第1747号 7/21

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●「自由法曹団百年史」の購読と普及のお願い  船尾  徹

●百年年表の刊行― 全団員の皆さんに近々届きます  荒井 新二

♪♪建設アスベスト訴訟特集♪♪
●建設アスベスト東京1陣訴訟をふりかえる②  森  孝博

♪♪『東日本大震災から10年今、団員が想うこと』♪♪
●富岡町  広田 次男

●米国の最新の軍事戦略、作戦構想と日本の果たす役割  井上 正信

●団創立100周年記念出版事業・編集委員会(5)  中野 直樹


 

「自由法曹団百年史」の購読と普及のお願い

東京支部  船 尾   徹

 自由法曹団100周年出版事業の編集委員会の一員として、「自由法曹団百年史」の購読と普及を団員の皆様に訴えます。
 「運動史」としての100年
 自由法曹団結成から100年。団はなにを求めどのような歩みを進めてきたのでしょうか。そしてこれからどこへ行こうとしているのでしょうか。ひとりひとりの団員は21世紀の激変する社会とどのように切り結んでいくことになるのでしょうか。
 時代の不正義と困難に立ちむかい、自由と人権、平和と民主主義の発展をめざして、全国の団員が各地で、多くの人々と共に時代を切り拓こうとしたさまざまな裁判・運動の人間的なドキュメンタリー、21世紀版「自由法曹団物語」はこの5月に刊行されています。
 「物語」とあわせて、戦前・戦後をまたぎ、そして冷戦と冷戦後、対米従属のもとでの日米軍事一体化と改憲策動、新自由主義が世界に席捲し、新型コロナウイルスが蔓延し、社会のあり方があらためて問われている時代に、「自由法曹団百年史」が多くの団員による執筆と協力のもとに、この7月に刊行されました。
 団の歴史を語るものとして、歴史研究者としても造詣の深い上田誠吉元団長がまとめられた「自由法曹団の歩んだ60年」、そして80周年のときに「略史 自由法曹団の80年」(「自由法曹団物語・世紀をこえて(上)」所収)がありますが、100年を通しての歴史をまとめる作業は初めてです。そこでどのような方針のもとに編集したかについては、「百年史」の「あとがき」をお読みください。
 エンゲルスは「人間は、それぞれ個々の人びとが彼自身の意識的に意欲された目的を追いながら、歴史の生みだす結果がどうあろうとも、自分自身の歴史をつくるものであり、種々な方向にはたらく多くの意志と外界にたいするこれらの意志のさまざまな働きかけとの合成力が、まさに歴史なのである」(「フォイエルバッハ論」森宏一訳 新日本出版社80頁)としながらも、歴史を動かそうとする観念的な力の背後にある推進力を歴史そのもののなかに探求することの重要性を提起しています。
 「百年史」は、自由法曹団と団員が、権力の不正を許さず、人々の自由と人権を擁護し、この国と社会の民主的変革をめざして、人々とともに歴史の歯車を前に進めようとするこの国の民主主義運動100年の歩みの一翼を担った裁判・社会運動を軸にした「運動史」として編集されました。したがって、この国と社会の経済、政治、思想・文化等々を俯瞰した時代状況の歴史総体を網羅したものではありませんが、各章の冒頭に運動を取り巻く時代状況を簡潔に紹介しています。
「百年史」の素描
 「百年史」の内容については、まずは本書を手に取りお読みください。全体の構成は、「第1 章 戦前の団創立から敗戦の時代」、「第2章 日本国憲法誕生と占領下の時代」、「第3章 60年安保闘争と自由法曹団」、「第4章 60年代以降の諸闘争の前進と反動が激突した時代」、「第5章 ジェンダー平等」、「第6章 90年代以降の規制緩和・国家改造と権利闘争」、「終章 連帯・共同・未来へのバトン」の全7章から成り立っています。以下には、私の個人的な興味関心のおもむくまま報告するものです。
 運動の要求に直接にこたえ、事実を調査し事実にもとづいて抗議し、要求することを出発点にした自由法曹団の「運動史」の基調として、松川事件で切り拓いた大衆的裁判闘争の形成と諸闘争への創造的活用と拡がりの諸相をまとめています。
 権力による謀略と弾圧が反共の嵐が荒れ狂う情勢のもとで猛威をふるうなかで、自由法曹団が全力をあげて取り組んだ松川事件のたたかいは、事実による無実の論証が人びとの政治的、社会的立場の相違を越え、広範な人びとの統一を可能にする基礎であること、そして無実の認識に立った人びとは無実の被告たちを通して、謀略によってこの国の政治反動を企てた勢力に対して鋭い批判の目をむけ、こうして「大衆的裁判闘争」は現実の力に転化し、民主主義のための統一戦線にむかうものとなること等々を提起したことは周知の通りです。こうした作風と伝統を団はどのように継承してきているのでしょうか。本書は、今日時点であらためて深く、豊かに、学び直してみる素材になるのではという思いです。
 また、団がめざしている民主主義運動の強化発展にとって欠かせない69年高野山総会の団規約改定決議と改定に至る団内における論争を総括しています。「人民の権利が侵害される場合には、その信条・政派の如何にかかわらず、ひろく人民と団結して権利擁護のためにたたかう」とする規約改定は、人権と民主主義のためのたたかいを広範な人びとと団結し、統一戦線を念頭においてたたかう団と団員の活動のあり方、組織運営のあり方を、全団的論議のもとに改定したことの歴史的意義をあらためて確認できるのではないでしょうか。
 「百年史」は、60年安保闘争の高揚と諸闘争の前進のなかで、この国と社会の民主主義の根幹ともいうべき職場における働く者の自由と権利実現のためにたたかわれた労働裁判をはじめ、公害裁判における大衆的裁判闘争は被害の全面的救済から立法化・制度化をめざすたたかいへと発展してきた歴史をまとめています。また60年代後半から30年にわたってたたかわれた、解同の暴力糾弾路線による多くの人権侵害事件と行政の私物化・癒着と利権あさりに対する裁判闘争は、社会を変え政治を変えるたたかいの歴史を総括しています。
 ジェンダー平等実現をめざす運動は、雇用上の差別撤廃を求める数多くの裁判に取り組み大きな成果をあげ、今日では企業中心社会を克服するたたかいだけでなく、さまざまな分野で基本的な視点に据えられる時代に入っています。90年代以降の新自由主義的諸施策による規制緩和、改憲・国家改造をめざす動きのもとでの権利闘争と市民と野党の共同を推進する運動など、今日につながる諸課題を明らかにするとともに、コロナ危機が浮かび上がらせた今日の社会の歪みと克服をめざす運動など、「連帯・共同・未来へのバトン」を「終章」としています。
シンポ・学習会等での活用を、そして依頼者にも
 「百年史」の基本的な内容は、今日の時点であらためてさまざまな視点から論議して深めていく必要性・重要性があると思います。団本部において100周年事業の一環として、そうした論議の場として「百年史企画」を検討しているようです。是非、各事務所、支部においても、また日頃からさまざまな闘い・運動をともにしている人びと・運動体のなかでも、シンポや集会企画などに「百年史」を論議の素材としてご活用され、普及していただくことをお願いする次第です。
 いずれにせよ「百年史」は、団本部を通じての購入費用は1800円です。早急に「お買い求めいただき、「物語」とともに依頼者・関係団体に普及をお願い致します。

 

百年年表の刊行― 全団員の皆さんに近々届きます

東京支部  荒 井 新 二

 団100年記念出版三部作の掉尾をかざって、この間の「団物語」「団百年史」の発刊に引き続き「自由法曹団百年年表」が刊行されます。団出版事業委員会、執行部の英断で団員全員に向けて8月の初めに、団全員に発送されます。
【自由法曹団百年史・表紙】
 60を超えるコラム欄、写真35葉を収め、事務局次長を含む歴代役員・支部設立の沿革の一覧表など組織的な資料もつけております。100年の歴史を4つに分け、Ⅰ期(~45年)123件、Ⅱ期(~72年)615件、Ⅲ期(~94年)597件、Ⅳ期(~2020年)769件、総計2104件を収録しました。事件や裁判などの特性や意義、背景等に関連した最小のコメントを原則的に付し、巻末に詳細な索引と引用文献をつけて参照活用のできるようしました。文献は極力、団あるいは団員のもの―、団通信・5月集会特別報告集・個人回想録・法律事務所誌紙等の直接的、言い換えれば当事者的な資料から選択しました。年表類を多く出版されている「すいれん舎」の発行で、発行日は団創立(1921年)の日の8月20日にしてあります。
 これまでの団年表は、旧来の「団物語」末尾に略史として数頁載っていますが、今回大幅改定で更新したうえで単行本にしました。年表と言えば総じて、事項羅列重視の簡潔な収録が主ですが、この団百年年表は全体として「読む年表」「学ぶ年表」「楽しめる年表」、更に「『白紙の1頁(33年以降の団活動停止)』のある年表」として編んであります。作成に2年有半かかりました。A5版・174頁の本格的な年表です。
 引用文献はもとより、この百年年表の作成には全国の団員の協力をいただきました。本紙上を藉りて改めて感謝いたします。コロナ禍のもとでの膨大な作業となりましたが、かよう状況下であったからこそ、諸先輩達のお顔などを思い浮かべながら楽しく年表三昧の日々を送られました。
 過去を振り返る機会の多い夏です。お手元に到着次第、是非ご一瞥ください。時々、必要に応じて、或いは徒然に目を通してくださることが、この年表にとって最適な利用になりましょう。座右におかれ、ながくご愛用ください。そして、よろしければ周りにご吹聴されることを心にとどめてください。
 団の存在と伝統を周囲に広めるべく、多くの運動体や依頼者の方に読んでもらうよう普及に努めてください。団内向けには定価2000円(税込み)のところ、料金面での特別割引が考慮されますので積極的にご利用ください。

 

建設アスベスト東京1陣訴訟をふりかえる②

東京支部  森   孝 博

2 控訴審・東京高裁(2012年12月~2018年3月)
(1) 2012年12月の控訴後、弁護団内で一審判決の分析や議論を重ね、2013年4月に控訴理由書を提出しました。そして、2013年7月に第1回弁論が開かれましたが、東京高裁の合議体には原告側の求めに応じて積極的に証拠調べ等を実施しようとする姿勢は見られませんでした(しかも、当時の裁判長は、薬害イレッサ訴訟控訴審で原告逆転敗訴判決を書いた裁判官でした)。原告側からの協議や面談の申入れにも一切応じず、その後、数ヶ月に一度、短時間の弁論期日が入るだけの先の見えない訴訟進行が続きました。2014年末に裁判長が交替したものの、高裁の姿勢に変化はみられませんでした。
 そうした中、2015年7月14日の第6回弁論期日において、突然、高裁から、原告側が求める人証調べ等は全て不要、次回期日をもって弁論を終結したい、との見解が示されました。
 これに対して、小野寺利孝弁護団長、山下登司夫幹事長が果然と反論し、次回弁論期日はおって指定、期日後に出される原告側の意見書も見て進行を考える、というところで高裁を踏みとどまらせることができました。しかし、次回結審、一人親方等に対する国の責任や建材メーカーの責任に関する原告の控訴は棄却、という重苦しい雰囲気が濃厚となり、東京1陣控訴審は大きな岐路を迎えました。
(2) もっとも、裁判所の拙速な結審方針をなんとか阻止して2016年になると、新たな流れが生まれました。その契機は、2016年1月29日に京都地裁で言い渡された京都1陣訴訟判決でした。原告側による共同行為者の絞り込み等を踏まえ、5度目の建設アスベスト訴訟判決において初めて建材メーカーの共同不法行為責任が認められたのでした。
 その影響は大きく、まず神奈川1陣訴訟の控訴審である東京高裁第5民事部が原告の主張する共同不法行為論等に関心を強め始めました。すると、東京1陣控訴審でも、2016年3月14日の第7回弁論期日で、結審予定を変更して原告の追加主張を見て進行を検討したい、という裁判所の方針転換が示され、年内に3期日が指定されました。
 そして、2016年10月、神奈川1陣控訴審において原告の求める人証が採用され、12月9日、13日の2期日で尋問が実施されることになりました。それを受けるかのように、東京1陣控訴審でも、2016年10月28日の第9回弁論期日で、裁判長から、人証調べをしないといったことは撤回する、ということが表明され、まず12月に原告側の求める原告3名の尋問を実施することになりました。そして、2017年2月から4期日にわたって、原告が求め続けてきた原告本人尋問、証人尋問が実現することになりました。一時は結審寸前の状況に陥った東京1陣控訴審は、全国の力も借りて審理を軌道に乗せることができました。「裁判は生き物」という言葉を実感しました。
(3) ところが、2017年6月、東京弁護団にかつてないショックが訪れました。
 6月22日未明、文字どおり大黒柱として長年にわたり東京弁護団を牽引してきた幹事長の山下登司夫先生(団員ではありますが先生と呼ばせてもらいます。)が急逝されたのです。あまりに突然の訃報で、にわかには信じられず、本当に言葉を失いました。
 ただ、裁判をおろそかにしてしまっては、それこそ山下先生に叱られてしまうので、「私たちは、山下先生が弁護士人生最後に文字通り全力投入して闘ってきた『首都圏建設アスベスト訴訟』を全面解決するために、山下先生の遺志を受け継ぎ、必ず実現することをお互い誓い合って山下登司夫先生をお送りしたいと思います。」という小野寺利孝団長の誓いのもと、東京高裁で残された主張・立証活動をやり切り、2017年11月15日の第15回弁論期日にて東京1陣訴訟控訴審も結審を迎えました。
(4) 東京1陣訴訟控訴審の判決言渡しは2018年3月14日と指定されました。
 それに先立つ2017年10月17日、神奈川1陣控訴審において、一審横浜地裁の原告全面敗訴判決を覆し、高裁レベルにおいても国の責任(ただし「労働者」のみ)と建材メーカーの責任を勝ち取る画期的な判決が言い渡されました。この神奈川1陣高裁判決を受けて、東京1陣訴訟でも対国、対建材メーカーW勝訴への期待が大きく膨らみました。
 しかし、判決当日、主文を聞いてすぐ、国の責任は認められたものの、建材メーカーには敗訴したことがわかりました。
 「結局、一審判決と同じか…」。主文を聞き終えて、そんな考えが頭をよぎったのですが、同時に国の賠償額が大幅に増額されたのはなぜだろう、という一抹の疑問が湧きました。そして、主文に続く要旨の朗読を聞いて、その疑問が氷解しました。初めて「一人親方」や「零細事業主」に対する国の責任が認められたためでした。
 この点は7つの地裁判決で全敗、神奈川1陣高裁判決でも認められていなかったので、うれしい驚きでした。東京高裁の判断は、適切な警告表示を義務付けなかった国の規制権限不行使については、一人親方等の利益も、国賠法1条1項の適用上、法律上保護される利益に当たるという明快かつ画期的なものでした。10年以上にわたる労働関係法令や建築基準法などを駆使した試行錯誤、悪戦苦闘の末の一人親方等の初勝利となりました(岡田正則教授、下山憲治教授に多大なお力添えをいただきました)。
3 最高裁(2018年3月~2021年5月)と賠償給付金法の成立(2021年6月)
(1) 東京高裁の2判決で、一人親方等に対する国の責任と建材メーカーの責任について「1勝1敗」となり、審理は最高裁に移りました。
 上告受理申立後、最高裁から何の応答もない状況が続きましたが、2018年8月の京都1陣大阪高裁判決、9月の大阪1陣大阪高裁判決で立て続けに両責任が認められました(なお、大阪1陣大阪高裁判決を書いた裁判長は、神奈川1陣訴訟の横浜地裁で原告全面敗訴判決を言い渡した裁判長でした)。この大阪高裁の2判決で「3勝1敗」となり、さらに2019年11月の九州1陣福岡高裁判決、2020年8月の神奈川2陣東京高裁判決でも勝利し、「5勝1敗」となりました。高裁レベルの判断が積み重なる中で最高裁がどのような統一的判断を示すのか、期待と不安が高まる中で本年5月17日の最高裁判決が言い渡されました。
(2) 最高裁判決の内容は既に詳細な報告がなされているので割愛しますが、判決を聞いた瞬間、最高裁で一人親方等に対する国の責任と建材メーカーの共同不法行為責任が確定して心からホッとしました。それと同時に、この最高裁判決を聞く前に多くの原告がお亡くなりになってしまったことを残念にも思いました。
 最後に、判決後に制定された「特定石綿被害建設業務労働者等に対する給付金等の支給に関する法律」(賠償給付金法)について若干紹介したいと思います。
 最高裁判決の翌日、菅義偉総理大臣が原告団代表等と面談して謝罪を表明しました。そして、田村憲久厚労大臣と原告団代表、弁護団代表、全国連絡会代表とが連名で署名して「基本合意書」が取り交わされました。この基本合意書の第3項で最高裁判決時点で未提訴の建設アスベスト被害者に対する補償が合意され、それを具体化する立法措置が講じられることになりました。ただ、2021年通常国会の会期末(6月16日)まで残り1ヶ月を切っていたので、立法は次期国会になるだろうと考えていました。ところが、弁護団の想像を超え、建設アスベスト被害救済に向けた全党・全会派の賛同により、2021年6月2日、賠償給付金法案が国会に提出され、3日の衆院本会議で全会一致の可決、9日の参院本会議で全会一致で可決、という異例のスピードで賠償給付金法が成立するに至りました(施行は来年度の予定)。
 この法律により、現在の建設アスベスト被災者に加えて、国の推計で今後30年間で新たに発生するとされる約2万人もの被災者も救済対象となりました。同法の成立は、全ての建設アスベスト被害者の早期救済を求めた、13年にわたる建設アスベスト訴訟のたたかいが実を結んだ瞬間でした。
4 建設アスベスト東京1陣訴訟は続きます
 長々書いた上ですみませんが、高裁で建材メーカーに全面敗訴した東京1陣訴訟は、最高裁判決で大多数の原告が対メーカーについて破棄差戻しとなり、見出しのとおり、これから差戻審(東京高裁第24民事部)で建材メーカーとの決着に向けたたたかいが始まります。
 また、国との関係では、これまでの多くの争点につき解決が実現しましたが、最高裁判決が違法の始期や屋外工に対する責任という点においては不当な線引きを行い、立法でもかかる線引きが持ち込まれたため、隙間のない建設アスベスト被害者の救済には至っていません。
 なにより、最高裁判決で国とともに責任を断罪された建材メーカーが、いまだに係属中の訴訟で責任を争い、賠償給付金のための基金への参加や拠出を拒んでおり、建設アスベスト被害に対する迅速かつ完全な補償の実現には至っていません。
 これらの点を克服し、建設アスベスト被害者への隙間のない迅速・完全な救済を実現するため、引き続き差戻審や後続訴訟に取り組んでいく所存なので、団員の皆さまには、引き続きのご支援をよろしくお願い申し上げます。(終わり)

 

富岡町

福島支部  広 田 次 男

1.富岡町は、福島県双葉郡の中心地であった。
 古くは郡庁が置かれ、原発事故前には、国、県の出先機関が揃って出張所を置いていた。
 独立簡裁が存在し、区検察庁が置かれ、双葉郡唯一のスーパーマーケットがあり、常磐線富岡駅は、全ての特急列車が停止する双葉郡内唯一の駅であった。
 町の中心部(地名も「中央」と言った)は、駅前通りと国道6号線の交差点を中心に、商店がビッシリと軒を揃え、県内の主要な銀行は全て支店を構えていた。
 原発事故から10年4ヵ月を経た今、中央地区の建物は十軒余を残して、全て取り壊された。
 見渡す限りの住居跡の拡がるなか、何故か銀行の支店だった建物はほぼ残されており、殆んどが3階建のビルであるために、余計に異様な風景に感じられる。
 その中で目につくのが、新築されたアパート群である。
 「今後30年ないし40年の廃炉作業」「双葉復興イノベーション構想」といった事業に従事する作業員の宿舎である。
 私の事務所に相談に来た原発労働者の話では「アパートの殆どが1Kであり、殆んどが6畳間だが、その畳のサイズは普通よりも小さく、1人が布団を拡げて寝ると、ほぼ満杯になる。」との話であった。
 かつての軒を連ねた商店街の中に作られたアパート群は、商店街の復興の可能性のない事を物語っている。
2.私の事務所に相談に来た原発労働者は「使用者が危険手当をピンハネしている」との相談であった。
 何人かいた未払労働者のなかで、結局、青森と沖縄出身の2人が残り、第4次危険手当支払請求訴訟を提訴した。
 彼等は「故郷に帰っても稼ぎになる仕事はない」と言う。
 彼等に、約束した手当と給与がキチンと行き届き、身分的な安定を保障すれば、彼等が富岡で家族を形成し、新しい富岡の住民となる可能性は充分にある。
 しかし、国も東電も、そんな事は全く考えようとしない。
 流れ者の低賃金労働者として、使い捨てにする給与と身分保障(雇用期間は2ヵ月で、2ヵ月毎に新しい雇用契約書を作成する)しか与えようとしない。
 帰還した旧住民は、彼等を「流れ者」として恐れ、近づこうとしない。
 行政も、旧住民と彼等との接点を設ける努力をする気配はない。
3.梅雨入前の日曜日に、私は妻を連れて、富岡までのドライブをした。
 私としては「精魂を込めている原発の被災地の風景を妻にも見せておきたい」との思いからであった。
 途中、広野町、楢葉町などの様子を見ながら、昼食は、富岡のスーパーに併設された食堂の予定であった。
 ところが、スーパーは営業していたが、併設された食堂は日曜日が定休日であった。
 即ち、今の富岡町では、日曜日に家族揃って外食をするという需要がないのである。
 改めて、スーパーの陳列棚を見ると、いわゆるガッツリ系の弁当が主力商品である事が確認できる。
 今の富岡町では、家族が消費の対象となっていないのである。
4.富岡町の最新の居住率は14%との数字であった。
 2年位前からではないかと思うが、双葉郡の各町村は帰還率ではなく居住率という言葉を使う。
 旧住民の帰還者+新規居住者の合計数を分子として、事故前の旧住民数を分母とする数字である。
 復旧の進行を少しでも嵩上げして見せようとする町村の姿勢が現れているような表現である。
 富岡町の旧住民の帰還率は約10%と言われる。
  それも70代、80代が大半であり、その少なくない割合が単身者である。
 彼等は、息を引き取る場所として、先祖代々の我家のある(ないしはあった)富岡町を選んだのである。
 そして、これら70代、80代が新たな家族を作ることはない。
 帰還した旧住民の数は減り続けることはあっても増加する事はない。
5.富岡町は、人の生活の臭いのしない町になった。
 それは国土の喪失に外ならない。
 国土の喪失というと、NHKでは「尖閣、竹島」と続く。
 しかし「尖閣、竹島」に奪われた人の生活があったとは聞いていない。
 事故前の富岡には1万5960人の人々の生活があった。

 

国の最新の軍事戦略、作戦構想と 日本の果たす役割

広島支部  井 上 正 信

―「Tightening The Chain(列島線を締め付ける)」(CSBA)の紹介
 米国の戦略予算評価センターは国防総省と深い関係にあるシンクタンクだが、2019年に「Tightening The Chain(列島線を締め付ける)」と題する論文をHPで掲載している。タイトルの訳は私の仮訳である。
 この論文の意図するところは、現在米軍が西太平洋、東シナ海、南シナ海での武力紛争、台湾有事を想定した米中武力紛争に際して、中国軍が採用している米軍の支援作戦を遅延させる作戦構想であるA2AD(接近阻止・領域拒否作戦)にいかにして打ち勝ち、中国軍による迅速な既成事実の形成(例えば台湾占領)を阻止するか、そのために米軍の新しい作戦構想を提案するものである。
 その作戦構想を「海洋プレッシャー戦略」「インサイド・アウト作戦」と呼称している。
2 内容的にはすでに現在米海軍、空軍、陸軍、海兵隊が採用している作戦構想を理論的に論じるもので、今となっては目新しい内容のものではない。
 第一列島線に沿って、あるいはその内部の散在する島嶼へ陸軍と海兵隊の小規模の部隊を配置し、対空ミサイル、対艦ミサイルにより第一列島線を突破して第二列島線へ戦力を投射する中国海・空軍を攻撃・破砕して封じ込める、そのために島嶼へ配備される陸軍と海兵隊部隊には、対艦ミサイル(高機動ロケットシステムHIMARS)、PAC3を装備し、陸軍電子戦部隊、兵站部隊と兵站の事前集積、簡易滑走路を造ってオスプレイや小型艦船による補給路を確保、第一列島線内の海中には潜水艦と無人潜水艇による中国海軍を攻撃する態勢、地上配備の中距離ミサイルで中国本土のA2AD戦力を攻撃、戦況に応じてこれらの事前前進配備部隊を他の島嶼へ迅速機動させる等である。論文はこれらの戦力をインサイド戦力と位置付ける。これらの戦力の事前配備は中国軍の作戦構想を混乱させるというのだ。
3 第一列島線の外側(第二列島線の内側)には、米軍の規模の大きい戦力が控えており、スタンドオフ攻撃により中国軍を牽制し、インサイド戦力を支援する。インサイド戦力により中国軍のA2ADにほころびが生じたら、そこからA2AD網を突破してその内部へアウトサイド戦力が攻め込む算段だ。
 そうであるからこの作戦構想では第一列島線での部隊配備と中国軍との戦闘が最も重要になる。第一列島線の中で南西諸島が主要な戦線となる。
 論文の図5(32頁)に、「地上配備海洋拒否戦力のオーバーラップする射程範囲」と題する地上配備精密攻撃ミサイルの配備地図がある。中国本土も射程に収める配備地域は12か所で、その内九州から南西諸島にかけては6か所、フィリピンが6か所となっている。
4 論文は、米軍と同盟国・友好国軍との共同作戦の重要さを強調する。その中で41頁以下に「JAPAN」の項目がある。その内容をかいつまんで紹介する。
 論文は、自衛隊を米軍とともにインサイド・アウト作戦構想の一部と位置付ける。そのうえで30大綱の重要性を述べる。新ガイドラインは冷戦時代のソ連・北方重視から中国軍を想定した南方重視へ転換させ、中国軍の侵略に備えるものであり、海洋プレッシャー戦略を支えるものと位置付ける。自衛隊は海洋プレッシャー戦力を支える強固な支援をする戦力を配備し、配備する計画を進めていると述べて、新中期防を参照している。
 具体的には、イージスアショア2F基(撤回前の出版物のため)、先進空中・地上発射精密誘導対艦ミサイル、沿岸レーダー、F35A、RQ4グローバルホーク、AAV(水陸両用強襲戦闘車両)、C2輸送機、P1対潜哨戒機、KC‐46A給油・輸送機、オスプレイ、新型潜水艦、新型護衛艦を紹介している。
 さらに、第5世代戦闘機、EA18G電子戦機(A18ホーネット戦闘機を電子戦機に改造したもの)、極超音速兵器、陸自輸送用の輸送船の獲得を計画していると述べる。これらはいずれもすでに計画、研究が始まっているものだ。
 そのうえで、自衛隊が米軍の将来のマルチドメイン(多領域)C2ネットワーク(指揮統制ネットワーク)へ統合されれば、米軍の海洋プレッシャー戦略に対する日本の能力と貢献は、大きく前進すると評価する。
 マルチドメインC2はまだ完成されたものではなさそうである。宇宙、サイバー空間の情報ネットワークにより、地上・空中・海上のセンサーによる情報ネットワークを統合して、あたかも一つのドメインとして扱うものといわれている。米軍の戦闘ネットワークである陸軍のIAMDや海軍のCECはこれを準備するものと思われる。
 実際に米軍の多領域C2ネットワークへの自衛隊の統合は進んでいる。30大綱が打ち出した総合ミサイル防空能力は、米軍の多領域作戦ネットワークの一部となるであろうIAMDと連携をするものだし、まや型護衛艦と早期警戒機E2Dには米軍の戦術ネットワークと同じ共同交戦能力(CEC)が付与されている。そもそもミサイル防衛は当初から米軍のミサイル防衛ネットワーク(早期警戒衛星、通信ネットワーク、イージス艦のレーダー情報)と自衛隊のJADGEシステム、イージス護衛艦のレーダー情報と共有している。
5 論文はさらに、沖縄の米軍基地が巨大で狭い地域に密集しているため、中国軍の精密打撃ミサイル攻撃に脆弱であるという欠陥を指摘し、日本政府との間で、中国軍によるミサイル攻撃から守ることができない沖縄の空軍を、日本本土の各地(在日米軍基地のみならず航空自衛隊基地も想定していると思われる)へ分散させるための合意をしなければならないとしている。いわば「沖縄捨て石」論だ。日本本土の広範囲に展開させる米空軍が作戦行動をとり、他方で琉球弧(南西諸島)に沿って作戦行動をとる陸軍兵力による作戦行動とセットで考えているのだ。
6 政府、防衛省は以上に紹介した米軍の新しい作戦構想を全面的に支える戦力態勢を構築しようとしていることは間違いないであろう。台湾有事を想定したものである。論文は沖縄への中国軍の攻撃を想定した書き方にとどまっている。しかしながら、それにとどまる保障については何も述べていない。中国軍が抑止されるか、それとも抑止されないか、それは運しだい、中国次第ということだろう。場合によっては本土も攻撃される可能性は否定しがたい。
 私たちには、このような戦争計画が私たちに何をもたらすか、その現実を踏まえた憲法論議が求められていると思う。
 すなわち、戦争法を全面的に活用、運用して米軍の対中戦争計画を支えるのか、それともそのような事態を避けるうえで共通する国益を持つ韓国との関係を改善し、日韓及び米中軍事紛争を防止する点で国益を同じくするASEANも共同で中国との紛争防止の外交戦略をたてるか、そのための憲法論議が求められていると思う。

 

団創立100周年記念出版事業・編集委員会日記(5)

神奈川支部  中 野 直 樹

コロナ禍のもとで
 2020年2月27日、安倍首相は突然、3月2日から全国の学校の臨時休業をすることを要請する宣言をした。3月6日、東京の百年史主執筆者のグループ会議後、百年史の執筆要領の改訂を行い、まだ第1稿を出されていない執筆者に督促をする連絡文書をFAXした。
 3月19日、新型コロナウイルス感染が拡がり始める中で、代々木総合法律事務所で編集委員会を開き、届いている団物語の第1稿に関する意見出しの方法について確認した。3月31日に百年史に関する編集委員会をもった。旬報法律事務所の会議室で行ったこの会議は窓を開放し、席を離れてとる3密回避を心がける緊張感をもったものだった。ただ、その後の進め方について従前のやり方を踏襲し、4月24日に弁護士会館会議室で執筆者会議を設定して4月15日までに必ず第1稿を出すことをお願いする文書を執筆者にFAXした。
 4月7日、緊急事態宣言となり、これまで当たり前だったやり方が通用しなくなった。
 日程を入れていた執筆者会議、編集委員会はキャンセルとなった。
 学校休業・保育園の園児受け入れ制限によりわが子対応が業務時間に入り込み、家族全体の感染対策や制約された日常生活は気分を沈ませ、もともと負担が大きい原稿執筆に向かうエネルギーを削ぐという現象も生じた。
 編集委員は、5月以降、第1稿の督促をしながら、送られてきた原稿に意見だしをする作業が本格化した。団物語と百年史の2つへの対応は、大忙しとなった。裁判・調停期日の一斉取消しが時間を産出してくれた。
坂本修弁護士の原稿
 坂本さんはコロナ禍で厳しい環境を強いられていることが伝わってきた。事務所には出られず在宅を強いられたことは、通信手段の限定された坂本さんの原稿執筆を悩ませた。後に知ったことだが、この間、坂本さんは、団の柴田さんにも何度か電話をされており、「原稿を書いている悪夢をみるよ」「来年まではがんばって生きないとな」等胸の内を話されていたとのこと。4月24日に東京法律事務所から前半の安保闘争、28日に後半の高野山総会の原稿データが届いた。坂本さんから電話が入りここから先誰かがリライトしてくれるとありがたいのだが、と言われた。
 そこで私の方で連休中に前半部分(安保闘争)について前後の章との調整、字数削減、構成の組み替え、表現の統一などもして、連休明けにコメントを付して坂本さんに紙で送った。後で知ったことだが、同時期に船尾委員長も手直しをして坂本さんに送っていた。
 5月半ば頃に坂本さんから電話をいただいた。坂本さんは、私の「リライト」について、ご自身の「どぶろく」風味の原稿が「ワイン」風味の原稿に変身したと言っておられた。船尾委員長からの手直し原稿は「どぶろく」であり、さて自分がどちらを選択するかもう少し考えると言っておられた。
 5月21日、東京法律事務所から前半(安保闘争)について改訂原稿のデータが送られてきた。「どぶろく」だった。5月末に、船尾委員長が前半と後半にわけて改めて手直しをされた原稿を坂本さんに送られたとの報告を受けた。
訃報、そして主を喪った第3章
 5月21日を最後に坂本さんからは修正原稿が届かなかった。6月30日、船尾委員長から、前日坂本さんが本屋で転倒され頭を打って緊急入院されたとの一報が入った。詳細は不明。どこで頭を?手に荷物をお持ちだったのか?いろんなことを考えた。7月13日、東京法律事務所から7月7日に坂本さんが逝去されたとのFAXが届いた。
 船尾委員長が、坂本さんの未完の前半と後半を合体した。字数枠2万字を超過した2000字の削減、前章とのつなぎ、前半と後半のつなぎ等含めまだ手直しが必要だった。
志を受け継いだ仕上げへ
 再び、私は坂本さんの第3章の仕上げを担当することとなった。私は、前年末の「ワイン会」で3時間近く坂本さんの弁護士青春期物語をお聴きした。その時代が第3章である。坂本さんはその中でも安保闘争と統一戦線の経験がその後の団組織の飛躍につながったとの強い問題意識をお持ちだった。団の先輩弁護士が謀略・弾圧刑事裁判闘争に注力するなかで、坂本さんら若き団員弁護士が学習会の講師活動、国会前での「見守り」活動、逮捕された者への接見等に奔走した。坂本さんによると、国会前で警察官ともみ合うきわどい線で弾圧防衛に立ったのが根本孔衛団員(故人)だった。
 坂本語録を思い出しながら、坂本さんの選択された「どぶろく」を外さないように気をつけた。坂本さんを知る皆さまはきっと第3章で坂本さんと再会できるでしょう。
 編集委員会では、百年史の末尾の執筆協力者一覧に「坂本修(東京支部)東京法律事務所」と現役表示させていただくことを決めた。
 坂本修元団長は、実に自由法曹団と団員を愛し大切にされていた。この社会の進歩に自由法曹団が果たしてきたことの歴史を記し語ることの大切さも強調されていた。残念ながら坂本修弁護士を講師とする学習会はもうひらけない。
 私は、坂本弁護士と2人で酒食の機会をもったのは初めてだった。そしてひょっとしたら坂本弁護士におごっていただいた最後の一人であるかもしれない。

 

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