第1760号 12/1

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

  • 自衛官候補生の懲戒免職事件  伊須 慎一郎
  • 「慰霊」の意味を花岡事件と沖縄から考える  大久保 賢一
  • 東北の山(3)~ 姫神山  中野 直樹

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自衛官候補生の懲戒免職事件

埼玉支部  伊 須 慎 一 郎

 自衛官候補生A君(当時未成年)が窃盗被疑事件で懲戒免職となった訴訟事件で、取消訴訟提起後、短期間で、被告国が懲戒免職処分を職権で取り消し(ただし、A君は退職します)、退職までの賃金相当額を支払う内容で解決しましたので報告します。
 自衛官候補生とは、特別職国家公務員で、自衛官となるために必要な基礎的教育訓練を受け、3か月後に任期制の自衛官に任官する制度です。A君は、2019年3月自衛官候補生として採用されましたが、同年4月7日と同月9日に他の自衛官候補生から現金を窃取したという被疑事実で、同月24日付で懲戒免職処分となりました。警務隊の取調べに対し、A君は実際には窃盗は行っていませんでしたが、事件が解決されなければ捜査のために警務隊や他の自衛官候補生のゴールデンウイークがつぶれてしまう等と言われ、その後自分が免職処分とされるとは夢にも思わず、窃盗を認める供述調書を作成してしまいました。
 その後、A君は、同年6月には母親に対し、実は現金を盗んだわけではないと本当のことを伝え、母親と相談して懲戒免職処分に対し、防衛省に不服の申立てをしました。しかし、当然のように、その不服申立ては却下されます。
 また、A君は上記窃盗事件につき、さいたま家裁川越支部で少年審判を受けることになり、当初は国選付添人が選任されていました。しかし、国選付添人がA君の言い分をよく聞いてくれず、不信感もあり、その後、私選付添人を選任することになります。この私選付添人(団員ではありません)、埼玉弁護士会では非常に熱心に被疑者の身柄解放に向けた弁護活動をしている最も有名な弁護士の1人です。私選付添人は丁寧にA君の言い分を聴取し、陳述書を作成し家裁に提出したり、犯行再現写真の犯行態様の不自然さ(他の自衛官候補生と2人でベッドメイキングをしている最中に窃盗行為に及んだというもの)を指摘する等しました。その結果、家裁は、A君の自白調書は信用できず、非行なしという判断に至りました。
 その後、本件懲戒免職処分については、私たちが行政訴訟の代理人として担当をすることになりました。窃盗行為という非行が存在しないと家裁が判断した以上、自衛隊法46条1項2号の「隊員たるにふさわしくない行為があつた場合」という免職事由を欠き、裁判をするまでもなく、本件免職が取り消されるべきものであることは明白だと考えました。しかし、防衛省との事前交渉で、防衛省はA君に不利益処分前の弁明の機会につき、辞退書(この辞退書の作成については、労働判例に掲載されている別件事件の判決でも問題になっています。防衛省内で弁明の機会の付与は形骸化していることを裏付けるものだと考えます)を書かせる等の問題を起こしていたにもかかわらず、適法な手続による免職であると回答してきました。それならば、ということで、10日後には訴訟提起を済ませました。
 ところが、第1回弁論準備手続に、プレ修習中の修習予定者を同行して出頭し、弁論準備期日に同席を求めたところ、被告国が、修習予定者の同席は困ると言い出しました。この時点で、私は被告国が何らかの解決案を示してくるのだろうと予測しました。案の定、弁論準備期日の中で、被告国が懲戒免職処分を職権で取り消す方針を決定したので、その手続の進め方について協議したいと申し出たことから上記解決に至りました。
 この事件が比較的早期解決したのは、もちろん少年審判で非行なしとの判断を獲得した私選付添人の功績が最大の要因です(この点、A君の母親が私選付添人の選任という適切な判断を行ったといえます)それに加え、上記の通り、防衛省が未成年者のA君に弁明の機会について辞退書を書かせたり、A君が自衛官候補生によるいじめを訴えていたこともあったと思われますが、警務隊が、A君による極めて不自然な窃盗の犯行態様の供述を、そのまま鵜呑みにして供述調書や再現写真を作成して手続を進めようとした杜撰かつ拙速な対応につき、当方が、いじめの経緯や背景事情も含めて解明を求めていたことも、被告国が訴訟で争いたくなかった理由だと考えているところです。
 以上から、①当事者の言い分をよく聞いて実態に迫るということが非常に重要であること、②自衛隊、防衛大学校、自衛官候補生の中にもいじめが広がっており、組織的ないじめの構造があることや、警務隊の捜査がやはり杜撰だということ(さいたま地裁で争っている河野前統合幕僚長の訪米時の議事録を漏えいしたとして被疑者とされた幹部自衛官の国賠請求訴訟事件で争っている手続の中でも、中央警務隊の捜査内容が杜撰であることが明らかになっています)、③防衛省内で弁明の機会を放棄させる辞退書の作成をさせないような取り組みが何かできないものかと感じました。
 担当した団員は埼玉総合法律事務所の牧野丘、佐渡島啓、私の3人です。

 

 

「慰霊」の意味を花岡事件と沖縄から考える

埼玉支部  大 久 保 賢 一

花岡事件
 1945年(昭和20年)6月30日、中国から強制連行された労務者たちが、秋田県花岡鉱山(現在・大館市)の鹿島組出張所から逃走するという事件があった。耐え難い暴行と空腹で精神に異常をきたすものが出るほどで、「このままではみんな殺されてしまう。もはや一日も忍耐できない。蜂起するしかない」として決行された事件である。
 連行された979人(連行途中に7人が死亡している)の内137人が死亡し、身動きできない重傷者も出ていたのである。逃げた者たちは次々と捕らえられ、捕らえられ者は、7月1日、2日、3日と炎天下に数珠繋ぎに縛られて放置された。3日の夜に雨が降ったので何人かは死なずに済んだが、死体は10日間放置された後、三つの大きな穴に埋められた。
 10月7日に米軍が欧米人捕虜の解放のために花岡を訪れ、棺桶から手足のはみ出ている中国人の死体を見つけ「花岡事件」が発覚した。
 この事件で着目しておきたいことは、花岡町の時代から大館市に至るまで、自発的市民だけではなく、自治体が慰霊の営みを継続していることである。
 1991年(平成3年)から2015年(平成27年)まで大館市長を務めた小畑元さんは、慰霊式を続けてきた理由をこんな風に語っている。
 慰霊式が続いてきたことも大事であるけれど、それよりもっと大事なのは自然な感情からなのです。その気持ちを表す言葉としてはspontaneity(自発性)です。バリ・コンミューンはspontaneityという言葉で表現されます。自然に民衆から湧き上がってくる声みたいのがあるでしょう。「中国殉難烈士慰霊の碑」のところに何かお供え物が置いてある。自分の墓地にお参りした人が、墓地の入り口にあるその石碑のところに供え物を置いていくということなんです。それを見て「あ、これだな」と思った。
 大学で西洋史を学んだという小畑さんらしい発言である。含蓄が深い。私は強い共感を覚える。
 慰霊祭には中国人生存者や犠牲者の遺族も参加している。事件のリーダーだった耿諄さんが「花岡は私の第二のふるさと。また来たい」と言っていたそうである。
 一生心を病んでもおかしくないほどの仕打ちを受けた人が、共感に包まれながら過去の体験をなぞることで、尊厳を回復される実感を得るのかもしれない。心のこもった慰霊が行われることによって、加害者も被害者も、人間性を取り戻していくのであろう。
沖縄の遺骨交じりの土砂採取
 花岡事件当時の沖縄に目を向けてみよう。1945年4月1日、米軍は沖縄本島中部の西海岸に上陸する。激戦が展開されるが、6月23日には、日本軍の司令官牛島満が自決する。花岡事件が起きた6月30日という時点では、既に、沖縄での大勢は決していたのである。沖縄が陥落すれば本土は危ないとされていた。8月15日の敗戦まで一月半である。
 沖縄戦での死者は一般住民約9万4千人をふくむ日米で約20万人とされている。特に、沖縄本島南部の被害は甚大である。日本軍と避難民が入り混じり、多くの人たちが命を落としているからである。住民の半分近くが犠牲になった町(旧東風平町(こちんだちょう・現八重瀬町)もある。そして、それから76年がたった今でも、ガマ(自然洞窟)や森の中から遺骨が見つけられている。
 という事情があるにもかかわらず、政府は、米軍普天間基地の埋立用の土砂として沖縄本島南部(糸満市、八重瀬町)の遺骨の混じった土砂を米軍基地の埋立てに使用するというのである。
 「みんな必死で逃げ、逃げながら殺された。犠牲者の血や肉がしみ込んだ土を基地建設の埋め立てに使うなんて人間のやることじゃない」という声が遺族から出ている。また、沖縄県議会は「一般戦没者の遺骨が混入した土砂を埋め立てに使用しないことを求める意見書」を全会一致で可決している。辺野古の埋立てに直接触れてはいないので全会一致になったという。けれども、政府はその計画を変更しようとはしていない。
赤木雅子さんのこと
 赤木雅子さんの夫俊夫さんは、森友問題で決裁文書の改ざんを強いられ、自死に追い込まれた人である。雅子さんは、世論の後押しを確保するための全国行脚を沖縄からスタートさせた。5月14日、雅子さんは、糸満市の陣地壕で遺骨収集を続ける具志堅隆松さんを訪れた。闇の中に散在する沖縄戦戦没者の遺骨を丁寧に掘り出す具志堅さんを見て、雅子さんは、信念に反する改ざんを手伝わされた俊夫さんが「戦争と同じなんや」と漏らすのを思い出したという。そして、国の過ちの犠牲になった戦没者の無念と俊夫さんの無念が重なるとしている。
つぶやき
 花岡事件の中国人たちは国策で中国から拉致されてきた。沖縄の人々は米軍と日本軍双方からターゲットとされた。赤木俊夫さんは上司の圧力の中で自死している。政府は中国人犠牲者の慰霊にかかわっていない。同様に、徴用工や「慰安婦」の慰霊など全く考えていない。政府は沖縄戦戦没者の遺骨を放置している。財務省は赤木さんの死についての再調査をする意思はないとしている。これらが日本政府の正体である。私たちはそのヒューマニズムとは縁のない冷酷さと無責任さを忘れてはならない。
(2021年7月2日記)

 

東北の山(3)~ 姫神山

神奈川支部  中 野 直 樹

2013年10月登山計画
 と記されたデータがある。「姫神山・裏岩手連峰縦走 参加予定者 村松、中野、浅野、村井」と書かれている。村井豊明弁護士(32期・京都支部)が作成されたものだ。村井さんは07年11月に屋久島・宮之浦岳で日本百名山完登。その後深田久弥ファンクラブが選んだ日本二百名山もかなり登られていると聞いた。
 私は、村井さんをリーダーとする京都の山仲間から声をかけられて、12年に静岡・焼津団総会に合わせて富士山外輪山の毛無山(二百名山)、13年7月に飯豊山連峰縦走に同行した。飯豊山(百名山)の旅は団通信1464号に投稿した。団の岩手・安比総会に合わせた今回の山行は3回目だった。
 村井豊明さんの登山計画は、自宅出発から帰宅まで、交通機関と経路時刻、登りの登山口から下山登山口まで山地図のコースタイムをもとにした経路予定時刻、標高差、歩程時間、宿泊場所の連絡先等の必要情報を書き込んだものである。この事前準備を踏まえた緻密な計画もかなわないものがある。気象という自然現象だ。京都の山仲間では、村井さんは山の雨男と言われてきたそうだ。私が同行した毛無山では団総会後の予定日が雨予報となり、秘策というか、予定を前倒して総会を抜け出して山に入るという緊急行動をとった。山中2泊の飯豊連峰では「飯豊は今日も雨だった」の3日間を過ごした。
向かい合う山
 東北新幹線や東北自動車道で岩手県を北上すると、花巻を過ぎたあたりから左手(西側)に岩手山(2038m)が大きく視野を占め始め、盛岡では、見上げる巨漢の存在感である。旅人の眼はひたすら岩手山に奪われる。岩手山の山容は複雑で、東側から望む姿は「南部富士」と呼ばれる端正な独立峰である。
 岩手山から高速道路、北上川、新幹線を挟んだ真東に眼を向けるとひかえめに三角錐型(上から見ると円錐形)に盛り上がっている山がある。ここが姫神山である。
 地元の伝話は、岩手山を男神とよび、姫神山はその妻とし、早池峰山との三角関係を創造する。
 姫神山は1123mの標高ながら二百名山に選ばれている。秀麗な山容、古くから岩手山、早池峰山と並んで北奥の三霊山とされてきた歴史が選出基準にかなったようだ。ちなみに姫神山は二百名山に数えられる100山の中で標高において下から4番目であるが、一般登山道で山頂を踏むことができるという点では最も低い。
 姫神山の麓の北上川のほとりは石川啄木を生んだ渋民村(現在盛岡市)である。
今日は晴だった
 レンタカーで東北道・西根ICでおりて、北上川を渡って牧草地のようなところを上ると標高550mの一本杉登山口に着いた。登山口にトイレが設置されていた。案内版には山頂までの所要時間90分と書かれていた。村松いづみ、村井豊明、中野、浅野則明の順番で、午後1時過ぎに登り始めた。杉林から白樺林に変わった。途中の登山道脇に平たいハンバーグのような大石があった。見た目には平たい3層の石がピタリと重なっているが、4枚岩と言われているので、地中にもう1枚の石があるらしい。このあたりから大きな石伝いに歩くこととなった。
 1時間少々で山頂となった。姫神山も信仰の山らしくその山頂には古い石祠がいくつもあった。早池峰山をはじめとする北上山地が展望された。帰路は、やや回り道となるこわ坂コースを下った。
トレッキングポール
 私は小さい頃からスキーで遊んできたので、「ストック」は馴染みの言葉だし、扱いも慣れている。私は登山にはたいがい2本を携行し「ストック」と呼び慣れている。英語に「stock」という言葉があり、これは「蓄積」を意味する「ストック」として日本語化している。「杖」を意味する「ストック」と蓄えを意味する「ストック」が同じ語源だとは思えない。ここが不思議だった。そこで調べてみると、スキー「ストック」はドイツ語由来だとのこと。そんなこともあるのか、山道具の店にいくと「トレッキングポール」と英語由来の商品名が掲示されている。
 村井さんは山の大ベテランであるが、このトレッキングポールを使わない。村井さんはスキーもしているのでストックの扱いには慣れているのに、登山ではあえて使わない。その理由について村井さんは、トレッキングポールが登山道の周囲の植物を傷つけるからだと言っておられた。現在は登山道の許容を大きく超えるハイカーが殺到し、傷ついているのは周囲の植物だけでなく、もろい地質の箇所の土壌も大きなダメージを受けているようだ。
松川温泉
 岩手には温泉が多いが、十和田八幡平国立公園の中にある松川温泉は古くからの湯治場である。深田久弥氏の日本百名山・岩手山には、「この温泉は交通不便のため自炊宿が1軒あるきりだったが、下からバス道路が通じるようになって、発展しつつある。私が訪れたときにはボーリング最中」だった、と記されている。現在は3軒の宿があり、私たちは、日本秘湯を守る宿の峡雲荘に投宿した。緑がかった乳白色の硫黄泉につかった後、4人で、今日の再会を歓び、明日の裏岩手連峰縦走に向けて気炎をあげた。

 

 

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