第1752号 9/21

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

  • 布川国賠完全勝訴判決が確定
    54年目の「勝った気のする勝訴判決」~  谷萩 陽一
  • 横浜は燃えた-横浜市長選挙圧勝をもたらしたもの  岡田  尚
  • (報告)堺市自由社 教科書採択申し入れ運動について  脇山 美春
  • 創立100周年記念総会で死刑制度廃止決議を!  小川 達雄
  • 「逆転無罪」を読んで  永尾 廣久

   ~追悼~ 藤野善夫団員

  • お別れのことば  髙橋  勲

   ~追悼~ 篠原義仁団員

  • 篠原義仁先生 追悼  大塚 武一
  • 団創立100周年記念出版事業編集委員会日記(7)  中野 直樹
  • 1回「先輩に聞く~労働事件をどうたたかってきたのか、
    これからどうたたかうのか」 講師:豊川義明団員   
    中西  基
  • ジャーナリズムは原発報道で責任を果たしてきたか
      ~放射能惨事・これまでとこれから  杉本  朗

 

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布川国賠完全勝訴判決が確定
~54年目の「勝った気のする勝訴判決」~

 茨城支部 谷 萩 陽 一 

 布川国賠訴訟は、去る827日に東京高裁第20民事部(村上正敏裁判長)の言渡した完全勝訴判決に対し、国も茨城県も上訴せず、確定した。
 すでに一審判決で櫻井さんが勝訴し、国と県に賠償を命じていた。一審判決はごく一部の取り調べが違法であると認めたものの、取調べ過程についてはほとんど国や県のいいなりの認定をしていた。検察官の証拠開示義務違反という大胆な根拠で、「証拠隠しがなければ確定二審で無罪判決が出ていたはず」と認定して勝訴させたものの、その証拠で起訴した検察官の違法は認めなかった。「勝った気のしない勝訴判決」だった。
 827日当日は、高裁がどんな判断を下すのか、弁護団は判決要旨の朗読に全神経を集中した。
 結論は勝訴。賠償額は約7400万円。櫻井さんがどんな取り調べを受けて自白するに至ったのか、その事実認定は捜査官でなく櫻井さんの主張を全面的に認めるものだった。その取調べは「虚偽の事実を告げて強い心理的動揺を与えるもの」で「社会的相当性を逸脱して自白を強要する違法な行為である」と断じた。まさにこれを言ってほしくてこれまで長い間たたかってきたのだ、という思いが込み上げてくる。隣で聞いている櫻井さんはさぞ感激しているのではないかと思った(涙をためて上を向いていたとのこと)。
 判決は続いて吉田検事の取調べの違法についても判断し、吉田検事が確定審の公判で杉山さんに対し「やってないことを証明してみろ」などと立証責任が検察官にあることを無視するかのような高圧的な態度を示していたことからみて、取調べでも否認を許さない強い態度で自白を強要したものと認定する。ここまでいってくれるのかという認定だった。
 本件では初期の自白調書を付けて逮捕状請求をしていることから、判決は自白調書がなければ逮捕もなかった、従って起訴も有罪判決もなかったとして因果関係を認めた。
 次は起訴の違法の論点か、と思いきや、次は損害論に移って、朗読は終わってしまった。
 弁護団には戸惑いの空気が流れた。勝ったには勝ったが、注目していた起訴の違法や証拠開示の論点はどうなったのか。何も判断していないのか。
 しかし、「旗出し」に裁判所玄関に向かう間に、「これで良いのだ。」と思えてきた。支援者にマイクで「完全勝訴です」と報告した。その後の集会で櫻井さんは「ようやく当たり前のことを言ってもらえた。」「当たり前のことを言ってもらうのに50年かかるというのもすごいことだ」と語った。支援者も含め、会場は勝訴の喜びで一杯になった。
 自白の強要こそ、この冤罪の原点であり始まりである。高裁判決はそこに切り込んで、県と国の主張を排し、櫻井さんの言い分を認めた。この事件では再審開始決定を初め3つの決定と3つの判決で勝ったわけだが、その中で最も血の通った判断であり、最も櫻井さんたちの訴えに寄り添い、捜査官に最も厳しい目で判断してくれたものと言ってよい。その結果、逮捕段階から再審無罪までの全期間の損害の賠償を命じた。民事訴訟が個別の権利救済を目的とする以上、これで十分なのである。
 弁護団声明では、「事件発生以来54年という長い年月を経て、櫻井さん自身のこの冤罪とのたたかいはここに終結のときを迎えた。弁護団は、櫻井さんの筆舌に尽くしがたい積年の労苦と不屈の精神にあらためて敬意を表するとともに、ご支援いただいた全国各地の数多くの皆さまに心からの謝意を表する。また、亡杉山卓男さんと、志半ばで世を去った先達の弁護団員たちやご支援いただいた方々にこの勝利を捧げたい。」とした。小高丑松団員、柴田五郎団員、中田直人団員、山川豊団員、秋元匡団員、都立大の清水誠先生などが胸に浮かぶ。
 この判決の意義や評価、射程範囲、他の事件や実務への影響等については、弁護団でも議論中なので、現時点でいくつかコメントしておく。
(1) 本件では別件の勾留を利用してとった自白調書を添付して逮捕状をとった。判決は、その自白調書がなかったとしたら他の証拠資料で逮捕の要件を満たしたかという検討をして、他の資料では櫻井さんらを犯人と疑わせるに足りる証拠価値はないと判示した。裁判所が安易に逮捕状を発行してしまう運用に慣れてしまうと、こうした検証の角度が弱まりかねない。その意味では貴重な問題提起であったといえよう。
(2) 判決では起訴の違法については触れていないが、吉田検事の取調べについては、弁護団が主張してきた「供述の捏造」ともいうべき証拠と供述の辻褄合わせを認定し、違法であると断じた。その検察官が起訴したのであるから、この起訴が合法であるはずがない。判決は事実上起訴の違法も認めたに等しい。
(3) 証拠開示についても判決では触れていない。しかし、一審判決が、検察官の一般的な証拠開示義務を認め、本件では義務違反があったとした判示は、この高裁判決によって取り消されてはいない。
 判決は本件が「逮捕の嫌疑すらない」者を誤認逮捕した案件だったことを明確にした。にもかかわらず無罪獲得まで44年を要した原因が、検察官による証拠隠しにあったことは再審開始に至る経過から明らかである。その意味では証拠開示の重要性を改めて裏付けている。

 

 

横浜は燃えた-横浜市長選挙圧勝をもたらしたもの

神奈川支部  岡 田   尚

 投票終了直後のマスコミによる当確報道を「ゼロ打ち」というそうだ。
 822日午後81分、横浜市長選挙で、NHKの山中竹春当選確実の報にまずびっくり、初めてのこと故一瞬の戸惑い。次に「やったー」の大合唱。現職閣僚であった菅首相の盟友小此木八郎氏や現職市長相手の選挙での「ゼロ打ち」、私を含め選挙対策事務所全体が驚いた次第。
 本稿は、五月研究討論集会特別報告集「横浜燃ゆカジノ住民投票運動から市長選挙へ-」の続編である。拙稿の最後を「オール横浜の陣形で、822日投開票の横浜市長選挙で闘い抜く決意を共有した。」と結んだ。それが勝利という形で実現したのだ。
 コロナ禍で三密を避けながら208719筆の署名を集め、法定数の3倍を超える193193筆が有効(92.56%)とされて住民投票は成立した。ところが今年1月初めの市議会で市長は「住民投票の意義は見出し難い」、自民党・公明党は「こんな重要な問題を軽々に市民の意見を聞くべきではない」として私たちが提出した住民投票条例案をあっさり否決。市民の怒りは収まらず、この決着は夏の市長選挙でつけようと「カジノの是非を決める横浜市民の会」は、解散すると同時に、「カジノ反対、横浜に住民自治をとり戻そう」をスローガンに、「カジノ反対の市長を誕生させる横浜市民の会」を結成した。住民投票運動を共に闘った私たち市民と野党の横並び、これに「ハマのドン」横浜港ハーバーリゾート協会の藤木幸夫会長も加わった幅広い「陣形」で闘えば勝てるという信念で出発した。
 候補者選びは、住民投票運動を承継する人という条件をつけ、立憲民主党に委ね、山中竹春さんを候補者とすることに最終的には三者で合意した。しかし、これもスンナリ決まったわけではない。一時は、立憲民主党代表代行の江田さんと「市民の会」の代表世話人の私との間で険悪な関係になったこともある。また、途中私たちの会からも戦線を離れた人もいた。野党間も各党推薦あるいは支持の横並びは実現せず、立憲民主党推薦、日本共産党、社会民主党、緑の党、新社会党は自主的支援止まり。当確の祝いの挨拶で私が「一時期、ガラスの団結と言われましたが、壊れないで最後までもったから立派な団結だ」と言ったら、皆さん笑いながら納得していた。神奈川新聞は確定後一面の総括記事の見出しは「ガラスの団結」だった。
 私たちの前段の住民投票運動の力がなければ、過去最多それも現市長、1カ月前までの閣僚、元知事2人等8人の立候補も、そのうち6人がカジノ反対、そして現職閣僚でこれまでカジノ法案に賛成し、推進してきた小此木八郎氏がカジノ反対をいうような事態も絶対起こっていない。そして勝った。市民の力はここまで巨大なのか。マグマのように噴出した市民の力は、誰にも止められなかったのだ。
 当確のお祝いで、藤木さんが「91歳、あちらからお呼びがかかっている。向こう行ったらみんなにこの横浜市長は私がつくったと自慢できる」と挨拶された。すぐ後で私が「藤木さんは私がつくったと言われましたが、私たち市民がつくったと思っている」と返した。正に、これから本当の市民の市長になってもらうべく、どう支え、サポートしていくか皆さんと議論を始めたところ。「横浜から日本を変える!との心意気でやるぞ」と気張っていたところに菅首相突然の退陣表明。総選挙が面白くなった。

 

(報告)堺市自由社教科書採択申し入れ運動について

大阪支部  脇 山 美 春

1 堺市が中学校歴史教科書再採択を行うという判断に至る背景
 2021330日、「新しい歴史教科書をつくる会」系の自由社が再申請した中学歴史の教科書が教科書検定に合格したことが発表された。これに伴い、堺市では中学校歴史教科書の再採択が行われることになった。
 そもそも、教科書採択は3年に1度のペースで行われており、令和4年度以降使用する教科書の採択については、既に2020年に採択がされたばかりであった。
 教科書採択にあたっては、教科書展示から市民の意見聴取、教育委員会での議論等、行政機関に多大な手間がかかる。特に2021年も昨年に引き続き新型コロナ対応で教育委員会も大忙しとなっている中で、また採択手続きをするとなれば、教育委員会所属の職員に多大な負担をかけることになる。
 また現場の教師からしても、既に採択された教科書で、令和4年以降の授業の準備を開始しているのであるから、このタイミングで使う教科書が変わるとなれば、授業プランを大幅に見直さなければならず、現場の混乱は必死となる。そういう事情もあってか、自由社の検定合格を受けて、各自治体が再採択をしなければならないわけではなく、行うかどうかは日本全国の自治体の判断にゆだねられることとなった。
 ところが堺市は、教育委員会の負担、教職員の負担を無視して、あえて自由社の教科書採用の是非を問うべく中学校歴史教科書の再採択を実施することにしたのである。
2 自由社中学歴史教科書の問題点
 自由社の歴史教科書の問題点を4点取り上げると①神話を異常なボリュームで取り上げ、歴史と神話の区別を困難にし②大日本帝国憲法とその下の体制を賛美し③日本国憲法を「押しつけ憲法」と批判したうえ④随所でアジア諸国(特に中国、朝鮮半島各国)に対する日本の優位性を強調している点がある。その書きぶりは、昨年採択阻止運動を行った育鵬社歴史教科書よりもさらにひどく、「トンデモ本」といっても過言でない。ぜひ皆様には一度本文にあたって笑ってほしいくらい、ひどい内容の教科書である。
3 自由社採択阻止運動の経過
 大阪では、自由法曹団員を中心にして、各社の中学校公民教科書を斜め読みするPTが月に1度開催されている。その中で、自由社歴史教科書の採択についても申し入れに行く方針を決めた。202171日、堺市民を中心とした緊急集会があったのでそこに参加し、市民の方の作成した資料をもらい、一緒に申し入れに行くことを確認した。申し入れ書は、団の名前で作成することになった。
 202182日、私と藤木支部長、そして市民の方々約20名で、教育委員会の教科書採択担当者2名に申し入れを行った。申し入れの場では、団作成の申し入れ書を交付したうえ、自由社教科書の問題点のみならず、そもそも再採択を行うこと自体の問題点の指摘や、堺市の教科書再採択・教科書展示にかかる問題点についても市民の方から指摘があった。
4 運動の成果と反省・今後について
1)成果
 2021818日、堺市は昨年採択したのと同じ会社の教科書を採択し、自由社は採択しなかった。
 一度時間をかけて教科書を採択していた以上、当然といえば当然の結果である。
 ただ、教育委員会会議を傍聴した市民の報告によれば、自由社には堺について冒頭に記載があったことや、教育委員会がいつ教科書採択についての会議を開くのか、1週間前の直前にならないと公表しなかった点などをふまえると、申し入れを行わなければ、堺で自由社の歴史教科書が採用されていた危険は現実にあったとのことである。「トンデモ本」の採用阻止は、申し入れの立派な成果といえそうだ。
2)反省・今後
 毎月PTで教科書検討をしていたおかげで、堺市で教科書再採択されるという情報がすみやかに共有され、申し入れの方針も即立て、行動することができた。去年の採択阻止運動の時より、迅速な対応ができたように思う。今後も日々の教科書検討会を大事にしていきたい。
 3年後には再び採択の時期がやってくる。その時にも、自由社・育鵬社が採用されることがないよう、市民の皆様とも連携して、採択阻止活動(というか、よりよい教科書を採択してもらうための活動)を継続していかなければならない。

 

創立100周年記念総会で死刑制度廃止決議を!

京都支部  小 川 達 雄

1 死刑制度は廃止されるべきである。
 人は、人であるがゆえに最大限に尊重されなければならない。人の生命を奪う権利は「人の社会」の構成員である何人も有しない。「人の集団」である国家も同じである。個人の尊厳と生命の保障は「人の社会」の存立の基盤である。
 裁判が、人が人を裁くものである以上、誤判によるえん罪の発生は不可避である。そのセーフティーネットとして再審制度があるが、死刑が執行されてしまうと再審制度は機能し得ない。この「取り返しがつかない」という性質が、死刑と自由刑を質的に異なるものとする分水嶺である。
 刑罰制度は、人間社会における文化の向上とともに、同害報復のもつ残虐性が次第に除去されて身体刑が原則として否定され、自由刑、財産刑に純化してきた。死刑は究極の身体刑である。死刑制度の廃止は歴史の必然であるというべきである。この歴史の流れを示す国際的な現象として、法律上、事実上死刑制度を廃止する国がこの30年間で急増し、死刑制度廃止国は今や144カ国となり、世界の国々の7割を超える現実がある。
 さらに、死刑制度による犯罪抑止効果は実証されておらず、逆に、自分への死刑執行を望んで凶悪な犯罪が実行された例がある。池田小学校事件しかり、土山連続殺人事件しかりである。死刑制度は凶悪犯罪の誘因的要素を内包している。他方、死刑制度廃止国と我が国との間の犯罪人引渡条約が締結できないため、諸外国で邦人が凶悪犯罪の被害者になったとき、我が国はその加害者を裁くことすらできない。
 死刑制度の廃止は、我が国の喫緊の政策課題というべきである。
2 死刑は同害報復の最たるものといえる。
 死刑によって同害報復が実現されるのは、奪われた命に対してこれを奪った命を奪うという、1対1の原則が充足されるときである。一方、我が国の刑法は、殺人罪に対して自由刑を含む幅広い法定刑を定めている。その結果、ひとりが殺された場合には基本的に死刑は科されない。これは、死刑が科される複数人が殺害されて死刑が科される場合と比して、殺害された被害者の生命の価値に法が差異を認めることにほかならない。死刑が絶対的法定刑として定められないがゆえの矛盾である。この「差異」は、「法が認める同害報復」を求める被害者遺族に二次被害をもたらすものともなりうる。他方、絶対的法定刑としての死刑は、加害者に対するいかなる情状酌量の余地も認めないという矛盾ないし不合理性を内包する。これが大なり小なり諸外国における死刑制度の廃止の背景をなしている。
 結局、死刑制度は、被害者に対しても加害者に対しても不可避の大きな矛盾、不合理性を内包するものであるというほかはない。このことからも、死刑制度は廃止されるべきである。
3 犯罪被害者救済支援の制度的発展への取組みを、死刑制度の廃止の取組みとともに進めるべきである。
 我が国における犯罪被害者救済支援制度の、とくに経済的、福祉的、精神的ケアの面が大きく立ち後れている。この実態は、死刑制度が廃止されている、たとえばEU諸国における被害者救済支援の制度と大きな落差があることを示している。その改善が遅々として進まない実情には、死刑制度の存在と表裏をなしている一面があることは否定できないと思う。犯罪被害者遺族が、その遭遇した悲惨な状況と深い悲しみの中で、困難ではあってもそれを乗り越え、少しずつでも立ち直ることができるための真の救済は、ひとり刑事司法に委ねてよいものではなく、社会経済的な支援の制度的枠組みの大きな進展の中で実現していくものであろう。死刑制度の廃止とともに被害者救済の制度的進展に向けた取組みを団がすすめることは、きわめて重要な課題であると考える。
4 死刑制度の廃止による死刑の代替刑に関する議論が求められている。
 死刑制度が廃止される際には、その時点での死刑確定者の科刑の根拠を、その科刑の内容とともに定めるべきものとなる。その新たな科刑の内容は、死刑に代わる最高刑にほかならない。それは同時に、現在の死刑に匹敵する凶悪犯罪者への科刑の内容を定めることともなる。刑法9条から刑種としての「死刑」が削除され、関連法令から「死刑」が削除されれば、単純に言えば、現在の無期刑が死刑に代わる最高刑となる。しかし、確定後10年で仮釈放が可能となる現行の無期刑制度が死刑に代わる最高刑として妥当といえるだろうか。仮釈放のない終身刑制度を代替刑とするのであれば死刑制度廃止を容認する国民が増加するという世論調査の結果をどうみるべきだろうか。「死刑に匹敵する自由刑は何か」という問いと、「残虐な刑罰に該当することを免れる科刑はどういうものか」という問いの両方を満たす答えを見出さなければならない。この点について日弁連は、原則として仮釈放のない終身刑制度と、終身刑から仮釈放が認められ得る無期刑への減刑手続制度をあわせて導入することを提案しているが、団は、死刑制度の廃止を求める立場を明らかにしたうえで、できる限り早い時期にこの代替刑について提案するための積極的な議論を進めるべきである。
5 団は創立100周年を迎える。
 人の人に対する支配の暴力性がもっとも露わになる「法」が死刑制度である。死刑の威嚇による暴虐が吹き荒れた治安維持法はその典型である。
 自由と人権を守り抜く闘いの輝かしい伝統を引き継ぐ次の100年に向けて、我が国の刑事司法制度の大きな矛盾であり桎梏ともいうべき死刑制度の廃止を、団が前面に掲げることは、計り知れない大きな意義を有する。
 団創立100周年記念総会において、死刑制度の廃止を求める決議が採択されることを強く望むものである。

 

「逆転無罪」を読んで

福岡支部  永 尾 廣 久

 「特養あずみの里、刑事裁判の6年7カ月」というサブタイトルのついた144頁の冊子。「夏休みの宿題」と思って読みはじめた。実に見事な編集とデザインで、読みやすく、この裁判の意義と問題点をたちまち理解できた。
無罪判決の3つの要因
 冒頭、木嶋日出夫弁護団長が画期的な無罪判決の意義と要因を3点あげている。第一は、当事者本人のがんばり。途中で心が折れて罰金20万円なら支払って終わらせたいとしなかったこと。この裁判は自分だけの問題ではない、日本の介護の未来がかかっているという高い認識をもって、最後まで本人が頑張り通したこと。
 第二に、15人の弁護団が介護・福祉の専門家、医療関係者、法律学者との共同作業によって高い水準の書面を作成したこと。死因は窒息死でないとする医学所見を一審判決は排斥し、高裁はその点に判断するまでもなく業務上の注意義務違反が認められないとしたが、高裁の裁判官たちも、弁護団の指摘を受けとめて一審判決のひどさに呆れていたとしか思えない。
 第三に、広範な支援者による裁判支援の取組。無罪要請署名は一審判決までに2種類45万筆、控訴審で28万筆、計73万筆を集め、裁判所に受理させた。そして、全国の医療、看護、介護、福祉の関係者の支援を結集した。
解説のわかり良さ
 裁判の流れが写真つきで図解され、また、弁護団により解説されている。藤井篤団員はあずみの里へ130回以上も通ったとのこと。弁護団会議もあずみの里で開かれている。釈明、図解、再発、証言そして迷走、弁論、不当、奮起、解析、説得、結論という項目で問題点がとても明快に説明されている。主として金枝真佐尋団員の執筆のようだが、説得力があり、素人にも分かりやすい文章が流れるように要領よくポイントをしぼって展開していく。
 本件では、死因を窒息と聞かされた遺族が怒って警察を動かしたようだが、まもなく民事的には示談が成立している。入所して2ヶ月で死亡という短期間だったことからも遺族との信頼関係を築けなかったことが反省点としてあげられている。心したい点だ。
裁判のすすめ方
 一審の裁判所は検察官に対して6項目の釈明命令を出したが、検察官が従わなかった。それにもかかわらず、検察官は予備的訴因を途中で追加した。そして、一審裁判所(野沢晃一裁判長)は主位的訴因を排斥しながら、おやつの形態変更確認義務違反という予備的訴因で、有罪とした。
 弁護団は、現場再現DVDを作成し、法廷で冒頭陳述のとき上映した。このとき検察官は11回も異議申立し、裁判所は却下した。
 あずみの里で働く人たちが法廷で証言しているが、深夜まで弁護士と打ち合わせたこと、一問一答形式で一字一句覚えて法廷にのぞんだこと、弁護士が検察官役になって想定質問にこたえるシュミレーションした苦労話が紹介されている。それにしても被告人を支援する集会に参加を呼びかけた人間の証言には「信用性に疑問がある」などと書いた一審判決には目を疑う。
病院と特養の違い
 病院と特養との違いを看護学者(川嶋みどり・日本赤十字看護大学名誉教授)が説明しているが、控訴審判決がそのまま採用しているのはすばらしい。間食を含めて食事は、人の健康や身体活動を維持するためだけでなく、精神的な満足感や安らぎを得るために有用かつ重要…有用かつ必要である」、「食品の提供は…医療行為とは基本的に異なる」。まことに正論だ。食事はみんなでおいしく食べたいし、甘いおやつだって、人生の最後まで食べたい。
問答無用の高裁が逆転無罪
 東京高裁(大熊一之裁判長)は証拠請求を却下し、忌避申立も簡易却下したうえ、弁論再開申立も受けつけず、わずか1回の三者打合せと1回の口頭弁論で結審したため、弁護団は上告も決意した。ところが、東京高裁は2回目で逆転無罪判決を宣告した。裁判所は起訴されて5年以上が経過しているから、これ以上時間をかけずに速やかに原判決を破棄すべきだとした。
 これについては、遺族の心情を考えたら、やはり死因をはっきりさせるべきだったという学者の批判がある。難しいところだ。それにしても、ドーナツでは窒息しないというのは知らなかった。死因は脳梗塞のようだ。
巧みな編集に魅せられる
 ともかく、オールカラーで、見出しのつけ方と編集の巧みさに完全脱帽して一気に読了し、その感動の余韻に浸りつつ紹介する。刑事弁護のすすめ方の見本、そして読まれる総括文書の典型として全国の団員に一読をすすめたい。

 

~追悼~ 藤野善夫団員

 

お別れのことば

千葉支部  髙 橋   勲

 藤野善夫団員が2021年6月6日亡くなった。享年72歳だった。追悼文の執筆を求められた。
 家族葬で私がのべた弔辞をそのまま載せたいと思う。私にとって藤野君はいわば「一番弟子」。日が経つにつれてさびしさがつのる。
-弔辞-
 「ヨネチャン」、藤野善夫君、とうとうお別れの日が来てしまいました。
 私はこの度の訃報に接し、今あらためて、藤野君との出会い、事務所で共にたたかった多くの事件、そして互いに苦労した数々の出来事や楽しかったことを、走馬燈の如く想い出しています。
 この度の病気で、昨年来何度かの検査入院をくり返し、緊急入院したのは去る4月26日でした。
 5月1日には一般病棟に移ったとの報に接し、「頑張ったな、もう一息だ」と心の中でさけんだものでした。
 その頃、私達の法律事務所は、新しい事務所への移転のさなかにありました。
 藤野君は事務所の運営委員長、引越し作業に目配りをしながらの闘病生活。大変だったろうと今にして思います。
 この間、敬子さんから私あてに病状の報告が時々ありました。その中に、わずかでも快復のきざしと思われるものが含まれていると、私はほっと一息ついたものでした。
 入院中、藤野君本人から携帯電話をもらったことがありました。手元にあるメモによると、4月27日午前9時とあります。病状報告と気になっている担当事件についてのいくつかの伝言でした。
 私は、気にするな、事件については事務所のメンバーにまかせて治療に専念するのだとつよく言いました。彼は、よろしくと言い電話を切りました。これが、藤野君と私が直接言葉を交わした最後の会話です。
 コロナ禍がつづき、先行きが見透せないなか、家族以外との面会が出来なかったことが、残念でなりません。
 藤野君が古稀をむかえた2019年秋、その年の自由法曹団全国総会で、藤野君は古稀表彰をうけました。
 私は古希団員記念文集に「藤野君とわたし」と題する小さな文章を寄せました。その中で、私は、彼が司法修習生となって、千葉に配属されはじめての修習生指導担当となった私との出会いを書いています。
 「慶応ボーイ」で好人物の善夫君、「ヨネチャン」には、是非発足間もない私達の法律事務所に入所してほしいと心から思ったことを、今、昨日の如く想い出します。
 私の期待どおり、彼は1975年4月に入所しました。
 私は、古稀記念文集に次のように書いています。
 「藤野君は、司法修習を終え、1975年4月に、千葉中央法律事務所に入所し、当然、自由法曹団にも入団し、弁護士活動を開始した。
 その年5月には、千葉川鉄公害訴訟(千葉あおぞら裁判)が千葉地裁に提訴され、彼も原告弁護団に加わった。彼にとって、千葉県は故郷である。その故郷が大気汚染公害によって汚され、そこに生きる人々が苦しんでいる。持ち前の正義感が彼の背中を押した。彼の若さと鋭い人権感覚そして故郷千葉を思う情熱が、彼の弁護活動をささえていたと思う」
 今年10月、事務所は創立50周年の節目をむかえます。この記念すべき年、彼には事務所運営委員長としての重責を担ってもらいました。
 共に歩んだ事務所の半世紀の歴史を振り返り、次の新しい時代にむけての橋渡しを、是非彼を中心にやり遂げてほしいというのが私の願いでありました。
 今となっては、それもかないません。皆でそれをやり遂げようと思います。
 今、事務所には新しい風が吹きはじめています。大きな変化のきざしを実感しています。新しい事務所の選定と契約、レイアウト、そして事務所の机の配置、関係先への連絡などなど、全て若手が中心となって行われています。
 これは、事務所としては誠に心強いことです。藤野君はいつか私に、「髙橋さん、まかせよう!」と何度となく言ったものでした。私もそれがもっともだと思いました。やはり、古稀記念文集に私は次のように書いています。
 「藤野君と同じ事務所で仕事をして早や44年になる。そのなかで、彼は、私に対して、率直に「苦言」を呈してくれる数少ない人間だ。私も結構「我儘」だからこうした率直な苦言は大事だ。何と言っても、彼は私の第1号の司法修習生。 そんな安心感があるから、私も彼の苦言を率直にうけいれようとするのだろう」
 この、「時として苦言をのべてくれる人が一人いなくなる」、このことが、私が今とてもさびしくなる要因のひとつだと思います。
 46年間、同じ事務所で机を並べ、弁護士という決して楽ではない仕事を胸をはって共に出来たことを、今誇りに思います。
 藤野君、これでお別れです。さようなら。
  2021年6月13日

 

~追悼~ 篠原義仁団員

篠原義仁先生 追悼

 群馬支部  大 塚 武 一

 篠原先生には、東電思想賃金差別・人権侵害訴訟で大変お世話になりました。1都5県(神奈川、千葉、山梨、長野、群馬)の統一弁護団を指導した名事務局長として全弁護団員が等しく尊敬の念をもっていました。
 同事件は、提訴から全面勝利解決まで19年2ヶ月の闘いであったことも手伝い、先生の弁舌さわやかに、常に論理的な発言は、今も脳裏に焼きついている程です。私ども当時の若手(小職28期)には憧れの的でした。『思想を理由にした』『賃金差別』をそれも当時世界最大の私企業であった東京電力を相手とし闘いを、いかに勝利に導くか、言うまでもなくとてつもなく大きな立証上の壁に立ち向かう指導をなさっていただきました。
 群馬弁護団の役割は、支店労務課が作成した『当店における左翼グループの現状』と題する原告一人一人の名前が書かれたいわゆるブラックリストの①書面の存在立証、②さらに手筆から労務課の誰が記載したか、作成経緯の立証、③このリストはどのように『活用されたか』思想差別の社内での実践立証を委せられました。当該労務課の証人を採用させ、長時間の反対尋問で、この課題を成功させました。その詳細と成果は、判例時報1470号「判例特報」のとおりです。
 篠原先生ご自身で、生前「私は頭の回転に手が追いつかないので、字がきれいとはいえない」とおっしゃる程の無類の「切れ者」で、早口とあわせズバリ事の本質を言い当て、それもユーモアたっぷりな表現で、毎回弁護団会議では先生が何をおっしゃるか楽しみで出席しました。
 先生は、公害裁判闘争(群馬では安中公害訴訟)全般の役割の外、後年、団の団長まで引き受けられ、大活躍の様子をお聞きしていただけに今度の訃報に接し小職にとっては、現在、時間が止まってしまう程の思いです。
 篠原先生は、どなたでも認める不世出の団員と言ってよいと思います。

合掌

 

団創立100周年記念出版事業
編集委員会日記(7)

神奈川支部  中 野 直 樹

百年史・第4章の時代
 60年安保闘争を経て国民の諸要求闘争が大きく前進し、それに対し反動と弾圧が強まった。この60年代から80年代の時代を「1 刑事弾圧との闘い」、「2 働く者の自由と尊厳、そして団結と連帯を求めて」「3 公害・薬害と被害救済のたたかい」「4 部落解放同盟の『暴力糾弾』と利権あさり・行政の私物化との闘い」の4つのテーマで描くこととなった。主執筆は、順番に伊賀興一(大阪)、豊川義明(大阪)、中島晃(京都)、石川元也(大阪)の各団員に引き受けていただいた。
 私は84年から85年にかけて大阪で実務修習を行ったこともあり、この大先輩たちが裁判で活躍する姿を直接拝見する機会があった。大阪支部から団の幹事長・団長を歴任されたのが石川元也弁護士と宇賀神直弁護士である。修習生にとってこの二人はとても強面で近寄りがたい存在だった。私が団本部事務局長をしていた2年間、宇賀神さんが団長を務められ、優しさとユーモアたっぷりの人柄であることを体感した。2002年、人権擁護法案が出され、同和問題の蓄積がまったくなく問題の所在が把握できなかった首都圏出身の執行部は、石川さんに叱咤激励されながら意見書を作成した。今回、石川さんの書かれた原稿を仕上げる作業に関わり、解同タブーに挑んできた団員の活動を通史的に学ぶことができた。
団の全国展開、そして国際的視野で
 60年代から70年代にかけて団に参加する若い弁護士が増え、全国各地に団の旗をかかげる事務所が建設された。
 66年に団員が336名となった創立45周年記念事業として「自由法曹団物語」、76年に55周年記念事業(団員900名を超える)として自由法曹団物語(戦前編・戦後編)が刊行された。
 91年の創立70周年には団員が1411名となった。この年10月の記念集会には、菅野昭夫団員(石川県支部)が翻訳して出版した「試練に立つ権利」の著者であるアメリカNLGのアーサー・キノイ弁護士を招いて講演をしてもらった。資本主義大国アメリカに、自由法曹団と響き合う志をもって権利闘争してきている法律家集団があることを知ったことは、団員全体の驚きだった。これを期に団も国際的な視野をもった活動に踏み出した。百年史では団の国際的活動をコラムとして組み込んだ。
百年史・第5章「ジェンダー平等」
 60年安保闘争時、女性団員は故坂本福子弁護士を含め数名だった。68年団婦人部がつくられた。当時の女性弁護士の数は166名、うち団員は28名であった。
 この前史から今日までのジェンダー平等を求める運動と法整備前進の社会史を主執筆されたのは杉井静子団員(東京)である。続いて60年代の差別是正の草分けとなった結婚退職制・若年定年制裁判から近年のセクハラ、妊娠・出産・育児による不利益を許さないたたかいまで団員が格闘してきた裁判の歴史を滝沢香団員(東京)がまとめている。
歴史の叙述の視点
 第4章と5章では、占領軍と国家権力が策謀した巨大なフレームアップをはねのけた松川闘争で生まれた大衆的裁判闘争が、公害被害者の救済闘争、基幹的産業における思想差別・国家的不当労働行為とのたたかい、解同による「暴力糾弾」・行政の私物化とのたたかい、そして女性差別是正裁判でと、分野に応じた展開がなされていることをみることができる。
 もう1つの特徴は、裁判闘争の成果が国や自治体の政策を変え、法制度を前進させることに結びついてきたことである。石川さんは、解同関係のいくつもの裁判闘争を紹介されるとともに、そこで勝ちとった判決の内容が政府の同和政策の大転換に結びついてきた歴史を叙述することに力を入れておられる。杉井さん・滝沢さんも、女性が勇気をもって差別是正の裁判に立ち上がり勝利したことが労働関係法令の改正に結実してきたという視点で歴史を記している。
 もちろん、団員の裁判闘争は、目の前に起こっている人権侵害、不合理な差別を改めさせることが主戦場であったが、団と団員は事件を社会的・政治的・経済的背景をもってとらえ社会運動に結び付ける気風をもち、そこが個別事件の解決に普遍性をもたせる。
 戦後再建した団の1946年7月規約2条には、「……人権の擁護伸張並びに法制の徹底的革新を期することを目的とする。」とうたわれている。日本国憲法ができる前の時期である。命をかけて治安維持法と闘ってきた団員にとって、法制の改革なしには人権擁護の実現はなかったことは自明のことだった。
 まだ「政策形成訴訟」なる格好良い言葉がないはるか前の時代から、そのことを実現してきた歴史が豊かに語られている。ここが本書の特質すべき売りの1つだと思う。

 

第1回「先輩に聞く~労働事件をどうたたかってきたのか、これからどう闘うのか」
- 講師:豊川義明団員

大阪支部  中 西   基

1 豊川義明団員の紹介
 北大阪総合法律事務所の大先輩であり、筆者が弁護士登録して以来、様々な活動でご一緒させていただいてきた豊川義明団員が、これまでに取り組んできた労働事件の経験を若手団員に向けて大いに語るという学習会がオンラインで開催された。参加者は全国各地から約40名であった。(2021.9.9 開催)
 豊川団員は、1945年生まれ、1969年に京都大学法学部を卒業し、司法修習23期である。1971年に弁護士登録し、きづがわ共同法律事務所に2年9ヶ月、北大阪総合法律事務所に30年所属し、現在は、C&L法律事務所を主宰されている。この間、2004年4月から、関西学院大学法科大学院の専任教授を務められ、2021年3月まで同法科大学院で教鞭を取られていた。現在は関西学院大学名誉教授であり、日本労働弁護団の副会長、民主法律協会の副会長でもある。
 豊川団員は、法科大学院の専任教員となってから以降も弁護士として事件活動に精力的に取り組まれ、特に、労働事件に関しては、大阪における主要な弁護団事件には原告団や弁護団から請われて、あるいは、ご自身から進んで参加されてきた。
 常に労働事件の第一線に身を置きつつ、裁判という実践を通じて、その中から事実を掴み、そして法規範を創造していくということをされてきた豊川団員は、まさに実務法律家である。その実践的取り組みと理論については、単著である『労働における事実と法』(日本評論社、2019年)において纏められている。
2 豊川団員が語ったこと
 学習会では、豊川団員がこれまでに取り組んできた事件のうち、以下の事件が取り上げられた。
①朝日放送事件(労組法7条2号3号の使用者性)、②ビクター・サービスエンジニアリング事件(業務委託契約に基づく従事者の労組法上の労働者性)、③松下PDP事件(偽装請負労働者と注文者との間の労働契約の成否)、④整理解雇事件(名村造船所事件、エミレーツ航空事件、奈良学園大学事件)、⑤東亜ペイント事件(配転命令)、⑥関西電力事件(思想差別)。
 これら事件の多くは最高裁まで争われたものであり、複雑かつ多様な論点を含むものであるが、豊川団員の話は、個々の法的論点に関する解説だけではなく、これら事件における裁判所や労働委員会での主張・立証という実務法律家の営為を通じて、そこから得られ導かれる本質・英知についてのものであった。
 豊川団員の整理によれば、権利運動としての裁判闘争や労働委員会闘争は、事実として存在する法違反状態の是正にむけて、労働者が人間の尊厳と正義実現を実現しようとする「権利のための闘争」である。
 弁護士が裁判闘争や労働委員会闘争に関与するにあたっては、事案の特徴を把握することが大切である。そのためには事案の背景として見るのではなく、事案の真の対決点を明確にすることである。事案の把握は、事実と法規範の相互作用によって進められる。事実と法規範の間で「視線の往復」させるのではなく、事実の中にある法規範を掴み取り、事実から新たな法規範を創造することが、法律実務家の果たすべき役割である。事実の中に法が宿るのであり、事実から法規範が呼び出され、法規範から新たな事実が解明されていく。それが司法の作用である。
 弁護団でともに活動していていつも感嘆するのは、豊川団員の事案の本質を的確に把握する眼力であり、それを掴んで離さない大局観である。また、豊川団員は、これまでの豊富な経験に裏付けられた法理論を踏まえて、弁護団会議では誰よりも多く発言する。若手弁護団員の起案についても、きちんと目を通して核心を突いた指摘をされる。
 人間の尊厳と基本的人権を伸展させたいという目標を掲げ、裁判闘争の中から社会の法規範を形作っていくことを実践されてきた。そして、今なおその実践を続けている豊川団員は、まさに、法律実務家、実務法曹そのものである
 豊川団員曰く、法廷において開廷時に起立して礼をするが、それは裁判官に対して礼をしているのではない。司法の権威に対して、すなわち、司法という作用に対する敬意を込めて礼をしているそうである。
 豊川団員が語られた実務法律家としてのあり方・心構えは、我々団員がひとつひとつの事案・事件に向き合うときに常に忘れてはならないものであろう。
 今回の学習会で語り尽くせなかった内容は、労働法律旬報2021年11月下旬号に掲載予定の豊川団員の論考『裁判所・労働委員会手続と権利運動』に詳しく書かれるとのこと。先に紹介した単著とともに、ぜひお読みいただきたい。

 

ジャーナリズムは原発報道で責任を果たしてきたか
~放射能惨事・これまでとこれから

神奈川支部  杉 本   朗

 自由法曹団も参加している「第5回『原発と人権』全国研究・市民交流集会 in ふくしま実行委員会」からのお知らせです。
 今回下記の要領で、「ジャーナリズムは原発報道で責任を果たしてきたか〜放射能惨事・これまでとこれから」と題して、メディア分科会を開催します。
 ジャーナリズムはこれでいいのか、という問題意識から、この10年の原発報道を振り返り、これからに向けての課題を探ります。なかなかの登場メンバーなので、興味ある方はぜひご参加下さい。今のところ、リアルとZoomのハイブリッドで予定されていますが、COVID-19の感染状況によっては完全リモートとなる可能性もあります。

   日 時:2021年10月9日(土) 午後1時から5時
     (会場参加とオンラインを併用)

   場 所:早稲田大学・小野記念講堂(東京都新宿区西早稲田1-6-1 27号館地下2階)
       会場参加は50人まで。他はZoomを使ってのオンライン視聴になります。

   参加費:会場参加・オンライン視聴ともに800円

【お断り】当日、緊急事態宣言が出ている場合は小野記念講堂での開催をとりやめ、全面的にオンライン開催にします。会場参加を申し込まれた方もその場合は自宅のパソコンなどでオンラインにてご視聴下さい。
 寄附も絶賛受付中。Peatixのページから寄附できます_(._.)_(チケットを申し込むのボタンを押すと、チケット購入のほかに協賛の寄附1000円というのが出て来ます。)
 申し込み:Peatixからのお申し込みになります。
 https://mediabunkakai.peatix.com/

<プログラム>
 ○オープニング 映画上映(林勝彦監督作品「いのち」の一部上映)
 ○開  会   挨  拶    コーディネーター・司会 林勝彦さん(科学ジャーナリスト、元NHK)
 ○第1部 基調報告「ジャーナリズムは原発報道で責任を果たして来たか?」
           瀬川至朗さん(早稲田大学政治経済学術院教授、元毎日新聞科学環境部長)
      コメント 桶田敦さん(大妻女子大学教授、元TBS解説委員)

 ○第2部 5人のジャーナリストらによる各論=現場と専門的な分野からの報告
     ★『見捨てられた被ばく者~どこへ行ったか被ばく報道』
        島明美さん(個人線量計データ検証と生活環境を考える協議会代表)
     ★『原発報道~朝日・吉田調書事件を一つの題材として』
        添田孝史さん(元朝日新聞記者、元国会事故調査委員会協力調査員)
     ★『原発と住民、そして労働者 ~分断される被災者たち』
        片山夏子さん(東京新聞福島特別支局長)
     ★『世界の常識、日本の非常識 ~報道の欠如、論評の偏り』
        満田夏花さん(国際環境Foe Japan 事務局長、原子力市民委員会副座長)
     ★『原発の懺悔 ~メディアがキャリーした原発のウソ』
        加藤就一さん(元NTV・NNNドキュメント統括プロ デューサー)
 ○質疑応答
 ○閉会挨拶 コーディネーター・「原発と人権」集会実行委員会 丸山重威(JCJ運営委員、元共同通信、元関東学院大学)

 以上、雇われ事務局長の杉本でした。

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