第1812号 6/1

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

コロナ禍に負けない!貧困と社会保障問題に取り組みたたかう団員シリーズ ㉖(継続連載企画)
■生活保護基準引下げ違憲大阪訴訟 大阪高裁の不当判決について  冨田 真平

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●私学の校則問題に対する弁護士会の判断と世間の反応  坂本 翔大

●「令和の地上げ」というほどではございませんが・・・~団・市民問題委員会へのお誘い~  西田 穣

●馬鹿げたウォーゲーム  広島支部 井上 正信

●定年制適用第1号となって  渡辺 和恵

~追悼~
●豊田誠先生を偲ぶ  白井  劍

●「人間の証明」を訪ねて~秘湯・霧積温泉と鼻曲山(上)  浅野 則明


 

コロナ禍に負けない!貧困と社会保障問題に取り組みたたかう団員シリーズ ㉖(継続連載企画)

生活保護基準引下げ違憲大阪訴訟 大阪高裁の不当判決について

大阪支部  冨 田 真 平

 2013年から2015年にかけて段階的に行われた史上最大(平均6.5%、最大10%、総額670億円)の生活保護基準の引下げ(以下「本件引下げ」という。)の取消を求める生活保護基準引下げ違憲訴訟(いのちのとりで裁判)の大阪訴訟において、2023年4月14日,大阪高等裁判所第1民事部(山田明、川畑公美、柴田義人各裁判官)は、全国で初めての勝訴判決である大阪地裁判決を取消し、原告らの請求をいずれも棄却する不当判決を出した。
1 引下げの理由として国が主張する2つの「調整」
 国は、本件引下げの理由として、総額670億円のうち580億円が「デフレ調整」、90億円が「ゆがみ調整」であると主張していた。「デフレ調整」は物価が下落に合わせて保護費を減額するというものであり、厚生労働省が独自に作成した「生活扶助相当CPI」なる物価指数をもとに物価の下落率を計算している。「ゆがみ調整」は所得下位10%の消費実態と生活扶助基準の消費実態を指数を用いて比較したところ、年齢・世帯人員・地域別に「ゆがみ」があったのでこれを是正するために調整を行ったというものである。
2 大阪高裁までの流れ
 本件引下げについては、全国29地裁でこの取消を求める裁判が提訴され、1000人を超える原告が闘っているところ、全国で初めてとなる名古屋地裁判決(2020年6月25日)で敗訴したものの、2例目の判決となる大阪地裁判決(2021年2月22日)において、本件引下げの違法性を正面から認める画期的な勝訴判決が出された。すなわち、大阪地裁判決は、「デフレ調整」について、上記「生活扶助相当CPI」なる独自の物価指数により生活実態と大きく乖離した過大な下落率を導き出した計算方法が「統計等の客観的な数値等との合理的関連性や専門的知見との整合性」を欠き違法であると判断した。
 その後、名古屋地裁判決の焼き回しのような敗訴判決が続いた(しかもいくつかの地裁判決においては誤字までも全く一緒のコピペ判決であった)が、熊本地裁判決(2022年5月25日)、東京地裁判決(同年6月24日)での勝訴から流れが変わり、その後は続々と勝訴判決が出され、本件引下げが違法であるとの司法判断が確立しつつあった。
3 流れに逆行し司法の役割を放棄した大阪高裁判決
 しかし、大阪高裁は、このような司法判断の流れに逆行し、司法の役割を放棄するに等しい不当な判決を出した。
(1)原告らは、高裁での審理においても、行政裁量についての専門家である複数の行政法学者の意見書も提出し、生活保護法が厚生労働大臣に「広い」裁量など認めていないことを丁寧に論証していた。しかし、判決は、これらの行政法学者の意見書や生活保護法8条の定め、制定過程での議論、従前の経過などを完全に無視して、厚生労働大臣に広範な裁量を認めた。
 さらに、専門家の委員会である基準部会など外部の専門家による検証がなくても、確立した専門的知見との矛盾が認められる場合でなければ専門的知見との整合性を欠くとはいえないとした。このように「確立した専門的知見との矛盾が認められる場合」という高いハードルは、従前の老齢加算廃止訴訟最高裁判決にはなく国さえも主張していない独自のものであり、最高裁判決の規範を改変するものである。
(2)そして、判決は、上記のように厚生労働大臣の広範な裁量を認め、独自の規範を立てた上で、本件引下げについて、問題点を細かくぶつ切りにして、それぞれについて国の主張をそのまま丸呑みして「一定の合理性」「それなりの合理性」という薄弱な根拠で適法と判断した。
(3)さらに、判決は、高裁での審理において研究者の尋問や本人尋問も実施して今回の引下げによる被害の実態を明らかにしたにもかかわらず、これらの被害に実態に向き合わず、原告らが訴えた窮状について、リーマンショック後の経済状況の悪化の中で「国民の多くが感じた苦痛と同質のもの」である(にすぎない)と切り捨てた。
(4)上記のとおり、判決は、専門家の意見を聞かずに行った本件引下げが違法であるというこの間の司法判断の流れに逆行し、広範な裁量を認め行政が行ったことを追認するのみの名古屋地裁判決に先祖返りするような判決であった。このような態度は、人権救済の最後の砦としての司法の役割を放棄するものに等しい。
4 上告審に向けて
 今回の不当な大阪高裁判決を覆すべく、原告らは4月25日に上告した。また同日、弁護団・原告団・支える会で裁判所前宣伝や記者会見なども行い、これらの様子はメディアでも取り上げられた。
 最高裁で勝利するためには、まずは名古屋高裁はじめ各地の地裁・高裁で今回の大阪高裁判決を克服して勝利することが必要であり、そのために引き続き全国の弁護団・原告団・支える会が一体となって闘い抜く所存であるので、今後も団員の皆様の支援をお願いする次第である。

 

私学の校則問題に対する弁護士会の判断と世間の反応

鳥取県支部  坂 本 翔 大

1 本投稿について  
 2023(令和5)年3月20日、大阪弁護士会は、学校法人清風学園及び清風高等学校に対し、同校の頭髪規制及び携帯電話持込禁止規定の運用について改善するよう勧告し、これら校則の見直し又は入学希望者に対する校則の周知や在校生らと校則について協議、検討するよう要望しました。私は、現在鳥取支部に所属していますが、当時は大阪支部におり、生徒側弁護団に所属していたため、本件について報告し、本件について個人的に思ったことを述べたいと思います。
2 どうして生徒たちは人権救済制度を用いたのか
 前提として、本件は、学校内ルールである校則そのものとその運用についての問題であり、本来であれば学校内部で解決されるべき問題でした。しかし、清風では、生徒たちの声を学校側に届ける制度やPTA団体はなく、生徒会にもそのような権限はありませんでした。そのような中で校則について真正面から声を上げれば、成績評価や大学への推薦を握っている学校から不利な扱いを受けかねない状況にあったといえます。
 このような状況のもと、生徒たちはSNSを通じて、福岡県の弁護士が校則見直しを進める活動をしていることを知りました。これを機に、弁護士の力を借りるという方法を知り、署名を集めて弁護士会に送ってきました。生徒たちは、弁護士が間に入ることで直接校則が見直されることを期待していましたが、上記状況下では匿名で活動せざるを得ず、私たちも代理人として学校に対して活動できなかったため、唯一取りうる手段として人権救済申立てをすることになったのです。
3 大阪弁護士会の判断
 弁護士会はこの申立てを受け、頭髪検査の運用については、校則には「前髪は、自然に前へたらしたとき」と書かれているにも関わらず教師が生徒の前髪を押さえたりつまんで引っ張ったりするなどの方法や、不合格の場合に生徒がハサミを渡して生徒自ら切ってくるよう指示した等は、頭髪規定によって予定された検査方法や不合格の場合の措置の内容を逸脱し、社会通念上相当な指導の範囲を超えたとして、生徒の髪型の自由を侵害していると評価しました。また、携帯電話については、学業に必要がないという観点からは、学校内での使用を禁止するにとどめる等の運用で足りるはずであり、学校内での使用の禁止を超えて登下校時の所持・禁止を正当化する積極的理由は見出しがたいとして、過剰な措置であり社会通念上相当な指導の範囲を超えると評価しました。また、同勧告書は、学校は規則違反に対して、解約を求めて強い態度で臨んでいるとうかがえ、解約を事実上強制する正当な根拠は見出しがたいこと、携帯電話持込禁止規定について周知が不十分である、とも指摘しました。
 このほか、勧告書は、本件は学校内部の問題として解決されるべき問題であったことに言及し、そうならなかったのは生徒たちが入学時に校則を守ることを誓約したことを理由に学校側が生徒たちと話し合う姿勢を持たなかったことを指摘し、校則の事前周知の徹底や生徒たちと校則のあり方について協議、検討することを求めています。
 一方、頭髪規定や携帯電話持込禁止規定そのものについては人権侵害と評価する余地がないわけではない、としながらも私立学校の私学教育の自由や校則について一定の周知があったこと等を根拠に違憲・無効と判断しませんでした。
4 その後のマスコミによる報道
 勧告及び要望が出て数日後の同月23日、弁護士会による記者会見が行われました。そして、各社によって今回の勧告等の報道がなされました。
 しかし、ほとんどの報道機関は2つある校則のうち、頭髪しか取り上げませんでした。しかも、そのうちいくつかは、弁護士会が校則そのものについて積極的に認めたと受け取れる報道をし、生徒たちは校則を分かったうえで入学したのだから制限を受けることは当然である、と受け止められる報道をしていました。
5 本件を通して思ったこと
 一連の報道を見てまず思ったことは、規定を分かって入学したのだから権利の制約を受けることは仕方 ない、という声が思った以上に大きかったことです。そのような報道が目についたのみならず、ネットニュースで今回の事件が取り上げられた際、そのような発想のコメントが多かったことを覚えています。
 (この認定が十分かはともかく、少なくとも)弁護士会が周知は不十分だったと認定していることや、中高一貫校に応募する段階の、しかも入試の合否を気にする子どもが本当に校則を理解し納得していたといえるのか疑問であることなどからすれば、「分かって入学した」「嫌なら入学するな」論は前提を誤っていると言わざるを得ませんが、それ以前にこのような発想をする人が多いことに強い恐怖を覚えています。一度同意したからと言って、当然に権利侵害を受忍する義務が発生するはずがありません。自己責任論で片づけていい場面ではないにもかかわらず、当然のようにそのような発想をしてしまう報道機関や人々が思った以上に多いことに驚愕しました。
 このほか、私学教育の壁の高さも痛感しました。確かに最高裁も私学教育の自由を認めています。しかし、私立学校も教育基本法に基づく公的存在であること(同法6,8条)や学校選択によって人権侵害の差異が正当化される理由はないこと、子どもの権利条約において差別の禁止や最善の利益の追求を求められていることなどからすれば、私学だからといって人権侵害が許容される理由にはなりません。
 また、権力と戦う難しさも実感しました。動き方を間違えれば生徒たちに被害が及びかねない状況のため、歯がゆい思いをしたことを覚えています。身を危険に晒してまで戦った生徒たちの姿を忘れることはできません。
6 最後に
 今回は、弁護士会からの勧告及び要望という形で一応の結論が出ました。しかし、これを受けて学校がどう変わるか、が最も重要なことだと思います。勧告等を受けて、誠意ある行動を取ってくれることを期待したいです。
 最後に、今回の事案から世の中の不合理さと問題点を学びました。弁護士1年目でのこの経験を、今後の弁護士人生の中で活かしていければと思います。

 

「令和の地上げ」というほどではございませんが・・・
~団・市民問題委員会へのお誘い~

東京支部  西 田  穣

1 担当した地上げ事案 
 先月、NHK「クローズアップ現代」という番組で、「追跡!令和の地上げ、求められる対策」というテーマを取り上げてもらいました。私は、番組で直接取り上げられた事件を担当していたわけではありませんが、かつて空屋に魚を吊るす等の同種の嫌がらせを受けた地上げ事件を担当していたことから取材を受け、市民問題委員会でも報告したので投稿します。
 私がかつて担当した事件は以下のとおりでした。
 東京都北区にある約300㎡の土地が、4区画分けられ、4人の借地人がそれぞれ建物を建てていました。うち3棟は戸建建物(住居)、あと1棟は木造2階建ての賃借用共同住宅(住戸数6住戸)として使用されていました。地主はもともと個人の方でしたが、この底地所有権をT建物という不動産業者が買い取ったことが事件の発端でした。このT建物は、4人の借地人に借地権付建物の売却を迫り、うち2人の戸建建物を所有していた借地人はそのT建物の売り渡し要求に応じて転居してしまいました。私に相談が来たのは、その後のことです。
 私への相談者は、残る2人の借地人ではなく、この当該土地の隣地の所有者、そして上記賃借用共同住宅に居住していた建物の賃借人3名でした。相談の内容は、番組でも取り上げられている内容に近いものですが、立退きをして空屋となった2つの家のドアや窓が開けっ放しとなっており放火などが心配、空屋の屋根から生魚が吊られていて臭い、夜中12時に突然空屋の2階から音楽が流れはじめる、空屋の中にあったタンス等の家具やゴミが敷地に大量に投げ捨てられていて通行の邪魔である、空屋に落書き等がされ放題となっていて治安に不安がある、時々複数のガラの悪い男が空屋の中に入っていったり、土地や目の前の通路にたむろっていたりすることがあり怖い、といったものです。
 T建物は 地上げ問題では有名な会社で、借地の底地所有権を低額で買い取っては、借地権の権利をきちんと把握していない借地人に対し、立退きをちらつかせて、高額での底地所有権の買取りか、借地権付建物の売り渡しをしつこく求めてくる業者です。こういった地上げ業者共通の特徴は、まずしつこく借地人に会いに来るというところです。借地人の地代の振込みを認めず、地代は取りに来ると言い張り、地代の徴収という名目で、毎月会いに来るのです。多くの土地賃貸借契約書は賃料持参払いとなっており、振込による支払いを合意条項としていないことから、この「地代を取りに来る」要求を法的に拒絶するのはなかなか難しいところがあります(全く別件ですが、他の地上げ業者の案件で、依頼者が「地代を取りに来る」を拒否したところ、東京の借地であるにもかかわらず、持参払いを理由に本社がある大阪まで持ってくるように言われた事案を担当したこともあります)。
 この手の事案は、一見して酷いことは明らかなのですが、直ちに確たる法的要求が構成しにくいという難しさがあります。ゴミも魚も落書きも音もすべて私有地内のものです。異臭・騒音の問題として構成は可能ですが、異臭・騒音構成の法的請求が容易でないことは弁護士なら分かるかと思います。実際、私の相談者は、私に辿り着く前に、役所にも、警察にも相談に行きましたが、軽犯法の適用を示唆されたものの結局何らの解決を図ることはできませんでした(一番真剣に話を聞いてくれたのが、放火を心配した消防署だったそうです)。
 この手の事案のベストの対策は「直対」です。初手は受任通知の送付ですが、その後、直接業者に会う、現地を直接確認するは必須で、できれば相手にも現地に来てもらい直接苦情を言う、などが重要です。賃借人に弁護士が就いていること、それだけでなく、その弁護士がどのような人間なのかを地上げ業者に見せておくことが重要です。苦情を言ったところで、当然、業者は、ゴミも魚も落書きも音量もすべて自分たちではない、うちも困っていると言ってきます(実際、言われました)。そこを犯人性で勝負しないで、誰のせいではなく、この状態の放置はまずいでしょう、放置するならその点で責任がある、といった点を直接、礼節をもって伝えるのが良いと思います。向こうは、地上げ業者ですが、暴力団ではないですし、先ほど述べたとおり、法的に100%勝ちきることは容易ではありません。喧嘩をするのが得策とは限りません。こっちは依頼者を救済できればいいのですから、嫌がらせを止めさせ、交渉の窓口を弁護士にして、上記の賃料を取りに来る問題は今後弁護士のところに毎月取りに来るようにしてもらえば、依頼者の悩みの9割は解決します(それでも賃借人との面談や嫌がらせを強行してくる業者には仮処分を申請しますが、そこまで行かない事案がほとんどです)。あとは、毎月地上げ業者と顔を合わせて世間話をする業務が残るだけです。
 この手の地上げ相談は、なくなるどころか、番組で取り上げてもらったとおり、地価の高騰もあってか、どんどん増えている印象があります。背景に「賃借人は所有者よりも立場が弱い」という「誤解」がこの国に蔓延していることもあるかと思います(さすがに、借地借家法を知らない弁護士はいないと思いますが、弁護士から、いい解決方法はなく、立退料の交渉した方がいいかのような「弱気」なアドバイスを受け、より弱気になってしまっていた相談者の相談を何度も受けています)。大阪の増田団員、東京の種田団員といった番組で取り上げられた弁護士でなくとも、全国各地で、こういった相談は多数あるのではないでしょうか。
2 団・市民問題委員会へのお誘い
 そこで、こういった立退きや不動産問題を議論する場として、団には市民問題委員会があります。かつてのバブル期にも地上げ問題など多くの市民に関する問題を取り上げてきた伝統ある市民問題委員会も、世代交代の流れと共に、今や瀬川委員長(東京・60期)、永田担当事務局次長(神奈川・66期)を中心に、少数精鋭で奮闘する(せざるを得ない)委員会となっています。現在、司法のIT化、マイナンバー、税務申告命令制度などなど、市民に直結する問題を取り扱っていますが、立退きをはじめ、不動産に関連する諸問題について、全国的な議論をし、団員が受任する民事事件にも役に立つ委員会にしていこうという話で盛り上がっています。全国からzoomで参加いただき、各地の不動産トラブル問題などを共有してみませんか。

 

馬鹿げたウォーゲーム

広島支部  井 上 正 信

はじめに 
 この原稿は5月20日発行の団通信に掲載された「安保三文書に隠された『生々しい(不都合な)現実』」の最後のパラグラフが安保三文書が想定する「馬鹿げたウォーゲーム」で終わっているので、「馬鹿げたウォーゲーム」を正面から描いたものです。
 安保三文書に基づき、防衛省・自衛隊は長距離スタンド・オフミサイルの配備に向けた研究開発・製造配備を急いでいます。防衛力整備計画によると防衛省・自衛隊が進めているスタンド・オフミサイルの配備、研究開発は次のようなものです。
 12式ミサイル能力向上型(射程1000㌔と推定-井上注)
 地上発射型を2025年度までに、艦艇発射型を2026年度までに、航空機発射型を2028年度までに開発完了する
 潜水艦発射型スタンド・オフ防衛能力の構築を進める島嶼部防衛用高速滑空弾
 早期配備型を2025年度までに開発完了(射程300キロ程度と推定-井上注)
 能力向上型を開発(射程2000キロと推定-井上注)
 極超音速誘導弾(射程3000キロと推定-井上注)2031年度までに開発完了
 島嶼防衛用新対艦誘導弾の研究
 輸送機搭載システム
 2023年4月11日防衛省が公表した「スタンド・オフ防衛能力に関する事業の進捗状況について」によれば、
 12式ミサイル能力向上型(地発型)の量産 2023年度より量産着手、2026年度、2027年度に防衛省へ納入
 12式ミサイル能力向上型(地発型・艦発型・空発型)の開発 2021年度から2027年度
 島嶼部防衛用高速滑空弾(早期配備型) 2023年度より量産着手、2026年度及び2027年度納入
 潜水艦発射型誘導弾の開発 開発期間2023年度から2027年度
 これ等のスタンド・オフミサイルの開発製造はすべて三菱重工業へ発注しています。
 以上から、極超音速誘導弾と島嶼部防衛用新対艦誘導弾を除けば、かなり配備の見通しを立てていると思われます。
 これで間に合わないとして、米製の最新型の海洋発射巡航ミサイル400基購入するということになります。
 これ等のスタンド・オフミサイルの配備場所として、島嶼部防衛用高速滑空弾早期配備型と射程1000キロの12式ミサイル能力向上型は南西諸島ですし、射程2000キロの島嶼部防衛用高速滑空弾能力向上型や射程3000キロの極超音速誘導弾は、日本本土の北・東富士演習場や北海道になると見込まれています。
 防衛省「進捗状況について」では言及されていませんが、防衛力整備計画で初めて登場した輸送機搭載システムはなじみがありません。「軍事研究」誌2023年3月号軍事研究家山形大介氏の論文で、どのようなものか初めて知りました。
 米空軍がすでに開発しているラピッド・ドラゴンと呼ばれているものでした。C130やC17輸送機に搭載した空中投下用貨物パレット内に、JASSM-ERを入れ、パレットごと輸送機の後部から投下し、パラシュートでパレットの姿勢が安定したところでミサイルを発射する、1個パレット内には6発ないし9発のミサイルを搭載し、輸送機には数個のパレットを搭載するものでした。これにより輸送機も敵攻撃能力を持つうえ、1機で多数のミサイルによる攻撃が可能になります。防衛省が考えているものも同様のものだと思われます。
 安保三文書が想定している反撃能力は、多種類のスタンド・オフミサイルを大量に保有して、敵を飽和攻撃するもののようです。そのため安保三文書は継戦能力とそのための大量の弾薬を保管するための多数の弾薬庫の増設をしようとしています。
 では、これらの多種類のスタンド・オフミサイルが反撃能力としてどれだけ有効に機能するのでしょうか。
 海洋発射型巡航ミサイルは亜音速であるため、敵の防空網により撃墜される可能性が高いことから、多数のミサイルを同時に発射するいわゆる飽和攻撃用と考えられます。今年の「軍事研究誌」3月号に私が信頼している軍事ジャーナリスト福好昌治の論文「『戦略三文書』を読む(前編)」で、500発の巡航ミサイルは北朝鮮や中国と本格的な戦争となった場合1週間程度で打ち尽くしてしまうと述べていました。
 これとほぼ同じことを、後で述べる2023年1月9日CSIS(戦略国際問題研究所)が公表した、台湾を巡る米中のウォーゲームについてのシミュレーションが述べていました。米国が保有している長距離空対艦ミサイルLRAZMの全在庫数が450発で、紛争発生から1週間で使い切ったと推定しているのです。
 ですから、巡航ミサイルを「たかが400発」持っていても、どれほど有効な反撃能力になるのか疑問です。
 極超音速ミサイルについても、このCSISレポートは厳しい評価を下しています。きわめて高価であり、大量の巡航ミサイルの代替にはならない、少数の高価な標的を攻撃しても、大規模な侵攻に対抗するという中心的な問題を解決することはできない、(極超音速兵器は)ニッチな兵器であることを認識すべきと述べています。
 12式ミサイル能力向上型は巡航ミサイルの一種ですから、敵防空網で撃ち落とされる可能性が高い兵器になります。
 防衛省・自衛隊はこのような反撃能力を、中国との戦争でどのように使おうとしているのでしょうか。
 私の手元にある防衛研究所令和3年度特別研究成果報告書「将来の戦闘様相を踏まえた我が国の戦闘構想/防衛戦略に関する研究」があります。防衛省のシンクタンクである防衛研究所の研究につき定めている「防衛研究所の調査研究に関する達」によると、調査研究には4類型があり、特別研究成果報告書は、「内部部局の要請を受け、防衛政策の立案及び遂行に寄与することを目的に実施する調査研究をいう。」と位置付けられていますので、我が国の防衛政策に反映されたものと言えます。執筆者は、ウクライナ侵略戦争の解説でしばしばテレビに登場している髙橋杉雄氏です。
 2023年1月3日付琉球新報が「防衛研 中国と長期戦想定」との見出しで髙橋杉雄氏のインタビュー記事を掲載し、この論文が提案している軍事戦略について尋ねています。髙橋氏は、「中国との戦争で半年から1年ほど時間をかければ、他地域に配備された米軍が駆け付けてきて日米が有利になる。」「長期戦のリスクはある。勝利しても地域全体が、台湾を含めウクライナのような破壊を受ける可能性が高い。」と述べています。記事は「戦況次第で民間人被害も」との中見出しを付けています。
 この論文は、シナリオプランニングによる将来戦の様相を検討して、戦闘の見通しの不確実さと、戦闘の激しさのベクトルで4パターンの戦闘を図式し、これを踏まえてネットアセスメント的分析を踏まえた日本の防衛戦略を考えています。その結果として「統合海洋縦深防衛戦略」を提案します。とは言っても私は「シナリオプランニング」も「ネットアセスメント」についても何も分かりませんが。
 この論文の内容を簡単に説明すれば、中国を台湾統一=現状変革、日本はそれを阻止する現状維持とし(なぜ阻止しなければならないのかには言及されていませんが)、現状維持であるから中国を負かすことは必要なく、ミサイル攻撃を阻止できなくても戦況を膠着状態に持ち込めば良いとし、具体的には、宇宙・サイバー・電磁波領域で中国の優位性を阻害して、中国側へ「戦場の霧」(戦闘の不確実性の意)を残す、海中・水上・航空・地上からの対艦ミサイル攻撃を行う、中国の航空基地を攻撃して航空優勢を中国に与えない、ハイブリッド戦・グレーゾーン対処の4本柱を立てています。スタンド・オフミサイルによる反撃能力を行使するのです。
 私はこの論文を、安保三文書閣議決定1週間後に読みました。その後安保三文書、とりわけ国家防衛戦略、防衛力整備計画を読むにつけ、この論文が書いた内容がダブってきました。
 岸田首相は安保三文書閣議決定直後の総理記者会見で、防衛力強化を検討する上で、「極めて現実的なシミュレーションを行いました。」と述べています。防衛研究所のこの論文の研究がなされた時期は、防衛省内部に作られた非公開の「防衛力強化加速会議」での検討と重なっています。この論文の研究結果が安保三文書へ何らかの影響を与えたことは、この論文が「防衛政策の立案及び遂行に寄与することを目的」(防衛研究所の調査研究に関する達より)である特別研究成果報告書であることからもおそらく間違いないと推測しています。
 岸田首相が述べた「極めて現実的なシミュレーション」の一つが、高橋氏の論文であったかもしれません。
 この論文が提案する戦略の要諦は、長期間にわたるミサイル戦争を戦うもので、中国軍と日米による消耗戦を想定しています。琉球新報のインタビューではそれが半年、1年という期間です。この論文では、中国との長期間にわたるミサイル戦争=消耗戦により、南西諸島を含む日本列島に住む私たちにどのような戦争被害が及ぶのか何も言及していません。戦略家にとって、このようなことは考慮すべき要素ではないのかもしれません。
 今年1月9日に公表されたSCIS論文「The First Battle of the Next War-Wargaming a Chinese Invasion of Taiwan」は台湾有事の際の米中戦争の衝撃的な結果をシミュレートしました。その概要の中で、「この防衛には高いコストがかかる。日米両国は、何十隻もの艦船、何百機もの航空機、何千人もの軍人を失う。このような損失は、何年にもわたって米国の世界的地位を損ねることになる。台湾の軍隊は壊れることはないが、著しく劣化し、電気も基本的なサービスもない島で、傷ついた経済を守るために放置されている。中国もまた大きな打撃を受けている。海軍はボロボロで、水陸両用部隊の中核は壊れており、何万人もの兵士が捕虜になっている。」と述べています。論文は24通りのシミュレーションを行い、日本が米国と共同で戦うことを条件として日米が勝利すると推測しています。
 しかし、このような結果の勝利とは何でしょうか、どんな意義があるというのでしょうか。現代戦は勝者も敗者もない、闘えばどちらも敗者になると言った方がぴったりすると思います。そして最大の敗者は日中両国市民です。
 安保三文書が想定している台湾有事での日米対中国の戦争は、私の目からは「馬鹿げたウォーゲーム」としか映りません。
 このような戦争準備のため、5年間43兆円という途方もない国家財政を注ぎ込み、私たちの国土と生活が大きく損なわれることわかっていながら長期間の消耗戦を遂行するというのが、安保三文書が定めている「抑止力」の正体です。

 

定年制適用第1号となって

大阪支部  渡 辺 和 恵

1.2023年3月31日、私は自由法曹団に加入する大阪の共同事務所で定年制適用第1号となり、この度独立しました。今、弁護士歴48年、77才です。
 自由法曹団の昨年の報告によると、全団員数2012名のうち、77歳以上は262名です。団規約によると、77歳以上は団費を免除されるので、私もその申請をし免除されました。
 この262名の皆さんの事務所に定年制はあるのでしょうか。現在、私のように共同事務所を離れ個人として独立しておられるのでしょうか。あるいは、引き続いて共同事務所に所属しておられるのでしょうか。これを機に、弁護士を廃業されるのでしょうか。100年以上の歴史を持つ団体としては、高齢者の弁護士生活はいかにあるかの情報を共有すべきでしょう。団としても意見交換の場を作るべきではないでしょうか。
 私は2023年4月1日、独立して開業した法律事務所の名を「なにわぐりーん法律事務所」として登録しました。3月31日までの私と4月1日からの私には何の違いもありません。だからこの間一切の休養も取らず、何時もと同じ弁護士の仕事も社会的活動もしています。元気な間は弁護士として働こうと思っていた私にとっては、定年制の実施で独立開業の道を選択する以外にありませんでした。
2.5月4日には依頼者の方や、地域の皆様方にその披露をすべく、開所記念の会を開きました。ご参加は80名でした。皆様方から「77才で独立なんて素晴らしい」とのスピーチをいただきましたが、私は特段に力があるわけではありません。私にとっては弁護士生活を続けていくためにはこの方法しかありませんでした。
 5月12日の祝賀会には弁護士の皆様方が40名ご参加いただきました。「渡辺さん、AIについていける?それだけ心配」と言ってくれる親友がいます。夫に事務員をやってもらっており、彼がいないと対応できない事が多々あり、彼が健康である限り乗り越えていけるでしょう。共同事務所で一緒に働いたことのある事務職員の方が「困ったら助けるよ」と言ってくれるのも心強いことです。
3.今、8坪余りのこじんまりした事務所は開所を祝っていただく皆さんのお花が、開所から2カ月経とうとしている現在も明るく事務所を飾ってくれています。新事務所は、私の母みどり(事務所名はこれにちなんでいます)が大阪大空襲で焼け野原となったところに戦後簡単な家を建て、4人の幼児を連れて荒波に乗り出した場所にあります。姉が家業の文房具店・本屋を継いでくれていて、この店の半分を私に貸してくれたことでオープンできました。
 私が生まれ育った場所、郷里に帰った思いです。母が民主商工会の初代婦人部長をしてきたこともあって、地元の業者の皆さんは大層喜んで下さり、さっそく商工業者の一員として入会を勧めてくれました。近く開かれる総会で挨拶することになっています。今まで遠まきに見ていた零細業者・小商売の皆様方の生活実態に順々に触れることになるでしょう。
 今、弁護士会でも、かかりつけ弁護士活動の呼び声が盛んですが、地元に入り込まずにそれは成し遂げられないでしょう。先日も、スーパーに買い物するのに事務所の前を通りかかって、私の事務所を知ったという高齢の女性から、事務所のガラス戸に電話番号が書いてあったのでと事件依頼の電話が入りました。
4.私はこれまでと同様に「女性と子ども」に関心を持ち続け、弁護士として関りを持ち続けようと思っています。
 去る5月4日の集いには、婚約破棄問題で打ちひしがれていたという女性のお母様がご参加になり、「先生に解決してもらって後、今は某病院で重責を与えられるまでになって頑張っている」とか、10年近く前に離婚をしたDV事案の女性は「子どもを連れて別れることが出来て、子どもがこんなに元気に大きくなりました」と写真を見せて下さり、「私もあの時仕事を辞めず頑張ったので、職制に抜擢されました」と某大会社の名刺をくれた女性もいます。女性たちの元気を引き出すことが出来たことに誇りを持つ一時に出会いました。独立という契機がなかったら、こんな出会いはなかったかも知れません。
5.私は、併せて来年施行日を迎える女性総合支援法(困ったことを抱える女性支援法)の実践を進めるために、法成立の昨年から女性福祉問題の取組みの道を広げて、小さなグループを立ち上げています。その問題に触れて5月4日のスピーチがなされたところ、参加者同士が帰路で話をすることになり、女性福祉を広めましょうと意気投合し、このグループに入会して下さるなど新しい出会いを作っています。何事も新しいことを始めることは、新しい出会いを作り、物事に活気を呈することになるとこの歳になって気づかされています。
6.今、コロナのことだけでなく、皆話がしたいのに出来ないと悶々としています。私が、「一人事務所だから、休憩しに来てくれていいよ」と声を掛けると本当に来られるのです。この話をすると、ある方は「皆なコーヒーが好きだろうから」とコーヒーメーカーを祝賀の品物として持ってきていただきました。コロナの折には①お茶は出さない ②飲みたければ紙コップで自分で飲んで下さい と言っていたのと様変わりです。事務員さんを置けないので私がコーヒーのサービスをします。すっかり落ち着かれて自分を取り戻される方もあります。私は専門的なカウンセラーの研修を受けないまま、48年このかた沢山の関りを持ってきましたが、周りの空気作りが大切であることも学んでいます。
7.いずれにしても元気な船出が出来ました。一時の行き先を失って落胆していた時期には想像もしていなかったことです。メーデーにも、事務所名にちなんで、緑の地に白抜きで「なにわぐりーん法律事務所」ののぼり旗を立てて行進しました。さすが「77才の老婆」では格好がつかず、息子にも助っ人でのぼりを担いでもらいました。フリーランスの息子は「こんなに沢山の人が、おかしいことはおかしい!と声を上げているなんて若い人は知らないよ」と言いました。広告物にも、私の事務所のシンボルの「女性と子ども」のロゴ入りの広告を出したところ、私の行方を心配して下さっていたある長老の弁護士から励ましの葉書が届きました。
8.私はここまで来るまでに2年がかりで順次計画を立てました。そんなに早くからと思われる方もおられると思いますが、何も早くありません。悔いなく弁護士生活を送るために工夫や助け合いが必要です。自由法曹団が社会問題に果敢に取り組むだけでなく、各々の団員が元気であり続けるための組織的な工夫をして下さることを願います。

 

~追悼~
豊田 誠団員(東京支部)

豊田誠先生を偲ぶ

東京支部  白 井  劍

 豊田誠先生が他界なさった。入院先の都内の病院で、2023年3月16日18時17分のことだった。お目にかかることは、もう二度とない。そのことをぼくが素直に受け入れることができるようになったのは、つい最近のことだ。
〈経歴・事績〉
 豊田誠先生は1935年9月26日秋田県に生まれた。1961年4月、弁護士としての歩みを始めた。
 イタイイタイ病が四大公害裁判の先陣を切って富山地裁で勝訴判決をかちとったのは1971年のことである。豊田先生は弁護士になってまだ10年だった。それなのに、弁護団を牽引する中心メンバーのひとりであり、全国の公害弁護団の中心的存在だった。翌年1972年1月7日、全国公害弁護団連絡会議(略称:公害弁連)が発足した。代表委員は3名(正力喜之助イ病団長、北村年彌四日市団長、渡辺喜八新潟水俣団長)、幹事長は近藤忠孝イ病副団長、そして事務局長が豊田先生だった。その後、豊田先生は、公害・薬害の被害救済、公害・薬害根絶のために、その生涯をささげてこられた。
 イタイイタイ病事件に取り組んだのち、スモン東京弁護団副団長、多摩川水害訴訟弁護団常任、水俣病東京弁護団副団長、水俣病全国連事務局長、ハンセン病東日本弁護団団長等々を務め、第11回東京弁護士会人権賞を受賞、さらに第25回久保医療文化賞を受賞した。また、公害薬害だけでなく、米軍潜水艦が引き起こした「えひめ丸事件」にも弁護団団長として取り組んだ。刑事事件でもいくつも無罪判決をとった。とくに著名な担当事件は石川県蛸島の冤罪事件「蛸島事件」であった。別件逮捕の違法性を追及。無罪判決をかちとる原動力となった。
 そして、自由法曹団の団長を1997年から3年間務めた。
 所属した事務所はつぎのとおり。当初、金沢市の梨木法律事務所(現:金沢合同法律事務所)。その後、旬報法律事務所に移籍。さらに、1986年1月、鈴木堯博先生、菅野兼吉先生とともに東京あさひ法律事務所を開設。その10年後、恵比寿で豊田誠法律事務所を開設した。
〈この人には神様が宿っている〉
 突拍子もないことを言うやつだとお思いになるかもしれない。ぼくは若いころ豊田誠先生のことを、「この人には神様が宿っている」と本気で思っていた。弁護士4年目か5年目くらいまでずっとそうだった。そうとでも考えないと説明のつかないことが多すぎた。
 たとえば、弁護団会議のレジュメを書く。手書きである。机の前に座ったかと思うといきなり、さらさらと書き始める。息つく間もなく書き続ける。ものの30分ほどである。見事なレジュメができあがる。たとえば水俣病問題の解決をどのように展望するのか。そういうとんでもなく大きなテーマがB4いち枚にまとめられる。キングギドラのようなこの事件とどのように格闘するのか。判りやすい図をつかって説明されている。まるで天空高く駈上って世の中を鳥瞰するようなレジュメだった。
 訴状も準備書面も内容証明もどれもみな、そんなふうだった。裁判所から神田の東京あさひ法律に帰ってくる。自分の席につく。すぐに執筆が始まる。ひと息ついてお茶を飲むとかだれかと駄弁っているとか、そういう場面を目にすることは皆無ではなかったかもしれないが、まずなかった。書き終えて、見直して、立ち上がって、事務局にワープロを指示する。どの書面も何十年かかったって逆立ちしたってぼくには書けそうもない。そう思わせる書面ばかりだった。かつて米国連邦最高裁のオリヴァー・W・ホームズ判事は机に向かって立ったままで判決を書いたと伝えられる。その話を聞いたときぼくは、ホームズ判事はきっと豊田先生みたいな人だったのだろうと思った。
 もちろん、法廷での弁論も尋問も常に見事だった。集団事件だけではない。ごく普通の市民事件でもそうだった。弁論や尋問で豊田先生が口を開くとかならず、これまでだれも考えなかった方向から強い光が当たって、新たな地平が拓けた。
 法律の書面にかぎられない。たとえばある地区労の発文書。1度だけだが、ぼくが書かねばならない発文書を豊田先生がぼくの目の前で代わりに書いてくれたことがあった。座って5分くらい考えていたかと思うと、さらさらと書き始める。15分くらいでできた。もちろん水俣病事件に関する支援要請の文書である。そんなものだれが書いてもいっしょだろうと思うかもしれない。ところが豊田先生が書いたその発文書は、斬新で、パンチが効いていて、説得力があって、しかも何を求めているかが明瞭で、読む者の腹にストンと落ちた。
〈あんなふうに仕事ができたらおもしろいだろう〉
 自分の知り合いの裁判官に法廷で当たることは滅多にない。それでも10回くらいはそういう経験がある。N裁判官は修習先で指導してくれた裁判官だった。かれから裁判官室に呼ばれた。和解の打診だった。ぼくがひとりで代理人をしていたその事件は旗色が悪かった。話が終わって席を立とうとしたらN裁判官がいきなり豊田先生の話を始めた。「白井くん。きみは豊田誠先生の事務所でしょ」と訊いた。そうですと言うと、裁判官は、「君は幸せだよ」と言った。N裁判官は豊田先生の事件を担当していた。その事件は、別の弁護士がやって最高裁まで争って敗訴が確定していた。その同じ事件を、再審ではなく、まったくの別訴で覆してしまおうという訴訟だった。「おもしろいんだ、法廷が」とN裁判官が言った。「あんなふうに仕事ができたらいいなあと思う。裁判官になって初めて、弁護士の仕事をおもしろいと思った。もちろん、事件の勝敗は別問題だよ。審理の途中なんだから。結論はぼくにも、まだわからない。でも、いいなあと思うんだ。ぼくも任官する前、弁護士になるかどうか迷った時期がある。当時ぼくの周りの弁護士のやっていることはみんなつまらなかった。もし豊田先生のような弁護士が周囲にひとりでもいたら、ぼくは裁判所なんかに入らないで絶対に弁護士を目指した。きみは幸せ者だよ」。しみじみとN裁判官はそう言った。
〈神業だ、天才だ〉
 旬報法律事務所にいるとき、「豊田先生は相手方と電話で交渉しながら、まったく別の事件の内容証明を書きあげる。神業だ。天才だ」という噂をきいた。ぼくは1985年4月に弁護士になって、旬報法律事務所に入れていただいた。9カ月しかいなかったのに、その間に2~3度、事務局でそういう噂を聞いた。
 そういう噂はもちろん豊田先生がいないところで囁かれた。でも、豊田先生は自分が「神業だ。天才だ」と噂されていることを知っていたのではないかと思う。知りながら、そのことを面白がっていたと思う。
 こんなことがあった。神田の東京あさひ法律に移ってからのことだ。豊田先生が自分の机に向かって内容証明を書いていた。そこに、それとは無関係の別の事件の相手方から電話がかかってきた。あの噂を思い出してぼくは豊田先生がどうするのか固唾をのんで見ていた。当時のうちの事務所の秘書たちは皆その噂を知っていたから興味津々で豊田先生のまわりに集まってきた。5分くらい、書面執筆と電話交渉の同時並行が続いた。豊田先生が突然立ち上がった。受話器をガチャンと置き、「だめだ。できるわけないよ、こんなこと」と言った。振り返って、みなが自分を見ていることに気づいて、豊田先生は大笑いした。
〈悩み抜いた結果の凝縮〉
 この人は神様ではない。そうではなくて、並みはずれた努力をする人だ。その努力を特別なことと思わずに平気で続けることができる人だ。そんなふうに思うようになったとき、ぼくは弁護士になって4年くらい経っていた。契機はいくつかあったと思う。いまの電話のこともそのひとつだ。
 たとえば、こんなことがあった。横浜から神田に帰る電車のなかでのことだ。それまでぼくは豊田先生といっしょに電車に乗っても、隣の席が空いていても、豊田先生の隣に座らせてもらったことがなかった。かならずぼくとは違う車両にいき、ひとりで仕事をした。自分は嫌われているんじゃないか。長い間ぼくはそう疑っていた。ところが、そのときは豊田先生の隣に座ることができた。豊田先生はすぐにカバンの上に紙を拡げてなにか図を描き始めた。それを何度も描き直していた。京浜東北線で神田に着くまで7回か8回ほど書き直しの作業を続けた。
 いっしょに事務所に戻ると、あと15分ほどで水俣病東京訴訟の弁護団会議が始まるところだった。すでに弁護士が何人か集まっていた。会議室で席に着くと、豊田先生はレジュメを書き始めた。20分ばかり一心不乱に書いていた。やがて、「白井くん。これを人数分コピーしてきてくれ」と言った。そのレジュメに描かれていた図は、さっきまで電車のなかで豊田先生がなんども書き直していた、その図だった。
 弁護団の人たちに理解してもらうためにどうすればよいのか。どのように説明すればわかりやすくなるのか。豊田先生がさらさらと書くレジュメはじつは、そのように悩み抜いた結果が凝縮したものだった。そのことに気づいて、ぼくは脳天を直撃されたような気がした。
〈よく準備することだ〉
 まだ豊田先生のことを神様が宿った人だと信じていたころのことだ。どうすれば豊田先生のようにすばらしい尋問をすることができるようになるのかと、直接に訊ねたことがある。いま思うと、馬鹿な質問をしたものだと自分でも思う。
 豊田先生は、しばらく黙ってぼくの顔を見ていた。そして、「よく準備することだ」と言った。
 「わかってまんがな、そんなこと」とぼくは思った。「そうやのうて、どう準備したらいいんでっかと、訊いてるんですよ」と言いそうになって、さすがにこらえた。弁護士になって2年目くらいだったと思う。情けないことに、そのときは豊田先生のおっしゃったことの意味がわからなかった。つくづく不肖の弟子だと思う。
 それから36年が経ち、自分も経験を積んだ。何度も何度も失敗した。もちろん成功することもあった。次第に豊田先生がなぜそのように答えたのかがわかるようになった。と言うより、それ以外の答えはないと思えるようになった。
〈努力だけは惜しまなかったね〉
 1996年に豊田先生は東京あさひ法律を出て、恵比寿に個人事務所を構えることになった。話が具体化して、あと2,3か月しか豊田先生はいないという時期のことだ。豊田先生とふたりで事務所に残って遅くまで仕事をしていた。珍しく豊田先生がビールを飲みに行こうといった。11年同じ事務所にご一緒した。でも、豊田先生とふたりだけで飲みに行くのはそれが初めてだった。ぼくは、これが最後の機会かもしれないと思って、長年胸に抱えていた疑問を豊田先生にぶつけた。豊田先生の法廷弁論はいつもすばらしい。どうすれば、あんなふうにすごい弁論ができるようになるのか、と。
 豊田先生はジョッギからひと口飲んで、そのままプイと横を向いてしまった。暫く黙っていた。ああ、また見当違いの質問をして豊田先生をあきれさせたのかと思って、ぼくは目をつぶった。そうしたら豊田先生の声が聴こえてきた。「梨木作次郎先生の法廷弁論はすばらしかった」と先生は話し始めた。「裁判長!と立ち上がって発言を求める。その場で考えたことを滔々と論じる。10分ほどの法廷弁論になる。わかりやすい。説得力にあふれている。そのうえものすごく迫力がある。裁判所も納得せざるをえない。しかも、突然なんの準備もなく話し始めたのに、構成がしっかりしていて、きちんとした文章になっている。どうしたらそういう弁論ができるのか。そう私は梨木先生に訊いたことがある」。そう言って、豊田先生はしばらく間をおいた。
 「豊田くん、これだよ。梨木先生は鞄から取り出したものをポンと投げた。原稿の束だった。あちこちに修正の筆がはいって真っ赤になっている。何度も推敲を重ねて深夜までかかって原稿を確定する。それを徹夜で暗記する。空で言えるようになるまで覚えるんだ。梨木先生はそう言った。私も梨木先生を見習って努力してきた。努力だけは惜しまなかったね。ふんだんに努力した。でも、原稿の暗記まではできなかった。梨木先生の水準には及ばなかったということだなあ」。そう言って豊田先生は遠くを見るような眼をした。
〈恵比寿の豊田誠法律事務所で〉
 こういうとき豊田先生だったらどうするだろう。ぼくはよくそういうふうに考える。豊田先生が恵比寿に移ってからも何度も事務所にお邪魔した。たとえば福島原発津島訴訟の弁護団事務局長にぼくがなったとき、公害弁連幹事長にぼくがなったとき、そして、難しい局面になったとき、その都度お電話して、お目にかかった。豊田先生はいつも明るく、活力にあふれていた。どんなに困ったときでも恵比寿駅を降りたつと、あの道の先のマンションに豊田先生の事務所があって、そこに行けば希望があり展望が拓ける。そういう気持ちになれた。
〈結びに替えて〉
 思い出話は尽きない。まだまだ話したいことがたくさんある。でも、団から依頼をうけたときに言われた字数制限をとっくに超えて、その何倍も書いてしまった。このまま書き続けると、まだこの何倍にもなる。いくらなんでも、もうこのあたりで止さないといけない。
 最後に、豊田先生が書いたものを引用して結びに替えたい。1997年4月に発行された公害弁連結成25周年記念論文集「公害環境理論の新たな展開」(淡路剛久・寺西俊一編集)の巻頭論文「公害裁判と人権~公害弁連25年のたたかい~」のなかで、豊田先生はつぎのように述べている。
 「公害問題は、基本的には、加害者と被害者との対立を軸として発生する。国民世論がこれをどう受けとめるか、行政や立法がどういう立場でどのように対応するかによって、公害問題の展開や帰趨が大きな影響を受ける。したがって、公害裁判もまた、加害者の姿勢はもとより、国民世論や立法・行政の動向と無関係に展開することはあり得ない。公害弁連やその加入弁護団が、弁護団会議のつど必ずといってよいほど、社会全体の情勢や個別の事件をとりまく情勢を分析し、情勢を切りひらく方針をうちたてようと努力してきたのは、このためであるといってもよい。
 しかし、同時にまた、一つひとつの公害事件には、それぞれの顔があり、問題のもつ特徴がある。したがって、社会的情勢がどんなに不利で困難な局面にあっても、それゆえに、すべての公害裁判の活路が消え失せるものでもない。その問題のもつ特徴を生かして奮闘するならば、どんなに困難な局面でも打開し、勝利に結びつけることもできる。『情勢に負ける』ことは、闘わずして敗北することである」。
 たとえば、水害訴訟。1982年の大東水害最高裁判決が国の責任を否定して以来、水害はどの訴訟も枕を並べて討ち死にした。もう水害では国に勝てないと思われていた。豊田先生は多摩川水害訴訟弁護団で中心メンバーのひとりだった。訴訟は東京地裁で完勝した。ところが東京高裁は逆転敗訴だった。弁護団は諦めずに奮闘した。ほかの水害訴訟が敗訴を重ねるなか、ひとり多摩川水害訴訟だけは、1990年12月最高裁で再逆転勝訴(破棄・差し戻し)を勝ち取った。豊田先生は前記論文のなかで、「多摩川水害の特徴を把 えて闘ったことが、水害訴訟の濁流のなかにあって多摩川水害を勝訴させることができた要因である」と述べている。
 大阪国際空港訴訟を四大公害裁判に加えて五大公害裁判と言う人もいる。大阪国際空港公害は、大阪高裁で午後9時以降の運行差止を勝ち取る大勝利をおさめ、最高裁でも小法廷では有利に進んでいた。最近発掘された団藤重光ノートによれば、小法廷は差止請求を認める原告勝訴判決を準備していたのに、当時の最高裁長官と前長官の両者の介入により大法廷回付となり、時の経過のなかで裁判官の顔ぶれが入れ替わり、大法廷判決で逆転敗訴となった。豊田先生は、「差止請求を排斥された大阪国際空港公害は、最高裁判決後の運輸省交渉で、運輸大臣に、『判決のいかんを問わず9時差止めを継続する』ことを約束させ、1984年大阪地裁において、『現在、大阪国際空港においては、午後9時以降発着するダイヤの設定は認めておらず、また当面、午後9時以降発着するダイヤを認める考えはありません』という『運輸省方針』を裁判所和解案に盛り込ませて、全面解決をはかった。裁判を軸にした運動が、最高裁大法廷判決をのりこえて、差止請求で勝訴したと同じ内容の成果をかちとったものであった」。
 昨年、最高裁は原発で国の責任を否定し、諫早で確定判決を覆す、反国民的な政治的判決をだした。そういう情勢においても、1997年に書かれた豊田先生のこの論文が重要な示唆を与えてくれると思う。豊田先生の言葉は、4半世紀を経てもなお変わらず輝いている。これからも輝きつづけるに違いない。
 豊田誠先生のご冥福をこころからお祈り申し上げます。
【追記】
 ことし2023年11月ないし12月初めころを目途に、「豊田誠先生を偲ぶ会」を企画したいと思います。もっか実行委員会の準備会を立ち上げたところです。

 

「人間の証明」を訪ねて
~秘湯・霧積温泉と鼻曲山(上)

京都支部  浅  野  則  明

森村誠一氏の代表作「人間の証明」と角川映画 
 皆さんは、森村誠一氏の代表的な推理小説「人間の証明」を知っていますか。今、60代の方なら、大抵記憶にあるのではないでしょうか。1976年(昭和51年)角川書店の社長であった角川春樹氏は、映画は本を拡売するための大きな力になると考えました。そして、いわゆる「角川映画」の製作に着手し、その第1弾が横溝正史氏の「犬神家の一族」でした。続く第2弾として製作されたのが森村氏の「人間の証明」(1977年公開)でした。
 角川氏は、当時まだ一介の駆け出し作家に過ぎなかった森村氏に、当時創刊されたばかりの雑誌「野性時代」への執筆を熱っぽく依頼したそうです。老舗出版社の社長が直接足を運んで執筆を依頼するというようなことは滅多にあるはずもなく、森村氏はまだ海のものとも山のものともわからない若者の可能性に賭けてくれた角川氏の熱意に感激し、何とかその期待に応えられるような作品を書きたいと思ったそうです。そのとき、ふと心の深奥にゆらりと揺れたのが二十数年前に出会った西條八十の「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?」という問いかけで始まる麦稈帽子の詩でした。これがきっかけとなって、森村氏は「人間の証明」を書き上げました。
 当時、メディアミックスと呼ばれた手法で、映画・音楽とジョイントさせ、「読んでから見るか、見てから読むか」のキャッチフレーズと西條八十の詩文「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?」が流行り言葉になったことを今でも深く記憶しています。ジョー山中が歌う「人間の証明のテーマ」(Mama, Do you remember the old straw hat you gave to meで始まる)が大ヒットし、宙に投げられた麦稈帽子が霧のかかった渓谷にくるくると回りながら飛んで落ちていく情景が脳裡に浮かんできます。この「人間の証明」は森村氏の代表作となり、今までに770万人もの読者を獲得しているそうです。
ストウハとキスミー
 「人間の証明」は、はるばるアメリカ・ニューヨークからやってきた黒人青年ジョニー・ヘイワード(角川映画ではジョー山中が演じる)が都内の超一流ホテル(ホテルニューオータニ-このホテルの最上階のレストランの灯が光で編んだ麦わら帽子のように見える)のエレベーターに乗り込み、最上階のスカイラウンジに到着したところ、座り込んでしまい、胸部を深くナイフで刺されて間もなく死亡したところから物語は始まります。この殺人事件の捜査担当となった棟居刑事(演じるのはかの松田優作)は、このホテルまで黒人青年を乗せたタクシー運転手から青年が「ストウハ」と意味不明な言葉を口ずさんでいたとの証言を得ます。また黒人青年を羽田空港から滞在先のホテルまで乗せたタクシー内から、西條八十のボロボロになった詩集が発見されました。棟居刑事は、運転手はストローハット(麦わら帽子)を「ストウハ」と聞こえたのだと推測しました。またホテルに近い公園では、ボロボロに破れ穴の空いた古い麦わら帽子が発見されました。さらに、黒人青年がニューヨークを発つ際に、日本の「キスミー」に行くとハーレムの隣人に告げたという情報を得ました。そして、タクシー内で発見された西條八十の詩集の中に「麦稈帽子」という詩があり、その中に「ええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、谿谷へ落としたあの麦稈帽子ですよ」という件に「霧積(きりづみ)」という地名が出てくることに着目し、「キスミー」は霧積だと考えました。アメリカからやってきた黒人青年がなぜ殺されなければならなかったのか、物語は麦わら帽子を横糸に、西條八十の詩を縦糸として展開していきます。
森村氏と霧積温泉
 森村氏は、大学3年の終わり頃(昭和28年頃か)、一人で霧積温泉から浅間高原(軽井沢)へ歩いたことがあり、信越本線の横川駅(「峠の釜めし」で有名な駅)で下車して、山道を3時間ほど辿りました。人影もない山道を迫り来る黄昏と競争するように歩いて、いいかげん心細くなったとき、山峡の湯宿が忽然と目の前に現れました。それが霧積温泉の「金湯館」(きんとうかん)でした。明治時代に建てられた古格ある建物で、廊下を歩くとまるでアヒルが鳴くような賑やかな音がしたことから、森村氏は「アヒル張り」と呼んだそうです。その夜の泊まり客は森村氏一人だったことから、何時間でも入っていられるようなぬるい湯に一人浸かっていたそうです。当時、森村氏は、取り憑かれたように山に登っていて、尾根の縦走、峠越えや原生林に分け入るような山行で、勝手気ままな一人旅をしていました。
 翌日、森村氏は群馬県と長野県の県境を辿って軽井沢に抜けたのですが、途中に鼻曲山(1654m)という山があり、森村氏はその山頂の少し手前で宿が用意してくれた弁当を食べました。お弁当には海苔で包んだ大きなおにぎり2個と昆布の佃煮や梅干しが付いていました。そして、何気なく開いた弁当の包み紙には西條八十の「麦稈帽子」の詩が刷られていました。「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?」という問いかけで始まるこの詩に森村氏は激しく感動を覚えたそうです。将来に対する不安を紛らわすように山歩きをしていた森村氏にとっては、「麦稈帽子」の詩とのめぐり逢いは、不安に震える幼い魂を母の懐のやさしい温もりで包んでくれるように感じられました。人影もない早春の山道を一人伝い来て、雑木林の中のわずかな日だまりの中に身をすくめた食べた冷たい弁当、それを優しく包んでいた麦稈帽子の詩は冷え切った身体を心の底から温めてくれるように感じました。そして、二十数年の時を経て、森村氏の代表作「人間の証明」を書くモチーフとなりました。(続く)

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