第1800号 2/1

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●10年特例の恣意的な運用に歯止めをかける画期的な判決  中西  基

●違法な固定残業制を肯認した労災認定を行訴で変更させ給付基礎日額を1.8倍にした事案  佐藤 博文 / 齋藤 耕

●「反戦ロシア人たちの証言」の報告と動画視聴・拡散のお願い  加部 歩人

●「いま戦争と憲法に向き合う」県民ホール大集会盛会裡に開催される  岡田 尚

●第7回先輩に聞くシリーズに参加して  松村 隆志

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~追悼特集~
【渡辺 哲司 団員(京都支部)】

●渡辺哲司弁護士の死を悼む  川中  宏

●渡辺哲司さんを偲んで  加藤 英範

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■新・教科書問題リーフレット発行と活用のお願い  小川  款

■貧困・社会保障問題委員会学習会企画のお知らせ  髙橋  寛

●北アルプス 花の道を歩く(4)  中野 直樹


 

10年特例の恣意的な運用に歯止めをかける画期的な判決

大阪支部  中 西  基

1 事案の概要
 大学教員任期法の「10年特例」の適用が争われていた羽衣国際大学事件について、2023年1月18日、大阪高裁において、画期的な逆転勝訴判決があった。
 原告は、羽衣国際大学で非常勤講師(1年契約)として3年間勤務したのち、2013年4月からは専任講師として期間3年の有期労働契約を締結し、2016年4月に期間3年の有期労働契約を更新した。その後、通算して5年を超えたことから2018年11月に無期転換を申し込んだ。
 ところが、学園側は、大学教員任期法7条の「10年特例」が適用されると主張して、無期転換を認めず、2019年3月末で期間満了を理由に同年4月以降の就労を拒否した。なお、地位確認請求訴訟の係属中に、学園側が研究室の明け渡しを強行(自力救済)したため、これについては別途、損害賠償請求訴訟を提起している。
2 大学教員任期法の「10年特例」
 大学教員任期法は、①多様な人材の確保が特に求められる教育研究組織の職に就けるとき(流動型)、②助教の職に就けるとき(助教型)、③特定の計画に基づき期間を定めて教育研究を行う職に就けるとき(有期プロジェクト型)、の3類型の場合に、任期を定めることができるとする(法4条1項各号)。
 その後、労働契約法18条1項が制定されて、5年無期転換ルールが2013年4月から施行された。これを受けて、大学教員任期法が改正され、法4条1項各号によって任期を定めた労働契約を締結している場合には、無期転換までの期間を5年から10年に伸ばすという特例(10年特例)が定められた。
 これまで多くの大学では、任期付きの教員については、この「10年特例」が適用されるものとして取り扱っており、2013年4月の法施行から10年となる2023年3月末で、大量の雇止めが発生することが予想されている(2023年問題)。
3 これまでの考え方と大阪高裁の画期的な判断
 これまでは、法4条1項1号(流動型)の「多様な人材の確保が特に求められる教育研究組織の職」にあたるかどうかは、大学の自治という理由で、基本的にはそれぞれの大学の判断によって定められるという考え方が一般的であった。1997年に大学教員任期法が制定された当時の立法担当者の解説にも、「各大学の判断により、(略)任期を定めた任用をできるようにするものである」とか、「大学が教員の流動性を高めて多様な知識・経験を有する人材を確保するために任期制を導入する必要があると判断した場合には、(略)任期を定めた任用ができることとするものである」などと記載されている。
 また、山口県にある梅光学院大学において、期間1年、最大2回(最長3年)更新するとの募集要項に応募して採用された准教授が、1年目で雇止めされた事件について、准教授側は、そもそも大学教員任期法4条1項1号にあたらないので期間1年で採用することができない(無期雇用である)と主張していたところ、広島高裁は、任期法は、「大学の自治の要請があることも考慮すると、任期付き教員を任用する大学に一定の裁量を与える趣旨である」として、前職で高校教諭として生徒募集の営業活動で実績を上げていたことを踏まえて、大学准教授として採用される際にも営業活動に力を入れるように伝えられたことをもって、「多様な人材の確保が特に求められる」職に就けるときにあたると判断したという裁判例がある(広島高裁平成31年4月18日判決)。
 これに対して、今回の大阪高裁判決は、法4条1項1号にあたるかどうかは、労働契約法18条1項の5年無期転換ルールが適用されるかどうかという重大な影響があることから、多様な人材の確保が特に求められる教育研究組織の職であるということが「具体的事実によって根拠付けられていると客観的に判断し得ることを要する」という厳格な解釈を採用した。
 法制定当時の立法担当者の解説でも、法4条1項1号については、「最先端の技術開発現場の方法等を取り入れた教育研究、人文社会系と理工系が融合した学際的な教育研究や実社会における経験を活かした実践的な教育研究等を推進する教育研究組織においては、絶えず大学以外から人材を確保したり、広範囲の学問分野に属する人材を確保する必要がある。」と述べられており、このような場合には、教員の流動性を高めて多様な知識・経験を有する人材を確保するために任期性を導入する必要があると説明されている。
 大阪高裁判決の考え方によれば、これらの場合に匹敵するくらいに、多様な人材の多様な人材の確保が特に求められるということを「具体的事実によって根拠付けられていると客観的に判断し得る」場合でなければ、法4条1項1号にはあたらないということとなる。それぞれの大学が主観的に判断したというだけでは足りず、客観的に見ても、最先端の技術開発現場の方法を取り入れた教育研究であるから多様な人材確保が必要だとか、学際的な教育研究であるから多様な人材確保が必要だなどと認められる場合でなければならないとした点で、画期的な判断だといえる。
 もし、このような場合にはあたらないのであれば、それは、法4条1項1号の任期ではなく、単なる有期労働契約にすぎないということになり、労働契約法18条1項の原則どおり、5年無期転換ルールが適用される。
 大阪高裁判決は、これまで多くの大学でルーズに運用されてきた10年特例について、その恣意的な運用に歯止めをかけるもので、高く評価される。
 ぜひ、全国各地でこの判決を活用して、任期付きの不安定な教員の雇用安定に取り組んでいただければと思う。
(弁護団は、鎌田幸夫、西川翔大、中西基)

 

違法な固定残業制を肯認した労災認定  を行訴で変更させ給付基礎日額を1.8倍にした事案

北海道支部  佐 藤 博 文、齋 藤   耕

1 事案の概要
 苫小牧市内の運送会社に長距離トラックの運転手として勤務していたAさん(享年47歳。家族は専業主婦の妻と専門学校生と高校生)は、2015年7月1日、その命を自ら断った。
 Aさんの自死の原因は、長時間労働と職場でのいじめであり、労災申請と会社に対する民事賠償請求、未払残業代請求の訴訟を受任した。
 Aさんは、厚労省の「自動車運転者の労働時間等の改善のための基準」が定める拘束時間の上限(月290時間)を恒常的に超え、早朝や深夜に及ぶ長時間労働で、残業時間としても過労死ラインを超えていた。
 Aさんの基本給は14万1000円で、時間単価は約810円となり最低賃金(北海道)に合せたものだった。他に「業務手当」名目で16万が支払われ、賃金規程で定額残業手当の性格を有するとされていた。給与明細書には、「残業」「手当」等の記載欄が多数あったが、残業に関して「業務手当」以外に払われた名目はなかった。
 これに対して、労基署は、「業務手当」の定額残業の定めとして有効性を認め、給付基礎日額単価を1万0708円と認定した。
 我々は、労災認定は評価するが、かかる定額残業制は違法であり、それを前提にした給付基礎日額は誤っていると徹底して争うことにした。
2 本件における定額残業制の内容
 この会社の賃金規程は、「業務手当は、担当業務、担当車両等を勘案して支給し、時間外労働割増賃金の定額残業手当としての性格を有するもので、時間外労働時間40時間以上を基本とし、各人ごとに決定していく。その際、実際に計算して得た額が定額分を超える場合は、超えた分の手当を別途支給し、超えていない場合でも、定額分より減じないものとして扱う」と定めていた。
 これに対して、我々は次のように批判した。
 同規定は、「担当業務、担当車両等を勘案」するのが主であり、これは従事する業務の種類や内容に着目する本来の「業務手当」の趣旨である。これに対して、「定額残業手当としての性格」は従たる趣旨であり、文理解釈からしても、そもそも明確区分性の基準を全く満たさない。
 また、会社には、36協定があるが、必然的にこれを無視しており、16万円を仮に25%割増で計算すると月140時間以上の残業に相当する。これでは労基法37条に反することが顕著であり、割増賃金としての合理性、適確性の基準を全く満たさない。
 よって、「業務手当」の規定自体が公序良俗違反であり、無効である。
3 審査請求から処分取消訴訟へ
 我々は、この定額残業制の違法性は明白であり、労基署がなぜ肯認するのか分からない、審査請求を行なったら覆るだろう、と思った。
 しかし、意外にも審査請求が棄却され、処分取消訴訟の提起をすることになった。別に、損害賠償請求訴訟と未払残業代請求訴訟を提起していたので、これらでの主張や証拠などを動員して行訴に臨んだ。
 すると、国は、第2回弁論期日の直前に、自庁取消処分を行ない、ここでやっと改められた。
 これにより、業務手当は全額「通常の労働時間の賃金」となり、これに基づいて残業の割増賃金が加えられ、そのうえで給付基礎日額を算定し直すことになった。その結果、給付基礎日額は1万9209円となり、1.8倍に引き上げられた。当然、遺族補償年金、特別支給金、特別年金の全てが変更され、追加支給された。
 これにより、行訴は取下げて終了し、損害賠償請求訴訟も未払残業代請求訴訟も一気に和解解決した。
4 おわりに(教訓)
 死亡事故でも負傷事故でも、労災認定を得るまでが苦労なので、賃金問題の追求までなかなか及ばない実情があるのではないだろうか(自戒を込めて)。特に、死亡労災の場合、生前の違法な賃金未払が、遺された家族の生活補償にまで直結するのは、二次被害と言うことができる。
 残業未払いが横行し、その金額も多額になる日本において、労災の給付基礎日額単価の場面においても、私たち弁護士が違法残業とたたかい、労基法行政を正していく意義は大きいと思う。

 

「反戦ロシア人たちの証言」の報告と動画視聴・拡散のお願い

東京支部  加 部 歩 人

 昨年11月5日(土)、日比谷コンベンションホール(東京・千代田区)で、東京法律事務所9条の会総会特別企画「私たちの国が戦争をはじめた―反戦ロシア人たちの証言」を開催しましたので、ご報告いたします。
1 企画経緯と趣旨
 昨年10月の京都総会で、私が出演し今泉義竜団員が撮影した、ロシア語で反戦を訴えるYouTube動画が、「自由法曹団憲法動画コンペ」の銀賞をいただきました(金賞なし)。
 この動画は2022年3月に公開したものでしたが、これを観てくださった柴田ヴィクトリアさんという都内在住のロシア人の方が、知人が困っているから助けて欲しいと、アンナ・リトヴィーノヴァさんを連れて法律相談に見えました。在留資格の更新のことでお困りとのことで、本当にたいしたことはしていないのですが、入管提出書類の作成や職場とのやりとり等の支援をしました。
 このアンナさんは、日本のメディアで顔出しでウクライナ戦争に対する抗議の声を上げている方でした。しかもお父様が弁護士で、身に覚えのない罪で有罪判決を受け、既に15年間も収監されているといいます。また、アンナさんとヴィクトリアさんは、2021年1月にロシアの反体制派活動家であるアレクセイ=ナワリヌイ弁護士が拘束されたことに抗議する街宣活動で知り合った仲だそうです。
 私としては、是非とも、このようなロシア人たちの生の声を、できるだけ多くの日本人に聞いてもらいたいと思い、そのような企画の開催を提案したところ、お二人に快諾いただきました。企画の中身も、お二人を含むロシア人の皆さんと東京法律事務所有志でチームを作って練りました。
2 企画の内容
 企画は、①私からごくごく簡単にロシア国内情勢の報告を行った後、②ロシア人の方々とのトークセッション、③アンナさんのお父様からのメッセージ紹介、④ロシアのジャーナリストからのビデオメッセージ上映、という4部構成で行いました。
 ②のトークセッションには、ヴィクトリアさんとアンナさんに加えて、日本でのウクライナ戦争抗議活動を組織したマキシム・マチューニンさんにも参加していただきました。このパートの様子は、後述のYouTube動画でご覧いただけますが、お三方それぞれが生の言葉で、自らの体験と、開戦時からの思い、そして日本人にして欲しいこと等を率直に語っていただきました。
 ③はネット上での公開はできていませんが、アンナさんの父・アレクサンドル=リトヴィーノフさんから、「ウクライナ人がかわいそうで、泣きそうになる。国営放送のでたらめな報道、またその報道を鵜のみにし、拡散する我が国ロシア人を嫌悪している。今のロシアは1939-43年のナチス・ドイツのようだ。恐ろしい。いずれにしても責任を問われる。」といった切実な思いや、アンナさんへの期待、またご自身の冤罪についての経緯等をしたためたメッセージを、獄中から日本の我々に向けて寄せていただきました。
 ④また幸運なことに、ロシアで最も著名なジャーアナリストの1人であるタチアナ・フェルゲンガウアーさんからビデオメッセージを頂くことができましたので、これを上映しました。タチアナさんは1985年生まれで、ロシアの独立系ラジオ局「モスクワのこだま」の元副編集長。選挙不正の追及や刑務所における拷問の実態暴露など、数々の反体制的取材・報道で知られており、2018年12月には米「タイム」誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選出されたこともあります(複数選出のうちの一人)。開戦後のメディア弾圧を逃れて、2022年5月からはリトアニアに拠点を移して活動しています。タチアナさんはメッセージの中で、「独立系メディアが伝える情報に目を通し、ロシア国内で実際何が起きているのかを知ってもらいたい」と訴えました。このビデオメッセージについても近く公開できるようにしたいと思います。
3 トークセッションのハイライト動画を公開しました!
 企画のメインパートである②トークセッションのハイライトを15分に収めたYouTube動画を、大晦日に公開しました。下記リンクまたはQRコードから是非ともご覧いただきたくお願いいたします。また、お知り合いにも視聴をお勧め下さい。その際、私(加部歩人)のフォロワーの少ないTwitterやFacebookで、CM動画付きで宣伝していますので、こちらを拡散いただけますと非常にありがたく存じます。
 もはや9条を論じるに避けては通れないテーマとなったウクライナ戦争。今回の企画を通じて、その背景には、ロシア国内の自由と人権抑圧の問題が深く横たわっていることを改めて認識しました。自由を求めて日本へ逃れてくるロシア人も相当数いるようです(考えてみればシベリアや沿海地方から日本は目と鼻の先なので、当然かもしれません)。平和のために日本が本当は何をなすべきなのかを考える上で、もし参考になれば企画者一同望外の喜びです。

 

「いま戦争と憲法に向き合う」県民ホール大集会盛会裡に開催される

神奈川支部  岡 田  尚

コロナ禍のなかで800人集まる
 11月30日(水)、山崎洋子さん(作家)の開会あいさつ、講演に田中優子さん(法政大前総長)、金平茂紀さん(TBS「報道特集」特任キャスター)をお迎えして、「いま戦争と憲法に向き合う」集いが、神奈川県民ホールで開催された。コロナ禍8波くるかという状況のなかで、800人(そのうち267人は当日券、ということは事前のオルグ対象外、毎日・東京・神奈川に折り込みやった効果か?これも私のところに100万円のカンパを持参してくれたことからできた。)の参加者で熱気溢れる集まりとなった。
コトの始まり
 この企画は、昨年1月7日、鎌倉芸術館で、4区市民連絡会の集まりがあり、憲法情勢を報告してほしいとの要請で、私が参加したことから始まる。そこに増本一彦団員が出席されており、終了後自転車で自宅に向われる姿を見送った。これが最後となってしまった。亡くなられてしばらく経った頃、その集まりの主宰者から電話があり、「私が個人で県民ホールの6月1日を押えている。自分ではどうにもできないと増本先生に生前相談したら、岡田さんに頼め、と言われた。これが増本先生の遺言である。」とのこと。ホントかウソか分からないが、私にも参院選挙前に戦争と憲法をテーマにした大集会をやりたい、との想いがあり、それにはまず場所の確保が必要不可欠なのでこれを引き受け、個人で6月1日大ホール(収容2400名)を予約した。しかし、どの組織に、誰に声をかけても「とても無理」との反応でいったん諦めた。ところが県民ホールの担当者から「この頃の県民ホールは、音楽関係のコンサートばかりで、戦争とか憲法とかのテーマでの使用がない。半年間は1回延期できるのでキープしておきましょうか」と言ってきた。それならということでギリギリの11月30日を押さえておいた。しかし、6月1日のときの周囲の反応からして半分はダメ元という感じだった。これを一気に変えたのが、9月19日「安保法制違憲訴訟全国ネットワーク」での金平茂紀さんの講演。金平さんとは、これより前に一緒に飲む機会があり、2人で盛りあがったことがあった。TBSが「坂本弁護士インタビュービデオ」をオウム真理教幹部に見せて、放映しないまま、そのことを隠し通していたことが1996年に判明し大問題になった。そのことを何故TBSは横浜法律事務所や神奈川県警に速やかに知らせなかったのか、知らせていたら「オウムによる坂本殺害」は避けられたあるいはそうでなくとも「殺害の動機」が早い段階で把握できた。そうすると解決に5年10ヵ月も要しなかったと思われたからである。このときTBSとの話し合いの窓口を私が務めていた。
 筑紫さんが「ニュース23」の中で「TBSは死んだ」と表明し、私のコメントも紹介された。このとき金平さんが番組のデスク編集長だったのだ。
 この事件は、当時のTBSにとって放送機関としての生き死にの問題で、そのときの大変さを金平さんは、昨日の出来事のように熱っぽくしゃべった。そんなこともあって、私は金平さんのお話を直接聴きたいと、寺井一弘弁護士の事務所で、パワーポイントに基づき、2時間近い話をそれこそ目前で目と耳と脳を全開にして聴いて感動した。目が開かされた想いで、終った後の懇親会の席上で11月30日の講演を依頼したところ多忙な中、偶然スケジュールも空いており快諾され、その場で11月30日集会を決断した。
 もちろん、私1人でできることではないので、まずは盟友福田護弁護士に相談し、安保法制違憲訴訟の神奈川弁護団の共同代表福田、森卓爾、石黒康仁各弁護士に呼びかけ人の承諾を得て、それを基点にして労働組合、護憲団体、市民運動の各分野を代表する15人に呼びかけ人になってもらい実行委員会を結成し、私が実行委員長を務めることになった。事務局長は「九条かながわの会」の桜木町駅頭宣伝に、「うたごえ」でいつも参加し、盛りあげてくれている高橋由美団員にお願いした。
 講師2名が確定してから、実質2ヶ月足らずの準備期間での県民ホールでの催し、一部から「無謀、岡田さんの無茶ぶり」との陰口も聞こえてきたが、とにかく、参院選の結果によって改憲派にとって「黄金の3年」といわれていた情勢が7.8安倍銃撃事件によってパンドラの箱が開き、これに続く国葬の強行で、大きく変化し、今が「歴史の分岐点」であるとする金平さんの認識を多くの市民で共有することが急務との想い一心で突っ走った。皆さんしゃかりきに奮闘してくれた。
オープニングは神奈川のうたごえの皆さん
 50名以上の合唱による「青い空は」「今もどこかで」の歌声は、会場に響きわたり、ふさわしい幕明けとなった。
京都生まれのハマッ子作家(ハマのドンがそう呼んだ)山崎洋子さん
 京都の宮津市生まれながらも横浜大好き人間の山崎さん。特に横浜大空襲や戦後の米軍占領時代米兵のために慰安所が設置され、そこで生まれた子どもたちが闇に葬られたことなど初めて聞く話もあり戦争がもたらす悲惨さを改めて知らされた。
横浜生まれ、本町小学校出身の横浜育ちの田中優子さん
 「改憲発議と自民党憲法改正草案」と題して2018年の安倍首相による改憲4項目の問題点とその先にある2012年の自民党憲法改正草案の危険性、天賦人権説を否定し、緊急事態条項を設け、家族制度の保護の強調など勝共連合の改憲案と同じ内容であるとの指摘を柔らかく、しかし毅然と指摘された。
あるべきジャーナリストの姿、金平茂紀さん
 ロシアがウクライナの東部の州の独立を承認したとき、ウクライナへの侵攻を予想して、その翌日にはウクライナに陸路で入り、逃げまどう市民と一緒に避難所で寒さにふるえながら過ごしたというその予見と行動力に驚かされる。と同時に戦争の現実のなかで感じる平和の尊さ、憲法の根源を問い直し、7.8安倍銃撃事件で明らかになった日本の政治の深層、それを市民がどう捉えるべきか等、パワーポイントの動画のリアルと併せ熱のこもった話をされた。
若者の想いも聴こう
 最後に会場から青年に登壇してもらい、この時代をどう受け止めどんな想いでどんな活動をしているのかを話してもらい、山崎、田中、金平お三方と意見交換し、次に繋がる企画を約した。
 皆さんから「元気が出た」と好評。ヤル気になればデキル!!

 

第7回先輩に聞くシリーズに参加して

大阪支部  松 村 隆 志

1 2022年11月17日、松丸正団員を講師に
 お招きして開催された「第7回先輩に聞くシリーズ(労働学習会)」に参加しました。松丸団員からは、「労働事件をどうたたかってきたのか、これからどうたたかうのか」をテーマに、過労死問題を中心にご講演いただきました。中森俊久団員が司会・進行役を務め、学習会には、会場参加が10名、ズーム参加が24名、合計34名が参加し、活気あふれるものとなりました。
 松丸団員には、これまで大阪過労死問題連絡会等でお会いしたことがあり、そのご活躍は存じていましたが、まとまった講演を拝聴するのは初めてであり、楽しみにしていました。
2 まず、松丸団員から、過労死事件の現在までの歴史をお話いただきました。
 1980年代、「過労死」という言葉もなく、過労で人が死ぬはずがないといわれていたころから始まり、バブル期に過労死が社会問題となったこと、1988年に全国過労死110番が始まったこと、そして、1989年に家族の会が結成され、遺族が裁判でたたかってきた中で、行政の認定基準では、当初は発症直前の「異常な出来事」しか考慮されなかったのが、発症前1週間の出来事が評価されるようになり、さらに、発症前6か月の出来事が評価されるようになる等、段階的に改正されてきたことをご説明いただき、順序だてて理解することができました。
 また、2014年には、遺族の働きかけを契機に、過労死等防止対策推進法の制定にまで至ったこともご説明いただきました。松丸団員は、法制定に至った背景として、おそらくは一定の質・量の労働力を確保するという「総資本」の意向とも合致したためではないかと考察されていました。
3 次に、なぜ過労死が発生するのかについて、松丸団員が実際の事件を通して、労基法を順守していない企業に特有の問題なのか、労基法の抜け穴となる36協定の問題なのかなどを探求していく中で、従業員自身が労働時間を過少に申告し、使用者側も警備記録やパソコンのログ等で客観的な労働時間を把握しながら過小な申告に従って判断し、労働時間の適正把握がされていないことこそ、過労死の原因であると考えるに至ったことを、資料を交えてご説明いただきました。
 この点について、最二小判平成12年3月24日(電通事件)の八木一洋調査官による調査官解説において、業務の成果物と労働生産性を向上させることが人事考課上考慮されているという条件において、どのように労働時間の過少申告が選択されるかが明確に説明されていることを初めて知りることができました。
4 さらに、ご講演の随所で、自身が取り扱う事件が特殊・個別の問題なのか、何らかの普遍性を有する問題なのかを考え、普遍性を有すると考えるならばためらわずに社会へ問いかけるべきだと述べておられ、今後の活動において大変示唆に富むものでした。
5 私が、松丸団員のご講演を拝聴して特に印象に残ったのは、遺族が行政基準の壁に訴訟等で立ち向かっていくことに、「固い、高い壁にぶつかる卵のような戦い」という表現を繰り返し用いておられたことです。認定基準が非常に厳しかった当時、遺族や弁護団の先生方がどのような思いで、どれほど困難なたたかいをされてこられたか、想像するに余りあります。そのようななかでも多くの遺族が訴訟に挑んでこられたのは、被災者が業務によって亡くなったと認められるべきだという強い確信があったからこそだと思います。
 松丸団員のご講演を通して、現在の認定基準が、これまで数多くの遺族・被災者が繰り返し訴訟に挑み、少しずつ成果を積み重ねてきた結果が結実したものであることを改めて実感し、大変感銘を受けました。
6 他方、現在の労災認定においても、評価の対象が原則として発症前6か月に限られていることや、労働時間の認定が厳格化されつつあること等により、救済されるべき遺族・被災労働者が救済されない事案もあると感じます。とりわけ、労働時間の認定の緩和については、労働時間の増加は割増賃金の増加にも結びつくものであることから、松丸団員のご説明からすれば、「総資本」の利害に必ずしも合致するものとはいえず、そのような観点からも運用の改善を勝ち取るのは容易ではないのではないかとも感じました。
7 最後に、今回松丸団員の講演を拝聴して、今後、過労死・労災案件に取り組むに際しては、依頼者・被災者のためという視点はもちろんですが、訴訟等のたたかいを通してよりよい認定基準を勝ち取ってきた流れの中に位置づけられることを認識し、認定基準の改定を通して遺族のより広範な救済につなげるという視点も重要であると感じました。また、そのための一助となるよう、一層努力しなければならないとの思いを新たにしました。

 

渡辺 哲司団員(京都支部)~追悼特集~

 

渡辺哲司弁護士の死を悼む

京都支部 川 中  宏

 渡辺哲司君が昨年12月2日死亡した。残念至極である。
 私は彼と同じ1942年の生まれで、大学こそ違え、同じく1967年に司法修習生(21期 京都)となり、知己を得た。そして1969年弁護士になった年から京都第一法律事務所で20年間苦楽をともにした。
 実は渡辺くんの弁護士生活は、同期の夏目文夫弁護士と一緒につくった「夏目渡辺法律事務所」から始まった。夏目さんは、同期と言っても43歳になっていたし、それまでの経歴は、同志社大学神学部を卒業し、愛知県西尾市で牧師をしていたものの、1958年一言で言えば「キリスト教では人間は救えない」と喝破して牧師をやめ、9年に及ぶ独学の末司法試験に合格した人であった。小児麻痺の後遺症で歩行能力を失い、松葉杖をついて行動していた(しかし、300mも歩けなかった)。深い思索と闘志あふれる情熱の人で、信望を集めていた。渡辺くんはその夏目さんを人生の師と敬い、ともに弁護士事務所を始めることにしたのであった。先輩弁護士たちは危ぶんだが、2人は意気軒昂、弁護士登録とともに自由法曹団に入団した。
 だが、現実は甘くなく、その年の暮れに2人は事務所を別にすることになり、渡辺くんは京都第一法律事務所に移転したのだった。
 その頃の京都第一法律事務所と言えば、まだみんな若く、良く言えば大津の吉原稔弁護士(故人)が評したように、お互いが志をもって集う「梁山泊」と言えなくもなかったが、とにかく忙しかったし、先輩弁護士の指導・点検も厳しかった。70年知事選を前にして、弾圧事件も多く、「疾風怒濤」が吹きすさぶという雰囲気の事務所であった。われわれ若手は、夜遅くまで事務所に残って仕事をしていたが(ときには10時ころから焼き肉を食いに行ったり、ボーリングに行ったりもしたが)、家主さんから深夜まで人が出入りするのは物騒で困るという苦情が来た。それで、門限(事務所退出の!)を夜11時に決めようと諮られたが、若手(渡辺くんや私、22期の加藤英範くん、23期の村山晃くんら)は、それでは事件の処理ができないと猛反対した。
 渡辺くんは、大言壮語型の弁護士が多い中で、いつも堅実で沈着冷静、粘り強く仕事をする人であったから、事件関係者や依頼者の信頼が特別厚かった。従って手持ちの事件数も多く、ひときわ多忙を極めていた。いつも小柄な身体をフル回転させていた。
 その彼が、何の旅行であったか忘れたが、中国に旅行した。渡辺くんのことだから、事件が気になって必ず中国からでも事務所に電話してくるに違いない、賭けてもいいと言い出す弁護士がいた。しかし、「掛けて来ない」に賭ける者が現れなかったので、賭けは成立しなかった。だが、予想通り中国から渡辺くんの電話が入ったときは、期せずして事務所内が大笑いとなった。
 今でもその頃を思い出すと、当時のメンバーには、あの厳しい「疾風怒濤」の時代を乗りきった「仲間」だという一種の懐かしさと親しみがこみあげてくる。
 渡辺くんの夏目さんに対する尊敬の念は少しも消えず、終生「師弟」関係を続けた。1998年6月夏目さんが転倒して脳挫傷し寝たきりになってからも、親身な世話を欠かさなかった。夏目さんが死亡した2006年以降は、毎年春、樹木葬されたお寺に集まり、「夏目文夫さんを偲ぶ会」をずっと開催してきた。
 渡辺くんのカラオケの持ち歌は、故郷新潟を歌った「新潟ブルース」と何よりも作詞島崎藤村と言われる「惜別の歌」だった。私などはその歌が流れると、あっ渡辺くんの歌だと思ったものである。最後にその詩の一節を引用するのをお許し願いたい。
「別れと言えば昔より この人の世の常なるを 流るる水を眺むれば  夢恥ずかしき涙かな」   合掌

 

渡辺哲司さんを偲んで

京都支部  加 藤 英 範

今年は例年にも増して雪がよく降る。彼の故郷、燕の街も大雪に埋もれているであろう。
渡辺哲司弁護士は、昨年12月2日、薬石効なく永眠した。当年取って80歳であった。
ここに、彼の生前の履歴と弁護士ぶりの一端を示し、彼を知る人と共に追悼する。
・渡辺哲司 昭和17年6月15日 新潟県燕市にて出生
・昭和36年3月 新潟県立三条高等学校卒業、同年京都大学法学部入学
・勉学の功なり昭和41年9月 司法試験合格 昭和42年4月司法研修所修習生(21期生)を経て、昭和44年4月弁護士登録、京都弁護士会に入会した
・同年同期の夏目文夫弁護士と共同で「夏目・渡辺法律事務所」を開設。1年後、京都第一法律事務所に入所した。
 同事務所での19年に及ぶ弁護士活動の後、平成元年独立し、「渡辺法律事務所」を開設。平成15年玉村匡弁護士(渡辺弁護士が同人の弁護修習指導担当)とともに「渡辺・玉村法律事務所」を作り、今日に至った。
 その間、昭和54年度京都弁護士会副会長を務めた。
(志)
 彼の事務所には、墨書の額がかかっている。額には「弁護士の弁護士たる所以は、その戦斗性にある」と。彼によれば、これは彼が一生の師と仰ぐ夏目弁護士の自作の箴言だという。夏目弁護士は「地面を這いまわるように生きている人の人権のため」「私が現在まで生きてきた道を振り返る時、最終かつ最大の敵はつねに自分自身であった・・・相手ではない、自分なのである。」と語ったそうである。ちなみに夏目弁護士は、松葉杖を使って僅かの距離だけを歩けるという身体であった。13歳の時より独学で生きてきた人格者である。彼、渡辺哲司は、この言葉を自分の信条として受け継ぎ、彼固有の粘り強さという形でこれを発揮した。周りの者は皆知っている。とにかく粘り強く、思考に思考を重ねて相手を圧倒する。これが彼の志であったのであろう。
(志にふさわしい弁護活動の数々)
(1) 1960年代半ばから、1970年代にかけては、全国的に、労働運動が大きく高揚した。京都でも多くの労働組合のたたかいがあった。その一つ、京都自動車教習所労組(京自教)のたたかいは実に激しかった。彼は弁護士1年目から2年目の稲村弁護士と共にこれをたたかいきったのである。
 当時、複数の労組分会が公然化したなかで、使用者側も相次ぎ不当労働行為の挙句に企業閉鎖、全員解雇で対抗した。警察が介入した。この中で弁護団は職場占拠についての妨害禁止の仮処分を勝ち取った。さらに閉鎖会社への地労委による現職復帰命令を、そして裁判所で解雇無効の勝訴判決を相次いで勝ち取った。全国的には極めて珍しい命令・判決を手にしたのである。もちろん、このたたかいは全面勝利の和解となった。
(2) もう一つの分会。ニュードライバー分会の件でも、使用者がでっち上げた傷害事件を刑事公判で無罪とした。立証の中で元京都地検公安部長検事を証人に採用させ、組合弾圧の目的の起訴であった旨の証言を勝ち取っている。これも特異な例である。
(3) さらにはこのニュードライバー分会の賃金の支払い仮処分決定にかかわって、その際、裁判所への要請行動が弁護士の違法な指導によるものだという口実で、京都地裁所長から京都弁護士会へ懲戒処分の申立がなされたことがある。もちろん、弁護士会はこれを却下している。
(4) もう一つ思い出深い関連事件がある。国労のストライキ応援のため、国労弁護団として京都駅に赴いた夏目、稲村、渡辺三弁護士について、スト支援に鉄道構内に入った稲村弁護士を、鉄道公安官が無札入場だとして鉄道営業法違反で「逮捕」したのである。これも国鉄(現JR)相手の京都地裁の損害賠償勝訴判決を勝ち取っているが、この現場に同席した彼としては「準当事者」として弁護活動を行った。
(5) これだけ挙げても、弱冠の年齢にして全面的に勝訴し続けた弁護活動は実に称賛に値する。
 その他にも、昭和53年の京都府知事選挙で起訴された福知山の医師についての公選法違反事件の無罪判決、府下八木町職員免職処分取り消しのたたかい、地上げに対抗しての借地借家人組合の運動、在日朝鮮人の人権を守る会の活動など、実に豊かな活動を展開してきたのである。夏目弁護士の言葉を文字通り実践したと認めざるを得ない。
 とにかく年中忙しく、電話と打合せは長く、事務所で一番遅くまで残っている人として有名であった。中国旅行の旅先からでも事務所に電話をかけてくるほどであった。この企業戦士並みの弁護活動は今では考えられないことである。
(お別れの言葉)
 彼がともにたたかい、ともに学んだ夏目、稲村両弁護士、或いは若き日の非解雇者諸君はみなこの世を去っている。彼がこの二人の追悼文(京都支部活動誌)を書いたのだが、今度は追悼される側になってしまった。
 「そろそろ弁護士も人生も終盤だな。振り返るとどうだっただろう。」と聞くと、彼は「自分としてはよくやったと思う。」と答えた。昨年10月、彼を含めて数人の同輩先輩たちが昼食をとったことがある。そもそも、短躯な彼であったがこの時は細く痩せこけていた。今から振り返ると、あの時、彼は既に心を定めていたのであろう。病に関して聞いても答えはなかった。
 地道に、大言壮語せず粘り強い戦闘性でもってその道を歩んだことは間違いない。ここに、忙しい舞台を降りることができた。お疲れ様でした。
 最後に一つ。多忙の中でも彼は趣味として囲碁にひたすら打ち込んだ時期があった。関西棋院のプロ棋士に師事したこともある。やがて四、五段の棋力を身につけたらしい。趣味でありながらここにも彼の粘り強さが表れている。
 哲司さん、そちらではもう電話も不要でしょ。ゆっくり囲碁三昧で時を過ごしてください。

 

新・教科書問題リーフレット発行と活用のお願い

子ども・教育問題委員会担当次長 小 川  款

 2021年4月27日、政府はこれらの表現を「不適切」と閣議決定したことを受け、文科学省は、教科書会社に対して、「教科書検定合格済みの教科書」に関して「修正」を行う説明会を開催し、事実上、教科書会社が従わざるを得ない状況に追い込まれました。その結果、これらの「従軍慰安婦」という言葉は削除、「強制連行」は「動員」「労働に従事」などと言う言葉に変更されました。上記の教科書検定合格済み教科書の変更の過程は、明らかに政府の意向・見解に沿うように、教科書の記載内容に介入した事件であると言わざるを得ません。これを許せば、人権や武力に依らない平和の大切さに関する記述など、政府に都合悪い記述が多くの教科書から削除されることにつながってしまいます。
 こうした事態は、国の意向や見解に反するものを許さず、事実上の圧力をかけるという意味においても、戦前に実際に行われてきた歴史的事実を捻じ曲げるという意味においても、「戦争をする国」づくりの始まりにほかなりません。この間の政府の軍拡方針や昨今の安保三文書の内容も踏まえれば、戦前に行われて生きた軍国主義教育が差し迫っているといえるのではないでしょうか。この問題は広く市民に訴えかけ、国民全体で軍国主義教育の復活を阻止していかなければなりません。
 そこで、子ども・教育問題委員会では、「政府が教科書を書き換えさせる・・・。どう思いますか?」と題した新しいリーフレットを作成しました。この新リーフレットには、イラストをふんだんに取り入れ、この間の問題の経過、政府介入の意味合いなどを理解し、子どもの学びを保障するために学問的・科学的観点から教科書を作成することを求める内容を分かりやすく解説しています(1部10円です)。
 こうした問題は、法律家だけでなく、広く、保護者、地域住民、学生が声を上げることが必要です。ぜひ、この教科書リーフを地域の友好団体に広げ、学習会に取り組んでいきましょう。軍国主義教育の復活を阻み平和な社会を維持するためにも、全国各地での以下の行動を呼びかけます。
1. 地域の友好団体などに、見本と申込用紙を持ち込み、リーフレットを広めましょう!
2. 憲法学習会や平和運動にリーフレットを持参し、軍国主義教育の危険性を訴えましょう!
3. 次回の教科書検定に向けて、教科書検定制度・今回の介入問題について、学習会をもちかけましょう!

注文書 https://www.jlaf.jp/html/05book.html

 

貧困・社会保障問題委員会学習会企画のお知らせ

貧困・社会保障問題委員会担当次長 髙 橋  寛

 貧困・社会保障問題委員会は、若手・新人の方向けに、団の活動や貧困・社会保障問題委員会の活動などを知っていただくための企画を用意しました(もちろん、新人・若手以外も歓迎です)。
 貧困・社会保障問題委員会では、コロナ禍においてますます重要性を持っている生活保護の問題について、改善などを求める様々な活動を行っています。
 今回は、現役の福祉事務所職員の方をお呼びして、地域における貧困問題、コロナ禍での社会保障と福祉事務所、生活保護の際の扶養照会のあり方などについてお話いただく予定です。ぜひご参加ください!

タイトル:生活保護行政の現場から
日  時:2023年2月16日(木)18:00~19:30
場  所:自由法曹団本部+zoom

 

北アルプス 花の道を歩く(4)

神奈川支部  中 野 直 樹

異変
 8月6日(金)、昨朝と同じく、4時45分起床、5時朝食。出発は今日の行程の長さを考え、6時。
 10時間以上眠った浅野さんも元気回復。でがけに、藤田さんが、ありゃ、と声を上げた。なんと、藤田さんの山靴のソール(靴底)が割れてきているとのこと。見ると、ソールと靴本体との間に隙間ができている。これは一大事だ。浅野さんから事前点検の怠りを指摘された藤田さんは、4年ぶりの登山にあたり靴にクリームを塗ってきたと弁明するも、それは皮部分の手入れであり、靴底のひび割れの点検とは無関係だ。
 ともかく応急措置をしないとこのままでは靴底が剝がれてしまい、歩けなくなってしまう。私は、携帯している銅線と細引きを提供。藤田さんは、特に剥がれが進んでいる靴の前部に銅線を巻きつけた。事態を知った山荘から布テープの提供も受けた。思わぬ不安を抱えながらの3日目の出発となった。
花爛漫の憂鬱
 高天原を少し歩いた後、私たちは岩苔乗越方面の左側の樹林帯の道に入った。この道は水晶岳を西側から南側に巻いていく。7時過ぎに水晶池で休憩。藤田さんは、靴を縛っている銅線がすり減って切れ、細引きでの縛り直しをするというので、浅野さんと2人で水晶池を見にいったが干上がっており、感動なし。泥に真新しいカモシカの蹄の跡があったので、周りをみたが姿は見えなかった。
 さらに樹林帯の道を登ると右側から岩苔小谷の沢音が聞こえ始めた。林内にキヌガサソウ(衣笠草)が大きな葉を広げていた。この高貴な名の植物は、大きな葉8~10枚が輪生し、その中心に白い花をつける。葉の枚数に幅があるだけでなく、花被片が葉の枚数と同じになるというところが興味深い。白色の花は緑色に変色していた。沢が近づき、やがて樹林帯から抜け出て、光溢れる花畑となった。ピンクのハクサンフウロ(白山風露)、葉の輪生が特徴の朱赤のクルマユリ(車百合)、コバイケイソウ(小梅蕙草)の白花、ミヤマトリカブト(深山鳥兜)の群青の花が勢力争いをしている。
 浅野さん、私が、カメラ撮りに没頭している中で、藤田さんは花を愛でるゆとりがない。藤田靴底の後ろ部分も剝がれ始めてきて、全般的危機に陥りつつあった。銅線は岩との擦れでちぎれてしまい、布テープも実効性を発揮できない。藤田さんは、前部に加えて後部も細引きで縛らなければならなくなった。このまま危機が進行し、もしも靴底が剥がれ切ってしまったら・・・。藤田さんはサンダルを持っているので大丈夫だというが、これから待っている岩場をサンダルで歩くというのは現実的ではない。
薬師岳
 「憂鬱」の森に入り抜けられなくなった藤田さんをわき目に、浅野さんと私は忙しい。花畑の先にはハイ松に覆われた斜面が稜線に向けてせり上がり、岩苔小谷の源流がワリモ北分岐に向けてゆるく右側にカーブしている。その先端には雪渓が残り、その奥にワリモ岳の先端が見えた。後ろに振り返ると薬師岳がどっしりと鎮座していた。2日前太郎平小屋での夕暮れ時、霧の合間に夕日に映える薬師岳の西面を観ることができたが、いまは、青空に聳える薬師岳の東の顔を見ている。手前に下がってくる東南陵の下部は、黒部川・上の廊下を形成する黒っぽい岩稜帯であり、中央から上部には崩壊した黒っぽい砂が幾筋もの複雑な線を引いているが、そこに植物が根を張り、全体を緑にまとめている。中央の薬師岳山頂の直下は白肌の美しいカールが目を奪う。カールとは氷河が削った後で、日本語では「圏谷」という。この薬師岳東面の圏谷群は特別天然記念物に指定されている。北薬師岳から北に延びている稜線の岩は赤みを帯びている。
 岩苔小谷の流れだしの岸辺に腰を下ろし、水を補給した。周囲は、ミヤマタンポポ、ヨモギのような葉型のシナノキンバイ(信濃金梅)、イチゴのような葉型のミヤマキンバイ(深山金梅)、ウサギキク(兎菊)の黄色組、ハクサンイチゲ(白山一花)、ウメバチソウ(梅鉢草)、コバイケイソウ等の白組、そこに青色花のリンドウ、紅紫のシオガマなどが参入し、水辺のキャンバスは色彩豊かだった。
奥黒部の山たち
 10時20分頃、岩苔乗越についた。ここから残雪が点在する祖父岳(2895m)を経て祖母岳に向かうと雲の平となる。その左手に太郎平から延びる北ノ俣岳(2661m)が見下ろせた。祖母岳と北ノ俣岳の間を黒部川・奥の廊下が流れ下る。そちらの方向に向かう道を1時間20分歩くと三俣山荘に着く。ここからは見えないが、この途中に鷲羽岳(2924m)から流れでる黒部川源流の碑がある。私たちはさらに稜線を目指して登り、間なしにワリモ分岐(2841m)に出た。ここからは祖父岳の左側に黒部五郎岳(2839m)が見えた。黒部五郎岳は北ノ俣岳とつながり、やはり黒部川本流を造る連峰の1つだが、その姿は、円錐形の頭が抜きんでてどっしりとした構え、しかも大きなカールが口を開けた強烈な個性を発揮している。まことに頼もしい存在だ。
 ここまでは奥黒部の西側の景色を眺めてきたが、東側も姿を現し始めた。まずは黒部川最奥の存在でありながら姿を隠していた鷲羽岳の鋭く切れ落ちている東面が目に映った。その奥には、槍・穂高連峰の岩稜帯も登場した。(続く)

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