。GDPが減少するということは、多くの者の収入が減り消費が減退することである。需要が減縮し、安売り商品しか売れなくなり、デフレスパイラルが引き起こされるのである。
第3 「人新世」に蘇るマルクス
1 「人新世」の時代のハードランディングをさけるためには、資本主義を明確に批判し、脱成長社会への自発的移行を要求する理論と実践が求められる。・・・そう、「コミュニズム」だ(138頁)。
2 脱成長コミュニズムの柱④―生産過程の民主化
 「社会的所有」によって、生産手段をコモンとして民主的に管理するのだ(310頁)。しかし、著者は、企業の国有化や「社会的所有」への道筋をひとことも論じていない。
第4 私の妄想 鉄道というコモンズのコモン化
1 例えば、JRの三島会社のなかでは唯一上場したJR九州の株式を国債発行によって国が買収し、この株式を九州の各県に分与する。九州鉄道運営委員会(仮称)というコモンを設置して、九州人の経済的厚生のために鉄道を運営する。「あそぼーい」「いさぶろう・しんぺい」や重岡駅・宗太郎駅といった秘境駅に停車する「36プラス3」などの観光列車は増発し、重岡・宗太郎は通り過ぎるだけの「ななつ星in九州」などという廃線紀行列車は、必然の国における贅沢旅行といった物質的要求にもとづく列車なので廃止して、通勤・通学・買物・通院その他生活列車の運行を充実させる。また、長崎新幹線のほか九州東部新幹線も九州横断新幹線もフル企画で全額国庫負担でつくる。新幹線というコモンズには貨物新幹線も走らせる。人の流れも物流も鉄道に多くを依存する。このような鉄道社会こそ、ガソリン車、電気自動車の走行を減らすことによって、持続可能な社会を目指すことになるのではないだろうか。
2 それでは、国有化して九州鉄道運営委員会というコモンが運用するJR九州は赤字経営となる。しかし、社会的に必要な機関は赤字でも国が補てんして運用する。その資金はGDPの増大に連動して増える租税収入による。それでも足りなければ国債発行によって調達する。
3 国債の償還資金は借換債の発行で賄う。国と機関投資家との間で資金が循環するだけというこの仕組こそが、金利ゼロ・インフレゼロ・成長ゼロの三ゼロ社会における持続可能な財政運用(Sustainable Financial Operation )ではないだろうか。
第5 総括
1 著者は、脱成長コミュニズムしかないというが、その道筋を示していない。他方で、生活規模を1970年代後半のレベルにおとすことだという(98頁)。何を勘違いしているのだろうか。
2 GDPの減少は経済的に弱いところに痛みをもたらす。現実に、コロナ禍で仕事もなく収入もなく、餓死する人がいるという悲しい社会なのです。今こそ、国債発行によって

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