第1746号 7/11

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

♪♪建設アスベスト訴訟特集♪♪
●建設アスベスト訴訟神奈川 最高裁判決の報告  田井 勝
●建設アスベスト東京1陣訴訟をふりかえる①  森 孝博

コロナ禍に負けない!貧困と社会保障問題に取り組みたたかう団員シリーズ⑩ (継続連載企画)
●住生活基本計画を問い直す 住まいの権利を保障する公約責任をどう果たさせるか  増田 尚

●台湾有事に備える「平和ボケ」  井上 正信

●「舘山茂団員・専従事務局」を偲び学んで  豊川 義明

●舘山茂さんとの思い出  髙橋 勲

●『労働弁護士「宮里邦雄」55年の軌跡』(2021年論創社)を読んで  城塚 健之

●団創立100周年記念出版事業 編集委員会日記(4)  中野 直樹

●事務局長日記


 

建設アスベスト神奈川訴訟最高裁判決報告

神奈川支部  田 井  勝

 建設アスベスト神奈川訴訟の最高裁判決について報告します。
 本訴訟の提訴は2008年6月。横浜地裁に提訴し、その後約13年間のたたかいとなり、ようやく本年5月17日、最高裁で判決が下りました。この日、神奈川のみならず、東京訴訟、大阪訴訟、京都訴訟も含めて4つの事件が同じ法廷で判決となりました。
 本事件の大きな争点は、①国の責任の違法の時期(始期と終期)、②一人親方ら原告についての国の責任の有無、③メーカーの共同不法行為責任の有無、となります。そして、この3つの争点については、上告審の受理の内容の関係で他の3つの訴訟では判断されず、神奈川の判決の中で具体的に判断が示されることとなりました。
 以下、3つについての判断の概要を説明します
 ①国の責任の違法の時期(始期と終期)については、国が昭和50年までに建設作業現場における石綿粉じん対策の必要を行うことを認識できたとして、同時期を違法の始期と認定しました。また、違法の終期についても石綿について製品重量の1パーセントを超えるものの製造が禁止される平成16年までと設定しました。本件が生命・身体の被害であることに重きを置き、規制権限を適時にかつ適切に行使すべきとする、従来の最高裁の判断枠組みをもとに、国の責任期間を正しく認定したといえます。
 また、②一人親方らの原告について、神奈川訴訟の高裁判決では、「(当該原告は)労働者に該当しない」として国の規制権限の不行使の違法が認められないとの判断がされました。しかし、最高裁は、安衛法57条の物についての警告表示義務について、労働者のみならず物を取り扱う者全体を保護すべき趣旨だ、また、現場掲示という場所の規制についてもその場所で作業するものであれば労働者以外の者も保護すべき趣旨だと指摘し、ゆえに、国がかかる規制をしなかった以上、労働者ではない一人親方ら原告の関係でも責任を負うべき、としました。
 ③メーカーの共同不法行為責任については、大工の原告の関係で具体的な判断をしました。民法719条1項後段の直接適用は認められないものの、同規定が被害者の保護を図るために公益的観点から規定されており、本件でメーカーの製造したボードが原告らの建設現場に相当回数到達していること、それらにより原告らが累積期的に石綿粉じんに曝露していること、その量が曝露量全体の3分の1であることから、損害3分の1の範囲でメーカーが共同不法行為責任を負うべき、としました。また、他の職種原告(電工、塗装工、左官など)の関係でも、メーカーらの主張を排斥し、高裁に差し戻しする結果となりました。
 いずれの争点も、最高裁が明快な判断を示してくれたといえます。
 新聞・テレビの報道でも伝えられている通り、判決直後、菅首相が原告代表と面会し、国が原告側と基本合意を取り交わし、併せてその後の通常国会で救済法が成立となり、国が未提訴者を含む被害者について救済金を支払う枠組みの整備がなされる結果となりました。
 残念ながら、屋外で作業していた原告(屋根工など)は敗訴となりました。屋外原告の関係では、後続の訴訟や政治の場での解決を求め、たたかいを続けることとなります。
 また、メーカーとの間では、一部原告について、高裁差し戻し審でたたかいが続くこととなります。メーカーとの統一和解がなされていないため、各地域の高裁、地裁で続いている後続訴訟でもまだ解決には至っていません。
 メーカー責任も、本来は国の作った救済法の枠組みの中に盛り込まなければなりません。今後の大きな課題として残ります。
 このように、まだまだ未解決の問題は残るものの、それでも、最高裁判決がおり、多くの原告さんが喜んでくれました。原告さんに電話連絡で報告すると、涙を流して喜んでくれたり、「亡くなった夫に報告できる」と言ってくれた方が大勢いらっしゃいました。
 法廷内外で全力でたたかってきた、神奈川の阪田勝彦団員、近藤ちとせ団員、東京の山下登司夫団員が、無念にも最高裁前に亡くなられました。3人の大先輩に最終解決の報告をできるよう、最後まで頑張りたいと思います。

 

建設アスベスト東京1陣訴訟をふりかえる①

東京支部  森  孝 博

1 一審・東京地裁(2008年5月~2012年12月)
(1)「森先生、お時間あるかしら?」。2008年某日、同じ事務所の小林容子団員が、弁護士登録直後で仕事もなく事務所でヒマそうにしていた私を気遣って掛けてくれたこの一声が建設アスベスト訴訟との出会いでした。この時は、その後13年以上続く裁判闘争になるとは露にも思わず、誘われるがまま、その年の5月に始まった建設アスベスト東京訴訟(東京1陣訴訟)の弁護団に加わりました。
 弁護団に入った当初、アスベスト(石綿)については、報道で「クボタショック」のことを聞いたことがあるぐらいで、右も左もわからないような状況でした(石綿肺という病気があることも知りませんでした…)。そして、無知なるがゆえ何の疑問ももたず、争点が多岐にわたる建設アスベスト訴訟の中で最も挑戦的なテーマの1つであった、建築基準法に基づく国の規制権限不行使の違法性の追及を担当することになりました(当時、弁護団内に「国交省班」というものがあった)。耐火・防火構造や不燃材料に関する大臣告示、建築基準法38条認定、住宅建設5ヵ年計画など、班会議のたびに聞いたこともない用語が出てきて、最初は会議に参加というよりはなかば外国語学習のような感じでした。
 また、建設アスベスト訴訟は被災者原告がいずれも重篤な疾患を抱えている上、東京1陣訴訟は原告数が300名を超えるので、証拠保全的な意味合いも含めて、訴訟の早い段階から原告本人尋問が多数回実施されました。そのため、新人にもひっきりなしに尋問の担当が回ってきて(もちろん先輩弁護士とペアですが)、中小法廷での一般民事事件の尋問より、満席となった東京地裁の大法廷で尋問をする機会の方が多いという特異な経験をさせてもらいました。
(2) 先輩弁護士にくっついて走りながら学んでいくといった感じで、なんとかドロップアウトすることなく弁護団活動を続けていきました。そして、4年が経ち、2012年春、東京弁護団は、総力を挙げて最終準備書面を書き上げ、2012年4月25日、東京1陣訴訟の結審を迎え、判決言渡し期日が9月26日と指定されました。
 これでようやく一段落と思っていた直後の5月25日、先行していた神奈川1陣訴訟において、横浜地裁で原告の請求が全て棄却されるという衝撃的な判決が言い渡されました。事前に、裁判所から、判決理由から読み上げる予定である、という連絡があったそうで、「まさか」とは思っていましたが、全国初の建設アスベスト訴訟判決は原告の全面敗訴判決でした(この日は、建設アスベスト訴訟だけでなく、薬害イレッサ訴訟の大阪高裁原告逆転敗訴判決、名張毒ふどう酒事件の名古屋高裁再審請求棄却不当決定が言い渡された暗黒の金曜日でした)。
 この横浜地裁判決に続いて予定されている9月の東京地裁判決でも連敗したら、建設アスベスト訴訟の命運が尽きかねない、という大きな不安がよぎる中、判決言渡しが間近に迫る9月某日、東京地裁から、東京弁護団に一本の連絡がありました。それは、判決言渡し期日を12月に延期したい、というもので、東京弁護団内に緊張が走りました。
(3) このような緊迫した状況の中、2012年12月5日、全国で2番目となる建設アスベスト訴訟判決を東京地裁で迎えることになりました。いつも集団訴訟の判決言渡し前は緊張しますが、この時はものすごく緊張し、開廷前2分間のカメラ撮影が異様に長く感じられたことが印象に残っています。
 東京地裁判決の詳細な内容については、団通信1438号(2012年12月21日号)に掲載された平松真二郎事務局長の報告を再度お読みいただければと思いますが、まさに辛勝でした。建設アスベスト訴訟で初めて国の責任が認められた一方、その対象は「労働者」に限られ、原告の約半数を占める「一人親方」「零細事業主」は対象外として請求が棄却されてしまいました。また、建材メーカーについても、共同不法行為の成立が否定され、責任が一切認められませんでした。これらの点については到底受け入れることはできないとして、原告全員が東京高裁に控訴してたたかうことを決断しました。
 このような大きな問題を抱える東京地裁判決だったのですが、「安衛法57条に基づく警告表示が徹底されれば、結果的に、労働者のみならず一人親方等においても有害物質への曝露を回避することが可能となる点は、原告らの指摘するとおりである」(537頁)、民法719条後段を適用する前提として「加害行為が到達する相当程度の可能性を有する行為をした者が、共同行為者として特定される必要がある」(568頁) 、石綿建材が「石綿関連疾患のいずれかに、一定程度の寄与をしていることは否定し難いところであり、石綿含有建材の製造販売企業が、被害者である建築作業従事者に対して何らの責任を負わなくてよいのかという点については疑問があるといわざるを得ない」(571頁)など、その後の逆転につながる兆しも内在していました(一人親方等に対する国の責任や建材メーカーの責任について請求を棄却するという結論の妥当性には担当裁判官も一定の悩みがあったのだと感じます)。控訴審に向けた取り組みの中で弁護団の先輩方から学んだことですが、残念な判決こそ、よく読み込んで次のたたかいに繋げなければならないことを痛感しました。
 そして、東京高裁第10民事部に係属した東京1陣訴訟控訴審は、一審の4年7ヶ月を上回る5年3ヶ月という長期のたたかいになりました。(続く)

 

住生活基本計画を問い直す住まいの権利を保障する公約責任をどう果たさせるか

大阪支部  増 田  尚

 みなさんは、住生活基本計画をご存じでしょうか。2006年に制定された住生活基本法に基づき、5年ごとに、全国計画が定められます。今年3月に、5回目の全国計画が閣議決定されました。
 確かに、政府は、この間、新たな住宅セーフティネットとして、住宅確保要配慮者の入居を拒まない登録住宅の制度や、専ら住宅確保要配慮者向けに提供する登録住宅(専用住宅)への家賃等低廉化措置を導入してきました。また、住宅と福祉の連携と称して、国土交通省と厚生労働省とが共同して、居住支援の取り組みなどを進めています。しかし、コロナ禍にあって、住宅の確保に困窮している声が高まり、住居確保給付金の支給実績が前年度の20倍を超えるなど利用されているのに対し、登録住宅など住宅セーフティネットについては、話題にすら上らない状況です。
 私は、このように、住宅政策が住宅確保のニーズに応えられていないのはどこに原因があるのかを探るべく、5月19日に行われた国民の住まいを守る全国連絡会(住まい連)、日本住宅会議・関東会議、住まいの貧困ネットワーク(住まいの貧困ネット)の主催する院内集会「住まいの貧困をなくす-家賃補助の実現、公共住宅重視への転換を!」に参加しました。
 開会あいさつとして、住まい連代表幹事の坂庭国晴さんから、住生活基本計画(全国計画)案に対する意見と、これに対する回答を見ながら、政府の姿勢を正す基調報告的な発言があった。国交省の回答は、コロナ禍の住宅困窮の実態把握に背を向け、借り上げ公営住宅や恒久的な家賃補助制度の創設などの具体的政策要求に対しては官僚的答弁で逃げ、財政的支援の強化を求める都道府県の意見に対しても、財源措置について定めるものではないと背を向けるものです。坂庭さんからは、住生活基本計画ではなく、個人・団体や都道府県の意見にこそ、住まいへのニーズがあふれており、これを生かすことによって、「新たな時代における住宅政策の指針」になるはずであると発言されました。
 続いて、住まいの貧困ネット世話人の稲葉剛さんと、作家・活動家の雨宮処凜さんによる対談がありました。お二人からは、新型コロナウイルス緊急アクションによる「ゴールデンウィーク大人食堂」などの支援活動を通じて、派遣切りのときとは異なり、女性や外国籍の方からの相談が顕著に増加しており、多くの人が「崖っぷち」でこらえていたのが、コロナ禍で困窮化していることを実感していると語られました。住まいをめぐっては、住居確保給付金の支給対象の拡大や要件緩和などがなされた結果、利用が増えて、労働の喪失にともなって住居の喪失を防ぐことにつながっていると評価しつつ、期間延長により求職活動要件が復活するなど、労働政策からの切り離しが課題になっていると指摘しました。一方で、家賃債務保証業者の利用が80%に拡大し、保証拒否による住宅確保の困難化、一部のシェアハウスなどの問題事業者による貧困ビジネスなど、新たな住まいの貧困が生じていると指摘しました。
 その後、リレートークがありました。中島明子・和洋女子大名誉教授からは、転落した人を救うセーフティネットではなく、居住福祉保障政策への転換を力強く訴えました。私から、全国計画に関して、6月に施行される賃貸住宅管理業登録制度の問題(告示による任意の登録制度から法による義務的登録制にする立法化が図られたが、その際に、賃借人等の権利保障が後退したこと)や、残置物処理モデル契約条項(単身高齢者の賃貸住宅への入居に際し、死後の残置物の処理を委託する契約を締結することによって、賃貸人のリスク回避を図ることが国交省から提唱されていること)が、単身高齢者の自己決定を侵害し、かえって居住の安定を阻害することの問題提起をしました。このほか、東京都議選に関わって、東京借地借家人組合連合会の細谷紫朗さん、東京公営住宅協議会の小山謙一さん、都庁職員労働組合住宅支部の北村勝義さんから、抽選300倍にも達し、入居したくても入居できない状況にあることや、収入超過入居者に対する機械的な退去要求などの実態が次々に明らかにされ、住まい確保の公的役割を果たさせる選択をするよう訴えがなされました。
 各党の国会議員からもあいさつや、メッセージが寄せられました。
 集会は、恒久的な家賃補助の制度化や、借り上げ型を含む公営・公共住宅の拡充を訴えました。
 住まいの貧困をなくし、居住権を保障するためには、あらかじめ事業者が登録をしなければ利用できない制度ではなく、入居者が選択した賃貸住宅への補助がなされるようにするなど、事業者ベースの制度設計を根本から見直す必要があるでしょう。また、基礎自治体が予算措置を講じなければ、国が予算を支出しない仕組みを改め、国による積極的な財政支援が必要です。登録物件数という数値目標の達成を追及するだけでなく、居住の権利の保障につながっているのかという観点から、監視と要求の運動を欠かさないことが必須です。団員の先生方も、不断の住宅問題への関心、関与を寄せていただくようお願いします。

 

台湾有事に備える「平和ボケ」

広島支部  井 上 正 信

 今にわかに台湾有事への関心と議論が高まっている。きっかけは今年3月16日の日米安保協議員会(2+2)共同発表文で「台湾海峡の平和と安定の重要性を強調した」との一文と、4月16日日米首脳共同声明で「台湾海峡の平和と安定の重要性を強調するとともに、両岸問題の平和的解決を促す。」と述べたことである。
 さらにこれに至る伏線として、今年3月9日米連邦議会上院軍事委員会で、サリバン議員の「台湾海峡での(武力)紛争に関してどのようなタイムラインを推測しているのか。」との質問に対して、米インド太平洋軍(INDOPAKOM)司令官デビッドソンが「台湾は中国の野心の一つであり、この10年実際には6年先にはこの脅威が明白になると考えている。」と証言したことが波紋を広げたのである。
 自民党外交部会台湾問題プロジェクトチームが今年6月1日に緊急提言として第一次提言を発表した。6月14日から開かれるG7首脳会議を前に緊急提言として出されたもので、G7首脳会談へ出席する菅首相を後押しするものであった。G7では菅首相とバイデン大統領による説得で、首脳宣言で台湾海峡の平和と安定の重要性に初めて言及した。
 この第一次提言は、以下に紹介するように、台湾に対する中国の軍事的侵攻を想定して、我が国としてそれに備えることを提言するものとなっている。
 「台湾周辺海域の平和は、我が国の安全保障に直結する。」
 「我が国の立場は、基本的に米国政府の立場と同じであり、米国による台湾政策と同様の政策を、日本国政府が国益と日本国憲法との整合性を判断したうえで採ることは当然」
 「(台湾は)地政学的にも南西諸島から台湾海峡、バシー海峡と続く第一列島線という我が国のシーレーンの要に位置しており、我が国の存続に死活的な意味を持つ。」
 「台湾の有事はわが国自身の危機である。」
 「台湾有事が発生した場合(中略)在台邦人の退避、国民保護の観点からも万全を期すことを求める。」
 中山防衛副大臣は6月29日ハドソン研究所主催のオンライン講演で、「中台有事となった場合、地理的に近接する沖縄県に直接関係する」「中国の台湾進攻に備え、私たちは目を覚ます必要がある。」「台湾有事に準備しなければならない。」などと述べたとの記事が6月30日付琉球新報に掲載されていた。
4 米国は中国との武力紛争に向けた軍事態勢を着々と作っている。我が国を含む第一列島線上に、地上発射中距離弾道ミサイル、巡航ミサイルを配備して、中国海・空軍を第一列島線の西・北側へ封じ込めようとしている。中国との武力紛争を想定して、米陸・海・空・海兵部隊の新しい戦術を作りつつある。海兵隊の遠征前進基地作戦(EABO)、空軍の迅速戦闘運用(ACE)、海軍の武器分散コンセプト、陸軍の領域横断作戦である。キーワードは、小規模部隊による、中国との武力紛争の戦域内で、迅速に機動し、中国軍の戦力を分散させ、戦場で中国軍を打ち負かすというものである。
5 我が国の軍事態勢もほぼ同じものを作ろうとしている。離島防衛と称して、奄美、宮古へ陸自対空・対艦ミサイル部隊を配備し、石垣へも同じ部隊を配備するための工事が進んでいる。これへ配備されている12式対艦ミサイルを、2020年12月閣議決定で改良することを決定した。12式ミサイルの射程200キロを900キロ、将来的には1500キロまで伸延する、地上発射型だけではなく、海上・空中発射も可能な巡航ミサイルにするというものだ。
 敵基地攻撃能力保有論もこの軍事態勢の一部として位置づける必要がある。米中距離ミサイルの配備を論じた米海軍協会機関紙プロシーディングズ掲載論文「島嶼の要塞化」によれば、米中距離ミサイルの配備個所として、第一列島線上に12か所を想定し、論文に掲載されている地図からは、その内わが国では、対馬、馬毛島、沖縄本島、奄美、宮古、与那国が想定されていると思われる。陸自ミサイル部隊との共同作戦をとるであろう。
 30大綱では、新型イージス護衛艦(まや、はぐろ)とE2D早期警戒機に、米海軍が開発配備している統合戦闘情報ネットワークである共同交戦能力(CEC)を装備している。これにより日米両軍が一体となった戦闘を可能にする。
 空自が配備している防空システムJADGEを基盤として、陸・海・空の各種レーダーなどのセンサーを統合して、敵の監視のみならず敵に対する攻撃を統合指揮する総合ミサイル防空能力を構築しようとしている。これは米国の新しいミサイル防衛システムであるIAMD(統合防空ミサイル防衛)と連携することを想定している。
 以上のような自衛隊の軍事態勢は、台湾海峡有事をにらんだものであることは間違いないであろう。
 これらの軍事態勢が有事において機能するものが安保法制である。自民党外交部会の第一次提言が「台湾の有事はわが国自身の危機である。」と述べることの意味は、台湾海峡有事は存立危機事態であるということだ。
 これまで日本政府は、1999年周辺事態法制定にあたり、台湾海峡有事が周辺事態に該当することにつき曖昧にしてきた。安保法制法案の国会審議でも同じ対応であった。
 しかしここにきて安保法制が台湾海峡有事に際してフルに機能することが明白になったといえる。
 武力紛争前の情勢緊迫段階での「柔軟抑止選択(FDO)」は、新ガイドラインで導入され、30大綱で採用された日米の軍事態勢だが、これは情勢緊迫時に日米共同で抑止目的の共同軍事演習や、警戒監視活動を展開するというものだ。2017年11月朝鮮半島での緊張状態で朝鮮半島付近まで展開した米空軍爆撃機を航空自衛隊機が護衛したのが、このFDOである。その際自衛隊は米軍防護や物品役務融通協定により軍事物資の提供が可能だ。
 武力紛争となれば重要影響事態を認定して、空母化された護衛艦いずも、かがの甲板を、海兵隊のF35B や米海軍の対潜哨戒ヘリが離発着し、その際弾薬(地対空ミサイルや対潜ミサイルなど)や燃料を提供し、整備を行うことができる。むろん米空軍機や海軍艦船(空母や強襲揚陸艦など)を防護できる。
 存立危機事態を認定すれば、空自那覇基地のF15や、新田原基地のF15、築城基地のF2や近い将来配備されるF35Bも作戦に参加するだろう。
 むろん奄美、宮古の陸自ミサイル部隊は、奄美本島と沖縄本島間の海峡や、沖縄本島と宮古島の海峡を通過しようとする中国海軍艦船を対艦ミサイルで攻撃し、米海軍艦船やグアムを攻撃しようとする中国空軍機に対して対空ミサイルで攻撃するであろう。
 中国軍もこれは当然想定しており、台湾への軍事侵攻にあたり、米軍が軍事介入する前に短期決戦で台湾を降伏させて占領を図るための接近阻止・領域拒否(A2/AD)のため、琉球列島上の陸自ミサイル部隊や、沖縄本島の米軍と自衛隊の基地に対してミサイル攻撃を仕掛け、与那国、石垣島の軍事占領も行う可能性がある。我が国とりわけ沖縄は米中ミサイル戦争の最前線となるのだ。
 中山防衛副大臣が、中台有事に沖縄県が直接関係するという意味はこのようなことであろう。
 だけどもそこに住む市民にとっては戦争被害を直接受けることだ。それによる被害がどれほどのものか、政府、防衛省、自衛隊や中国の脅威に対して軍事的対処を主張する論者,9条改憲論者は一切語らない。このような日米による軍事態勢を作れば、中国に対する軍事的抑止力になるから大丈夫と言わんばかりである。
 だが、これらの日米による軍事態勢が中国をどれほど抑止するかは、中国の受け止め方に依存している。たとえ総合的な軍事力が日米の方が上回っているとしても、短期的には米軍は戦力を集中できないであろう、一旦台湾を攻略すれば、米国はあきらめるであろう、日本だって沖縄や九州の基地が攻撃されることまで受忍できないであろう、などと考えれば抑止は効かない。抑止力論には常に誤算、読み違いが付きまとうのだ。
 抑止力で平和と安全が守られると考え、万一抑止が敗れた場合に生じる武力紛争の結果を想像しないとすれば、それはまさに「平和ボケ」と言わざるを得ない。

 

「舘山茂団員・専従事務局」を偲び学んで

   大阪支部 豊川 義明

 荒井新二先輩の21年6月11日付(1743号)の「舘山茂さんのご逝去」の文章を読み、団の専従事務局として献身的に尽くして下さった舘山茂さんが2020年9月5日亡くなられたことを知りました。
 舘山さんが25年間にわたり団の団結と発展、役割強化のために活動されてきたことに心から敬意を表しますとともに、私は、1971年の入団後、5月集会や総会の際に舘山さんとお会いし、また短い時間ですが、会話の際は、いつも優しく丁寧に接して戴いたことに感謝しておりました。
 23期の私達は、最高裁から7名の任官拒否者を出され、このことを研修所長に釈明を求めた阪口徳雄君は罷免処分を受けました。司法反動化阻止への23期の会活動の位置づけと行動については、団の先輩の方々から批判を受けることがあり(入団の71年5月集会での23期の発言とこれへの批判は、団発行の『人権のために』第16号(1972・8)岡林辰雄先生の「弾圧反対闘争の回顧と展望」2頁以下に紹介)、団の集会、総会参加に暫くの間、緊張感がありました。
 舘山さんは、秋田地方裁判所刑事部の主任書記官であり、仲間からは書記官のホ-プといわれていました。昭和33(1958)年の全司法の裁判浄書拒否闘争で、秋田、熊谷の活動家とともに最高裁から免職処分(同年4月)を受けられました。全司法の法対部の責任者でしたが、昭和40年頃に上田誠吉元団長が、団の事務局として招かれました。
 昭和49年の争議事件解決の成果の前歴加算もあり、再採用の途が開かれましたが、舘山さんはこれを蹴って団の仕事の継続を選ばれたのです(舘山さんの退職に際しての佐藤義弥元団長の「舘山さんありがとう」、団通信629号1990年7月1日)。
 舘山さんが、私も含め恐らく23期の団員達にも優しく対応してくださったのは、自らの最高裁による処分との闘いとの共感があったからかも知れません。最高裁による再採用方式は、阪口罷免処分もそうでした。
 舘山さんは、1990年1月1日号(団通信611号)で「新年のご挨拶を申しあげます」との一文を寄せておられます。団通信を作成する専従者が駄文で貴重な紙面を割くのはよくない、と前置きされた上で次のとおり記されています。
 「いま、人権といわれますが、何よりも、生まれながらに負わされることのある身体的知能的ハンディの最も重い人をも人間として遇し、社会関係の中では他人のためにときには権力によって人間が犠牲にされることを決して見逃さず許さないこと。自由といいますが、所詮、そのことの為には何ものにも拘束されず恐れもしないでたたかうこと。自由法曹団は、その名のとおり、その初めから、こういうものとしてあったし、年が変わってもこれは変わらないでしょう。この、団としては当たり前だが、迂遠なことが、私にとっては日々の仕事の楽しさの原因であり、感動をうける素材であり、骨惜しみせずにやって来れた理由になっています」。
 この短い文章のなかに、現在、団創立100年を迎える団員が思い考えて実践する人権運動、そして団とは何なのかが端的かつ鮮明に表現されていると考えます。
 舘山さんについては、その退職(1996年6月末)に際し、鶴見祐策団員と故豊田秀男団員が団通信631号に、そして大橋昭夫団員が団通信632号にそれぞれ労いと心からの敬愛の文章を書かれています。
 この当時の団財政もあり、舘山さんは充分な退職金もお支払い出来なかったことも思い出します。
 団100年を迎えるこの年に、困難な時代の四半世紀にわたり、専従事務局(なお舘山さんは団員の資格を持たれました)として、献身的かつ実直、誠実に団活動を支えて戴いた舘山さんを偲ぶとともに舘山さんの言葉から学びたいのです。

 

舘山茂さんとの思い出

千葉支部  髙 橋   勲

 元団本部専従事務局の舘山茂さんの訃報に接した。しばらくお会いしていなかったことが悔やまれる。
 1981年10月16日、北海道北炭夕張・新鉱ガス突出による大災害が発生した。93名もの労働者を坑内に閉じ込め、その生命を奪った空前の大災害だった。
 その事故から1週間後、自由法曹団はその年の全国総会を東京で開いた。
 団は、金沢の梨木作次郎団員のあつい発言をうけて、この大災害に対する抗議決議を総会の名において採択した。
 私はこの総会で団本部事務局長に選任された。この戦後3番目に大きな炭鉱災害に対して、団は総力をあげて、取り組むことが求められた。総会や記念集会を終えたあと、団長の上田誠吉さんらと相談し、直ちに夕張にとぶことにした。団の「現場主義」の実践だった。
 10月28日、団本部事務局次長の舘山茂さんとともに夕張にはいった。私にとって舘山さんは、まことに心強い同行者だった。
 夕張にはいった私たちは、会社への抗議と現地でたたかう人びとを激励し、団本部としての現地調査の準備をととのえた。
 団は、その後全国の団員に呼びかけて夕張新鉱災害調査団を組織し、この大災害の原因究明とその責任を明らかにし、再発防止策などを提言するなど自由法曹団ならではの取り組みを行った(自由法曹団夕張新鉱災害調査団編「きけ 炭鉱(ヤマ)の怒りを」1982.10)。
 舘山さんは、長く団の専従事務局をつとめたよれる「事務局次長」であった。また団規約3条にもとづく「弁護士でない団員」でもあった。
 団規約3条には「進歩と自由をねがい、人民の権利をまもることを志す弁護士」であることを入団の要件としながら「弁護士以外の法律家で、……総会の承認により団員となることができる」とある。
 舘山さんはこの規定の適用をうけた唯一の自由法曹団員だった。
 この団規約3条は、団の目的を定めた第2条とともに、1969年高野山総会で改正されたものであった。
 規約3条改正の提案理由には次のようにある。
 「弁護士ではないが、団のためにたたかう優れた活動家や、弁護士資格を奪われて、しかも団のためにたたかう人たちのありうることを考える必要がある。」
 戦前からの長いたたかいの歴史をもつ団は、団の先人達が、権力によって弁護士資格を奪われたことも決して忘れていなかった。今日のこの国や世界の人権状況を考えるとき、団の「先見性」をここに見る。
 その頃、団本部事務所は「港区芝琴平町21番地」にあった。古い軽量鉄骨造の3階建。戦前、戦後のたたかいの記録が山積みされていた。夜、おそくまで仕事をしていると、ふと、戦前治安維持法などによって弾圧された先人達の声がきこえるような錯覚にとらわれたことがあった。こんな時私は舘山さんをさそい、新橋の居酒屋に立ち寄り、いっぱいのみながら団の歴史をあつく語りあった。
 楽しくもあり、貴重なひと時であった。舘山さんは団の歴史について実に詳しい人だった。そして団をこよなく愛していた。
 舘山さんは平和を愛する人であった。広島・長崎の世界大会にはよく出ていた。私も事務局長時代、舘山さんと2人で団の旗をかついで行進したことをなつかしく思い出す。
 そして、舘山さんは団の「生き字引き」でもあった。
 団本部が琴平町から文京区小石川に移転したのは1984年9月。しばらくして舘山さんが定年退職で団専従を終えてからも、事務所の「倉庫兼書庫」のような一角に「もぐって」戦前からの団のたたかいの歴史を裏づける貴重な資料の整理にあたってくれていた。
 この舘山さんの整理してくれた「資料」は今どうなっているのだろう。
 団は今年創立100周年をむかえる。きっと舘山さんの整理していた団のたたかいの資料も、何らかの形で活かされているにちがいない。
 団本部から、舘山さんとの思い出の原稿をと言われてから自宅にある団のむかしの資料をひらくことが多い。なつかしく夜遅くまで読みふけることもあった。そんな時、舘山茂さんの、あの「はにかみ屋」の「人なつこい」顔が時々のぞくのだった。

 

『労働弁護士「宮里邦雄」55年の軌跡』(2021年論創社)を読んで

大阪支部  城 塚 健 之

 およそ労働弁護士たらんとする者、宮里邦雄団員(17期)の名前を知らない人はいないであろう。私にとってももちろん大先輩であるが、敬愛の気持ちを込めて、宮里さんと呼ばせていただく。
 本書は、宮里さんの労働弁護士としての活動の足跡を、編集委員である髙橋均(元連合副事務局長)、棗一郎(日本労働弁護団闘争本部長)、高井晃(全国ユニオン元事務局長)3氏のインタビューで辿るとともに(第Ⅰ部)、宮里さんの生い立ちから労働弁護士として活動を始めるまでのエピソード、故郷沖縄への思い、ロースクールの教員活動を通じての所感など(第Ⅱ部)、そして宮里さんが折々に書かれたエッセイをまとめたものである(第Ⅲ部)。
 第Ⅰ部は、戦後の労働事件史の大半をカバーする(なにしろ、戦後75年のうちの55年である)。宮里さんが最初に手がけたのは不当労働行為による解雇が争われた日本教育新聞社事件。解雇無効を勝ち取ったが、団結は破壊され、孤立したご本人(東大文学部出身の優秀な青年であったという)は復職後自殺してしまう。なんと衝撃的な原体験であろうか。そこから宮里さんは「労働組合にとっての本当の勝利とは何か」を常に考えるようになったといわれる。
 その後、宮里さんは、数多くの不当労働行為をたたかい(著作もその関連が多い)、パワハラ事件のさきがけとなった東芝府中工場事件を勝利に導き、労働者派遣法制定時には国会で参考人として熱い意見陳述をされた。そして、国家的不当労働行為である国労事件をたたかいぬき、最近では旧労契法20条の効力をめぐる長澤運輸事件やコンビニ店主の労働者性をめぐる事件にも取り組んでおられる。多方面にわたるそのご活躍ぶりは驚異的である。
 宮里さんが一貫して追求してこられたのは「団結」である。1989年、労働戦線再編により総評が解散したとき、総評弁護団は、ナショナルセンターの枠にとらわれず、連合・全労連・全労協と分け隔てなくつきあい、自主・独立の立場ですべての労働者と労働組合の権利のためにたたかうべく、日本労働弁護団に改組したが、そこには宮里さんの確固たる考え方があった。その後、宮里さんは、2002年から2012年までの長期にわたってその会長を務められた。
 2012年、大阪で橋下維新が、大阪市労連(自治労)、大阪市労組(自治労連)の双方に組合事務所を明け渡すよう求め、両組合らが裁判・労委闘争に立ち上がったとき、大阪労働者弁護団、民法協(当時私が幹事長を務めていた)など法律家8団体の呼びかけにより、中之島公会堂で3000人集会が開かれた。会場には自治労と自治労連の二つの組合旗が並んで掲げられたが、それは労戦再編後(少なくとも大阪では)初めての出来事だった。その集会に東京から連帯と激励の挨拶に駆けつけてくれたのが宮里さんだった。宮里さんはまさに団結の象徴であった。
 私は国鉄分割民営化がスタートした1987年に弁護士登録し、全動労(現 建交労)弁護団に参加したが、その過程では宮里さんとご一緒することはなく、初めてご一緒した事件は労組法上の労働者性が争われたビクターサービスエンジニアリング事件だった。東京地裁でまさかの逆転敗訴判決(中労委命令取消)を受けてショックを受けていた私たちにとって、宮里さんらの弁護団参加は一筋の光であった。その後、最高裁で再逆転勝訴できたことは周知のとおりである。ちなみに本書第Ⅱ部には、先行する新国立劇場事件での宮里さんの最高裁弁論も収められている。その切り込み方、説得術は、なかなかまねのできるものではないが、大きく学ばされる。
 つい最近では、大学教員の担当コマ数の増担を解消するよう求めた指名ストを理由とする懲戒処分が大阪地裁・高裁判決で有効とされた関西外大事件で、上告審から弁護団に参加していただいた。宮里さんの簡潔かつ核心を突く的確な書面には、今更ながら驚かされる(宮里さんは年をとって長い文章を書くのが億劫になったからだと謙遜されるが)。
 宮里さんは日本労働弁護団の会長を退かれた後も、総会では常に展望を切り拓くような発言をして若手を励まされている。そうした宮里さんの人となりは、第Ⅱ部、第Ⅲ部に収められた数々のエッセイからも伝わってくる。
 私たちは、それぞれが生きる時代ごとの課題に取り組むしかないのであるが、そのことの意味を客観的に把握するためには、先人の足跡を辿り、歴史的な捉え方をすることが必要である。本書は、そうした自分の立ち位置を再確認させてくれるものである。

 

団創立100周年記念出版事業編集委員会日記(4)

神奈川支部  中 野 直 樹

実務体制と通信手段
 02年「団物語」の編集委員会の体制は、責任者豊田誠(当時団長)、事務局長船尾徹、編集委員鶴見祐策、松井繁明、菊池紘、鈴木亜英、岡村親宜各団員と本部執行部から篠原義仁幹事長、事務局長の私であった。そして、柿沼祐三郎事務局次長が実務の中心を担った。
 当時は、私たちの業界にもパソコン利用が普及し、団の活動にもメールによる情報伝達が取り入れられつつあった。しかし、編集委員のメンバーのほとんど、執筆者の多くは、まだ通信技術の発展に対応できておらず、編集作業の実務は、紙を郵送する、あるいはFAXするという方法によった。主執筆者からの原稿には手書きのものも少なくなかった。柿沼次長にはたいへんな苦労があったと思う。
 今回は、団本部の事務局次長の配置はなかった。事務局次長の体制にゆとりがない実態からやむをえない。100周年記念事業の担当となった専従事務局の柴田健さんが編集作業の事務を担ってくれることとなった。この実務は、02年時代と比べ様変わりした。100年史、団物語のすべての執筆者のメールアドレスを登録し、情報伝達、原稿・意見出しの送受信等をすべてメールで行うこととした。そして経過の記録を一元化しておくために編集委員会と執筆者とのやりとりすべてを、柴田さんを中継点として行うことを原則とした。
 団物語の執筆者は全員このシステムに対応できた。編集委員会のメンバーもワードの変更履歴の記録付き機能による意見出しを習得し、作業が効率化された。
 100年史の執筆者には10期台、20期台はじめの超ベテランの団員もおられ、第1稿のデータは事務員さんのサポートも得て取得することができたが、その後のやりとりは紙のFAX、郵送で行うことが多かった。
坂本修弁護士
 編集委員会は、100年史の第3章として、自由法曹団の団結・統一戦線論をテーマとして69年高野山総会で規約改正を行うまでの団内討議の歴史を取り上げ、当時本部の事務局長を務めていた坂本修元団長に執筆を依頼した。このテーマには船尾編集委員長の強い思い入れがあった。
 私は弁護士になりたての86年11月27日に発覚した日本共産党国際部長緒方靖夫さん宅電話盗聴事件に当初から関わることとなった。初動の段階で弁護団の陣頭指揮をとっていたのが坂本修弁護士だった。伊藤栄樹検事総長に面会にいかれるなど新米の私からみて偉い先生だった。この事件は翌年8月4日に関係警察官全員が不起訴処分となった。これに対し緒方さんは付審判請求の申立と検察審査会への申立を行った。私は後者の起案をまかされ、暑い8月期この起案に没頭した。四万字近い成果物を弁護団会議に出したところ、上田誠吉弁護士からも坂本修弁護士からもおおむねこれでいいとの評をいただいた。このときは天に昇るほど嬉しかったことが忘れられない。申立書は赤旗評論特集版という定期刊行物に掲載された。記念品として手元にとってある。今読み返しても、市民から選ばれた検察審査会を意識して、犯罪を犯した警備公安警察という巨悪を眠らせた検察の不正義を、事実に基づいてやわらかいですます調で説いており、良き起案であった。東京第一検察審査会は不起訴不当と議決した。
坂本弁護士のスタイル
 緒方事件が国家賠償請求裁判を軸に進行し始めてからは、坂本さんは弁護団に参加されなかった。その後団本部の活動でお会いすることとなった。坂本さんは文書を書かれるとき、自分の構想と構成を考えついた後、人をつかまえて対話をし、その反応をみて、構想と構成を見直す、ときには書き進んだ原稿をすべてリセットされることも少なくない。特徴のある手書き原稿で誰それと読めない。東京法律事務所でも特定の事務局員が活字化を担ったとうかがっていた。
 100年史の執筆にあたってもこのスタイルは変わらない。坂本さんから編集委員5人に美味いワインを飲ませるから懇談しようとの呼びかけがあり、19年9月3日の夕方に東京法律事務所で意見交流をした後、近くのフランス料理店に移った。坂本さんは、高野山総会のテーマとともに、安保闘争に団員がどのように関わったのかについても書いておく必要があるのではないかと提起され、それもお願いすることとなった。このときのお代は坂本さんが全額支払われた。その後、時々坂本さんから電話をいただく日々となった。12月になり、坂本さんから再度ワイン会を開きたいとの連絡があり、12月26日夕刻、船尾委員長と私が東京法律で打合せ後、
事件活動があって船尾さんが事務所に戻られ、私一人で坂本さんとフランス料理とワインを賞味しながら、坂本さんの弁護士人生のあれこれをうかがった。このときも坂本さんのおごりとなった。
 坂本さんは学習の友社を退職された方に手書き原稿を活字化する作業を依頼しておられたようで、20年2月半ばくらいから書きかけ原稿が活字化されたものがFAXで送られてきた。元々A4サイズで作られたものをB4サイズにコピーをして送ってこられ、ファイルに綴じ込むのがやっかいだった。私は坂本さんにB4サイズで印刷する理由を問うたところ、手直しを手書きで書き込むための余白が必要なのだと言っておられた。坂本さん流の効率だった。

 

☘事務局長日記☘ (不定期連載)

 
 本号が皆さんのお手元に届くころには,東京都に4度目の緊急事態宣言が発令されているでしょう。
 政府は,今年4月に3度目の緊急事態宣言を発令した際に,政府の新型コロナ分科会の尾身会長が「最低3週間必要」としていたにもかかわらず17日間の期間を設定しました。これは,5月中旬に予定されていたバッハIOC会長の来日日程を忖度したのではないかと批判されました。3度目の宣言は,その後,2回の延長を経て6月20日に7月11日を期限とするまん延防止等重点措置に切り替えられました。
 切り替えからわずか3週間で4度目の緊急事態宣言です。切り替え前日の6月19日以降連続して前週の同曜日を超える新たな感染者が報告されています。3度目の宣言が感染拡大を抑制できないまま解除されたことは明らかです。
 菅政権は,昨年末のGOTOキャンペーンの強行による感染拡大を招き2度目の宣言に至り,今回も五輪の開催強行のために感染拡大を招き4度目の宣言を招いているのです。
 アベノマスク以来,これまでの安倍政権・菅政権による新型コロナ対策はことごとく失敗しています。頼みの綱のはずのワクチン接種も,供給不足を露呈するに至っています。
 そんな中でも1月に成立した改正新型コロナ特措法により、7月6日には,3度目の宣言期間中に時短営業命令に従わなかった飲食店事業者に対して東京地裁で過料25万円が決定されています。
 休業や時短に伴う十分な補償がなされず,その休業協力金の支給も遅れているなかで,感染拡大抑制の実を挙げることができない政府によって強権的に営業の自由が奪われています。
 4度目の緊急事態宣言によってまたまたまたまた国民生活は大きく制限されることになるでしょう。五輪開催は「復興五輪」でもなく,「人類がコロナに打ち勝った証」でもなくなっても強行される中では,4度目の宣言が感染拡大抑制に大きな進展は期待できないと思います。次の総選挙で無能無策な菅政権を倒さなければなりません。そうして,私が,秋の総会で無事退任できる日を迎えたいと願っています。

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