第1752号 9/11

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

~自由法曹団 百年史年表の感想~
●日本の社会と司法史を知る格好の資料、
      「自分史」と照らし合わせて  田原 裕之

●大井川の水と南アルプスの自然、
      動植物を守るためにその(2)  伊藤 博史

~追悼 渋田幹雄団員~
●渋田幹雄さんとの思い出  鶴見 祐策
●渋田幹雄先生追悼   鈴木 亜英

~追悼 篠原義仁団員~
●篠原さん弔辞  西村 隆雄

●国際問題委員会主催
 「入管法勉強会」(高橋団員報告)に参加して  金子 美晴

●23期の「集い」をよろしく   村山  晃

●東北の山 ~ 早池峰山 ~   中野 直樹

幹事長日記 ~その5(不定期連載)  小賀坂  徹

 

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- 自由法曹団 百年史年表の感想 -

 

日本の社会と司法史を知る格好の資料、「自分史」と照らし合わせて

 愛知支部  田 原 裕 之

 先日、団本部から全団員に標記の年表が配布されました(ハードカバー、赤色、布張りの立派な本です)。
 ざっと目を通した(パラパラとページをめくった)程度ですが、感想を投稿します。
   巻末近く(151頁以下))にある「出典略号一覧」を見ると、刊行図書、団出版物の他、個人の著 作(やメモ)まで、広範囲に資料収集したことがわかります。
   これだけ充実した年表はめったにありません。今後、いろいろな件の歴史を調べるとき、大いに役立つと思います。
   編集にあたられた荒井新二団員(編集責任者)以下「自由法曹団創立100年記念出版委員会」の皆さまには心から感謝申し上げたい。
      以下は、個人的感想です。
   私(1953年生まれ、34期、1982年弁護士登録)にとって、弁護士登録以降の部分は、「そういえばそんなことあったな」という感じでしたが、1960年   代以前(私の小学校入学前)になると、「へえー、そんなこともあったのか、そうだったのか」という驚きが多かったです。
   各団員におかれましては、自分の経歴と比較しつつ、年表をご覧になることをお勧めします(全部通しで読む必要はないでしょう)。
   社会史・司法史を調べる際の貴重な資料として、(捨てずに)とっておく、自分史と照らし合わせて(興味あるところだけでも)目を通しておく、というのが利用方法でしょうか。
    以下は、余談・追記です。
    不肖、この百年史年表の中に、私の名前が2か所出てきます。
 1か所目は6頁の「協力者一覧」。私に、荒井新二編集責任者から電話がかかってきて、資料を探してくれと頼まれ、わかる範囲の資料を提供した程度で大したことはやっていません。「協力者」として名前が出るとは思っていませんでした(個人的には、荒井団員には、弁護士登録後数年間、日弁連の活動でお世話になったので、荒井団員からの依頼は断れない、という弁護士ならではの関係)。
 2か所目は148頁の現在の支部長名。これも、たまたま今の時期に私が支部長をしているだけで、歴代の愛知支部長ほどのことはできていません。
   にもかかわらず、この書籍に私の名前が出て、これが「百年史」年表として残ることは大変光栄なことです。
  こ のことについてもお礼申し上げます。

 

 

大井川の水と南アルプスの自然、動植物を守るために その(2)

静岡県支部  伊 藤 博 史

6 水の問題
 南アルプストンネル工事における最も深刻な問題は、大井川の水量が大幅に減少する点です。JR東海は、2014年8月に作成した環境影響評価書(補正版)において、大井川の源流では水量が毎秒2トン減少する可能性があることを認めました。この毎秒2トンという水量は、現在の流量の16%強に相当するものであり、62万人の上水道を管理する大井川広域水道企業団の水利権量に匹敵する量です。しかも、この数値は、JR東海が机上で算出した数値であって、実際の減水量が毎秒2トンを超えないという保証はありません。静岡県知事は、静岡工区において生じた湧水の全量を大井川に戻すことを要求していますが、JR東海側からは誠意ある対応が見られません。
 トンネル内の湧水に関連して、突発湧水の問題があります。静岡県内の山梨工区には約800mの幅で畑薙山断層があります。この断層の破砕帯には大量の水が含まれています。トンネルは山梨県側に傾斜しており、しかも山梨県側から掘削しますから、およそ300万トン(JR東海の試算です)という湧水が大井川から失われることになります(171名の犠牲者を出した黒部ダム関電トンネル破砕帯は80mです)。
 表流水減水による被害は深刻です。トンネル周辺では工事開始直後から地下水位の低下が起きます。これが中下流域により深刻な問題をもたらします。国交省が設置したいわゆる2020年7月の有識者会議において、JR東海は、トンネル掘削工事完了20年後においてトンネル本坑(トンネルはまず斜坑を掘って水抜きをして、その次に本坑を掘ります)周辺の地下水位が300m以上も低下すること、トンネル周辺の沢の流量が渇水期において最大7割減少することを明らかにしました。
 大井川上流部の動植物は深刻な影響を受けます。中下流域においては、井戸水を生活用水としている住宅、豊富な伏流水を用いている各種工場、全国に名の知れた日本酒醸造所、鰻養殖業者、そして茶農家にとって死活問題となります。
7 残土(発生土)の問題
 JR東海は、本件トンネル工事で生じる370万㎥の残土(東京ドーム3個分)について、その大半を大井川左岸の燕沢(つばくろざわ)に置く計画を立てています。この計画では、高さ最大約70m、幅最大約300m、長さ最大約600mに積み上げることになります。ちなみに、静岡県庁東館(地上16階建)の高さは65mです。
 燕沢予定地の対岸は、千枚崩れと呼ばれる千枚岳東側斜面の崩落跡が大井川本流にまで達しています。地震や大雨等によって大規模な地滑りが起き、それが残土を巻き込んで川を堰き止めることになれば、土石流の発生によって大規模災害が生じることになるでしょう。
8 安全性の問題
①「時速500㎞の中央新幹線は、時速300㎞の現行新幹の約4.5倍の電力が必要」だそうです(阿部修治「エネルギー問題としてのリニア新幹線」科学83巻11号、岩波)。
 JR東海は、この電力を東電の柏崎刈羽原発と中電の浜岡原発からまかなうと述べています。このことを皆さんはどうお考えになりますか。
②リニア新幹線は、時速500㎞ですれ違います、すれ違い時の相対速度は1000㎞にもなります。山梨実験線では、すれ違い実験が十分に行われていないと指摘されています。とりわけ、トンネルの中ではどうなるのでしょうか。
③リニア新幹線では、走行中、強磁界が発生します。乗客、乗員の健康への影響について、JR東海は明らかにしていません。
④トンネル出入口付近の住民に与える衝撃音の影響が心配されます。
⑤トンネル内で事故があった場合の安全確保はなされているのでしょうか。静岡工区は、全て山岳トンネルです、土被りも最大で1400mもあります。厳冬期の南アルプス山中に取り残された乗客をどうやって救出するのでしょうか。
9 リニア中央新幹線を作る意義
JR東海は、
①東京・名古屋間を40分、名古屋・大阪間を27分という短時間で移動できるようになる。
②それによって、東京・名古屋・大阪の各経済圏を結ぶ6500万人の巨大 経済圏スーパーメガリージョンが形成される。
③加えて、新幹線が地震等の災害によって運行を休止したり、新幹線の老朽化に伴う修繕作業による運行の休止の場合に、リニア新幹線が代替機能をはたすことができる(いわゆる二重系化)と主張しています。
 ①については、リニアは本当に時間短縮の効果があるのか疑わしいと言うべきです。東京にあっては、まず品川駅まで行かなければなりません。そして、リニアの品川駅まで移動しなければなりません。双方の駅に相当の距離があります。加えて、リニア駅は地下40mという大深度です。テロ対策も必要でしょう。同じことを名古屋でも大阪でも行ったら、それほど時間短縮効果は望めないのではないでしょうか。
 リニアの需要予測についてはどうでしょうか。東京・名古屋間の完成は2017年、東京・大阪間は2045年です(当初予定)。総務省の統計では、生産労働人口は、2011年は8130万人であるところ、2045年には約2770万人減少して5353万人となります。
 東京、名古屋、大阪間を移動する人はいるのでしょうか。そもそも、6500万人の巨大都市圏が必要なのでしょうか。
 逆に、新型コロナウィルスの感染拡大によって、私たちの社会はリモートテレワークを学びました。外国人観光客も訪れなくなりました。リニア新幹線の需要は落ち込んだというべきではないでしょうか。
 ③については、新幹線が大規模災害、東海・東南海地震によって運行できなくなる場合には、赤石山地のトンネル内を走行するリニア新幹線も無傷ではいられないし、新幹線の老朽化対策ならば、リニアは赤石山地を通さなくとも、いわゆる諏訪ルートを通せばいいだけですしその方が建設費用も安いはずです。
 リニアの経済性について指摘すると、JR東海は2021年4月27日に、品川・名古屋間の工事費用が5兆5000億円から7兆円に増えたこと、2021年3月期の決算が2015億円の赤字となったこと、東海道新幹線の利用者が前年の3割に減少したことを発表(2021.4.28朝日)したことを指摘しなければなりません。
10 工事の着工ができない静岡工区
①JR東海は、南アルプストンネルの工期を約10年と見込みました。山梨工区は2015年12月に、長野工区は2016年11月にそれぞれ着工しました。しか、静岡工区については2017年11月に施工業者と契約したものの、すでに3年近くにわたり着工できない状態が続いています。
 その理由は、河川法24条、26条の存在です。大井川は延長168㎞のうち、駿河湾から上流の約26㎞までを国交省静岡河川事務所が、そこから源流部までの142㎞を静岡県の管理区間(ダムを除く)としています。リニア建設予定地の西俣川、東俣川は静岡県に管理権限が移譲されているわけです。したがって、大井川源流部の河川区域内(堤防を含めた川幅部分)の地上や地下に工作物を設置する場合には、河川管理者である静岡県の許可が必要になります。
 問題は大深度地下法との関係です。「河川区域内の土地」にリニアが疾走する約400mの地下が含まれるかどうかということです。これについては、静岡県河川砂防局も国交省も、「どんな深い地下でも許可が必要となる」と回答しています。
 ということになると、川勝静岡県知事の存在は極めて重要になります。川勝知事が工事着工の許可を出さない限り、リニアトンネルの建設は、西俣川、東俣川の直下で「越すに越されぬ大井川」になります。
②2020年になって、JR東海はコロナ危機による東海道新幹線の利用者数の激減によって経営困難に直面することになりました。そして、静岡工区の工事の遅れにより、品川・名古屋間の2027年開業が事実上不可能となりました。
 JR東海の旅客収入の90%を東海道新幹線が占めていますが、2020年4~5月のコロナによる緊急事態宣言によって、東海道新幹線の利用者数は、4月は89%、ゴールデンウィーク中は94%減少しました。2020年5月15日、金子社長は、「会社発足以来のきびしい局面」にあることを認めました。
 2020年5月15日、金子社長は2020年「6月中にヤード(註、準備基地のこと)の工事に着手できなければ、2027年の開業が難しくなる」と発言しました。JR東海は今もヤード工事に着手することができていません。
③こうした中、2021年6月20日に静岡県知事選挙の投開票が行われました。選挙は、リニア着工に反対する川勝平太氏(無所属)と自民の全面的なバックアップを受けた(公明は自主投票)岩井茂樹氏(前国交省副大臣)の一騎打ちとなりましたが、川勝氏がおよそ95万票対62万票の大差をつけて圧勝しました。川勝氏の全県における得票率はおよそ60%ですが、特に大井川流域の8市2町については、70%近い得票率でした。静岡県民は、大井川の水を守れ、南アルプスの自然を守れ、リニアトンネル反対の途を選択しました。
11 全国の団員の皆さんへ
①2021年7月5日、朝日新聞は次のような社説を掲載しました。
 「いつ開業できるのかわからない。コロナ禍で需要の見通しも怪しくなった。いったん工事を中止し、地元への説明や採算面の検証を優先すべきではないか。」
 「リニアをめぐる社会経済の環境は、政府が2014年に計画を認可したときから大きく変わった。名古屋までの総事業費7兆円のうち、昨年度までに使われたのは1兆円にとどまる。まだ遅くはない。JR東海と国交省はいったん立ち止まって事業の是非を再検討し、地元と真摯に対話することが求められる。」
②ドイツでは、ティッセン、シーメンス、ダイムラー・ベンツの共同企業体が常電動方式(トランスピッド)でエムスランドに31.5㎞の実験線を建設しました(1986年)。この共同企業体は、1994年にベルリン-ハンブルグ間の292㎞の新線をリニア方式(超電動)で建設する計画を政府に提出し、閣議決定されました(ちなみに、超電動のリニアを計画したのは、日本とドイツのみです)。しかし、このリニア計画は2000年になって連邦議会が中止の決定を行い頓挫しました。その理由は、建設工事費が当初から大幅に増加していること、乗客の需要見通しが楽観的で信頼性に欠けること、リニア方式の鉄道はドイツ国内の在来線や欧州域内各国を結んでいる国際列車との連結・乗り継ぎが不可能で利便性に欠けること(リニアは軌道がありません)、騒音や電磁波の影響も懸念されることなどです。
③最後に、皆さんに訴えます。
 リニアが実現するという6500万人の巨大経済圏スーパーメガリージョンとは一体何なのでしょうか。それは、新幹線がもたらした大都市一極集中を加速化し、非正規雇用と格差のさらなる拡大化をもたらす社会なのではないでしょうか。しかし、私達が目指す社会はもっと別のところにあるはずです。リニアは私たちに続く世代に大きな負の遺産をもたらすのではないでしょうか。今こそ、全国の団員の皆さんがリニア新幹線建設阻止のために声をあげていただきたいと思います。私は、6月20日の静岡県知事選挙の結果、潮目が変わったように思います。そう遠くない日に、静岡地裁の判決を得るまでもなく、JR東海はリニア中央新幹線計画の断念に追い込まれるのではないでしょうか。

 

 

~追悼~ 渋田幹雄団員

 

渋田幹雄さんとの思い出

東京支部  鶴 見 祐 策

 突然の訃報に言葉を失う。少し前だ。近況を披露する渋田さんが蘇った。
 2人の出会いは古い。昭和31年6月と思う。就職3年目の私は貯金を頼りに明大2部(夜間部)に入った。新設の研究室が司法試験を目指す生徒を募集していた。2部でも構わぬと聞いて入室試験に出向いたら教壇に立つ試験官が渋田さんだった。入室後に1部(昼間部)の1年先輩と知った。
 私は平日の授業は欠席ながら日曜の「答案練習」には参加させてもらった。出題の講師や先輩(修習生)の採点と講評が私には貴重だった。受験仲間の交流も得難かった。渋田先輩とは親しく多くの教示も得た。境遇の相似性があったと思う。そして昭和33年の秋。ともに試験合格の喜びを分け合った。
 いらい法律論は棚上げながら交流の度合いは更に深まった。社会科学の学習の場で顔を合わす間柄となった。
 昭和36年に弁護士登録の渋田さんは黒田事務所(現・東京法律)に入所して間もなく翌37年に松本善明事務所(現・代々木法律)の新設に参加され、その地元を舞台に労働者の権利擁護や自営業者の地位向に献身された(その現場を私も時おり訪ねた)。そして松本善明議員の誕生に大きく貢献された。昭和42年からは創設に加わった三多摩法律事務所をもっぱら拠点として活動をされた。阿部民主市政の実現に貢献された以後は立川市の法律顧問として様々な問題の解決に当たられた。
 昭和37年に登録の私が弁護士の資格で渋田さんと共闘した経験としては「民商事案」に関わる「税金がらみ」の事件に尽きるように思う。本格的には昭和42年に発生の荒川民商(広田)事件が契機と思う。荒川区の零細なプレス業者が民商弾圧を特務とする税務署員に「調査理由」を求めた行為が所得税法違反(調査拒否)の口実で逮捕され起訴された事件だ。上田誠吉団長を筆頭に多数の団員が弁護に馳せ参じた。これに私も加わった。
 もっとも税務権力と公安警察の連携による全商連・民商に対する大弾圧はとっくに始まっていた。東京では昭和36年に最大会員を擁した中野民商が狙われた。東京国税局長の極秘通達を嚆矢に強権的な税務調査が展開され刑事訴追が強行され大量のデマ宣伝と個別会員への脱会工作が展開された。
 それに対する反撃が松本法律事務所を筆頭に在京の事務所を網羅する団員(46名)が代理人に名を連ねる国家賠償の請求だった(昭和38年12月)。原告は中野民商、被告は国(政府と税務署長)。それが「中野民商国賠事件」だ。
 裁判記録を辿るとわかる。提訴から結審まで実務の中核を担った渋田さんの奮闘である。その努力が東京地裁判決(昭和38年9月30日)に実った。判決は憲法21条の「結社権」侵害を認め被告国に損害賠償を命じた。
 この勝利が後続する我々の闘いを限りなく鼓舞したことは言うまでもない。昭和44年6月25日、東京地裁は広田事件で無罪を言い渡した。
 私たちが闘った相手の生態にも触れたいと思う。
 闘いは法廷の枠内に収まらなかった。
 大蔵省(現財務省)を拠点とする権力は行政本来の領域を超えて日本社会の隅々まで支配を及ぼしていた。例えば税務に関する出版物は私たちには役立たなかった。官側(大蔵・国税)の情報伝達(垂れ流し)と解説で埋まっていた。それだけではない。彼らの陰険な策動があった。例えば税法で当局の見解に組みしない研究者には誹謗や中傷や嫌がらせの類が絶えなかった。その対応にも追われた。
 弁護士も射程外ではない。「納税非協力者に関係がある弁護士の課税状況等調について」と題して東京国税局長が発した極秘通達もその一例だろう(顛末は自由法曹団編「憲法判例をつくる」日本評論社・357頁参照)。管下の全署長に名簿を付して税務調査との強化と記録の永年保存を指示したものだ。団員の増本一彦議員が国会で暴露した。直ちに団長先頭の抗議団が国税局に乗り込んだ。周章狼狽の国税当局は通達回収と廃棄を表明し醜態を晒した。しかし彼ら永年の悪癖は改まらない。
 その関連で或る「事件」に触れたいと思う。雑誌「税と社会」の顛末だ。
 広田事件の東京地裁判決があって間もなくと思う。私に耳よりの話が寄せられた。北野弘久教授からと記憶する。ある金融関係を退社の篤志家が「税金」を扱う雑誌の出版を起業されるという。誌名が「税と社会」。納税者の権利も視野に全く新しい専門誌を目指しておられる。それに寄稿しないかとの勧誘だった。話は渋田さんにもあった。私は即座に承諾した。広田事件の実態と無罪判決の顛末を綴って発行所(N書房)に送った。
 昭和45年1月に発行の創刊号(B版120頁)には冒頭に発行者の文章が掲げられていた。フランス人権宣言など引用し「憲法30条は本来的に権利の規定」と位置づけ、「本誌の使命は、民主的な租税制度確立の可能性を追求するための基盤」と謳っていた。執筆者も多彩だった。著名な大学教授の論文が連なり、国税庁長官(吉国二郎)の対談、元大蔵省主税局長(塩崎潤)の報告、財務官僚の現職や元職の発言に加えて北野教授の「大島違憲訴訟(サラリーマン税金訴訟)」の力作も掲載されていた。編集者の配慮が看取できた。そして「誌上税金裁判」と銘打つ私(但し「雄策」の誤植)のレポート「広田事件―質問検査権をめぐってー」が掲載されていた。
 2か月後に刊行の第2号「誌上税金裁判」には渋田さんが執筆の「中野民商事件」が載った。問題点を的確に指摘しつつ節度を逸らさぬ報告だった。
 それが何と。「税と社会」自体の即時の廃刊だ。
 後日になり消息通から聞かされた。渋田さんと私が書いた民商事案の掲載に財務当局から難癖がつき、金融筋を介した圧力で発行者への融資が絶たれたという。物証はないが真相だろう。金融を媒介の「妨害」は彼らの常套に違いない。
 顧みると先輩の渋田さんと私の2人は共通の相手と戦い続けてきた同志だった。それを今に体感させられている。
 渋田先輩のご奮闘に深く敬意を表し心からご冥福をお祈りする。どうか安らかにお休みください。

 

渋田幹雄先生追悼

東京支部  鈴 木 亜 英

 渋田幹雄先生が亡くられました。84歳でした。13期の同期のなかでは、一番お若かったのではないでしょうか。敢えて、渋田先生を「先生」と呼ばせて頂くのは1968年入所であった私にとっては文字通り先生だったからです。発足間もない小世帯の事務所では仕事も遊びも一緒で所員は家族同然の間柄だったのですが、先生は大所高所から自由法曹団員の全国配置に積極的に関与されてきた方でした。先生は1961年4月、当時の黒田法律事務所(現東京法律事務所)に入所されました。華の13期と呼ばれ、綺羅星の如きお仲間のひとりでした。しかし、落ち着く暇なく、翌62年5月には、松本善明法律事務所の設立メンバーに選ばれ、本格的な地域事務所づくりに参加されました。さらに1967年5月には、弁護士経験6年という若さで、三多摩法律事務所の設立を任されました。思えば息つく間もない異例のことであったに違いありませが、時代がこれを求めたのです。私は先生から松本善明事務所での5年間の苦労を聞かされて過ごした。先生はこの松本善明事務所の2階に夫婦で住み込み、文字通り朝晩を問わず、事務所の前進のために仕事に邁進されたのです。              地域事務所は扱う事件を選ぶ暇はありませんが、市民の権利を徹底的に擁護するところに専門性がありました。事務所を設立して半世紀余りの歳月が流れました。この間大小様々の事件が走馬灯のように脳裏を駆け甦りますが事件の中身もさることながら、まずは際限のないその分量を思い起こします。私たちは日夜を分かたず、若さに任せて駆けずり回りました。大小の刑事弾圧事件の数とその激しさは今からは想像もできないものだったと云えます
 また小世帯だっただけに、一人ひとりに要求される任務は多く、それぞれの負担は並大抵のものではありませんでした。先生は運営委員会の議長でもあったので私たち以上に事務所全体への気配りなど苦労が多かったと思います。先生は疲れを見せず淡々と事件に取り組んでおられました。他の弁護士もこれに習うことになりました。先生は7人の弁護士の手持ち事件数の合計が500件を超えていると事務所総会で報告されています。
 私たちはこの事件数に対応する新人弁護士を次々採用して、時代と地域の要請に応える陣容を整えました。三多摩地域に核となる地域事務所ができたことはそこで頑張っている労働組合その他の民主的活動を支えている人々にとって大きな励ましになったに違いありませんが、私たちはそれに伴う代償も背負わなければなりませんでした。先生は事務所20周年記念誌で「故障者や病人が絶えなかったことが事務所運営のなかでの最大の悩みだった」と述懐されています。とりわけタイプ腱鞘炎は大きな問題でした。そんな状況にもかかわれず、先生の率いた三多摩法律事務所は武蔵野・八王子・甲府へと新しい事務所を次々建設し、今ある地域事務所の布陣へ向けて献身しました。さらに、この後、事務所出身者がさらなる拠点を作り、三多摩地域全域に民主的活動に取り組む弁護士が増してゆきました。私たちはこのような大規模な戦線を築いたことが先生の最大の功績だったと信じて疑いません。新しい事務所づくりに取り組んだことにより、三多摩地域全域に信じられないほどの成果と前進を手にすることにもなりました。
 先生は実務に熟達された方でした。裁判で大きな成果を上げても、嬉しそうな表情は示すものの、大はしゃぎするタイプではありませんでした。裁判で勝つためにはどんな地道な努力もいとわず、疲れた顔ひとつ見せませんでした。私たちは先生のこの平常心を学びました。先生はまた温和な方でした。先生が部屋にいらっしゃると落ちついた空気が流れました。1971年8月革新統一候補の阿部行蔵氏が市民の願いに応えて見事当選し、私たちの革新市政実現への取り組みは実現しました。この後市長の法律顧問となられた先生はその職務を全うするために事務所を離れられることになりましたが、これも私たちの運動の延長にあったものであったと理解しています。
 先生には2か月前にお久しぶりにお会いしました。相変わらずのお姿に見えました。さらに半年前、先生にお会いした折には、別れ際に、「鈴木さん、今度一杯やろうよ」と誘って頂きました。先生の微笑みが印象に残った一幕でしたが、コロナ禍で約束の実現は延び延びになってしまいました。そのさなかのお別れでした。先生お疲れ様でした。ごゆっくりお休みください。

 

~追悼~ 篠原義仁団員

 

篠原さん弔辞

神奈川支部  西 村 隆 雄

 この度のコロナ禍となるまでは、インシュリンを打ちながら痛飲しては、談論風発していた篠原さんの姿が目に浮かびます。
 まさかこんなにもあっけなく逝ってしまわれるとは、ご本人も想定外であったことでしょう。まして残された私たちにとっては、まさに途方に暮れるとしか言いようがありません。
 篠原さんといえば、公害分野でのたたかいはもちろんとして、日本鋼管人権裁判、東京電力人権裁判をはじめとした数々の労働事件の分野、またオンブズマン事件や9条かながわの会など市民的分野での活動など、その足跡は一言では到底語りつくせません。
 また後半生では、それまで寄り付かなかった自由法曹団の幹事長を引き受けて以来、団における八面六臂の大活躍は皆さんよくご存じのとおりです。
 私は弁護士となって以来、師としての篠原さんを追いながら、公害分野で活動してきましたが、篠原さんの何よりすごい所は、たたかいの戦略方針を立て、その実現のための道筋を明らかにして、これをその先頭に立って実践していくところでありました。
 大気汚染公害の分野でも、『公害は終わった』との財界、政府の大合唱の中で、公害健康被害補償法改悪の嵐が吹きすさぶ中、全国連絡会議を結成し、全国の被害地域から連鎖提訴の方針を打ち出して、全国8地域2000名を超える被害者が立ち上がっての壮大なたたかいで反撃に打って出て、大きな成果を収めました。
 また各地で道路公害の国と工場公害の企業を被告として裁判を展開する中、大気汚染の主役が、工場から自動車に交代しつつあるのをとらえて、力の分散を避け早期解決を図るために、企業の解決を先行させ、その後に国関係の解決を行う『片面解決』方針を打ち出してたたかったのも篠原さんでした。
 篠原さんの活躍はもちろん、大気分野にとどまりません。公害弁連を舞台に、各地のたたかいの山場での議論では、必ず篠原さんが鋭い問題提起をして、大きな役割を発揮したのは、皆さんご承知のとおりです。
 私たちはこれから、こうした篠原さんの素晴らしい能力と実践の日々をしっかりと胸に刻んでたたかっていきます。
 その意味で、篠原さんとお別れをするつもりはありません。
 篠原さんの愛した『読売巨人軍』になぞらえて言えば、篠原弁護士は永遠に不滅です。

  2021年8月31日

川崎合同法律事務所 西村隆雄

 

国際問題委員会主催 「入管法勉強会」(高橋団員報告)に参加して

東京支部  金 子 美 晴

 2021年7月19日、国際問題委員会主催で、「入管法勉強会」が開催され、高橋済団員からの報告がありました。背景には、ここ半年ほどの間、出入国管理法改正案が世間を賑わせていたため、改めて問題点を勉強しようというものです。
 政府は、本年2月19日、出入国管理及び難民認定法改正案を国会に提出しました。この法案は、多くの問題をはらんでいました。
 例えば、収容に代わる監理措置として、同制度における監理人になる者は、支援者や弁護士等が想定されています。しかし、監理人は、対象者の生活状況、許可条件の遵守状況を監督し、その状況を国に届け出る義務を負い、これに反すれば罰則を科せられ得るとされ、弁護士が監理人を申し出ることに萎縮が生じ得る点で大きな問題があります。
 また、法案は、3回以上の難民認定申請者等について、原則として送還を停止する効力を解除することとしています。しかし難民として認定される必要があるとして何度も申請する人をあたかも濫用・誤用的な申請者として退去させようとするのは、ノン・ルフールマン原則(迫害を受けるおそれのある国への追放・送還を禁じる国際法上の原則)に反するものです。
 その他、退去強制令書の発付を受けた者に対する退去命令を発して、これに従わないときは刑事罰を課する規定も盛り込まれました。しかし、対象となる者を一定の者に限定したが、刑罰をもってして強制することの必要性を欠きます。
 法案の内容はこれだけにとどまりませんが、ものように法案の内容からすると「改正」ではなくむしろ「改悪」となっています。
 法案が提出された翌月3月6日に、名古屋出入国在留管理局で被収容者のスリランカ人女性のウィシュマ・サンダマリさんが亡くなり、被告収容者に対する非人道的対応が浮き彫りにされる中、5月18日、野党や世論の反発を受けて、政府は今国会での成立を断念しました。
 高橋団員は、難民認定の問題と、在留特別許可の問題、そして難民や在留特別許可を得られない場合に収容施設に送り込まれる問題という、それぞれの問題を区別した上で、それぞれに解決せねばならないものがあることを解説してくれました。例えば、日本は難民鎖国で、昨年度は認定率0.4%、44人という少なさでした。ヨーロッパの中で少ないとされるイギリスでも、昨年の認定率は46.2%、1万6000人が認定されています。日本は、難民の定義を限定解釈した上に事実認定に客観証拠を求めることなどが、非常に狭き門となっていることを指摘されていました。
 確かに、先日アフガンからの自衛隊機に日本人は1人のみ、アフガン人協力者はのせてこなかったという驚愕の報道もありましたが、難民条約を批准しているにもかかわらず、そもそも難民を受け入れる気がないと思わざるを得ません。
 高橋先生の報告後、活発な質疑応答がなされましたが、その中でも、入管に収容されている弁護士アクセスの関係での質問が活発になされました。どの収容所でも、弁護士へのアクセスは運の世界のようです。名前を知らなければ面会もできませんし、交通の弁や日弁連委託援助の費用の点の問題もあります。ウィシュマさんの事件も、弁護士がついていれば結果が違ったかもしれないと言います。
 私自身は、実は牛久入管(東日本入国管理センター)が生活圏内にあり、比較的すぐに行くことができます。昨年弁護士になってから、先日初めて、牛久入管に収容されている方の仮放免許可申請手続をしました。その方は今月で収容3年目に突入します。日本で生まれた小学5年と3年のお子さんがいますが、3年間電話だけで会話する生活です。高橋先生のお話を聞いて、現に収容されている人の救済とともに、入管法の真の快晴に向けて、自分なりにできる範囲で動いていきたいという思いを強くしました。

 

23期の「集い」をよろしく

京都支部  村 山   晃

 団でも、司法問題についての取り組みを大きく進めてほしい。そんな思いで、総会の議案書について意見を述べたり、総会で発言をしたりしてきた。この50年で、司法反動阻止の取り組みがあり、司法改革があった。私が記憶している限りでは、団の取り組みは、最高裁判所裁判官の国民審査について×をつける取り組みを旺盛にしていた時がピークだったような気もする。
 2000年を前後して取り組まれた司法改革で、最大の改革課題は「司法官僚性の打破」だと考え、法曹一元をメインのスローガンにして、取り組みを強めたつもりだったが、そこまで改革のメスを及ばせることができなかった。それでも、「裁判所がこのままで良いはずがない」という思いを市民へ広げる取り組みを進めることはできた。法曹一元こそが司法改革の目指すべき姿であるとして、地元テレビで特別トーク番組を作るなどした。しかし、その後その法曹一元の声も遠くなった。
 23期は、50年前に最高裁判所からひどい仕打ちを受けた。「こんな裁判所では絶対に駄目だ」その思いは50年経っても変わらない。「司法はこれでいいのか」という23期の思いが詰まっている書籍を発刊し、阪口罷免50年目に集会を持ったのも、そうした思いからだ。
 もっとも、問題の多い司法制度の下でも、様々な裁判闘争の中で、市民の人たちの権利を守る判決を生み出し、それを制度実現に結び付けた闘いは蓄積をされてきた。そうした闘いが、団の真骨頂であることは間違いがない。
 同時に、権利の実現を妨げる裁判も数多く経験し、それを突破していくうえで、司法官僚制度を打破することが不可欠であることを痛感し続けてきた。
 私たちは、今一度「司法の民主化」へ向けての動きを作り上げていくことが不可欠だと強く思っている。
 そして、今般集会を企画した。集会と言っても、ズームだけの集いである。参加はしやすいと思う。ただ、今や、こうした集会を作り上げることは、人生の第4コーナーを回って久しい集団である23期の私たちの手になかなかおえず、今回は、青法協の前の議長の北村栄弁護士に大きな力を借りた。
 この集会に、是非とも皆さん方にご参加していただきたいと思い、通信に投稿した。
 テーマは、「原発訴訟から司法を考える」である。目の前であれだけの被害を味わったのに、人権の砦であるべき裁判所の対応は、一体どうなっているのか。差し止め判決を書くのに「勇気がいる」という事態をどう考えるのか。司法を変えるために何をすべきか、何ができるかを、皆様方と語り合える機会になればと思っている。要領は次のとおり。

  日 時 9月25日(土)13時30分から15時30分(すべてオンライン) 
  テーマ 「原発訴訟から司法を考える」
  主 催 23期弁護士ネットワーク
  内 容 パネリストは、島田広弁護士と井戸謙一弁護士(元裁判官)。元裁判官の森野俊彦弁護士も発言。
  申し込みは、21-0925@news-pj.net(23期ネットワーク事務局)へ。

 

東北の山 ~ 早池峰山 ~

神奈川支部  中 野 直 樹

東日本大震災の年
 2011年7月15日、団は陸前高田市・大槌町の被災地調査を行った。12時半に一関駅に集合した40名はバスに乗り込み、現地に向かった。陸前高田市は三陸海岸の岩手県の南端であり、宮城県気仙沼市と接する。三陸の由来は、陸奥国、陸中国、陸前国からとったと言われている。1955年にリアス式海岸が特徴の陸中海岸国立公園が指定された。震災前は一関駅から気仙沼、陸前高田、大船渡市の盛(さかり)駅までJR大船渡線が走っていた。この盛駅は三陸鉄道の始発駅である。
 14時すぎに陸前高田に入った。バスの窓外には、集められたがれきの山々、途切れてしまった大船渡線の線路、3階まで窓枠が破壊され空洞となっている堅固な建物。3月11日午後3時半頃、最大17.6m津波が陸前高田市に襲来し、8000世帯のうち4000世帯の家屋が全壊・半壊した。2万4000人の人々のうち1550名が死亡確認、行方不明207名。
 バスは北上し、大槌町に入った。井上ひさしさんはこの町にうかぶ蓬莱島をモデルに人形劇「ひょっこりひょうたん島」を描き、この地にある「吉里吉里」という地名を使って小説「吉里吉里人」を著した。
 山形生まれの井上ひさしさんがなぜ三陸を舞台に?同氏の「花石物語」に手がかりがある。
 このリアス式海岸の入り江は江戸時代に東廻り航路の港となり、ここで揚げられた荷は遠野、そして盛岡に運ばれた。風光明媚な漁業の町にも津波は容赦がなかった。3時21分、地震後庁舎前で対策本部を開いていた町長をはじめとする職員の方々が犠牲となった。今年7月22日、町が「大槌町東日本大震災津波犠牲職員状況調査報告書」をまとめたことが報道された。
 翌日仙台で常任幹事会が開かれた。
北上山地
 岩手県北部から、現在放映中のNHK朝ドラ「おかえりモネ」の舞台の1つ、宮城県登米あたりまでの高地帯である。西側を北上川が流れて石巻の海に注ぎ、東側はリアス式海岸を形成している。北上山地も大津波の原因である太平洋プレートの移動が造りだしたものである。
 この最高峰が早池峰山(1913m)だ。漢字も美しいが、「はやちね」とひらがなにするといにしえを感じる響きとなる。私の好きな山名の1つだ。実際にも古い海底からの隆起地層だという。「遠野物語」にもしばしば登場する。遠野の人々にとって目の前に薬師岳(1645m)が坐り、その背後に早池峰山を望む。遠野からは、渓流釣り師の憧れの猿石川の上流に向い、附馬牛(つくもうし)の大出にある早池峰神社に参拝してから、さらに沢沿いのそま道を登り薬師岳の山頂を越えて、いったん小田越に下ってそこから直登する。この古道は超ロングであり、今は辿る人はいまい。
早池峰山登山へ
 猿石川だけでなく、薬師岳や早池峰山の周辺には薬師川、岳川などが流れ、私もずいぶん岩魚釣りに通っていたが、登山をしたことはなかった。
 団の企画に参加した後、岡村親宜弁護士の釣りの拠点・岩魚庵に泊まり、早池峰山に登ってくることとした。朝6時30分に車で出発し、7時30分に岳の駐車場に着いた。ここにも早池峰神社がある。この時期はここから先マイカーが規制され、バスに乗り換えた。20分ほどで河原坊(標高1055m)に着いた。坊というから寺はと思うが、遠い昔洪水で流された後再建されていない。8時、ザックを背負ってすぐ歩き始めた。
 岳川の源流部の大きな石を飛び越えながらの登りである。若者が私に後続し、私が早足となってもピタリと付いてくる。かといって追い抜いてもいかず、私をペースメーカーにしているようだ。右手を振り返ると、真っ青な空をバックにピラミッドのような形の薬師岳がどーんと座っていた。早池峰山と薬師岳はお隣山どうしだが、早池峰山が蛇紋岩のごつごつした岩肌が露出しているのに対し、薬師岳は花崗岩で構成され、アオモリトドマツに覆われており、容姿が全然違っている。
岩礫に凛と生きる
 汗がしたたり落ちる急坂をしのいで稜線に近づくと、巨岩石地帯となり、同時にそこはお目当ての高山植物群の世界だった。早池峰山は花の百名山としても名を立てる。山体がアルカリ性の強い蛇紋岩で造られていることから特有の植生があると言われている。山好きなら誰もが一度は目にしたいと憧れるハヤチネウスユキソウ(早池峰薄雪草)がどうぞ見てくださいといわんばかりにあちこちに花開いていた。東北の山にいくと目にすることが多いウスユキソウの中でももっとも大ぶりである。純白の星形の花は、日本のエーデルワイスと言われている。ちなみにエーデルとは気品高いというドイツ語らしい。
 10時20分、山頂に着いた。残念なことに10時頃からわきはじめたガスが視界を遮り、大展望の御利益までは提供してくれなかった。昼食のお握りをほおばっていると、オカリナでお馴染みのサウンドオブミュージックの「エーデルワイス」を奏でるグループがいた。
 山頂の石の祠の前には木製の板に「1913.6m」と書かれていた。その左横に金属製の看板があり、そこには「海抜1917m」と書かれている。国土地理院のデータでは「1917m」となっている。ちなみに、深田久弥氏の「百名山」では「早池峰 1914米」と記されている。
 11時、腰を上げ、小田越に向けて下山を始めた。紫色のミヤマオダマキや薄いピンクのミヤマアズマギクらとハヤチネウスユキソウとの競演を写真に納め、やがてコメツガの林を抜けて12時15分小田超に着き、岳行きのバスに乗った。

 

幹事長日記 ~ その5(不定期連載)

                                                 小 賀 坂   徹

 We can’t always get what we need.
 8月24日、チャーリー・ワッツが死んだ。ローリング・ストーンズのオリジナルメンバーでドラマー。荒々しいメンバー揃いのストーンズの中で、一人銀行員のような佇まいで淡々とドラムを叩いていたのが印象的だった。すでにベースのビル・ワイマンはかなり前に脱退しているから、これでオリジナルのリズム隊はいなくなってしまった。ストーンズは新たにドラマーを入れるのか、それともライヴやレコーディングの時だけサポートメンバーを入れて活動するのかは定かでないが、ビル・ワイマンの時のように後者を選択するのではないだろうか。
 ストーンズ自身は、すでに伝統芸能(=様式美)というべき域に達しているので、ミック・ジャガーとキース・リチャーズさえいればストーンズであり続けることはできるだろうが、あのメンバーの中で格別の存在感を保っていたチャーリー・ワッツがもういないと思うと、やはり寂しい。
 最近のストーンズで思い出すのは、昨年の医療従事者支援のためのチャリティーコンサート『One World: Together At Home』で、それぞれのメンバーの自宅で演奏し、リモートでセッションした時の事だ。この時演奏した曲は「You can’t always get what you want」(いつも欲しいものが手に入るとは限らない)。それぞれのメンバーの自宅は、「ザ金持ち」という感じだったが、その時チャーリー・ワッツはドラムセットの代わりにトランクや機材ケースをいくつも並べ、またソファーのひじ掛けなんかを叩いていた(彼は以前のインタビューで自宅にドラムセットは置いてないといっていた)。このライヴは発起人のレディー・ガガを始めとするそうそうたるメンバーが揃っていたが、80歳近いストーンズが一番楽しそうで、見ているだけでときめいた(キースは水割りを傍らに置いていてミスタッチばかりだったのもストーンズらしい)。

 この曲、邦題は「無情の世界」とされているけど、その最後の歌詞は、
 But if you try sometimes you just might find.
 You get what you need.
 (でもトライしつづければ、いつか気づくと欲しいものが手に入ることもあるのさ)という希望で結ばれている。
 コロナ禍のチャリティライブの選曲としてはかなりイケてたし、さっきも言った通りパフォーマンスもカッコよかったので何回もリピートしてしまっていた。
 そしてその2日後の26日、本当に唐突に篠原義仁さんが逝ってしまった。
 We can’t always get what we need.

 

 

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