第1770号 3/21

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●自由民主党京都府連の選挙買収疑惑で告発状を提出  谷  文彰

●悩みながらのウクライナ侵略問題補論――平和外交、平和憲法、共同体作りこそ重要  守川 幸男

●「和解禁止法」と「法の支配」  後藤 富士子

●カンボジアUNTACをめぐる論争を回顧する  木村 晋介

●この10年の物故団員をしのぶ  永尾 広久

~追悼特集~

●岡村親宜先生を偲ぶ  川人  博

●岡村親宜さんとの30年  中野 直樹

 ■事務局長日記 ②(不定期連載)


 

自由民主党京都府連の選挙買収疑惑で告発状を提出

京都支部  谷  文 彰

1 告発は突然に
 2月28日午後1時すぎ、自由法曹団京都支部に所属する団員20名で、京都地検に告発状を提出しました。文藝春秋の報道で明るみになった、自由民主党京都府連を舞台とした選挙買収疑惑についての告発です。
 提出前からマスコミからの問い合わせが多数寄せられ、当日の様子も大々的に報道されたように、社会的にも大きな注目を集めています。2月10日の文藝春秋の報道を受けて「何とか2月中に告発しよう」ということを2月17日の京都支部の幹事会で決定し、急ピッチで進めた今回の取り組み。スピード感ある動きで世論を盛り上げる、まさに団ならではの取り組みだと思います。
 民主主義の根幹である選挙の公正さを金銭という最悪の方法で歪めることを決して許してはなりません。
2 何とか2月中に
 上記のとおり、本件が報道されたのは2月10日が最初でした。京都支部の事務局長を昨年10月から務めている私は、「これは告発するしかない」と考え、すぐに告発状の作成に取りかかりました。同じ事務所の団員にも内々で相談した上で2月17日の幹事会に提起し、全員一致で告発することが決まりました。
 方針としては、時間をかけて告発人を募り、世論を盛り上げていくという方法も考えられたのですが(ちょうど京都では4月10日に京都府知事選挙が行われるため、この方法は選挙活動を後押しするという観点からも意義があります)、すぐに告発して捜査に着手させた方がよいという意見が多く、「じゃあ、どうせなら同じ2月に出そう」ということになって、2月28日という告発状提出日が先に決まりました。京都支部に所属する団員は70余名ですが、判子が必要な関係で即応できる者で、ということで告発人も20名に絞りました。
 その後も次々と出てくる報道を受けて内容をアップデートするとともに、政治資金収支報告書を入手して金銭の流れを分析しました。2021年衆院選のものはまだ公表されていないので、2019年参院選のものだけです。分析したところ、報道されていた時期の金銭の流れに比べて巧妙化しており、さらに2019年には統一地方選挙も実施されていることから相当複雑な動きをしており、その関係で被告発人の整理に時間がかかりましたが、何とか2月25日に完成させることができ、告発人である団員の判子を集める作業も間に合いました。
 その被告発人ですが、総勢59名です。内訳は参院選の候補者1名、衆院選の候補者6名、府議・市議あわせて52名となります。上記の統一地方選に元々立候補予定のなかった者、立候補したが落選した者、参院選後に自民党に所属した者、逆に辞めた者・・・などいろいろなパターンがありました。
 本当は2021年衆院選の政治資金収支報告書も分析してから告発したかったのですが、公表がかなり先になりそうということで今回は見送りました。
3 広島の流れを京都でも
 今回の告発の大きな原動力になったのは、何と言っても広島の河合事件です。特に検察審査会で起訴相当等の議決が出て再捜査が行われているということで、自民党政治の本質が広く明らかになりました。同じことが京都や他の地域でも、ということで注目が大きくなりましたし、京都支部のモチベーションにもなりました。団員の中には河合事件の告発等に関わっておられる方もいらっしゃると思いますので、この場を借りて御礼申し上げます。
 さてもちろん京都支部の取り組みはこれで終わりではありません。検察にきちんと捜査をさせ起訴させること、この問題をより広く社会に提起すること、金権政治を改めさせること、来たる京都府知事選挙でクリーンな知事を実現すること・・・などなど、これからも引き続き様々な課題に取り組んでいきたいと思います。

 

悩みながらのウクライナ侵略問題補論――平和外交、平和憲法、共同体作りこそ重要

千葉支部  守 川 幸 男

 この間、青法協前議長の北村栄さんとメーリングリスト上で意見交換を繰り返した。また、前号の投稿がアップされた直後の11日4時過ぎ、横浜合同事務所の事務局から団本部宛に、私の投稿に対する賛同メールがあった。その中で、銃を持つ民間人を肯定的に取り上げる報道に違和感を感じるという趣旨と「銃を持てば非戦闘員でなくなります」との指摘があった。今回はこれにも触発されて投稿するが、千年万年先の人類は、我々を軽蔑するであろう。
1 国連総会での棄権などの数をどう見るか 
 国連でのロシア非難決議は賛成141カ国で全体の7割と強調されているが、反対5カ国で、35カ国が棄権、12カ国が退席したことをどう見るかは検討課題である。
 ロシアとの経済的な結びつきなど複雑ではあるが、棄権が中東やアフリカで多かったことは、これまでのウクライナの立ち位置やイラク戦争やアフガン戦争での行動への批判という要因があるかも知れない。また、中東ではしょっちゅうテロや戦争に見舞われているのにパリでのテロだと大騒ぎする、という批判や冷ややかな見方もあるのだろう(もっとも、今回の侵略者が核大国であり、被害の程度が甚大であるという特徴はある)。
 なお、私はこの時期にウクライナ批判を呼びかけているのではない(ロシアを追い込んだアメリカに対する批判は必要であろう)。要は、お互いに軍事同盟に頼ってきたことの危険性こそ、むしろ露わになったということである。
2 専守防衛についての疑問と問題の正しい設定のしかた
 専守防衛というと正当防衛を想起する。ただ、正当防衛と言っても、人質に取られて銃を向けられたら、いのちが大切だから刺激しないように抵抗はしない。
 圧倒的な国民世論は、憲法9条のもとでも専守防衛で武力行使できるというものであり、我々の多くもこの線までは妥協してきた。
 しかし、専守防衛と言っても、攻められたら、(国民の非暴力の抵抗もあるが)自衛隊が侵略軍に対して武器を持って戦え、殺せということである。でも侵略軍が強大な相手なら勝てるはずはないし、多くの人々が死ぬ。戦力も交戦権も否定する憲法9条2項がそこまで認めているのだろうか。
 ただ、ウクライナで、国の独立こそ大事だ、誇りといのちをかけて戦うという人々、支配されるより死を選ぶという人々に、武器を捨てての非暴力の抵抗やましてや降伏すべきと言うかは悩ましい。
 このように、9条などに対する立場の違いがあっても、現時点で目の前の事態にうろたえてどうするか考えても、すぐにはいい知恵は浮かばない。犠牲が出るか国の独立が奪われるかのいずれかを避けることはできない。だから、9条を大切に思う我々だけが「攻められたらどうするんだ!」と、嵩にかかって答えを迫られるいわれはない。
 結局、短期的に、目の前の事態に対してどうするかだけではなく、中長期的に、どうすべきだったのか、今後どうするのかこそ議論しなければならない。現在の世界で、丸腰で非暴力の抵抗しかしない国民に対して軍事侵攻する国などそもそもあるのか(もはや植民地支配の時代ではない)、仮にあったとして、圧倒的な国際世論を前にいつまで攻撃を継続できるのか?軍備がなければ非暴力の抵抗しかできないが、その方がむしろ危険は少ないのではないか?歴史の前進に確信を持とうではないか。
 もっとも、専守防衛に対する疑問は、現状では声を大にしては言いにくいが、少なくとも、アメリカとの軍事同盟を強化し軍拡を進めることと非武装中立とどっちが危険を避けられるのか、については正面から問うべきである。
3 経済制裁は効果的か 
 経済制裁は、政府だけでなく、むしろ国民生活に打撃を与える。ではなぜ行うのか?政府に対する国民の批判を高める効果も期待しているのであろう。
 しかし、今回の侵略に対するロシアの国民の支持はかなり高い。ウクライナの平和のためなどと言って、侵略とは考えていない国民も多いようである。これがプーチンに対する恐怖や言論統制の結果だと言うだけでは、正しいかも知れないが、問題は解決しない。
 戦前の日本が、次第に高まる経済統制や耐乏生活に、当初は政府批判が大きかったのに、次第に米英に対する憎しみに変わっていったこと、これに伴って世論が戦争支持に傾斜していったことは、NHKの番組でも取り上げられていた。
 かつての日本とロシアの民主主義の度合いを比較する知識はないが、現状のロシア国民の意識が、今後政府批判に傾くのか、それとも逆効果的に反ロシアの世界に向かうのかは注視の対象である。後者なら、単純に制裁を強化すればよい、ということにはならないし、ではどうするかは悩ましい。
4 まとめと討論集会や議論の呼びかけ
 現時点で、プーチンを国際的世論で追い詰めることとウクライナに非軍事支援することが最重要であることは当然である。いくつかの国際的なNGO から臨時のカンパ要請が来ている。これに応じよう。ネット署名もあり、集会やデモも行われている。
 同時に、平和外交、憲法前文、9条、平和の共同体作りこそ重要であるとの結論に揺るぎはないから、学習会や署名活動で自信を持って訴えていこう。新聞への投書も有効である。北村さんは私との意見交換の成果を早速Q&Aにまとめた。
 どう訴えていくのかを議論してこれらを意思統一するための全国会議を行うことを含めて、対面やネットで議論の場を広げよう。

 

「和解禁止法」と「法の支配」

東京支部  後 藤 富 士 子

1 職場の性暴力「和解」禁止法
 報道(赤旗2月17日)によれば、職場での性暴力やセクハラを労働者が訴えた際に、訴訟ではなく「和解」で解決することを企業に禁止する法案が米上下両院で可決され、バイデン大統領の署名で成立する。同じ内容の法案が17年と19年にも提出されたが、廃案になっていた。
 米国の標準的な雇用契約には、職場で性暴力やセクハラを受けた労働者に対し、雇用者である企業を裁判に訴えることを禁止し、「和解」で解決するとした条項が盛り込まれている。多くの場合、私的な「調停者」が密室で対応し、企業側に有利な「和解」で終わる。同条項は自らの被害について他の労働者と情報共有することも禁止している。これが、被害者を孤立させ、泣き寝入りさせる要因になってきた。
 今回の法律によって、「和解」条項は無効となり、被害者は裁判をたたかい、加害者の罪を明らかにし、責任を取らせることが可能になる。
2 「法の支配」― 理由に基づく統治
 松尾陽・名古屋大学教授の『今問う「法の支配」の理念』(1月13日朝日新聞「憲法季評」)を紹介したい。昨年9月末、刑事弁護人がパソコンを法廷内のコンセントにつないで使っていたところ、裁判長が「国の電気だから使用してはならない」と制止した事件を題材にしながら、民事裁判にも広げ、裁判外紛争処理過程における弁護士の役割の重要性について論じて示唆に富む。
 旧共産圏の権威主義体制と呼ばれる国々で、1990年代以降、経済発展を促進する法システムを欧米などから輸入し、部分的であれ、欧米流の裁判システムへと変容させてきた。しかし、これらの国の法システムの中心には刑法や行政法が位置し、法は為政者が発する命令であり、裁判もその命令を粛々と実現していく場として理解される傾向がある。このような体制においては、為政者の思惑によって法が解釈適用されがちであり、「法による支配」とも評される。これは、欧米流の法システム全体の理念とされる「法の支配」と対置される。
 一方、「法の支配」の要諦は、どんな為政者も法に拘束されるということであり、そこに「法による支配」との違いがある。そして、法の解釈適用は、為政者から独立した裁判所に委ねられる。しかし、裁判所も自由に法を解釈適用すればよいわけではなく、理由に基づいて解釈適用しなければならない。ちなみに、ベルギー憲法149条では、裁判所の判断は「理由によって支えられる」と規定されている。結局、「法の支配」とは、理由に基づいて統治するということであり、一種の理性支配である。
 仮に真実が自明であり、絶対的な権威が存在する社会においては「法による支配」の裁判でよいのかもしれない。しかし、真実の見え方が人びとによって異なり、また、絶対的な権威が原理的に否定されている民主的な社会では、真理や正義は当事者たちの議論の中で形成されていく。このことは、「法の支配」の裁判においても同じである。
3 日本の司法は何なの?
 裁判所が和解を強要したり、当事者の主張・立証を制限し、「不告不理」原則を逸脱して勝手な「争点」に基づく判決をしたり・・・という日本の司法は何なのだろうか?日本国憲法の司法からすれば、裁判によって「法の支配」が貫徹されるはずなのに。
(2022年2月21日)

 

カンボジアUNTACをめぐる論争を回顧する

東京支部  木 村 晋 介

 カンボジアといえば、日本の自衛隊が初めてPKOに参加した国です。当時のカンボジアの社会主義政権を掌握していた人民党と、これに対立する三派連合(シアヌーク派、ロンノル派、ポルポト派)間の長い内戦に終止符を打つべく、国際圧力の下、パリで和平協定が成立したのは九一年一〇月。
 翌九二年からUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が同国を統治することになりました。その統治期間は、自由で公正な選挙で選ばれた議会が憲法を制定し政府を設立するまでの間と決められていました。
 しかし、パリ協定やUNTACの暫定統治に対する自由法曹団内の評判はすこぶる悪いものでした。
 批判の第一点は、パリ和平協定が、協定当事者からあの大量虐殺で知られるポルポト派を排除していなかったこと、第二点は、国連PKOによる暫定統治がカンボジア人の民族自決を侵害していること、第三点は、カンボジア現地がまだ戦争状態にある、この三点に集約されていました。
 パリ協定やUNTAC統治に対するこうした論難が団内ででるようになったのは、九三年の春ころからで、そうした発言の中心にいたのは、同年二月に団カンボジア調査団に参加した鷲見賢一郎氏、大久保賢一氏、森卓爾氏などのグループ(団通信七二五号など)のほか、同年の団の五月集会に参加された上田誠吉氏、同氏の発言に関連して発言された四位直毅氏(団通信七三五号)などです。
 また前記調査団の方々を中心に団から出版された「戦火のカンボジア」というパンフは、カンボジアは今、戦乱の渦中にあり、パリ協定の和平合意は完全に破綻し、UNTACはカンボジアの政治経済を破壊し、人民の怨嗟の的となっている、という内容のものでした。
 以上のようなパリ協定とUNTACに対する認識や非難は、当時すでにカンボジアを三回訪問し、ある程度現地の実情を理解していた私にとって、大きな違和感をいだかせるものでした。
 まず第一に、パリ協定にポルポト派が当事者として加わったことについて、現地でこれを批判する人には(人民党の党員を含め)一人も出会いませんでした。内乱時の対立構造が人民党対ポト派を含む三派連合であった以上、ポト派を排除した和平協定など成立し得ません。そして、総選挙さえ実施されればポト派が壊滅的敗北をすることは誰しもが予想しうることでした。ポト派の壊滅は、国際社会の干渉や圧力で実現させるべきことではなく、正にカンボジアの民衆が公正な選挙の中で自ら決するべきこと、というのが国連の考え方でした。結局、大敗を自ら予測したポト派は選挙をボイコットし、総選挙後に成立した新政権の手で壊滅させられる結果となりました。
 第二に、総選挙までの期間、UNTACがカンボジアを統治するについてもそれ自体に反対する人には出会いませんでした。勿論UNTACの存在が交通事故や売春宿を増加させるなどのマイナスの影響を与えていたことは事実でしたが、当面の間の平和を保障してくれるものとして、ほとんどの人々から肯定的評価を受けていました。
 その理由は、二〇年にわたった内戦、特にポト派の行った大量虐殺により(裁判官や弁護士も含め)指導者やインテリゲンチャのほとんどを失い、そのうえ各派間の内乱時の対立感情が払拭しきれていなかったことがあります。また、終戦直後で街中に銃があふれている、という状況の下、自分たちだけで平和の構築と、法や憲法や司法制度の再生をしなさい、というのは余りにも非現実的なことでした。 
 他の大国の占領下に、その大国の手から民主主義的制度を手渡され、占領下で戦後初の国会議員選挙を実施し、占領下で新しい憲法を制定した日本人が、このような状況にある小国に対してどうしてそのようなことをいうのか、私には理解できませんでした。
 第三に、私はプノンペン、カンダール、タケオ(自衛隊の駐屯地)を自動車で見て回りましたが、途中山賊的なグループがいること、地雷が埋まっていることなど、治安には注意が必要であったものの、どこにも戦火は見ることができませんでした。
 団発行のパンフ「戦火のカンボジア」がいかに当時の現状を反映していなかったかは、その後の経過が示すとおりです。カンボジアのPKOはその後のPKOの範となるべき、素晴らしいものだったと思います。
 なぜ上記のような議論が、当時の団内でまかり通ってしまったのか。それは、当時自衛隊のUNTACへのPKO派遣に反対することが団の目先の政治課題となっており、その課題を達成するために都合のよい〝論理〟と〝現地報告〟が必要だったからではないかと私は考えています。このような当面の政治的課題にとって都合のよいことを、事実を曲げてまで言い述べる運動は、永続きしないばかりか、結局市民の信頼を失うことにつながり、団に大きな損失を与えます。
 あの時「戦火のカンボジア」を出版された皆さんはその後何をされたのでしょうか。私たちの「カンボジア日本法律家の会(団員が三名います)」は、その後UNTACのサジェスチョンもあり、カンボジアの人々と共に、JAICAなどの支援も受けながら、崩壊した司法制度の再構築を目指して、二つの大学の法学部の生徒に対して継続的に法学の講座を提供してきました(現在はオンラインで実施しています)。また、教材として法律専門書の現地語での発行提供の他、ごく最近には池田真朗教授の最新版民法教材「民法への招待」の翻訳書の提供なども行ってきました。20名程度のNGOによるささやかな運動ですが、20数年続けたことの成果は少しずつ見えてきています。法の支配こそ平和の原点です。少し古いことですが、極めて流動的な国際情勢のもと、平和の在り方、運動の在り方が厳しい試練に立たされている今、仮にも団の平和運動が、事実に基づかない情報提供により動かされ、団の信頼を損なうことのないよう、投稿させていただきました。

 

この10年の物故団員をしのぶ

福岡支部  永 尾 広 久

 『この10年間に亡くなられた自由法曹団員を憶う』が送られてきた。手にとると、この10年間に亡くなった先輩弁護士のなつかしい名前をいくつも見かけた。一晩、じっくり読みすすめた。いや先輩だけではない。落合真吾団員(福岡県二日市市)のように31歳で結婚式の翌日に脳幹出血で、数日後に亡くなったという人もいる。本人も本当に残念だったと思う。また、ハーフマラソンに参加してゴールインした直後に倒れて29歳で亡くなった滝川文人団員(静岡支部)がいる。本当に世の中は何が起きるか分からない。
 この冊子で紹介された物故団員121人のうち、80代以上が54人で半数近くを占めている。ハードな仕事をしていても世間的にみて長寿の人も少なくないということだ。70代はその半数以上の34人で、60代は21人、50代7人、40代と30代が各2人、20代が1人となっている。
 団長経験者としては坂本修さんがいる。団総会の親睦会で楽しみにしていた「バナナ・ボート」の土田嘉平団員(高知)も88歳で亡くなっていた。
池永満さん
 池永さんが亡くなってもう9年になる。同じ事務所にいて、医療研や患者の権利オンブズマンで共に活動していた久保井摂団員が直後に追悼文を書いたのが再掲されている。
 池永さんの病状が詳しく紹介されているが、私も食事療法による自己免疫力を高めようと努力しているのを直接本人から聞いていた。池永さんは、何事にも積極的で前向きにとらえ、数々の大事(だいじ)をなし遂げた人だが、小脳転移による平衡感覚の障害について、久保井さんに「これまで一度も経験したことのない感覚」だと、なんだか楽しげに語ったとのこと。自分の病気の症状の推移を好奇心いっぱいで見守り観察しているという、精神力の強さに久保井さんは圧倒されたとのこと。池永さんを身近に知る者の一人として、さすが池永さんだと感嘆した。また、病室で最後まで『新・患者の権利』(九大出版会)の改訂に全力を傾注していたというのにも、ほとほと頭が下がる。
 池永さんは、福岡県弁護士会の会長をしていたときに発病(悪性リンパ肝腫)していた。このことを私は後に知った。弁護士会のすぐ近くにマンションを借りて、そこで新聞記者にレクチャーし、懇親を深めていることを、そのマンションに出かけたときに教えられた。とても真似のできるものではない。その苦労は西日本新聞の一面トップを福岡県弁護士会の企画が3回も飾るという成果として目に見えたが、これは誰もまねのできない、まさに空前絶後の偉業だ。
 あちこちで書いていることだが、福岡県南端の大牟田市に事務所を構える自由法曹団員の私が福岡県弁護士会の会長になれたのは、ひとえに池永さんの強力な後押しがあったからだ。そのおかげで私は弁護士会の中枢の一員になり、見聞を圧倒的に広めることができた。いくら感謝しても感謝しきれない。
 いま、池永さんの長男夫婦(修さんと真由美さん)が、弁護士法人奔流を見事に受け継いでいる。奔流のすごいところは、弁護士の少ない地域への支店展開を積極的にやり、それを維持・発展させていることだ。
板井優さん
 私とほぼ同世代の板井優さんについては、水俣病訴訟を引き継いでがんばっている板井俊介団員が紹介している。水俣病問題の解決の世論をつくりあげるため、水俣市に法律事務所を開設。その家族として煙たがられている親の子どもとして、「よそ者」ひいては「不景気をもたらす存在」とみられていることから、その「息苦しさ」をはねのけるため少年野球にのめり込んでいったことが語られていて、心を打つ。
 俊介団員は優さんと同じ法律事務所に入ったが、それは、父の死が決して遠い未来のものでないと悟ったからだった。そして、同じ事務所に入ったものの、すさまじい忙しさの日々で、父である優さんとの会話がほとんどなかったというのにも驚かされる。
 優さんは旧姓を具志堅優といい、那覇市に生まれたが、その父・興一と考えがあわず、確執があったようだと紹介されている。父と子の相克は容易に克服しがたいものがある。
杉井厳一さん
 私は川崎合同法律事務所に6人目の弁護士として入った。
 根本孔衛さんは、すでに老成した風格があり、私は杉井厳一・篠原義仁という2人の偉大な先輩の見よう見まねをしながら弁護士生活をスタートさせた。川崎合同での3年4ヶ月は、私の弁護士生活のスタイルをすっかり決めた。
 団長をつとめた篠原さんは、舌鋒鋭く相手をやり込めるのだが、その底には愛敬があって、憎めない人柄だった。それより杉井さんのほうが怖かった。相手方を鋭く、とことん追い詰めていく。弁護士としてのケンカの仕方を私はこの二人から大いに学んだ。
 私の同期の岡田尚団員が、オウムに無惨にも一家全員が殺された坂本弁護士の遺体が発見されたあとの横浜アリーナでの葬儀の様子を紹介している。杉井さんは、このとき横浜弁護士会の会長だった。アリーナを会場としてガラ空きだったらみっともないという心配もあったようだが、杉井さんは会長として決断した。当日は、全国から2万6千人もの参列者があり、新横浜駅から会場まで長蛇の列が途切れることがなかった。このときの杉井さんの会長としての弔辞を偲ぶ会のとき見聞したが、まさしく杉井さん一世一代の心を打つスピーチだった。
(続く)

 

岡村親宜団員(東京支部)~追悼特集~

 

岡村親宜先生を偲ぶ

東京支部  川 人  博

 昨年11月30日、岡村親宜先生(20期・本郷合同法律事務所)が病にて逝去されました(享年79歳)。岡村先生は私より10期先輩にあたりますが、1980年代後半以降、過労死問題にともに取り組んできた仲間でもあります。
 岡村先生は、弁護士活動を開始した当初から労働事件、とりわけ労災・職業病の事件に精力的に取り組み、労災問題の法理論的な構築へ向けて大きな役割を発揮されてきました。そして、1980年代半ばころから、脳・心臓疾患の突然死の事件の実践と研究に力を注いできました。
 そのような中で、1988年4月に大阪で始まった「過労死110番」の全国電話相談活動について、東京および全国の活動の中心となりました。同年10月に過労死弁護団全国連絡会議が結成されましたが、岡村先生は、同連絡会議の代表幹事(複数制)の一人として昨年10月まで33年間その職務を続けてこられました。
 昨年10月1日・2日の同連絡会議全国総会に先立って、岡村先生との打ち合わせの際に、体調がよくないこともあり、代表幹事を退任したいとの意向を述べられ、昨年の総会は、代表幹事としての最後の総会出席となる予定でした。そうしたところ、総会直前になって、体調不良のため欠席との連絡を受けました。そして、総会後に私から事務所あて連絡をしたところ、その後、11月10日付で手紙をいただき、それによれば、約1か月入院して退院し、自宅で療養中、皆さんによろしくお伝えください旨の内容が直筆で書かれていました。
 私は、当分の間、面談は難しいと推測し、返信の手紙を出さなければと思っていた矢先に、ご家族から訃報の電話をいただいた次第です。
 岡村先生の労災分野・過労死分野における先駆的な諸活動は、今、これらの問題に取り組んでいる全国の弁護士はもとより、当事者や労働組合などにとって、かけがえのない財産となっています。とりわけ、過労死分野における労災行政の問題点を批判し、被災者・遺族の救済のための様々な法理論を打ち立てた業績は、日本の社会運動史の中に刻まれる内容だと確信しています。過労死関係の主な著作として、『過労死と労災補償』(労働旬報社 1990年)、『過労死・過労自殺救済の理論と実務 労災補償と民事責任』(旬報社 2002年)があります。
 岡村先生は、労働事件以外の分野でも精力的に調査・文筆活動を行い、たとえば、2015年には、岡村先生の親友故大森鋼三郎弁護士のご尊父の生涯を調査研究し、『新装版 無名戦士の墓 評伝・弁護士大森詮夫の生涯とその仲間たち』(学習の友社)を出版しています。他に、趣味の川釣りに関連した興味深い著作も出されました。
 実は、岡村先生が生前ほぼ完成させていた労災・過労死分野での論文をまとめた原稿があり、旬報社より新規出版が内定していました。現在、この本の最終的な編集作業を出版社および岡村晶弁護士が行っています。そこで、この本が出版された後を目途に、出版記念のシンポジウムを実行委員会方式で開催したいと考え、現在、関係者において準備をしています。正式に決まりましたら、皆さまにお知らせします。
 最後になりましたが、岡村先生のご冥福を心からお祈りいたします。

 

岡村親宜さんとの30年

神奈川支部  中 野 直 樹

 岡村親宜さん(団員)が2021年11月30日逝去されました。不意打ちの訃報の一撃に呆然と立ちつくし、回答できない自問をする日々が続きました。床に就いた後、岡村さんが現れてまだ元気だよと話しかけてきたときは、そうだよね、と歓喜しました。でも夢でした。
2020年12月15日「ご連絡」
 との題が付いた、見慣れた岡村さんの手書き文字の送付書が残っています。岡村さんは、「自由法曹団百年史」の第1章「戦前の団創立から敗戦の時代―治安維持法と闘った団員の群像と戦後の再出発」を執筆されました。19年夏の着手から1年以上かけた調査と文章化、出された意見を受けた修正に取り組まれ、この「ご連絡」に「これが小生の最終稿です。」と書かれたとおり、日本評論社への入稿となりました。
岡村さんと自由法曹団
 岡村さんは1968年弁護士登録をすると同時に自由法曹団に参加されましたが、活動の場は、総評弁護団(現日本労働弁護団)、労災研究会、過労死弁護団でした。岡村さんは80年代から90年代にかけて労災関係の研究論文作成に積極的に取り組まれ、著書も多数刊行されました。
 そんな岡村さんは、同期で後に岩魚釣りの世界に導いた大森鋼三郎弁護士(2009年没)の父である戦前の自由法曹団員・大森詮夫弁護士の生涯を掘り起こす事業に取り組まれ、83年に「万事頼んだぞー弁護士大森詮夫の生涯と思い出」(同時代社)を編集・出版されました。岡村さんはこの過程で青山霊園にある「解放戦士無名戦士墓」の由来を知り、歴史探訪の視野を、侵略戦争と植民地支配、治安維持法による弾圧が自由法曹団員にも襲い掛かった暗黒の時代に、平和と人権のために命をかけて闘った弁護士と裁判闘争に広げて、97年「無名戦士墓 評伝・弁護士大森詮夫の生涯とその仲間たち」(学習の友社)を刊行されました(2015年新装版刊行)。
 自由法曹団の組織活動との関係では、岡村さんは、2002年「自由法曹団物語」の編集委員と第1章「二 『過労死自殺』元年をきりひらく」の執筆を担当されました。
 岡村さんは「百年史」の執筆において、戦前の自由法曹団員、治安維持法による弾圧事件の20地裁を超える公判の弁護活動を担った弁護士の氏名、その生年・没年も余すところなく明らかにして、歴史記録を残すことに心血を注がれ、追求されました。私は、岡村さんからの電話で、この作業過程で腰が痛くなった、と言われました。そのときは、月に1~2回岩手に釣りにでかけていたことがコロナ禍でできなくなったことから運動不足になったことが原因かと想像していました。すでに病魔が岡村さんを侵襲していたのかもしれません。
 「百年史第1章」は、岡村さんの研究論考として「最終稿」となりました。それは、自由法曹団にとって、かけがえのない価値のある1章となりました。
岩魚釣りのある旅
 岡村さんは、高校弓道部のキャプテンとしてインターハイに出場されています。弁護士になってから仕事一筋の生活となり、大森鋼三郎弁護士が40歳を前に病気となられたことを期に、2人で源流岩魚釣りの旅を始められたとのことです。私は、91年から2人の旅に部分参加するようになりました。
 岡村さんは釣りの世界でも「著す」ことを志向し、90年代、石川島播磨の労働者たちの仲間づくりの場「つりてんぐの会」の会報に釣りエッセイを投稿してきていました。岡村さんは、94年「岩魚釣りのある旅」(花伝社)、00年「岩魚庵閑談」(つり人社 大森鋼三郎弁護士との共著)、04年「岩魚釣りの旅礼賛」(文芸社)を刊行されました。最後の著書には故郷鳥取県佐治村での成長期を回顧する自伝を盛り込んであります。
 私は、岡村さんと大森さんの観察をしてきました。そのことを自由法曹団通信に次のように書いたことがあります。「二人の友情は一級品だ。山釣りでの二人の関係をみていると、師匠格の大森さんは、やんちゃ坊主からだだをこねる部分を除いたような性格を濃く残し、あれが食いたい、こうしたいと言い、眠くなるとすぐ寝るというように好きなように行動している印象が強い。岡村さんは老成し、大森さんのわがままをふわっと包み込む、そして後片づけと火の始末をして最後にテントに入る。慣用されている表現を使えば(今の時代には批判を受けるかもしれないが)「よき女房役」であろうが、私は、自分の少年時代の母のイメージを重ねてしまう。」
 岡村さんは、大森さんを喪った後、大森さんが出版することを実現できずに遺したエッセイ、俳句、詩を編集する作業を行い、「渓悠遊万遊 釣り狂ち弁護士の岩魚釣り人生 大森鋼三郎著」(2010年 つり人社)が発行されました。
渓流九条の会・渓流文庫を支えて
 08年渓流釣り師が結集して「渓流九条の会」が発足しました。岡村さん、大森さんが世話人となりました。10年5月1日、岡村さんが保有する岩手県花巻市の「岩魚庵」に渓流釣り師と大森鋼三郎さんのご遺族が集まり、大森さんが提唱した「渓流文庫」開設式が行われました。敷地内の土蔵に、岡村さん、大森さんをはじめとする釣り師が所蔵していた釣り関連の本、雑誌、同人誌等が集積されました。館長の岡村さんが作製された「在庫目録」を数えると1200点を超えます。
感謝
 私は岡村さんとは事件を共同したことは一度もありませんが、焚き火を囲みながらの談議で教わったことはたくさんありました。岡村さんは常々自らを8番ライトとよんでいました。釣りの技法をみても決して器用ではありませんでした。しかし、戦略を立てる知恵と研究心は抜群でした。そして人を傷つけない、人をたてる配慮も抜群でした。
 焚き火の前では酔った釣り仲間どうしでしたが、私にとって本当に偉大な人生の師匠であり続けていただきました。岡村さん、ありがとうございました。

 

事務局長日記 ②(不定期連載)

平 井 哲 史

 連日、ロシアによるウクライナへの侵攻関連の報道がなされています。「今の時代にこんなことが起こるなんてショック!」と思い、何ができるだろうか?と悶々とした日々を送っておられる方も多いかと思います。
 「黙っていても何も変えられない。できることをしよう!」と、ロシア大使館に抗議に行ったり、ウクライナ大使館に激励に出かける人、ウクライナ難民支援の寄付を呼び掛けたり、これに応じたりする人、「戦争止めて」と街頭で宣伝し、署名を集めたりする人、SNS等を使ってウクライナの人を励ましたり、停戦を呼び掛けたりする人。
 そうした実際に行動する取り組みの一つとして、東京法律事務所の加部歩人(かべあると)団員が事務所のYouTubeチャンネルで、「ロシアの皆さんへ」というタイトルの動画を発表しました。

 これは、「ロシアの大多数の国民も戦争は嫌なはず。ならばその気持ちを信頼し、呼びかけてみよう。」との思いで、一晩で読み上げ用のロシア語原稿とフリップを作り、大学の恩師に監修をお願いして(またこの恩師も一晩でしっかりと修正をしてくださいました。)、事務所の数名の撮影チームでつくりあげたものです。公表は3月12日ですから、ロシア国営放送局員の方が生放送中に「戦争やめろ」と書いたプラカードを持って放送に乱入するよりも前です。早速、吉田団長がMLで全国に紹介していただき、神奈川新聞も大きくとりあげてくれました。
https://www.kanaloco.jp/news/social/article-877048.html
 どうぞご視聴・拡散よろしくお願いします。
 なお、「後に続け」といろんな方(特に有名人)がメッセージを出すようになってきています。毎日新聞がアーノルドシュワルツェネッガーのメッセージを紹介しました。↓ 加部さんも目指せシュワルツェネッガー級! https://mainichi.jp/articles/20220318/k00/00m/030/085000c

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