第1776号 5/21

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●NHKの団交差別とのたたかい~都労委勝利命令と中労委和解~  鷲見 賢一郎

●ウクライナにおけるロシアとアメリカの戦争ー打開の道はあるのか  松島  暁

●「攻められないためにどうするか」について  木村 晋介

~委員会活動へのお誘い・国際問題委員会より~

●国際問題委員会の紹介~自由闊達を信条としています~  井上 洋子

●100周年企画学習会「団の部落問題への取り組み―部落解放同盟との闘いで得られた教訓」に参加して  矢﨑 暁子

●団員と国際平和活動~笹本潤団員を講師に招いた勉強会(3月24日)に参加して  泉澤  章

●「北海道合同法律事務所 50年史」  永尾 広久

●東北の山 八甲田山(2)  中野 直樹


 

NHKの団交差別とのたたかい~都労委勝利命令と中労委和解~

東京支部  鷲 見 賢 一 郎

1 業績不振者に対する特別指導制度
 日本放送協会(NHK)は、「当期(2か月)の目標数の80%に3期連続して達しなかった地域スタッフ」もしくは「当期(2か月)の目標数の60%に達しなかった地域スタッフ」を業績不振者として、「来局回数の増」、「業務の分割実施」、「受持数削減」等の特別指導を行い、それでも業績不振が続く時は委託契約を解約している。
 平成16年頃、協会職員の番組制作費不正支出等の不祥事により受信契約拒否の動きが広がり、全国的に地域スタッフの業績が悪化する事態となったため、16年8月から18年3月までの間、NHKは、「斟酌した取扱い」として、特別指導を原則実施しなかった。
 平成18年4月以降、NHKは、業績回復の状況に局所間の地域差がみられたことから、特別指導の実施について、「局所を考慮した運用」を実施することにした。これは、特別指導の基準となる地域スタッフの目標数に各局所の達成率を乗じるもので、目標数が各局所の達成率に応じて下方修正され、それだけ特別指導の基準が下がることになった。
2 下限値の導入
 NHKは、平成30年12月4日、多数組合の日本放送協会集金労働組合(N集労)に対し、「『局所を考慮した運用』に適用する各局所の達成率が全国平均の達成率よりも低い時は全国平均の達成率を適用する=全国平均の達成率を下限値として導入する」ことを提案した。これは、局所達成率が全国平均値よりも低い局所の地域スタッフにとっては、特別指導の基準が上がり、それだけ「受持数の削減」等の特別指導を受けることになり、また、委託契約が解約されやすくなり、労働条件(委託条件)の改悪である。
 NHKとN集労は、平成30年12月4日から7日まで団体交渉を行い、平成31年度下半期(平成31年10月)から下限値を導入することを合意した。この間のNHKとN集労の団体交渉は、全日本放送受信料労働組合(全受労)等の他労働組合には一切知らせないで行われた。
3 団交差別、全受労の頭越し通告、不誠実団交
 NHKは、全受労に対し、平成31年3月20日の窓口交渉で、突然、「平成31年4月1日には、平成31年度下半期から下限値を導入することを全地域スタッフに通告し、説明する。」と通告してきた。全受労は、平成31年4月18日、5月21日の2度、NHKと団体交渉を持った。NHKは、5月21日の団体交渉で、「今年については説明した内容でやります。」と断言し、全受労は、「これ以上交渉しても無駄だということですね。別の形を考えざるを得ません。」とNHKに抗議して、団体交渉を終えた。
4 都労委勝利命令
 全受労は、2019年(令和元年)8月21日、都労委に対し、「団交差別、全受労の頭越し通告、不誠実団交」について不当労働行為救済申立をした。
 都労委は、令和3年7月15日、労使双方に6月1日付命令を交付した。都労委命令は、「協会は、全受労への特別指導の基準ないし運用方法に関する提案の時期及び組合員への通知前に団体交渉の機会を与えることにつき、他の労働組合と異なる取扱いをしてはならない。」と命令し、また、協会に文書交付を命令し、団交差別、全受労の頭越し通告が労組法7条3号の支配介入に該当することを認めた。都労委命令は、不誠実団交は認めなかった。
5 中労委和解
 NHKは、令和3年7月26日、全受労は、7月29日、それぞれ中労委に再審査申立をした。NHKと全受労は、中労委の和解勧告に基づき、令和4年3月9日、和解した。和解条項2項、3項は、次のとおりである。

 2 協会は、特別指導に係る「局所の業績確保状況を考慮した運用」について下限値を導入するに際し、組合が他の労働組合と異なる取扱いを受けたと主張し、組合との間に紛争が発 生し長期化したことを真摯に受け止め、遺憾の意を表する。
 3 協会と組合は、地域スタッフの委託条件と委託制度について、労働組合法遵守の下、団体交渉及び制度検討委員会において誠実に話し合い、相互の信頼関係の構築に努める。
 協会は、地域スタッフの委託条件と委託制度について、組合と他の労働組合とで説明・提案の時期や内容に差を設けることなく、中立保持義務を遵守する。

 
6 差別のない団交権の確立
~全地域スタッフの団結と生活を守る保障に~
 地域スタッフは、NHKの上告を棄却などする最高裁第二小法廷平成30年10月10日決定により労働組合法上の労働者であることが認定されている。全受労は、今回、都労委命令と中労委和解により、差別のない団交権を獲得し、確立した。
 いま、NHKは、訪問営業の抜本見直しを検討し、「現行の委託制度は2023年度ですべて終了し、2024年度からは新たな個人委託制度を構築する」ことを検討している。委託制度の抜本見直しにあたり、都労委命令と中労委和解は、全地域スタッフの団結と生活を守る保障になるものである。

 

ウクライナにおけるロシアとアメリカの戦争ー打開の道はあるのか

東京支部  松 島  暁

ウクライナ戦争を招いたNATOの東方拡大政策
 フォーリンアフェアーズ2014年9月号に「悪いのはロシアではなく欧米だ―プーチンを挑発した欧米のリベラルな幻想」というきわめて刺激的な論稿が掲載された。超党派の組織で米国の対外政策決定に多大な影響力を持つ外交問題評議会のフォーリンアフェアーズ誌上であったこと、筆者がこれまた大きな影響力を持つリアリズム政治学の泰斗、シカゴ大学のJ・ミアシャイマー教授であったことから注目を集めた。
 教授は、「ロシアの高官たちは、ワシントンに対してこれまで何度も、グルジアやウクライナを反ロシアの国に作り替えることも、NATOを東方へと拡大させるのも受け入れられないと伝えてきたし、ロシアが本気であることは2008年にロシア・グルジア戦争で立証されていた。米ロは異なるプレーブックを用いている。プーチンと彼の同胞たちがリアリストの分析に即して考え、行動しているのに対して、欧米の指導者たちは、国際政治に関するリベラルなビジョンを前提に考え、行動している。その結果、アメリカとその同盟諸国は無意識のうちに相手を挑発し、ウクライナにおける大きな危機を招き入れてしまった」と主張し、欧米のリベラルなビジョンが危機を生み出したとしたのである。私もこの見方が基本的に正しいと考えている。
 もっとも、論文の原題は「なぜウクライナ危機が西側のせいだと考えるのか」というもので、「悪いのは欧米だ」という表現は日本語編集部によるものであろう。リベラルが善悪の価値基準で国際関係を論ずるのに対し、現実主義に立脚する教授は、実際の力や関係をリアルに見ることを優先しており、究極の価値判断を示す「悪い」云々の日本語はむしろ教授の意向に反するタイトルのように思う。
 「NATO拡大が、ロシアのナショナリズム、反西側的で軍国主義的な傾向を掻き立て、むしろロシアの民主化を妨げるだろう」ことは、戦後の対ソ連外交をリードしたジョージ・ケナンが、ソ連崩壊直後から指摘していたところではあった。しかし、ブッシュ政権は、2008年4月のブカレストサミットで、ウクライナとジョージア(グルジア)のNATO加盟表明を強行し、その後のオバマ、バイデン政権もNATO東方拡大政策を推進し今日に至った。
ウクライナ侵攻の要因を語ることはプーチンを擁護することなのか?
 ところが、なぜロシアがウクライナを武力侵略するに至ったのか、NATOの東方拡大政策がウクライナ危機を招いたのではないかと主張すると、「ロシアを擁護するものだ」とか「プーチンを免責するものだ」という類いの批判を受けることがある。先日も、私の文書を読んだ地域の活動家から「私たちは街頭に立ってロシアのウクライナ侵略を糾弾しているのに、先生は、ロシアを擁護するんですか」というクレームを受けた。その言葉を聞いて私は、戦時中に国防婦人会の活動家から「皆さんがお国のために戦っているときに、あなたは英米の肩を持つのですか」と言われるシーンを妄想してしまった。左右を問わず、目的の正当性を確信すればするほど、それに異を唱えるようにみえる言説に対しては、不寛容になるらしい。
プーチン=ロシアの開戦の論理
 今回、ウクライナで戦争を始めたこと、そしてその遂行過程で生じている諸々の被害の発生について、プーチンに責任あることは疑いの余地がない。しかし、なぜ彼がそうしたのかは別の問題である。何が彼の決断を招いたかをあきらかにすることは、何故ロシアの武力侵略を止めることができなかったのか、同様の事態が起きないようにするにはどうしたらよいかを考えるうえで不可欠の作業である。また、リアリズムの見地からは、大国・覇権国が、いかなる論理で行動するかを考えることは、中国という大国を隣国にもつ日本にとっても意味ある作業である。
 ロシアはNATO、とりわけその中心であるアメリカによる侵略的行為だとして対応を考えているという点が重要である。少なくともプーチンは、ジョージア(グルジア)のバラ革命、ウクライナのオレンジ革命は、アメリカなどの帝国主義勢力によって引き起こされた侵略的行為を見ているし、2014年2月のウクライナ騒乱も、西側からは「マイダン革命」だが、ロシアの呼称は「マイダンクーデター」である。同じことがロシアで起きかねないと考えている。ロシア的民主主義あるいはスラブ的民主主義はエセ民主主義であり、自由・民主主義・法の支配という普遍的価値を体現したNATO的民主主義こそが真の民主主義で、それが東欧諸国に広がることは、国際秩序の安定に資するもにで、人々の幸せにつながると考える立場からはとうてい容認できない見解ではあろう。
なぜ侵攻したのか?直接の引き金-ロシアによる先制攻撃
 そのうえでなお問題なのは、なぜ今年侵攻したのか、昨年末からウクライナ国境にロシア軍を終結させ、2月に進軍したのは何故かである。NATOの東方拡大政策もプーチン独裁も今に始まったものではないからである。
 NATOの東方拡大はブカレストサミット(2008年)以来の一貫した政策であり、プーチンのウクライナ侵攻の基礎的要因(誘因)ではあったとしても、なぜこの時期に武力攻撃を始めたかの説明にはならない。NATOの東方拡大ではなく、プーチン独裁政権の領土拡大政策の暴発だとする立場であったとしても、プーチンが突然、独裁者になったわけではなくずっと前から専制君主ともいうべき大統領だった以上、なぜ今なのかは別途説明されなければならない。
 去る5月9日の戦勝記念日式典における演説でプーチンは、「ドンバスでは、さらなる懲罰的な作戦の準備が公然と進められ、クリミアを含むわれわれの歴史的な土地への侵攻が画策され、キエフは核兵器取得の可能性を発表していた。NATO加盟国は、わが国に隣接する地域の積極的な軍事開発を始めた。」「軍事インフラが配備され、何百人もの外国人顧問が動き始め、NATO加盟国から最新鋭の兵器が定期的に届けられる様子を、われわれは目の当たりにしていた。危険は日増しに高まっていた。ロシアが行ったのは、侵略に備えた先制的な対応だ。」と述べている。事実、昨年9月1日に「ウクライナとアメリカ合衆国の間の戦略的パートナーシップ」が締結され、同年10月から旧式装備の総取替えが開始されるとともに米英軍の軍事顧問団が投入され、共同軍事演習も実施された。ゼレンスキー政権がアメリカの後押しを受け、クリミア、ドネツク、ルガンスクを武力で奪還しようとした計画を「先制攻撃」で阻止した、というのがプーチンの言い分のようである。
 先制攻撃で一気にキウイ(キエフ)を占拠、傀儡政権樹立を目論んだものの、その計画は失敗した。ロシア軍の侵略が稚拙かつ安易だったという側面ととも、アメリカによるウクライナ軍の強化・近代化がある。ウクライナ軍の強さを軍の士気の高さに求める者もいるが、むしろアメリカから提供される潤沢な資金を使って最新式の武器で武装したことに、強さの由来があるというべきであろう。ロシア軍の侵攻以降1ヶ月あまりの間に、アメリカは3000億円以上を投入した。それはウクライナの年間軍事費の4割にあたり、日本の年間在日米軍援助の半額という規模であり、それ以外にも英独北欧4カ国も軍事支援を行っている。これらの支援なくしてウクライナ軍は戦えない。尚、米下院は、ウクライナ支援強化で400億ドル(5兆2000億円)の追加予算案を可決している。
どことどこが戦っているのか-世界大戦の危険 
 以上、外形的にはロシアがウクライナを侵略し、ロシアとウクライナが戦争をしているようにみえる。しかしその実、「アメリカ(NATO)とロシアが、ウクライナを舞台に戦争」をしているというべきである。「ウクライナは事実上のNATO加盟国」(ミアシャイマー)になっているのである。
 ウクライナを舞台としたアメリカ(NATO)とロシアの戦争とみることは、もはや2国間の紛争ではなく、世界戦争が始まりつつあるということもできる。しかも、いずれも、国連常任理事国であり、かつ、核をもった国同士である点、より一層深刻である。ロシアは民族の誇りと大国の復興をかけて、アメリカは自由と民主主義の大義のもと非妥協的に争っており、引くに引けない状況にあるようにみえる。アメリカ(NATO)の勝利で自らの体制が崩壊するかもしれないとプーチンが考えたら、核の使用を躊躇わないかもしれない。世界戦争など想像したくもないのだが、6月末のサラエボで起きた暗殺事件から1ヶ月あまりで世界戦争が始まるなど誰も想像しなかった。誰も望まず、誰も予見しなくとも悲劇は起きてしまう。

 

「攻められないためにどうするか」について

東京支部  木 村 晋 介

 4月1日号の私の投稿「9条はプーチンを止められるか」に関連して、矢崎暁子さんの論稿が4月21日号、5月1日号に掲載されました。同号にはまた、私の同論稿を批判する守川幸男さんの論稿が掲載されています。
 矢崎さんの4月21日号の論稿では、私の問題提起を理解していただき、矢崎さん自体は、非武装平和論者だということですが、この意見でほかの人を説得できるとは考えていない、という率直な見解を示されました。わたしがいいたいのも正しくそこです。
 長谷部恭男さんが、3年ほど前に弁護士会で講演され、憲法には私の部分と公の部分とがある。私の部分は人権規定で、これはたった一人のものでも、それによって社会にストレスが生じるときでも、切り札としての役割を期待される。公の部分は統治機構で、ここは多数決が働く場面だ、というようなことをいっていました(不正確かもしれませんが)。非武装中立論は立派な思想ですが、それでは嫌だという人を無理にひきこむことは出来ません。いまや、与党ばかりでもなく、共産党を除く野党は集団的安全保障条約である日米安保条約と自衛隊により国と国民を守っていくといっています(集団的自衛権は論争の対象ですが)。
 共産党も、4月7日に、個別的自衛権の行使により平和と国民の命を守るという志位さんの見解を公表しました。いざとなれば自衛隊を使うということは22年前からいっていましたが、個別的自衛権を行使できると言及したのは今回初めてのことで、一歩踏み込んだ発言だと思います。おそらく、近いうちに自衛隊を憲法違反とする同党の綱領が個別的自衛権の限りで改訂されるのではないかと思われます。その方が野党共闘にもプラスになるでしょう。
 非武装中立論で人を説得するのは無理だという、矢崎さんの気持ちはよくわかります。しかし、矢崎さんが、安全保障政策を考えていくのは主権者であって法律家の役割りではない、というのには驚きました。新安保法制については、自由法曹団が先頭になって反対運動を繰り広げました。日弁連も単位弁護士会もです。これは、法律家が安保政策について国民の立場に立って議論する責任があるとの前提に立ったものだと思います。法律家よ安保政策から去れというのは無責任だと私は思います。
 ついで5月1日の論稿です。細かくはふれませんが、結局は紛争が起きたら争わずに逃げろ、降伏しろ、ということに終始しています。これは、ご自身が「説得が難しい」といった非武装論への回帰のように思えます。矢崎さんには、私の問題提起はご理解いただけていると思うので、もう一度考え直していただきたいと思います。
 最後に矢崎さんに強調しておきたいことがあります。安全保障制度の目的は「攻められたらどうするか」ではなく「攻められないためにどうするか」にあります。例えば、ウクライナはどうしていれば攻められないですんだのか、ということ考えるということです。攻められないための抑止力として軍備を持ったうえで集団的安保体制を選ぶか否かという問題です。ウクライナがNATOに加盟していたらどうだったか、ということです。世界各国の軍備も主として戦争の抑止のためにあります。ここから力の均衡、という政策が生まれます。そしてここから軍拡競争が生じます。これをどう止め、軍縮をどうやって実現するかというのが国際的平和維持についての最大の、そして極めて困難な課題です。しかしやってやれないことではありません。例えば冷戦終結時にヨーロッパに6000発から7000発あったとされる核兵器は、現在までに200発に削減されています。200発でも十分危険ですが。
守川幸男さんの4月21日号の論稿について
 守川さんが、丸腰平和主義者だということは分かりましたが、全体としておっしゃっている意味が正直いって私にはよくわかりませんので、個別に反論は致しません。ただ「プーチンと同じ思想の安倍晋三」というところが気になりました。安倍の支持者ではありませんが、安易にとそういう比喩をするのはどうかなあと思います。身内にはウケるのかもしれませんが、普通の人の共感を得られないと思います。そういうのであれば、この二人が思想的にどういうところで一緒なのかを具体的に語っていただきたい。
 守川さんお尋ねの「木村の立ち位置」は、何度も本誌に書いていますように「どうやって普通の人に通じる、門前払いされない安保政策論・憲法論を練り、それを語るか」ということです。少なくとも丸腰論には与しません。そのために団内で安全保障について皆さんに問いかけています。

 

委員会活動へのお誘い
国際問題委員会の紹介~自由闊達を信条としています~

委員長 井 上 洋 子(大阪支部)

1 国際問題委員会が団に生まれたのは1994年です。
 創設には背景があります。菅野昭夫団員が5年をかけて「Rights on Trial(邦題 試練に立つ権利)」を翻訳し、著者のArther Kinoyを1991年に訪問したのを契機として、アメリカの戦後史と格闘をした進歩的法律家団体ナショナルロイヤーズギルド(NLG)の存在とその面々との交流が始まったことです。同年の自由法曹団70周年記念総会ではキノイ氏を招いて講演をし、1992年には自由法曹団として初の代表団を(団員33名)NLGシカゴ総会に派遣しました。
 1994年の議案書によれば、日本の人権侵害の実態と後進性を国際世論に訴え改善させることと、日本の海外進出等に伴う諸国の国民の人権侵害を止めさせることを大きな課題とし、当面の目標として、団員の国際活動の経験と情報の交換、NLG他の国際団体との交流、自由権規約選択議定書批准推進運動の3つが掲げられています。
2 そこから28年経ちました。
 歴代の委員長は、鈴木亜英、菅野昭夫、藤原真由美、杉島幸生(藤原団員の代行)、井上洋子です。歴代の担当次長は、森賀幹夫、今村核、中野直樹、井上洋子、泉澤章、阪田勝彦、大山勇一、神原元、菅野園子、小林善亮、近藤ちとせ、瀬川宏貴、林治、田井勝、岩佐賢次、星野文紀、江夏大樹、岸朋弘、安原邦博です。(敬称略で失礼します。)国際問題委員会を支える大きな力となったのは、これらの次長と次長経験者でした。
 現在の委員会は中心メンバー約6~7名+αです。
3 委員会が取り上げるテーマについて・・・活動その1
 団員が個々人で行う国際的活動は幅広く、NGOを立ち上げての活動、特定の国の制度支援、IADL(国際民主法律家協会)に機関加入している国際法律家協会の活動、日弁連の委員会等を通じての自由権規約選択議定書批准運動や国内人権機関設立運動、労働運動でアメリカの団体から学んでの情報発信、など枚挙にいとまがありません。
 また、団としても、国際問題委員会活動とは別に、時に応じて海外調査を行ってきました。たとえば、小選挙区制導入に関して各国の選挙制度の調査、阪神淡路大震災に関する地震対策調査、自衛隊の海外派兵に関してカンボジアやパキスタンでの現地調査、ユーゴ・コソボ戦争でのイタリア基地の調査、日産工場閉鎖に伴うベルギー・ルノー工場の調査などです。
 また、韓国には、独裁政権に反して「民主社会のための弁護士会」(民弁)が結成され、平和・人権、民主主義のための活動に取り組んでいますが、韓国の民弁との交流は団としても行われ、現在は基地問題を中心として沖縄支部が継続的に担っています。
 したがって、国際問題委員会は、それらが網羅しなかったり、団ではあまりまとまってとりあげられないでいたテーマ(ヘイトスピーチ、技能実習生問題、入管・在留資格問題など)や、横断的で大きなテーマ(たとえばTPP、種苗法改正、気候変動など)を、取り扱ってきました。これらのテーマの選択は、委員会での時事に関する自由な意見交換をもとにしています。自分たちの疑問や問題意識をもとに学習会を開き、議論を深めて五月集会の分科会で全体への情報発信をしたり、執行部で全体テーマとして取り上げてもらったりする、という活動をしてきました。
 興味が高じると、現地調査をしようということで、ASEANなどアジアの連帯のあり方を学ぶためにベトナム、マレーシア、インドネシアなどの公的機関や団体を公式訪問したこともあります。
4 NLGとの交流・・・活動その2
 そして、委員会設立以来、NLGとの交流を継続的に行ってきました。NLGの総会に参加するだけでなく、日本の問題(憲法9条、沖縄基地、東北大震災後の原発問題など)を発信しています。また、NLGの行う米兵の軍隊離脱希望者の相談事業を援助したり、団が必要とする調査にNLGに協力してもらったり(アメリカのロースクール制度など)、NLGのメンバー来日時には講演会や共通課題や時事(ベトナム戦争と帰還兵のPTSD、反テロリズム法、大統領選挙など)に関する意見交換や懇親をしています。
5 国連関連・・・活動その3
 また、国際人権活動日本委員会という国連の認定NGO資格を持つ団体と共同して、人権侵害事件について救済を求める国連への訴え、国際人権規約の国内実施・徹底を求めて日本政府へのカウンターレポートを作成・提出する活動にも取り組んでいます。
6 ぜひ委員会へ参加してください。
 委員会には既定路線はなく、自由な意見交換が活動の基本となっています。ですので、自分の素朴な疑問や問題意識を口に出せる方、意見交換ができる方にぜひ参加していただきたいと思います。老若男女を問わず多くの方に参加いただき、活性化をしていければ嬉しいです。ぜひ興味をもっていただき、一言声をかけていただいたり、団のHPから委員会当日に直接ズーム参加していただいても結構です。お待ちしています。

 

100周年企画学習会「団の部落問題への取り組み―部落解放同盟との闘いで得られた教訓」に参加して

愛知支部  矢 﨑 暁 子

1 2022年4月19日開催の表記学習会にて大阪支部の石川元也団員のご講演をお聞きし、たくさんのことを考えさせられました。部落差別問題については文献でしか学ぶ機会がなかったので、今回の学習会は貴重な機会でした。
2 部落解放同盟による「差別糾弾」に名を借りた暴力行為の内容をお聞きして、異常な状況に背筋が凍る思いがしました。被害者が共産党関係者であることから警察が積極的に取り締まらなかった、という点も、間接的な弾圧事件であると感じました。10年を超える刑事訴訟の被害者側での取り組みや、執行停止や損害賠償請求など民事訴訟面でも、本当に大変な闘いをされたのだなと圧倒されました。居住環境や教育格差が改善され、職業差別もすでにある程度是正されていた当時、解放同盟がなんでもかんでも差別だとして暴力や脅しを行っていたことは差別の是正には全くつながらないし、かえって「元被差別部落」の特別視を求めることで差別を再生産していました。自由法曹団が部落解放同盟の暴力主義と闘ったことは、その意味で部落解消のための運動であったとわかりました。
 民族差別においては少数民族や外国人を日本人に「同化」させることも差別となりますが、部落差別の場合は同じ状態になることが差別解消のゴールとなります。差別問題の似たところと違うところを見極めて取り組むことが重要だと感じました。
3 また、暴力をふるう教職員がこれほどいたことに素朴に驚きました。私は1983年生まれで、90年代の子どもの頃にはまだ「しつけ」「教育的指導」として暴力を正当化する風潮も根強くありましたが、すでに「体罰」という言葉は存在し、暴力の否定は強まっていました。安保闘争や学生運動の一部が暴力化した時、当時はそれを許容した人もいたでしょうが、私の世代では想像もできません。暴力に寛大だった時代に暴力と正面から闘った先輩方の勇気に感服します。
 他方で現代では、インターネットを通じた言論による人格攻撃が強まっています。匿名で気軽に行えるため集団化・過激化しやすく半永久的に攻撃が残り続けるもので、これを「暴力でない」と言い切ることに躊躇があります。私は暴力を見過ごしていないだろうかと、改めて自問する機会となりました。
4 学習会では、抽象的な理屈を論じるのではなく、個別具体的な事実に立脚して問題を究明することの重要性が語られ、共感しました。朝鮮学校に対する差別では、国や地方自治体は、朝鮮学校で日本学校と同等の教育が行われていることを全く無視して、産経新聞や公安の資料をもとに「朝鮮学校では個人崇拝の洗脳教育が行われている」「朝鮮総連や北朝鮮と密接な関係があり、補助金を交付するとそのお金が朝鮮総連や北朝鮮に流れていく」という「疑い」を挙げ、そうした意見があるので公金支出は「国民の理解が得られない」として、教育水準や生徒の実態を見ずに「国民の理解」という抽象的な理由で就学支援金や補助金等を不支給としています。犯罪被害者等給付金支給法における同性同士の事実婚をめぐっては、名古屋地裁は「同性同士の関係を男女の婚姻関係と同視する社会通念がまだ存在しない」という理由で、当事者の共同生活の実態を一切認定せずに事実婚該当性を否定しました。抽象的な議論は、個々人を「属性」によって切り分けて実態を捨象するため判断を誤りがちです。他山の石としたいです。
5 「足を踏まれた者にしか踏まれた痛みはわからない」という解放同盟のスローガンの誤りについてもお話がありました。実際には「踏まれた者にしか差別是正を求める資格はない」という意味で用いられたのですが、私は聞いた瞬間「踏まれた者」に自力解決を求める言葉に聞こえました。女性団員が言われてきた言葉かな、と。女性団員が「女性の権利のことは俺たちわからないから、女性がやってよ」と男性弁護士から言われてきたという話はよく聞きますし、女性部は団の内部組織ではなく、常任幹事会でも女性部の活動報告の時間はありません。それでいいとは思えません。私が「踏む側」に立っている様々な分野においても、「踏まれた者」でなくても痛みは共感できるはず、権利を求めてともに闘おうという思いを新たにしました。
6 部落解放同盟は、暴力主義に変質する以前は、民主団体とも一緒に差別解消に向けて活動していた時期もあったとのことでした。差別問題対策委員会を立ち上げるにあたり、委員会のメンバーや執行部がいつ変質するかわからないとして、委員会の発足自体に恐怖や懸念を抱く団員がいる理由が少しわかったように思います。方針を誤った歴史をもつのは解放同盟だけではありません。私も自分の言動のおかしさに自分では気づかないこともあるでしょう。常にまわりの意見を聴きながら気を引き締めてがんばろうと改めて思いました。

 

団員と国際平和活動~笹本潤団員を講師に招いた勉強会(3月24日)に参加して

東京支部  泉 澤  章

 国際平和問題について考えるとき、そこで参照する情報は、アメリカを中心とする西側大手メディア発のものが圧倒的に多い。ものごとは複眼的に見るべしとは思いつつ、その複眼を持つ“すべ”がなかなか見つからない。そのような中、圧政や差別、ときには殺害の怖れもある困難な状況もとで日々活動している世界中の法律家たちと交流し、そこで得た情報や体験を日本の平和運動に活かしたいと奮闘している弁護士たちがいる。笹本潤団員もその一人である。
 笹本団員は、2003年に韓国の弁護士たちと初めて交流した際、北朝鮮や日本、米軍に対する考え方が、私たち日本人が無意識に「常識」としている考え方とまったく異なることに衝撃を受けたという。このことをきっかけに、基地問題や戦争などの国際間紛争問題を、先進諸国の視点だけではなく、途上国側で生きる人びとの視点から見るようになる。そして、日常の弁護士業務を続けながら国際平和問題に本格的に取り組みたいとの思いで、「軍隊を持たない国」中米コスタリカに半年間留学し、日本国際法律家協会(JALISA)を活動の拠点としながら、現在も様々な国際活動に取り組んでいる。学習会でざっと紹介された限りでも、アジア太平法法律家連盟(COLAP)や国際民主法律家協会(IADL)への参加、日本の憲法9条の意義を世界へ広げたいとの思いで加わったグローバル9条キャンペーンや9条世界会議の活動から、ジャパニーズ・フィリピ―ノ・チルドレン(JFC)事件など外国人の人権にかかわる個別事件まで幅広い。
 学習会では、笹本団員が活動のなかで出会ったいくつかのエピソードが紹介されたが、北朝鮮と韓国、中国と台湾の代表者を、会議に同席させるかどうかで揉めに揉めたという話は、現代の東アジアを取り巻く情勢の厳しさをリアルに感じさせた。また、ロシアのウクライナに対する軍事侵攻に関連して、笹本団員も参加する国際的な団体「国際民主法律家協会」(IADL)では、ロシアのウクライナへの軍事侵攻を国連憲章に違反する侵略行為であると非難する声明を発している一方、NATOの東方拡大をロシアへの“挑発行為”と評価し、欧米に支援された現ウクライナ政権による反政府派への弾圧を批判する意見も多いことなどが紹介された。ロシアの軍事侵攻に正当化の余地はないが、そこに至る原因を冷静に分析するためにも、欧米主流派以外の視点として貴重な情報だった。
 笹本団員は現在、弁護士として日々忙しく業務をこなしながら国際平和活動に取り組み、さらには大学院(東大院のドクターコース)で国際平和学を学んでいるという。超人的な活躍をしているように見える笹本団員だが、家事事件などの日常業務とはかけ離れた国際活動とのはざまで、「一時期は、精神的にかなり追い詰められていた」と率直に語っていた。日常業務に携わりつつ興味のある分野を探求し続け、さらに活動の幅を広げたいと日夜考えている若手団員にとって、ひとつのロールモデルにもなるのではないかと思う。同期(48期)団員の素晴らしい活動を久しぶりに聞いて、私も少し背筋が伸びたような気がした。

 

「北海道合同法律事務所 50年史」

福岡支部  永 尾 広 久

「北の大地に自由法曹団の旗を掲げて」というタイトルの50年史。
 1970(昭和45)年9月、廣谷・三津橋法律事務所が発足。その後1972(昭和47)年に北海道合同法律事務所と改称し、今では弁護士18人、事務局15人を擁する北海道でも有数の法律事務所。このほか、ここの出身の弁護士も18人いる。
 発足したころ、札幌地裁では自衛隊をめぐる長沼訴訟が進行中で、福島重雄裁判官が札幌高裁長官から注意処分を受けて辞任を表明したが、そのことについて札幌弁護士会は総会を夜中まで開いて、裁判干渉をした平賀健太・札幌地裁所長について訴追請求をすると同時に、福島判事については辞職を撤回せよと決議し、弁護士会の役員が福島判事宅に乗り込んで説得し、福島判事の辞職を撤回させた。長沼訴訟では、自衛隊は憲法違反だという画期的判決(1973年9月7日)が出ているが、弁護士会が臨時総会を開き、夜中まで議論したうえで決議するなんて、今ではとても信じられない熱気を感じる。
 1970年ころは、乾式コピー機がなく、カーボン紙をはさんで手書きする、せいぜい和文タイプする、コピーは青焼きという時代。この青焼きは湿式で、回転ローラーに原稿がはさまったりして、大変苦労していた。
 当時の工藤祐三事務局長は、「緩やかに日々が流れていて、今のようにテンポが速くなく、追いまくられずに、ゆったりとできた」と語る。とはいっても、その仕事ぶりは、どんなものかというと…。事務所の近くの中華料理店(「北京楼」)でジンギスカンをコーリャン酒も飲みながら食べ、そのあと向かいの銭湯に入り、酔いをさまして仕事に戻るというもの。今は釧路で活動している今瞭美団員は、「午後3時ころになると裏手にあった中華料理店から料理をとって小宴会をした」と書いている。まあ、なんとものどかなフンイキではあった。
 村松弘康団員は、もっとナマナマしく1980年前後の状況を明らかにする。
 「当時は、土日なく働くのは普通だった。土曜日は、顧問先で法律相談を受けて、夕方は事務所で仕事した。ある日、夜遅く帰宅すると、大事にしていた本が玄関にバラバラになって散乱していた。家にひとり放置されていた家人の無言の抗議だった。ゆっくり仕事ができるのは日曜日くらい。日曜日は事務所のビルが閉まるため、土曜日の夜に2階の窓のカギを外し、ハシゴを準備して帰宅し、日曜日、管理人のいないころにハシゴをかけて2階の窓から『出社』していた。管理人に発見され、注意され、謝罪した。そのうち、管理人からは、『ケガするなよ』と注意されるだけになった」
 管理人から「ビルの門限を守らない、夜中の出入りは困る。一度や二度ならともかく、常態化している」というクレームが何度も来ていたことを工藤事務局長も書いている。
 田中貴文団員(40期)は、「24時間、戦えますか」という時代風潮のとおり、地下鉄の終電ギリギリまで事務所にいるのは当たり前で、時には仕事終わりが深夜に及ぶこともあった。たまに朝早く事務所に出ると、机の下のカーペットの床に石田明義団員(33期)が転がっていることが二度や三度ではなかったと回顧する。そんな状況は完全に昔話ではないのかと思うと、2008年に入った山田佳以団員(新61期)も、深夜0時すぎまで仕事するのがフツーの生活で、第一子の出産予定日も仕事をしていたとのこと。
 北海道合同には新人が3人一緒に入所したことが2度あり、そのときに「経営危機」に陥ったという。1回目は、1974(昭和49)年のことで、このとき私の同期(26期)でもある今重一・今瞭美夫妻、そして猪狩久一団員の3人が入り、「事務所にあった現金がまたたく間に底をついたが、新人3人は何とも動じなかった」。同期なので当然、私もよく知っているが、この3人は当時も今も、まさしく豪傑。そして、もう1回は40期の3人(笹森学、佐藤博文、田中貴文団員)が入所した1988(昭和63)年のこと。本人たちは、「給料以上に働いた」と言うが、新人が稼げるようになるまでは事務所としては大変だったはず。
 いったいぜんたい、何で、そんなに忙しかったのか、それは、この50年史を読むとよく分かる。目次には、扱った主要な事件として、薬害スモン訴訟、北炭夕張新鉱ガス突出災害事故訴訟、石炭じん肺訴訟、国鉄分割・民営化・全動労をめぐる訴訟、統一協会・青春を返せ訴訟、B型肝炎訴訟、自衛官人権弁護団、建設アスベスト訴訟、新・人間裁判、陸上自衛隊南スーダンPKO派遣差止訴訟、などなど。いやあ、これだけの世間の耳目を集める訴訟を本気で勝つために追行するには、たしかに休日返上、深夜まで書類作成等で必要だったことだろう。でも、ワークバランスが強調されている今日、そんな過重労働を今やっていいのかというと、無条件では肯定できない。
 クロム患者の代理人として活動していた村松団員は、原告団事務局長が入院したとき、定期的に病室に行って、次第に衰弱していく様子をビデオに撮ったこと、また、亡くなった直後の遺体解剖にも立ち会い、解剖中の主治医が村松団員の右手をつかんで腹の中に差し入れ、「まだ暖かいだろう」と声をかけられ、いのちの名残りの温かさを感じて涙がこみあげてきたとのこと。想像するだけでも胸が詰まる状況だ。
 北海道合同で特筆すべきことは、何人もの弁護士が候補者となり、議員となったこと。そのトップバッターは、創設者の廣谷陸男団員で、北海道知事選挙に立候補した。以下、順不同でいくと、高崎裕子団員が1期6年間、参議院議員(日本共産党)をつとめた。猪狩久一団員は道議会議員に立候補することになって札幌市西区に猪狩康代団員とともに法律事務所をつくったが惜しくも当選できなかった。そして、つい最近(2019年)、渡辺達生団員(46期)が札幌市長選挙に立候補した札幌市長選挙に立候補した。短期間で得票率30%、26万票以上をとったのだから、たいしたもの。首長選挙に出たのは廣谷団員以来36年ぶりという。渡辺団員は下戸なので、スイーツ好きで、FBにはいつもでっかいパフェが登場する。
 内田信也団員(38期)は、NPO法人子どもシェルターレラピリカの理事長をライフワークとしている。「レラピリカ」って、どんな意味なのかな…、それにしてもすごい。
 こんないい雰囲気の事務所にしたのは創設者の廣谷団員の個性が大きいらしい。いつも笑顔を絶やさず、違いよりも共通点を見つけて行動する、真の自由人だった。自らが自由であるだけでなく、相手の人の自由も尊重した。
 まさしく「個性豊かな弁護士の集まり」を実感させる貴重な50年史であり、一読に価する。

 

東北の山 八甲田山(2)

神奈川支部  中 野 直 樹

大岳山頂で歓喜
 八甲田大岳(1584m)の山頂は北東北のビューポイントだった。すぐ右手には、途中で分岐をみてきた小岳、高田大岳、雛岳の3連が美しい。とりわけ高田大岳は見事な円錐形で存在をアピールしている。北に目を移すと、津軽半島、その東岸に弧を描く青森湾、その周囲にひろがる青森市街が見えた。薄い秋雲の下に津軽海峡が望めた。
 やや西に目をやると、津軽平野にすっくと立ち上がる孤高の岩木山。火山特有のすそ野が傾斜を強め、その上に溶岩ドームが盛り上がり、△が明らかな山頂が空に突き上げている。明日登ります、と声をかけた。その左の奥に稜線が間延びしている。白神岳を盟主とする白神山地だ。その左手に目を移すと、秋田の森吉山、八幡平、秋田駒山塊、さらに岩手山だろうかと思われる山波が展望された。
 浅野さんが、お気に入りの「山が好き 酒が好き 五竜山荘」と書かれた赤いTシャツの背中を見せて右手を上げてポーズをとっている。
 天候と眺望に恵まれた山頂を一緒にしている人たちと今日の日和に感謝し合う。その中の一人の男性は、今日まで45日間、北海道から車で移動しながら百名山登りをしているとのこと。計16座登ってきたそうだ。南下する紅葉前線と競争しているようだ。
紅葉に歓喜
 大岳から少し下ったところに丸太を組んで造られた大岳避難小屋がある。ここで登山道は分岐する。目の前の井戸岳に向かうと、赤倉岳を経てロープウエイの山頂駅に着く。私たちは、左手に曲がり、樹林帯の下り道となった。やがて木道が現れ、上毛無岱(かみけなしたい)の湿原に入った。草紅葉の先の靄の中に岩木山が浮かび上がっている。後を振り返ると、草原のブラウン色、湿原を取り囲む低木の広葉樹のやや盛りをすぎた紅葉色、アオモリトドマツと笹におおわれた大岳・井戸岳・赤倉岳の深い緑、そして空の青、と視界が4段の色に分けられた。
 木道脇に展望台があり、そこで昼食をとった。上毛無岱の湿原から下毛無岱へは281段の木の階段となった。この最上段から眺めおろす下毛無岱の湿原は絶品であった。朱色と黄色と緑色が数多の池塘の周りに配色されていた。階段の周りの木々も鮮やかな黄色と赤紅葉となり、カメラが大忙しでとなった。階段を下り木道にでて、わくわくしながら、振りかえった。期待したとおり、斜面が見事な錦絵の屏風に染め上げられていた。
酸ヶ湯駐車場にて
 時折、錦繍の帯を巻いた大岳を振りかえりながら下り、12時50分、登山口の駐車場に戻った。
 登山口には、「青森県八甲田―山口県秋吉台五千キロ踏破 日本山脈縦走起点」と記した一木の柱が立っていた。1959年に、秋吉台と八甲田から40数日かけて徒歩で歩き富士山で合流するというイベント(讀賣新聞社主催)があったときの記念碑のようだ。趣旨は自治体の観光資源の発掘だったという。
 午後の人権大会に参加することから、急いで酸ヶ湯温泉で汗を流した。駐車場には福島ナンバーの車の男性が布団、毛布を日干ししていた。話をすると、10日間、車で気ままな旅をし、道の駅の駐車場泊しながら、山登りをしているそうだ。
津軽へ
 人権大会が終わった後、はしご登山となる岩木山を目指してレンタカーで移動し、嶽温泉・山のホテルに入宿した。ここから山頂までは登りコースタイムで3時間ほどである。硫黄の湯につかり、山の幸中心の素朴な夕食となった。幻の魚「いとう」のお造り、宿の看板となっている「マタギ飯」が珍しかった。浅野さんも私も生ビールも含めたっぷり栄養をつけて万端の準備をして床についた。
 しかし、天気予報が当たり、翌朝は雨の出迎えだった。大降りではないが霧が山を隠していた。登るかやめるか、朝食をとりながらも迷う時間を経て、あきらめた。
 観光に転じた。まずは、岩木山神社参拝。1628年に建立された朱塗りの楼門をくぐって、拝殿の手前に「山頂まで四時間一五分」と刻印した木柱が立っていた。ここは「百沢登山道(奥宮登拝道)」の入り口である。「山頂までの約6kmは、七曲り、坊主転ばし、鼻こぐり等苦行に必要な難所があり、二十六神(天然石)の巡礼を経て約四時間、奥宮(山頂)に達する。」との説明文があった。高い杉木立の中に登山道が延びていた。
 この時期の岩木山の山麓は赤く色づいたリンゴ畑が風物誌である。このリンゴ畑を前景に、岩木山を後景にした写真を撮りたいと考えていた。一面リンゴ畑が広がり、道端に車を停めて、たわわに実るリンゴの木を撮った。しかし、岩木山は霧の中だった。
 弘前市に移動した。弘前城跡公園の堀水を姿見とする桜並木はまだ紅葉していなかった。桜開花時の美しさが想像された。本丸の石垣が大規模修繕工事中であり、1810年に再築された天守は仮置き場に移設されていた。
 萩の花が咲く最勝院・五重塔を見上げた後、津軽ねぷた村に入った。青森ねぶたに対抗する津軽の弘前ねぷた、黒石ねぷたの出展作品の数々が展示されていた。鮮やかで度派手な絵を描いた巨大な灯篭を上から下から間近にみることができる。ユーモラスな金魚灯篭、蛸灯篭も目を引いた。津軽三味線の生演奏の時間帯に間に合い、これも聴き入ることができた。
 山に登っているだけでは得られない岩木山のある地域の風物、文化、歴史、信仰の一部を見聞することができた。雨の恵みの日となったともいえる。(終わり)

 

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